最近、また本を読み始めています。
ここでは日々のちょっとした雑感について書いていきます。
人間に尊厳があると考えている人が多いのには驚かされます。
なぜ人間に尊厳があると考えられるようになったのか、それはそのことについて考えたのが人間だったからです。
人間に尊厳があるという理由として数え上げられているものは、単にひとつのカテゴリーを構成するための属性でしかありません。
そして、それらの属性も人間が考えた主観的な評価関数(尺度)によって尊いと評価されているだけに過ぎません。
人間、男、ゲルマン民族、無生物、いくらでもカテゴリーに分けることはできるし、主観的な評価関数(尺度)によってヲサ差別」することもできます。
でも、ただそれだけ。
私は人間は死んだらただの生ゴミだと思っています。
だから、葬式をするつもりもないし、火葬場で焼き捨ててもらうだけです。
[1999/12/30]
地球環境を守るってどういうことなのでしょう?
人間は環境を破壊していると言われるけれども、生態系の生物によって環境が変化していくのはとても自然なことです。
人間は生態系の外側にいるのではなく、生態系そして自然の一部です。
人間によって地球環境が全く変わってしまうのも自然だし、将来に赤色巨星となった太陽に地球が飲み込まれて焼け焦げてしまうのも自然です。
また、地球環境を守るというのは、どの時点での地球環境を保持するのでしょうか?
高温でまだ生物が存在していないときの地球?、恐竜が繁栄していたときの地球?、少なくとも人間が存在していないときの地球ではないですよね。
どうして人間にとって心地よい環境を作り上げると言えないのでしょう?
[1999/12/30]
いわゆる「ブランド」ってそれ自体に価値があるのでしょうか。
恐らく自分のブランドを持っていない人にだけ価値があるのでしょうね。
ブランドのマークがでかでかと入ったものを身に着けた人がいるけれども、お金をもらっていないのにブランドの宣伝をする必要はないと思います。
その人が企業からお金をもらっていないということは、その人がそのブランドを高めるだけの価値を持っていないと企業が考えているということに他なりません。
だからと言って、ブランドを持つことによって自分の価値が高められると考えるのは短絡的に思えます。
何を身に着けていようと自分は自分と言いたいところですけれども、この自分の境界というのもなかなか難しいです。
服や持ち物の選び方のセンスは自分に入るのか、読んだ本の内容の受け売りは自分なのか。
また、自分のブランドを持つということは一部の才能のある人を除いては非常に難しいですね。
一般の人が持てるブランドというのは寄せ集めたものの組み合わせ的なブランドまでかもしれません。
ファッションで言えば、オリジナリティのある服をデザインするとまでは言わなくても、服をデザインして着る人は僅かで、その反対側には「既製服」をそのまま着る人がいます。
多少クリエイティブな人はデザインされた服を組み合わせて着るというコーディネイトのレベルのブランドを持っていると言えるでしょう。
いずれにせよ、ブランドは確かに品質保証という点では意味がありますけれども、それはその製品の品質を保証しているだけで、持っている人の品質を保証しているわけではないですよね。
[1999/12/29]
分節化してしまうことによる意味の限定。
それは意味を明確にする反面、意味の広がりを失わせてしまう。
抽象画よりも具象画がわかりやすいと言う人がいます。
ところが話を聞いてみると、その絵の構成要素を数え上げているだけに過ぎない場合が多いです。
さらに悪いことには、その構成要素の類似性を評価していることが多いです。
抽象画でも同じような数え上げはできます。
ここに黄色い三角形があって、あそこに青い点が分布している。
この三角形は正確な二等辺三角形になっており、この青い点は正確に正規分布をなしている。
でも、大事なのはそれから何を感じ取るかでしょう。
[1999/12/29]
Yahoo! MoviesでたまたまStan
Brakhage(スタン・ブラッケージ)を検索したところ、"Dog
Star Man"(1964)と"Brakhage"(1999)が見つかりました。
Yahoo! MoviesでBrakhageが検索されるなんて...
