冬ですねえ、人の肌が恋しいこの頃。^_^)
頻繁に見にきてくださる方(そんな人いるかな?)には申し訳ないですけれども、ちょっと疲れてきて更新が少なくなってしまっています。
最近、イビサ状態なる言葉を個人的には良く使っています。^_^)
例えば、捨てようと思っている古いMacは、キーボードとマウスは既に捨てられて、本体だけが残ってイビサ状態とか。
それから、アラスカから帰るときの飛行機の中でミュージッククリップを見ていたら、007の主題歌の"World
is not enough"をやっていました。
妖艶な女性のアンドロイドが組み立て風景で歌っていて、足のない全裸の女性がうつ伏せで歌っている様子がイビサ状態とか。
しかし、これはBjorkのミュージッククリップのまねですね。
白い男女のロボットが組み立てられながら歌う様子はとてもエロティックでした。
背景は実写、ロボットはCG、顔は実写のはめ込みですけど、本当に良くできています。
(CGWORLDの3月号の表紙にもなっていますけど、これだけ見るとイマイチ)
[2000/2/25]
渋谷の五島プラネタリウムが3月で閉館するみたいです。
[註:来年の3月の勘違いでした、ごめんなさい]
「リラクゼーション・グッズ?」でも取り上げましたけど、五島プラネタリウムには通常のプラネタリウムだけでなく、CG映像をプロジェクタで投影したものなども見てきたので名残惜しいです。
しかし、最近ではスクリーンが汚くなって、プラネタリウムの星だと大丈夫ですけど、CG映像のプロジェクタでの投影となるとスクリーンの汚れが気になっていました。
しかし、プラネタリウムの星の映像に「空間」を強く感じるのはどうしてでしょう。
映像が暗い、形のない点で表現された星に距離感を感じにくい、星は「空間」に存在するものだという先入観があるからでしょうか。
しかし、CG映像をプロジェクタで投影したものは映像が甘く、「空間」を感じることができません。
恐らく、プロジェクタの黒のレベルが明るすぎるのが最大の原因、そして解像度が充分でなくアンチエイリアシングを使っていることも原因だと思います。
「空間」ということで言えば、Turrellの作品は形としての映像ではなく光そのものを呈示することによって、通常の視覚を奪い取り、結果として無限の「空間」みたいなものを感じさせているように思います。
[2000/2/25]
アラスカのフェアバンクスにオーロラを見に行ってきました。
オーロラのことは「リラクゼーション・グッズ?」に書いたので、ここではアラスカでのサウンドバムについて書きます。
聴覚に限らず知覚とは注意とか選択による主観的な作業ですよね。あるものを見たり聴いたりすることは、それ以外のものを捨ててしまうこと、パーティで相手との会話を録音して後で聴いてみたら周りの人の声が騒々しくて何も聴こえなかったとか(カクテルパーティ効果)、例えばオーロラを写真に撮って後で見たら実際に写っていたのは周りの建物や森で、オーロラは片隅にうっすらと写っているだけだったりします。
注意や選択によって捨てるということは、人間の限られた能力の中で効率的な処理を行うためには重要な作業です。
道路を渡っているときには車の音だけに気をつけて、遠くの鳥の鳴き声には耳を傾けないでしょうし、もし傾けていたら車に轢かれて死んでしまうかもしれません。
サウンドバムのイヤークリーニングは、このような注意や選択を一旦停止してまっさらな状態にすることによって、これまでは捨てていた音を新たに聴きなおそうという試みです。
しかし、それは注意や選択を行なわないということではなく、今までには気付かなかった別の音に注意や選択を行なうということであり、従来の選択や注意のやり方を解体するところに意義があると思っています。
しかし、私が今回のサウンドバムで考えたのは、この注意や選択をさらに深めた主観的な音をとってみたいということでした。
音を聴くという知覚の過程は主観的なものですけれども、録音された音自体は、その音を録音したという恣意的な部分を除けば客観的なものだと思います。
その録音する音自体に自分自身の主観的な知覚の部分を反映させてみたい、録音する音を自分自身の主観で捻じ曲げ歪ませてみたいということでした。
ちょっと話は変わりますけれども、私は抽象的な写真を撮ったりしています。
昔はカメラの前で光を動かして現実には存在しないものを撮っていましたけど、Man
Rayを知ってから撮るのを止めてしまいました。
