日々の雑感 [2001/01-03]

新しい世紀になったといっても、それはキリストの誕生を起源にしたから。日が当たればぽかぽか陽気だけど、日が当たらないと寒い冬です。


Magic Mushroom(その2)

Magic Mushroomの体験は下記のようにちゃんとコントロールできないと危ないですね。

完全に「自分」が消えてしまい、この世に戻って来られないのではないかという恐怖を感じた。
恐らく死んだ後のように、知覚が全くなくなるのではなく、知覚はそのままあるのに、その知覚にリアリティがなく、自分の存在が感じられないのだ。

Harmalaを約2gぐらい一晩浸けておいた上澄み液を飲んだ。ここのところ何回か効かなかったが、今回も30分程してもどきどきする感じはない。それから、Psilocybe Cubensisを約2gぐらい食べて30分程しても、全く効いてくる感じはない。仕方なくCubensisを少しずつ食べて最終的には5g食べてしまった。おまけに幻覚効果のあるHawaiian Baby Woodroseの種を1粒食べてしまった。この少しずつ増やしていくというのが危ないことは頭では理解していたが、後から考えると本当に最悪だった。

その後もしばらくはあまり効いてくる感じがしないので、以前に効いたときのように横になって、身体の痺れてくるという感覚に集中してみた。気がつくと涙が少し出てきて、天井の模様がざわざわしてくるように感じた。それからは以前のように短期記憶へのアクセスが破壊されたような感じで、すべての知覚があるにもかかわらず、全くリアリティがなくなってしまった。それからしばらくは、不思議なことに過去の記憶が蘇ってきた。過去といっても数年前のLAのイメージで、そのイメージは鮮やかという感じではなく、潰れたようなぼんやりとしたイメージだったが、このときは至福の時間を過ごした。

それからは記憶が薄れていくのと、短期記憶へのアクセスが破壊されたような状態とが交互に現れた。自分の身体の動きはコントロールすることができたので、記憶が薄れたときも短期記憶へのアクセスが全くずれていて、現実世界を正常に認識できなかったのだと思う。
今回の短期記憶へのアクセスの破壊は強烈だった。すべては知覚されているのに全くリアリティがなく、そこに自分の存在が全く感じられないのだ。

そのとき、もの凄い恐怖が襲ってきた。
このまま、自分の存在が全く感じられない状態のままだったらどうしよう。来週からの生活はできるとしても、自分のない状態では精神的にそんなに長く持ちこたえられないだろうと思った。
それからは自分を取り戻すことの戦いだった。知覚、心理、催眠などの知識を総動員して、どうやったら自分を取り戻せるかを考えた。
この現実世界は知覚によって自身が再構成したものであり、このような知覚の情報がある限り自分は存在すると考えた。それから、自分の知覚から得られる感覚に集中してみた。色んなものを見たり、聴いたり、触ってみたりした。身体に感じられる痺れる感覚に、これが自分が存在する証拠だと考えた。また、時間感覚がリアリティの中心だと思って時計を見てみた。それから、様々な自己暗示をかけようとした、電灯をつけると自分が戻ってくるとか、これから眠りに入り、起きたらすっきりと目覚めているとか。
トイレに行った方が良いかと思って行ったが、トイレはそして自分の身体も奇妙なものに思えた。何かを食べたり飲んだりした方が良いかと思って食べたが、食べ物を手に取り食べているときもとても奇妙な感覚だった。

しかし、全くの無駄だった。
すべて見え、聞こえ、触れるにもかかわらず、何のリアリティも感じられず、自分の存在も全く感じられなかった。精神病の症例でこのようなものを読んだことがあるが思い出せない。
最後には、幻覚の症状は恐らく数時間、多少の量を増やしてあるとしても、半日もあれば必ず戻ってこられると信じようとした。数時間とすれば何時まで、その時間までは精神的に持ちこたえようとした。感覚入力があまり多過ぎると精神状態がおかしくなりそうだったので、とにかく何も考えずに眠り込もうとした。

この奇妙な感覚は短期記憶へのアクセスが破壊されていると言うよりも、感覚のモダリティのずれも影響していると思う。人間の視覚、聴覚、触覚などの感覚入力は同時に脳の中に入ってくるわけではなく、それぞれが固有の遅れがあるはずである。脳にはそれを補正する機能があるはずである。感覚のそれぞれのモダリティの記憶が時系列で並んでいるとして、モダリティごとの遅れを考慮して、すべてのモダリティが同時に感じられるように記憶を統合しているはずである。しかし、その補正機能が破壊されると、それぞれのモダリティの記憶がずれて、脳の中で統合される。すると、何かを触っているのを見ているのに、その触覚はその瞬間のものではない。あるいは何かを食べているのに、その味覚はその瞬間のものではない。
このほんの少しのずれでリアリティがなくなり、自分が感じられなくなるのだろうか。自分の存在とはそんなにはかないものなのか。

数時間後にやっと知覚にリアリティが戻ってくるようになった。自分は幻覚が視覚に現れるタイプではなく、記憶へのアクセスが破壊されるタイプではないかと思う。少なくとももうMushroomなどを試す必要はないだろう。
しかし、自分って何?、本当に自分はこの世界に存在しているのだろうか?

