10月になったというのに、まだまだ暑くてセミが鳴いている。今年はもうしばらくはイベントが続く。
インターネットでダンス映像を探してみた。
お奨めは下記。
まずはLa La La Human StepsのRadio-Canadaのインタビュー映像。
"Bloquer la rue Sainte-Catherine pour danser"は1983年のストリート・パフォーマンス、メインで踊っている女性ダンサーは髪の黒い時代のルイーズ(Louise
Lecavalier)かも?
"Un art total"は1992年のいわゆるアクロバティックな金髪のルイーズのダンス。
"Édouard Lock ou le langage du geste"は1987年の振付家のエドワード・ロック(Édouard
Lock)のインタビュー。
"Prix du gouverneur général"は2001年のロックの授賞式でのルイーズのスピーチ。
上の年代のバーにはその他に、"Danse et
symbolisme religieux"は1992年のロックのインタビュー、"Quand
Édouard danse"は1999年のロック自身のダンス。
Yahoo! Video Searchからの検索。
La La La Human Stepsの映像。
La La La Human Stepsはルイーズが引退して、それまで"Salt"(1998)"などでバレエのテクニックを取り入れていたロックが、遂にダンスとバレエの融合を果たしたのが"Amelia"(2002)という作品。
彩の国さいたま芸術劇場で1996年に初めて観た"2"(1995)で衝撃を受け、1998年に公演した"Salt"と2004年に公演した"Amelia"ではスタンディング・オベーションしました。
video2a.movはルイーズが踊っているので"Amelia"ではなく、"Salt"の映像ではないかと思いますが、観たときを思い出して泣けました。
video_infante.movは昔の"Infante"(1991)の映像。
1996年に上野の東京文化会館で観たWillam
Forsytheの"Eidos:Telos"(1995)の映像。
その他には、三宅一生の衣装の"The Loss of Small
Detail"(2000)の映像、"Old Song"の映像、Brock Labrenzの映像。
Rosasの"Small Hands (out of the lie of
no)"の映像。
[2005/12/25]
12月20日から24日に夢の島のBumB 東京スポーツ文化館で開催された、FEEL&CONNECTをテーマとして武道家の日野晃さんが教えるYOKO ANDO Project Workshopの身体塾と表現塾のうち、二日目の身体塾と四日目の最終日の身体塾と表現塾に参加してきた。
このワークショップに参加した理由は、日野さんの考え方に深く共鳴したWilliam Forsytheのバレエを好きだったこと、仕事が製品と人とを繋ぐインタラクションやコミュニケーションに関係すること、プライベートでカウンセリングなど人と人を繋ぐことに興味があったこと、日野さんの身体塾の考え方を読んで意識と身体の観点から興味を持ったことである。
初日の身体塾では胸骨の動きのワークがあったようで、仕事を休めず参加できなかったのはとても残念だった。
二日目の身体塾は、二人一組で、一人が仰向けに横になって、もう一人が腕を持って引き起こすワークから始まった。
最初は全くわけが分からず、胸骨の動きを考えたり、腕に加わる圧力を感じたりしているうちに、ただ引っ張られてしまった。
途中で日野さんを全員が順番で引き起こしたが、日野さんの腕を掴む圧力が変化しないのがすごいと思った。
しかしながら、自分ではうまく行かず、見かねた安藤洋子さんが手を取って、アイコンタクトの大切さを教えてくれた。
その後は、相手とのコミュニケーションの大切さに気が付き、特に相手を引き起こすときは「こっちに来て!」という感じを伝えられたと思う。
次のワークは、二人一組で、それぞれが棒の両端を持ち、一人が棒を動かして、もう一人がそれを感知して棒とともに動くというものだった。
うまい人同士が行うと、二人の動きが呼応し、どちらが動かして、どちらが動かされているのか、見分けが付かない。
しかし、実際に動かされてみると、なかなかうまく動けないのと、アイコンタクトもできず、相手とのコミュニケーションがうまく取れなかった。