今思えば、これではCGで絵を描くのと何ら変わりません。
しかし、久しぶりに最近はデフォーカスして現実の物としての存在感を剥ぎ取った写真を撮ったりしています。
画像としてはぼんやりとした輪郭を持った色の抽象的な構成にも近いようなものですけれども、色は単一の周波数で表現されるようなプレーンな色ではなく、その色を抽出した物の痕跡が残っています。
私にとっては抽出した色が何から取られたものなのかが重要であり、ピクセル上で同じRGBの値を持っていたとしても、花から取られた赤と血から取られた赤とでは意味が全く異なっています。
そして、その情報が画像にはなく私の頭にあるという意味で極めて主観的な画像だと思っています。
同様にして、物の音から現実の物としての存在感を剥ぎ取った抽象的な音(音色)を抽出することができないかと思いました。
ところで、アラスカで一番面白いと思ったのは雪を踏みしめる音でした。
気温の高低や踏む場所によって音はかなり異なっており、中でも気に入っていたのは、解けた雪が中で氷になっていて踏むと薄い氷が砕け散るような音と、踏みしめた雪がずれたときのクッという音でした。
この音色の変化みたいなものだけを録音したいと思ったので、かなり早足にして足音の雰囲気を消したりしたのですけれども、後で加工するのではなく録音するだけではうまくいきませんでした。
この辺りの考え方はサウンドバムの考え方には合わないようにも思いますし、どちらかと言えば1948年にフランスで始まったミュージックコンクレート(具体音楽)に近い考え方かもしれません。
しかし、どういう音素材を使うかよりも、全体としてどういう音響空間を構成するかに注意を向けるようになって、ミュージックコンクレートは1950年にドイツのケルンで始まった電子音楽と次第に境目がなくなっていきましたけれども、今思えば音が何から抽出されたのかということはとても大切なことだったように思えます。
[2000/2/12]
村上龍の「イビサ」って「手足を切られた女性との究極の愛の話」じゃなかったんですね。
もっと妖しい話を想像してしまいました。^_^)
自分を求めようとして最後には手足を切られてしまった女性の話で、自分の中には全く何もなく、他のものとの関係性の中にしか自分は存在しないという話でした。
主題とシチュエーションは良いけれども、あまり緊迫感がなく小説として成功しているかどうかは疑問ですけれども、読み終わったら何だか急に悲しくなってきました。
主人公が可哀想とかではもちろんなくて、やっぱり自分も関係性の中でしか生きていけないのかと再認識したからかもしれません。
本当のもの、絶対的なものを求めて、結局は得られないことがわかり、後は余生として生きてきて、自分をできるだけ感じたいために、自分の中に強烈に映りこむ関係性を求めていただけ...
埴谷雄高の「不合理ゆえに吾信ず」というアフォリズム集にある話を思い出しました。
それは自身を求めようとする隠者の話で、まず足を切って、それでも求められず、次に手を切って、次第に自身を切り刻んでいって、最後には影も形もみとめられなくなったということです。
[2000/2/2]
友達に奨められて村上龍の小説を初めて読みました。奨められた小説ではなく「手足を切られた女性との究極の愛の話」ということで「エクスタシー」を読みました。SMとドラッグの話なのですけど、妙に感情移入するところがあって、はまってしまいました。
私は相手の人格を破壊するためにSMをやったことはなく、快感を高めるテクニックとして使うだけ、本当は相手を愛せないから、こんな手の込んだことをしているのかもしれない。
でも、愛なんて脳の一部の化学変化でしかないから...
しかし・髟阡四隆磴い如乢踉至足を切られた女性との究極の愛瘢雹」の話ってヲサΓ碍擦Γ碍屍Γ碍撒」だったみたいです。
[2000/1/30]
先日、帰宅途中に倒れました。
ちょっと寒気がして帰る途中、バスの中で立っていたら吐き気がしてきて、気がついたら床に転がっていました。
その後は座らせてもらったものの、汗がだらだらと流れてきました。
何とかバスを降りて、視界がぼんやりする中を信号で待っていて、気が付いたらそこに転がっていて、歪んだ世界の中をふらふらと帰ってきました。
家に帰ってソファの中に倒れていると、何とか気分が良くなってきました。
医者の話によると、もともと血圧が低いので、睡眠不足とか栄養不足とか不摂生すると、脳に血が回らなくなって、意識がなくなることがあるようです。
低血圧と貧血の違いがわかります?
