最近は新しいことに目を向けることが少なくなって、ここにも書くことがなくなってきていて、これではいけないと思い始めているところです。
ちまたには論理の重要性を強調する人や、逆に論理を毛嫌いする人が多いけれども、論理の元になっている論理学の意味を全く考えたこともないような人がほとんどではないかと思う。だから、ここでは私なりの論理学の意味について書いてみたい。
論理というと論理的な推論方法のことしか考えない人が多い。しかし、我々が使っているような自然言語は文脈依存の曖昧な表現が多く、古典論理学で表現できる部分はわずかである。しかし、様相論理や状況意味論のように曖昧な表現や文脈依存性を扱えるように表現力が増すと、逆に極端に推論が難しくなる。拾苳擦辰、自然言語で論理的に推論できる人なんてまずいないと思って良い。
おまけに論理的な推論は近年発達してきたものであり、本来は人間は論理的な推論は得意ではなく、直感的な判断が得意である。ライオンを前にしてどうすべきか論理的に推論していたら食べられてしまう。では、論理的な推論はいらないかというと、直感的な判断が正しいかどうかを検証するのに、論理的な推論は有効である。
しかしながら、注意しなければならないのは、どんなに論理的な推論が正しくても、その推論の前提となるものが正しくなければ、導き出された結論は正しくない。
さて、我々の思考がどのような限界があるのかを知るために、論理学の意味を考えるための基礎として、まず論理学の体系を説明してみたい。
論理学には大きく分けると、意味論と証明論がある。
意味論の「意味」は日常語の「意味」とはかなり異なっている。意味論はモデル理論とも呼ばれ、論理式の真偽を、その論理式に含まれる基本論理式の真偽から求める方法である。
つまり、ある文が本当か嘘かだけを問題にして、その内容については問わないのである。
証明論の形式的構造(枠組み)は「公理系」と「推論規則」からなる。
簡単のため命題論理について説明すると、推論規則は「PとP→Qが定理式であればQは定理式である」というようないわゆる三段論法と呼ばれるものである。
公理系は公理式の集合であり、公理とは恒真(常に真)であると仮定された論理式である。
推論規則を公理に適用することによって新しい定理式が導出され、公理は恒真であるから定理も恒真となる。
言い換えると、証明論とは「正しい」と信じて与えられた「公理系」から「正しい」推論によって「正しい」結論を導き出すことである。
実は「完全性定理」というものが成立すれば、意味論と証明論とは等価であると言っても良い。
つまり、完全性定理が成立すれば、公理系から導かれる定理式は意味論における恒真式であり、意味論における恒真式は公理から導かれる定理式である。前者を妥当性、後者を完全性と区別することもある。
言い換えると、「正しい」ことから推論されることは必ず「正しい」し、「正しい」ことは必ず他の「正しい」ことから推論されるということである。
証明論において完全性とともに重要な概念に無矛盾性がある。
公理系からある論理式Pが証明可能であれば、¬P(Pの否定)は証明可能ではない。つまりいかなる論理式Pをとっても、Pと¬Pの両方が証明可能とならないことを、公理系が無矛盾であると言う。
なお、上述の命題論理の公理系は完全かつ無矛盾である。
次に命題論理よりも表現力を増した述語論理を考える。
例えば「人間は死ぬ」を命題論理ではPと表現したが、(第一階)述語論理ではF(a)のように表現する。
命題論理と同様に第一階述語論理においても、定理式は恒真式であり、恒真式は定理式であり、後者はゲーデルという人によって証明され、「ゲーデルの完全性定理」と呼ばれる。
ところがもう少し複雑な公理系となると、有名な「ゲーデルの不完全性定理」が証明されている。ここでの「不完全性」は「恒真式は定理式でない」という意味ではなく、「決定問題」において「決定不能」であることを言う。なお、決定問題とは論理式が恒真であるかどうかを決定するための機械的手続きが存在することを言う。
言い換えると、複雑な公理系では「正しい」か「正しくない」かを決定できないようなことが存在するということである。
さて、この証明論の公理系を人間に当てはめてみると、公理系とはある人間が持っている信念であり、定理とは信念から推論によって導き出された「正しい」ことである。
まず、ひとつの問題として、人間が完全な推論能力を持っていないという「論理的全知」の問題がある。つまり、人間の有限な能力ではすべての「正しい」ことを導き出せないのである。
しかし、もしすべての「正しい」ことが導き出せたとしても、ゲーデルの不完全性定理により、「正しい」か「正しくない」がを判断できないことが必ず存在する。
さらに根源的なことを言うならば、信念として何を「正しい」ものとするかによって「正しい」ことは変わってくる。つまり普遍的に正しいこと、いわゆる真理は存在しないのである。逆に何かを「正しい」こととして信じなければ何の判断もできないことになる。
[2001/9/16]
"フランクフルト・バレエのWilliam
Forsytheのバレエに良く使われているThom Willemsの音楽のCDが欲しいと以前から思っていた。久し振りにフランクフルト・バレエのHPを見たら、WillemsのページにAmazon.frからCDが販売されているとの情報が載っていた。おまけにWillemsの音楽を聴けるページもあった。やっぱりWillemsの刻むリズムはひたすら格好良い。さっそくAmazon.frにWillemsのCDを注文した。フランス語は読めないけれども、Amazonに登録されている情報が使えるのでなんとかなった。届いてみたら2枚組CD、Sylvie
Guillemのビデオにも収録されている"In the Middle
