残り時間は長くはない。
最近はたま〜〜に読むこともあるけれども、昔はSFというものを全く読まなかった。
しかし、仕事の上で仕方なく読まなければならなかった3冊の本がある。
ハインラインの「夏への扉」は、人工知能の仕事をしていたときに、多重世界の参考のために読んだ。
ギブソンの「ニューロマンサー」は、仮想現実感の仕事をしていたときに参考に読んだ。
ハインラインの「宇宙の戦士」は、この映画のプロモーション用のゲームの制作の仕事をしていたときに読んだ。
まあ、「ニューロマンサー」は許せるものの...
[2004/3/15]
赤い夕日を見たときに感じるクオリアのように、我々は自分が意識的に感じたことについて強い確信を持っている。
しかし、それは単なる幻想ではないだろうか?
心理学におけるJames-Lange説のように感情(情動)は認知的であり、操作可能であるにも関わらず、意識はそれに気付かない。
また、Benjamin Libetの準備電位の実験にあるように、我々の無意識が自動的に引き起こした行動を、我々は自分の意志で引き起こしたように捉えてしまう。
前頭葉の障害によるutilization behaviorは、このように無意識に生起する行為を自分で止められなくなる症状である。
さらに、例えば手で何かを握ったときに、目から視覚でフィードバックされる情報と、手から触覚でフィードバックされる情報とは、脳に到達する時間が異なるにも拘らず、我々はそのものを握ったという強い現実感を意識している。
このような現実感は、脳の神経伝達物質を阻害する物質により、いとも簡単に崩れ去るにも拘らずである。
従って、クオリアのように自分が意識的に感じたことに対する強い確信も幻想でないとは言い切れないと思う。
[2004/3/5]
会社に行く途中に小さな川を渡るのだけど、その川の表情を予想しても決して当たらない。
風のないときは滑らかなぬるぬるとした表情だったり、風で表面に小さな皺ができていたり、流れの影響で大きな波が
できていたり。
風の吹き方の影響で川の中央だけに皺ができていることもある。
今日は風があったので、小さな皺があると思ったら、滑らかに光っていた。
[2004/3/2]
2004/3/11
「意識とはなんだろうか?」を考えるときに二つの立場を思いつく。
ひとつは進化生物学的な立場、意識はどのようにして生まれて、またなぜ淘汰されずに残っていったのか。
もうひとつは神経生理学的な立場、ここでも何度か取り上げたBenjamin
Libetによる脳の準備電位と意識の問題に関係する。
いずれにせよ、意識とはなんだろうかと問うことは、例えばこの文章を考えながら書いている自分とは何者かを問うことに他ならない。
進化生物学的な立場では、というか私が主に勉強したのはGenetic
Algorithmであるが、交叉−突然変異−選択のスパイラルの枠組みの中で意識を捉えることである。
このスパイラルで重要なことは、交叉−突然変異の部分が遺伝子型と呼ばれる部分への働きであり、選択の部分は表現型と呼ばれる部分への働きである。
つまり選択、いわゆる自然淘汰は表現型に対してのみ働き、遺伝子型から表現型へは発生が必要となる。
「下等」生物の場合には、この遺伝子型から表現型への発生は単純なマッピングに近く、遺伝子型と表現型の区別はあまり意味を持たない。
しかし、「高等」生物の場合には発生は学習や発達と呼ばれる部分を含み、遺伝子型からは想像もできない大きな変化を表現型にもたらす。
その発生の部分の最も大きな変化をもたらすもののひとつが意識であると思う。
例えば、意識の発生によって、交叉−突然変異−選択のスパイラルに埋め込まれた「遺伝子の乗り物」であることを人間は忘れ、意識が自分であると思い込むことによって、意識と無意識とに引き裂かれた存在となった。
一般的には、無意識による自動化された行動のプロセスを、意識によって柔軟な変更を可能としたことが、意識がたまたま生まれたときに淘汰されずに残った要素であると思う。
だからと言って、意識的な部分が多ければ良いかと言うと、恐らく意識的な部分が多すぎる生物は、意識的な処理の部分の負荷が高すぎて生き残れないと思う。
このような交叉−突然変異−選択のスパイラルの枠組みの中で、発生が大きな部分を占めるような生物に対して進化生物学がうまく適用できるのかは疑問があると思う。
[2004/2/29]
構造の定義にもよると思うが、モノ自体に本当に構造はあるのか、それとも構造は知覚によって生まれるのか?