でも、意識がなくなるときって気持ちいい。^_^)
[2000/1/22]
昔から食べることって好きではないです。
生きることは何かを食べることであり、食べることは何かを殺すことになりますよね。
動物にせよ、植物にせよ、何かを殺さないで生きていくことは不可能です。
グルメとかいって色々なものを殺して喜んでいる人たちは信じがたいです。
だから、宇宙食みたいなものを食べて生きていけるような時代になったらどんなに素晴らしいだろうと昔からずっと考えていました。
生物を殺して食べるのなら、死んだ人間を食べる方が良いと思っています。
しかし、死んだものを食べるというのは生物にとっては非常に危険な行為です。
ほとんどの肉食動物は動物を殺して食べますけれども、死んだ動物は病気などにかかっていた可能性も高いので、恐らく死んだ動物を食べるような種は生き残りにくいのではないでしょうか。
しかし・髟阡士匹佑┐討澆譴仗祐屬量髪峙々修修里發里ヲサ」を保持するために「」以外のものを殺していく機構と言えますね。
こんなことを書いているからといって、自分は優しい人間ではないし、色々な人々をいやになるほど傷つけているのですけど...
[2000/1/15]
「ICCで2000年1月に輸入販売予定」だったのですけれども、結局ICCでは取り扱わないようです。
そこで仕方なくAmazonを利用することにしました。
米国のAmazon.comでは扱っていないし、Amazon.deではドイツ語なので他を探したら、Amazon.co.ukで扱っていましたけれども、Amazon.deと比べてかなり高いので、しようがなくAmazon.deで注文しました。
しかし、ドイツ語はほとんどだめなので、Amazon.deとAmazon.co.ukを両方開き、辞書とにらめっこしながらなんとか注文しました。
以前にAmazon.comでBrakhageの本を買ったときの情報が記録されていたので助かりました。
でも、その後の処理内容がドイツ語のメールで来るのにはまいっています。
[2000/1/10]
我々の知覚あるいは認識している世界が主観的なものであるのはご存知だと思います。
我々は世界そのものを知覚しているのではなく、例えば視覚においては左右の二つの網膜上の二次元画像から三次元世界を主観的に構築しています。
主観的というのは、これらの二次元画像だけで三次元世界を構築するのには情報が不十分なので過去の経験とか主観的な情報を補っているからです。
また、言語の意味というものを考えてみたとき、ある言葉の意味が別の言葉によって定義されるとすれば、何らかの意味のプリミティブみたいなものを仮定しなければなりません。
そうでないと、ある言葉の意味が循環して、その言葉自身によって定義されてしまうでしょう。
これは辞書で言葉の意味を調べたときに良く経験することです。
しかし、意味のプリミティブを仮定すると、その意味はどうやって定義すれば良いのでしょう。
意味のプリミティブは言葉によって定義することはできません。
では、我々はこのような意味のプリミティブみたいなものの意味をどうやって理解しているかというと、周りの環境とのインタラクションによって理解しているのです。
「痛み」の意味は自分が何らかの怪我や病気にかからなければ理解することはできません。
意味が言葉だけで定義されないということは、辞書は言葉の意味を定義するものとして完結していないということであり、意味は周りの環境とのインタラクションという主観的あるいは個人的な経験に依存する主観的なものであるということです。
従って、言葉の意味を共有することはできないので、完全なコミュニケーションというものはありえない、あるいは奇跡的にありえたとしても、それを証明することはできないことになります。
決してお互いに理解しあうことはできない。
最終的には誰もが谷川俊太郎の詩のような「二十億光年の孤独」の中にいるのですね。
このような世界の客観的認識の不可能性とコミュニケーションの不可能性は昔から感じていたことなのですけれども、あるとき壁をぼんやりと眺めていて感じたことはもっと自己分裂に近い感覚でした。
たまたま左目を覆ったときに気がついたのですけれども、私の右目で感じる色と左目で感じる色が微妙に違っており、右目の方が少し青みがかっていました。
私が知覚しているこの壁は、もちろん別の人が知覚しているこの壁とは違うものですけれども、私の様々な部分にとっても本当は全く違ったものかもしれないと感じました。
私の右目にとっての壁、左目にとっての壁、右手で触れることにより感じる壁、左手で触れることにより感じる壁、背中でもたれかかるときに感じる壁、反射してくる音を右耳で聴くことにより感じる壁、反射してくる音を左耳で聴くことにより感じる壁。
これらは脳内で同じ壁の情報として矛盾なく管理されているのでしょうけれども、本当は全く異なったものなのかもしれません。
[2000/1/10]