Somewhat Elevated"、それに"The Second Detail"と"The
Loss of Small Detail"が入っていた。
[2001/9/15]
NHKの「未来への教室」のJames
Turrell(ジェームズ・タレル)の再放送をやっと見ました。
最初は向こうでの展覧会の様子、開口部の中にほのかな青い光が満たされている作品"Open
Field"、この開口部の中にも入ることができ、中から外を見ると白い壁が青の補色のオレンジ色に見えます。,胞踉捌身の内部で「発光」する光を見る"The
Gloaming"。これらは1998年の世田谷美術館でのタレル展を思い起こさせるものでした。しかし、やはりTVの貧弱な映像では、実際の体験を想像するしかないです。
"Roden Crater"。
自分がツアーに参加している感覚で見てしまいました。広大な砂漠の中にそびえるクレータ、入り口からクレータまではかなりの距離があるように見えます。(身体を鍛えておかなければ
^_^)
クレータの地下にある部屋へ、まずは月を映し出す「太陽と月の部屋」。そして、部屋を繋ぐトンネルから、クレータの半ばにある部屋へ、この部屋では周囲にある椅子状の段差に座って空を眺めることができます。それから、クレータの中心にある「クレータの目」の部屋へ。トンネルの本当の暗さ、向こうの部屋からトンネルに溢れ出す光、これらは映像からは窺い知ることはできません。「クレータの目」の部屋の下にある水槽を利用した音の反響も同じです。それから、クレータの地下から外の空間へ、「クレータの目」の部屋の上に仰向けになったり、クレータの内壁を登ったりして感じる空は本当に楽しそうです。
この番組では子供達に2つの言葉が示されました。
ひとつは「目の前に見えるものは目の後ろからくる」("What
seen in front of the eyes comes from behind the eyes.")、もうひとつは「内なる光はどのように外なる光と出会うのか」("How
does the light from the inside meet the light from the
outside?")。
前半は、我々が目にしている世界は、我々の知覚によって再構成されたものに過ぎない、という知覚特に視覚を探求するタレルの作品の本質をついたものです。後半は、太陽・月・星の光を使った"Roden
Crater"の作品のコンセプトです。
我々が目にしている世界は、我々の知覚によって再構成されたものに過ぎない、ということは頭ではわかっていても、なかなか実感することはできないものです。それを実感させてくれる、しかもより素晴らしい体験として実感させてくれる、タレルは本当に類まれなアーティストだと再認識しました。
"Roden Crater"を体験するまでは死ねない、と本気で思ってしまいます。
[2001/8/25,31]
ラフォーレ原宿で行なわれている岩井俊雄展は面白いです。
1999年のパシフィコ横浜でのISMR'99に展示された「テーブルの上の音楽」、2000年のICCでの『ICC子供週間』に展示された「えんぴつとコンピュータが出会う小作品」、ラフォーレ原宿での『ハッピーテクノロジーラボ』に展示された「SOUND-LENDS」に箱ロボ「キュビイ」に「テノリオン」、2001年のパシフィコ横浜でのISMR'01に展示された「SOUND-EYE」と「FLOATING
MUSIC」、それから1997年の坂本龍一との『MPI×IPM』から「音楽のチェス」が展示されていました。
初めて体験した「音楽のチェス」はとても美しい作品でした。盤上にガラス玉を並べることによってサウンドを生み出していく作品で、盤面の二次元のひとつの軸が時間、もうひとつの軸が音の高さに対応しています。ある時刻に音を生み出すガラス玉は、下からの光によって幻想的に浮かび上がります。
お気に入りの作品は「SOUND-LENDS」です。「SOUND-LENDS」は、上面にレンズのついた箱とヘッドフォンからなる作品で、このレンズから取り込まれた光が可聴域の音に変換され、光を聴くことができるという作品です。視覚的には同じような光でも違った音として聞こえたり、見えない赤外線を聞くことができたり、人間の知覚の拡張とも捉えられる面白い作品です。
「SOUND-LENDS」は、『ハッピーテクノロジーラボ』でシンプルな光とともに最初に展示され、ISMR'01ではかなり凝った光が使われており、サンプリングした鳥の声としか思えないような音などが聞こえました。しかし、これも驚いたことに光で作られた音で、実際の音をリバース・エンジニアリングするような感じで光を作ったようです。
今回は「SOUND-LENDS」を持って外の光を聴きに行く「SOUND-LENDS聴光ツアー」が企画されました。岩井さんは『ハッピーテクノロジーラボ』の頃から「SOUND-LENDS」を外に持ち出して聴いていたらしく、『ハッピーテクノロジーラボ』のときには私も貸してもらって、ラフォーレ原宿の館内を岩井さんに案内してもらったことがあります。
「SOUND-LENDS聴光ツアー」では、毎晩19時半に10名ほど集まり、「SOUND-LENDS」を持って、ラフォーレ原宿の前の明治通りを岩井さんに案内してもらい、最後はラフォーレ原宿の館内の光を聴きながら戻ってきます。お店のディスプレイの光とか、自動販売機の光とか、駐車メーターの光とか、手当たり次第に「SOUND-LENDS」をかざして光を聴いてきました。自動販売機の音は機種によって全く違うのですね。しかし、変な箱をかざして集団で歩いているのは異様に見えるらしく、周りの人たちからはじろじろと見つめられました。時間が20分程度と短いのが本当に残念で、「SOUND-LENDS」を売り出してくれないかなと以前からずっと思っています。
[2001/8/11]