「机」を考えてみよう。
机とはモノを載せる平らな面と、その平らな面を支える支柱から成っている。
言い換えれば、机は平らな面とそれを支える支柱という構造を持つ。
本当だろうか?
ギブソンのアフォーダンスの考え方によれば、机は必ずしも平らな面を持つのではなく、その上にモノを載せることをアフォードする部分を持つことになるが、これは本題とは離れるのでここまで。
机の場合に想定される構造とは、机を製造するためのプロセスとしての構造ではないだろうか。
例えば、あるモノの塊を引き伸ばして、平らな面とそれを支える部分を作り出したとしたら、それはやはり平らな面とそれを支える支柱と同様な構造を持つのだろうか。
それは少なくともプロセスとしての構造は持たないように思う。
そして、それが構造を持つように見えるとすれば、知覚によって生まれたものではないだろうか。
それでは机のように製造させるものではない、自然界のモノはどうだろうか。
例えば、植物はどうだろう。
幹、枝、葉、花、根、それぞれは機能によって分類され、樹という構造を成している。
本当だろうか?
例えば、自然法則はどうだろう。
それらも人間の知覚によって切り取られた見え方としての構造ではないだろうか。
[2004/2/29]
2月27日と28日に「安藤洋子×ウィリアムフォーサイス」の"WEAR"(2004)、"(N.N.N.N.)"(2002)、"QUINTETT"(1993)を世田谷パブリックシアターで観てきた。
今回は公演に気が付くのが遅かったので、初めて世田谷パブリックシアターの2階席で観てきた。
(天井に空と雲の絵が描いてあるのに初めて気が付いた)
今回はForsytheの作品が年代の逆順に上演されて興味深かった。
しかし、Forsytheの最近の作品は自分の感性にフィットしない。
Forsytheはなぜ最高に美しく格好良い世界を捨ててしまったのだろうか。
"WEAR"は最初は安藤洋子のソロと書かれていたが、安藤洋子と2人の男性ダンサーによる作品。
池田亮司の曲はなかなか良かったが、アラスカのエスキモーのような衣装に家、ダンスは完全にブレイクしていた。
バレエが築き上げた美の世界を、Forsytheは再構築し続けていたが、ついに崩しきって、形の側からのアプローチではあるが、BUTOHの表現に近付いている感じがする。
"(N.N.N.N.)"はCD-ROMの"Improvisation
Technologies"をそのまま凝縮した感じで、4人の男性ダンサーによる動きの連鎖がひたすら繰り返される。
いわゆる遊びのダンスがないだけに、面白いもののちょっとつらいものがある。
しかし、音楽はThom Willemsと書いてあるがほとんど音がなかった。
"QUINTETT"は90年代前半のForsytheの見慣れたダンス。
3人の男性ダンサーに2人の女性ダンサー。
しかし、Demond Hartという男性のダンスには、最初の動きから目が釘付けになった。
筋肉質の身体から繰り出されるスケールの大きな動きは凄かった。
帰って調べてみたら、1994年に初めてForsytheを観たときに、Hartは日本に来ていたようだ。
そのときは特に目立ったダンサーではなかったと思う。
"QUINTETT"も上演されたものの、それとは別のプログラム"LIMB'S
THEOREM"(1990)と"ARTIFACT"(1984)を観た。
"LIMB'S THEOREM"はForsytheの作品の中で最も好きなもののひとつだ。
「安藤洋子×ウィリアムフォーサイス」の公演で買ったAgnes
Nolteniusの写真による"Forsythe Detail"(2003, Arte
Editions)、5,500円を購入した。
それから、以前にドイツのZKMから出版されたForsytheの振付技法を凝縮したCD-ROM"Improvisation
Technologies"の改訂版の日本語版が出たようだ。
[2004/2/28]
パンフレット
カタログ(表)
カタログ(裏)
カタログの中のDemond
Hart
1994年の公演カタログとDemond Hart
Agnes Noltenius, "Forsythe Detail"(2003), Arte Editions
CD-ROMのパンフレット
LondonのTate ModernでOlafur Eliassonの"The Weather Project"を観てきた。
知人のキュレータに「ヨーロッパに行くから何かお奨めはないか?」ときいたら、ロンドンに行くなら絶対にOlafur
Eliassonの"The Weather Project"を観てくるべきだと言われた。