Brakhageは米国の実験映画の作家で、"Dog
Star Man"はその代表作、"Brakhage"は今年に公開されたドキュメンタリーです。
Man Rayの技法は確かに凄いと思いつつ作品自体にはあまり強い印象を受けなかったのに対して、Brakhageの極端にカメラを動かした流れる映像、多重露光による映像、フィルムにペイントした映像などの技法だけでなく、生や死などをテーマにしながら叙情に溺れることなく、物の見方そのものに迫った作品には強い衝撃を受けました。
それ以来、仕事や付き合い以外では商業映画はつまらないのでいっさい見ることができません。
Brakhageの作品はなかなか見ることができなかったのですけれども、最近ではニューヨークのArthouseからまとまったビデオが出てきています。
もちろん私はArthouseからビデオを買っています。^_^)
また、映画のシーンを写真におとしたのも売っていますけれども、$2,000というのはちょっと高すぎて手が出ていません。
以下はBrakhageの言葉。(『アメリカアバンギャルド映画の歴史』1978年多摩芸術学園より抜粋)
「想像力の目は、人の作った透視法の法則には規定されていない。
目は構成的な論理によって偏見のないものとなり、全てのものを名前のみで見るのではない。
目は人生で出会うものそれぞれを近くの冒険を通して知らなければならない。」
「私はプレリュードにおいてシュールレアリズムが夢から触発された以上の、作品のための夢を創りたいと思っていた。
プレリュードは目を閉じた時に見える残像や目覚めたばかりの時に記憶していた夢の像を基にして造ったのだ。」
「カメラを動かすことによるイメージ創造の開拓を早くから始めていました。
そしてそれに加わる光と屈折、影との溶け合いの中での不思議な空間を鋭敏に喚起してきました。」
[1999/12/7]
自動車が都市のサウンドスケープを破壊したのと同様に、電灯も確かに20世紀の重要な発明ですけれども、都市の光の風景、特に闇の風景を破壊してしまいました。
昔、離れ小島に行ったとき、夜に一人で抜け出したのですけれども、そこには外に電灯が全くなく、月の光だけがすべてのものを照らし出していました。
その月の光から暗闇までの、明るさのダイナミックレンジには凄まじいものがありました。
都会では単純に黒としか捉えられないような暗さにも、もの凄く豊かな表情があるのですね。
しかし、"Dialog in the
dark"という真っ暗闇を体験できる催しがあるとは知りませんでした。
日本でも今年の11月に「黎明:Reimei Project '99」という同様の催しがあったそうで、「観」そこなってしまったのはとても残念でした。
そう言えば、Turrellの"Soft
Cell"(1992)や"Blind Sight"(1992)という作品も暗闇の中に入ります。
"Blind Sight"の場合には「自らの内部から発光する光」を見ようというものでしたけど。^_^)
それから、養老の滝の近くに、アーティストで建築にも造詣のある荒川修作が造った「養老天命反転地」という、こんな危険な公園があっていいのかと思うぐらい面白い公園があります。
この「養老天命反転地」の「切り閉じの間」という真っ暗で触覚だけが頼りの場所も面白いです。
文学では梶井基次郎の「闇の絵巻」も暗闇を扱った優れた作品です。
ただし、埴谷雄高の「闇のなかの黒い馬」は夢の話だし、版画家の駒井哲郎の挿画は面白いけれども、彼の作品としては水準以下ですね。
[1999/12/3]
自動車は確かに20世紀の重要な発明ですけれども、都市のサウンドスケープを完全に破壊してしまいました。
サウンドスケープは1960年代末にカナダの作曲家のMurray
Schaferによって提唱された、より良い生活環境を実現するために音(音楽)を風景(landscape)としてデザインしようという考え方です。
都市では自動車の発生する音によって他のほとんどの音がマスクされてしまい、聞こえる音といったらパチンコ屋の音ぐらいです。
本来なら、色々な場所に色々な豊かな音が溢れているはずですし、音の遠近感も明瞭に聞き取れるはずです。
自動車による環境問題といえば、排気ガスや排熱の問題ぐらいしか考えられていませんけれども、音はエモーションに大きな影響を与えますから見過ごすことはできないと思います。
この問題を電気自動車は解決できるのでしょうか?