相手の気持ちになってみようと試みたものの、やはりなかなか難しい。
後で気が付いたことだが、棒を動かしているときは、相手とコミュニケーションを取ろうという気持ちがなかった。
さらに発展したワークは、三人一組で、二人が棒を動かし、もう一人が両手に棒の端を持って、棒とともに動くというものだった。
これはもう必死で何が何やら分からぬままに終わった。
最終日は、予定していた身体塾に加えて、表現塾に空きがあったので、四日目からでは無理があると思いつつ参加した。
最終日は撮影が入っていることもあり、日野さんの模範演技を多く観ることができた。
身体塾では、最初に両肘を横に広げて立ち胸骨の前後運動、二人一組で一人は胸骨を意識させるとともに、肘が動かないように添える。
組んだ人が経験があったので教えてもらったものの、さすがに胸骨の動きはそんなにすぐにはできなかった。
次に三人一組で、胸骨の前後運動に合わせて足を前後運動、胸骨の動きに腰から足を連動させる。
一人に後ろから羽交い締めのように支えてもらい、もう一人に足を意識するように持ってもらう。
胸骨の前後運動をまともに行えない初心者には無理があり、すぐにバランスを崩してうまく連動させられなかった。
こんなときに相手が女性であることを意識してはいけないと思いつつ、残り二人が小さい女性で遠慮してしまったのは良くなかった。
次は二日目の身体塾でも体験した二人一組と三人一組の棒のワーク。
今回は動かされる側が手を持ち替えることも加わった。
手を持ち替えるときに、手がうまくコントロールできないので、相手の動きを邪魔してしまった。
三人一組の棒のワークはやはり難しく、見ている人から棒に動かされていると指摘された。
最後に手の平を上下に重ねてのワーク。
動かす方も動かされる方も、重ねた手と反対側の肩の動きが重要であると教えられた。
表現塾が始まるまでの時間に、日野さんを見つけたのでご挨拶した。
mixiでは何度か相手をしていただいたものの、実際にお会いするのは初めてであり、ワークショップのテーマであるCONNECTとFEELに関係する部署で、人と製品の繋がりであるインタラクションや人と人の繋がりであるコミュニケーションに関連した仕事をしていると自己紹介した。
道具を使う武道や今回の棒を使ったワークは道具や棒をメディアとしたCONNECTであり、同様に電話などの電子メディアを介した人と人のCONNECTは可能かという質問をした。
日野さんの意見は、相手を感じることができるならば可能、しかも何らかのリアルタイムの情報の伝達なしにも可能だろうと言うことだった。
人と人を無意識のレベルでCONNECTするためには何を伝えれば良いのか、誰でも話せる電話とは異なり達人だけがCONNECTできる電話があっても良いのかもしれない。
表現塾では、最初に二人一組で向き合って、一人は正面を向き、もう一人が動いてしっかりとアイコンタクトしてCONNECTできる位置を探すワーク。
組んだ相手も初心者で何をやって良いか分からないところに、日野さん自身が相手になっていただき、CONNECTのお手本をしていただいた。
しかし、自分でやってみると、正面にいるのに伝わってこないと何人かに言われた。
相手の目は見ているのに、心は遮断しようという力が働いているようだ。
これは幼少の頃からずっと相手と繋がることに恐れがあり、最近はこれを克服しようとしているものの、特に相手に伝える力と相手を感じる力に関してまだまだ課題が多いと思った。
次に三人一組で、二人が並んで立ち、もう一人は正面の人としっかりアイコンタクトしてCONNECTするとともに、斜めの人にもCONNECTするワーク。
それからメンバーを変えて、相手とCONNECTしているときに、今度は横から視線を感じるのではなく、見えないところから触ってくる相手を感じるワーク。
何だか分からないままに、体が動いてしまうことがあり、それが単なる勘なのか、本当に感じているのかわからない。
このワークから�「盲視」を連想した。
盲視は視覚野の損傷で、意識的には見えないものの、別の経路の情報伝達から、体あるいは無意識には見えているというものだ。
次に二人一組で、正面に向き合いアイコンタクトしてCONNECTして「生麦、生米、生卵」と大声で叫んで伝えるワーク。
最初は人と繋がる恐怖から、相手の目を見る恐怖を感じていた。
しかし、途中から相手に「伝えるよ」や「受け取るよ」という気持ちが出てきて、言葉ではうまく表現できないものの、喜びに近いような気持ちが少し感じられるようになった。