「恐ろしいくらいに凄い経験ができる」という言葉に期待しすぎて、見た瞬間はちょっと拍子抜けした。
しかし、この作品はその中に浸っていると、じわじわと迫ってくるものがある。
色んな場所から眺めたが、やっぱり入り口近くから見るのが最高だった。
(直島通信のオラファー・エリアソンの特集)
常設のBill
Violaの5つのスクリーンを用いた映像作品"Five
Angels for the Millennium"(2001)も良かった。
真っ暗な室内にあるスクリーンには、それぞれ"Departing
Angel", "Birth Angel", "Fire Angel",
"Ascending Angel", "Creation Angel"という、人間が水中に落ちていくスローモーションの映像とともに、スローモーションのようなサウンドが効果的だった。
過去の展覧会のページに現時点では"Five Angels for
the Millennium"の写真が載っている。
[2004/2/22]
Exhibition catalogue
今日の朝日新聞の「風の声を聴く」は、尺八奏者の中村明一さんの呼吸法に関する記事だった。
それによると、昔の虚無僧から伝わる「密息」という呼吸法では、腹式呼吸と違って横隔膜だけで吐くそうだ。
「身体が微動だにしないから、全身の感覚が研ぎ澄まされる。」
「身体が動かないと空間も動かない。凍りついたように感じられた。」
密息による世界を体験してみたい。
[2004/2/21]
東京ドイツセンターからの情報でBallett
Frankfurtが2月末に日本で公演を行うことを知った。
Ballett Frankfurtのページには載っていなかったので、危うく見逃すところだった。
パンフレットによると「安藤洋子×ウィリアム・フォーサイス」による"Yoko
Ando Dance Solo"と"(N.N.N.N.)"と"Quintett"、最初のは安藤洋子のソロ、その他はBallett
Frankfurtのようだ。
この公演情報や記事を調べていたら、以前に聞いた噂の通り、Forsytheは今年の7月でBallett
Frankfurtを辞めるようだ。
[2004/2/6]
H・アール・カオスの「人工楽園」で貰ったパンフレットなどから面白そうなものをもろもろ。
H・アール・カオスの「人工楽園」は、白河さんがいきなりオールヌードで椅子に腰掛けたダンスで始まり、足の怪我が治っていないのかと心配した。
しかし、今回は最前列のチケットを貰ってしまったので、お約束の水はかけてもらったし
^_^)、ダンスの迫力はあったものの舞台裏が見えすぎて、観客として見ている気分ではなかった。
ただ、白河さんは別格としても、今回は小林史佳さんのダンスの表現力に目を見張らされた。
最近の大島さんの振付は、多彩な表現技法とともにスタイルが確立した感がある。
でも、もうひとつ突き抜ける可能性があるのではないかと期待している。
カオスは4月に大阪で「春の祭典」、7月に東京で「山田耕作の遺産、よみがえる舞踊詩」をやるらしい。
それから、6月の埼玉でのLa La La Human Stepsの"Amelia"は期待したい。
[2004/2/6]
朝日新聞のティーンズメールに飯野賢治さんが書いていた。
いわゆるティーンの悩み事相談コーナーなのだが、飯野さんの回答は自分にない視点で、ハッとさせられることが多くて面白い。
ティーンズメールのウェブページがあるとは知らなかった。
[2004/1/13]
養老孟司の「アタマとココロの正体」を眺めていたら、尊敬する心理学者の下條信輔さんとの対談で、下條さんがJames Turrellの"Telephone Booth"という作品の話をしている。
「ジェームズ・タレルという米国のアーティストを紹介する仕事にも少しかかわっています。もともと知覚心理学を勉強した人で、彼の作品はそれを応用しています。
たとえば、直径1メートルぐらいのドームの中に頭を突っ込むんです。最初、頭のまわりは完全に均一な青色で、奥行きのない空のように見えます。それからその視野全体に赤や青の光を点滅させる。すると不思議なことに、目の網膜の構造が見えるんです。網膜の毛細血管が枝分かれしている様子が見えたり、視細胞がモザイク状に配列しているのが見えたりします。」
[2004/1/10]
あと5年しか残されていないのに、何をしているのだろうか?
"too old to lose it, too young to choose it"
終わりから始めること。
[2004/1/4]