電気自動車は確かにエンジンの音を静かにし、渋滞時のサウンドスケープを改善するかもしれません。
しかし、走行時の効果に関しては疑問があります。
また、排気ガスや排熱の観点からバイクは見逃されていますけれども、サウンドスケープにおける環境破壊という観点ではバイクも同罪です。
自動車と同様にバイクも電気バイクに変えていく必要があるのではないでしょうか?
[1999/12/3]
地位とか名誉など人類の歴史とかに足跡を残そうと、他人の評価ばかりを気にする人がどうしてこんなに多いのでしょう。
人類の歴史なんて消え去ってしまうのだから、そんなものに足跡を残したって何の意味もないと思うのですけど。
他人の評価を気にするよりも、自分の信じる道を進んだ方が遥かに素晴らしいと思います。
なんて考えていると、宇宙の最後はどうなるのかが気になってしまいました。
「宇宙 最後の3分間」(草思社)によると、宇宙の始まりもそうだけど、宇宙の終りもなかなか色んな理論があって難しいみたいですね。
基本的には現在の宇宙の質量によって、今の膨張している宇宙が、膨張が止まって収縮して再びビッグバンみたいになるか(ビッグクランチ)、永遠に膨張して燃え尽きてすべて光がなくなってしまうかみたいです。
ただし、太陽系の終り方は比較的ちゃんとわかっているみたいで、太陽は何十億年後には今の大きさの500倍の赤色巨星になり、その過程で地球は太陽の灼熱のガスの中に飲み込まれて燃え尽きてしまうようです。
[1999/11/27]
「脳の性差」(共立出版)によると、本当に男女の脳の機能はちょっと異なっているみたいです。
つまり男女の基本的な性質は社会的・文化的な要因だけからは決まらないということです。
男女を決めるのは基本的には染色体ですけど、男女の機能を決めるのは性ホルモンみたいです。
胎児のときの性ホルモンが脳と生殖器に大きな影響を及ぼします。
男性の性ホルモンであるアンドロゲンが男性の脳に働かないと、脳は女性の脳として発育して、男性なのに自分が女性だと感じる性同一性障害に陥るようです。
また、アンドロゲンが男性の生殖器に働かないと、生殖器が女性化してクリトリスやヴァギナができてしまい、出生時には女性として認識されてしまうことになります。
ただし、子宮などはないため子供を産むことはできないようですけど、ごくまれに完全な女性の生殖器を持った染色体的には男性がいるようです。
逆にアンドロゲンが女性にきいてしまうと、逆の現象が起きます。
女性性器を持った男性の話とかは聞いたことがあったのですけど、こういう理由だとは知りませんでした。
しかし、こうなってくると何を持って男女を判別するのかは難しいところです、というよりも男女の区別をすべきかということも難しいところです。
[1999/11/27]
SRL(Survival Research
Laboratories)が遂に日本でもやるようです。
ICCのページで「世紀末マシーン・サーカス」と紹介されており、巨大な手作りのマシーンやロボットをお互いに戦わせたりする大規模なショーから、私が何を感じ取れるのか興味のあるところです。
12月23日(木祝)に国立代々木競技場のオリンピックプラザで6時半から始まります。
[1999/11/23]
ForsytheのCD-ROM"Improvisation
Technologies"をICCで見つけました。
これはフランクフルト・バレエでの教育用のデジタル・アーカイブとして、ForsytheがドイツのZKMとのコラボレーションで作ったものを、市販用にまとめたものです。
ICCでは2000年1月に輸入販売予定みたいです。
[1999/11/10]