[2001/2/25]

身体の人類学

菅原さんの「身体の人類学」からの三番目の引用。

われわれの社会では、ある自明視されている身体の用いかたに違反することは「狂気」の徴候であるとみなされやすい。そのような違反をつみかさねる人に対しては精神病院への収容をはじめとするさまざまな矯正措置が用意されている。このことも身体を「あたりまえ」のかたちに閉じこめようとする「制度」が厳然として存在することを示している。

[2001/2/18]

文化人類学

最近は文化人類学関係の本を読んでいます。

身体の人類学」、菅原和孝著、河出書房新社

「身体の人類学」はアフリカのグウィ(ブッシュマン)の身体を通したコミュニケーションを分析したもので、菅原さんの下記に引用したような視点の鋭さには驚かされます。

『相互に何ひとつ目に見える影響を与えあわなくても、人と人は、すなわちある身体と別の身体とはごく自然に<ともにある>ことができるし、しっくりとまじわりうるのである。』

『「ことば」と「からだ」とは分かちがたく絡みあって、人と人とが互いに直接的にまじわりあう経験をかたちづくっている』

最初の引用の「まじわり」は、私が飼っているうさぎと日向ぼっこをしているときにも感じることです。
冬の寒い部屋の中に差し込んでくる日差しの暖かさをかみしめているとき、ふと横を見るとうさぎも気持ち良さそうに目を半分閉じている。
ここで感じる心地よさは、二つの身体が同じ環境を共有しているという感覚と、その環境に対して同じような感情を共有しているだろうという感覚をあわせたものです。

また、菅原さんは下記のような本の編集も行なっています。

「コミュニケーションとしての身体」、菅原和孝・野村雅一(編)、大修館書店

「コミュニケーションとしての身体」で重視されているコミュニケーションは、従来のような情報の伝達としてのコミュニケーションではなく、共有関係の維持としてのコミュニケーションです。つまりコミュニケーションの結果として意味を伝達することが目的ではなく、コミュニケーションのプロセスとしてお互いに心地良い関係を深めていくことが目的なのです。

「コミュニケーションとしての身体」は「身体と文化」というシリーズの本で、他には下記のような本も出ています。

「技術としての身体」、野村雅一・市川雅(編)、大修館書店

こちらは身体加工などちょっとあぶない話も出てきます。アフリカなどで行われていた女性の性器切除(陰核削除)については知っていたものの、性器縫合(陰部封鎖)の話はかなりおぞましいです。

これから出版予定の本としては下記の本があります。

「表象としての身体」、鷲田・野村雅一(編)、大修館書店

[2001/2/12]

鳥葬

チベットでは鳥葬が行われるらしい。
死んだ人間の肉と骨を細かく切り刻み、ザンパ(チベットの大麦)と一緒にして、ハゲタカに食べさせるそうだ。
輪廻転生に繋がるという意味らしいが、人間の肉も資源であるから、食物連鎖の中に組み込み、資源を有効利用することは重要だと思う。
人間は生きるために多くのものを殺しているが、人間の肉を有効利用することにより、より殺すものを少なくすることができれば良いと思う。
[2001/2/12]

自動車メーカーへの注文

自動車メーカーにはいつも思っている次の注文があります。

  1. 環境問題
  2. サウンドスケープ問題
  3. 感情問題

最初の環境問題は言うまでもなく、自動車の排出ガスや熱排気に関するもの。
二番目のサウンドスケープ問題は音の環境問題と言うべきもの。
人間の聴覚は本来は豊かな3次元の音空間を聴き取れるはずなのだけど、自動車やバイクの騒音によって音空間はノイズだらけののっぺりとしたものになっています。
電気自動車はエンジン音を小さくする点では評価できますけど、タイヤの接地音はどうしようもないですね。
また、バイクは燃費が良いし、渋滞を引き起こさないから、いわゆる環境問題に関しては有効ですけど、サウンドスケープ問題に関しては課題が多いですね。
自動車メーカーは騒音の低減にもっと努力すべきだし、騒音のサウンドデザインも研究すべきでしょう。
三番目の感情問題は特に自動車によって引き起こされる感情に関する問題です。
都市の音空間の中にいると、クラクションの多さに驚かされます。
これは渋滞などによって引き起こされる怒りなどの負の感情に起因するものです。
道路整備など渋滞の解消が唯一の解決法ではありません。
自動車はドライバーの負の感情を測定して、それを心地良い形でドライバーにフィードバックするための研究をすべきでしょう。
自動車メーカーのトップはアウトバーンなどでの車に乗ることの楽しさを強調する前に、これらの問題の中に身を置いてみるべきだと思います。
[2001/2/12]


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