さらに、相手が耳を塞いで伝えるワーク、口パクで声を出さないで伝えるワーク。
これは主に伝える側の練習だと思うが、カウンセリングの勉強で受け取る側の練習をしたことがある。
それは、クライアント役が話しているときに、カウンセラー役が頷かなかったり、後ろを向いたり、ちゃんと受け取らなかったときに、クライアント役がどう感じるかというものだった。
日野さんのCONNECTはカウンセラーとクライアントの信頼関係による深い繋がりであるラポールと共通性があると思った。
それから、十名ほどのグループになり、一人が残りの観客の前で、観客の一人とアイコンタクトしてCONNECTするとともに、残りの観客ともCONNECTしてから、「生麦、生米、生卵」を大声で叫んで伝わったかどうかを、観客が○×で評価するワーク。
それを発展させて、口パクで伝えたり、さらに三十人ぐらいのグループに伝えるワーク。
最後は二人一組で、一人はサポートするだけで観客とCONNECTせず、もう一人が観客とCONNECTするワーク。
後半の観客に伝える部分は難しくて全くついていけなかった。
最後に来夏のワークショップの候補生を発表して終了。
また、日野さんのお手本の凄さを理解するレベルにも達していないことがわかった。
しかし、来年3月のフォーサイスの公演は、日野さんに指導された安藤さんを始めダンサーの表現を観るのは楽しみだ。
[2005/12/21&23]
mixiの「William Forsythe」コミュを見て、来春のフォーサイスの公演のチケットが既に販売されているのを知った。
Aプログラムの"You made me a monster"は各回85名限定で観客が舞台に登る参加型、Bプログラムは"The
Room as it Was"(2002)と"Wound Work ?"(2005)と"Of
And if And"(1995)と"One Flat Thing,
reproduced"(2000)から、"Clouds after Cranach"と"7
to 10 Passages"と"One Flat Thing,
reproduced"(2000)に変更されたらしい。
Aプログラムは3月1日(水)の20時の回、Bプログラムは3月4日(土)のチケットを取った。
Bプログラムは1階のG1、中央の席は既になかったので、端ではあるができるだけ前の席にした。
とにかくチケットを手に入れて一安心。
しかし、フォーサイスのパ・ド・ドゥは素晴らしいので、前回に観た"Of
If And Any"を観られないのは残念。
[2005/12/13]
人と人、人とモノの繋がりに興味がある。
最近、現代バレエで最も革新的な振付家と言われているフォーサイス(William
Forsythe)が日野晃という武道家に心酔しているという話を聞いた。
フォーサイスと日野さんが意気投合したのは、ダンスも武道も相手を感じ相手と繋がるFEEL&CONNECTという点にあるらしい。
日野さんは意識という言葉を良く使う。
しかし、日野さんの意識は無意識に近い。
例えば、動きの連鎖に「意識が統一されている」ことを重視し、悪い動きの連鎖を「意識が途切れている」と表現している。
実際には意識が介在すると動きには必ず遅れが生じることがわかっている。
だから、日野さんの言葉は意識が介在しない動きの連鎖を示していると言える。
また、日野さんの武道で、相手の力と対立せず意識を相手と同調させるという考え方は非常に興味深い。
武道では腕の使い方が重要であり、腕に運動的能力だけでなく相手を感じる感覚的能力が求められているらしい。
この二つの能力、感覚と運動が無意識に密結合するとともに、前述の「意識を相手と同調」させることにより、相手の運動と自分の感覚が蜜結合し、結果的に相手の運動に対して自分の運動が蜜結合することになるのだろうと思う。
もし相手の感覚と運動も蜜結合されていれば、二人はフィードバックループにより無意識に深く繋がることになる。
このような相手との無意識の蜜結合はカウンセリングなどにおいても見られる。
カウンセリングではラポールと呼ばれるクライアントとの信頼関係が不可欠である。
著名なカウンセラーはクライアントの感情や様々な身体リズムに自身を同調させ、クライアントに無意識に深い繋がりを感じさせるペーシングという技術を用いる。
このペーシングが確立すると、逆にカウンセラーの感情や身体リズムの変化にクライアントが引き込まれて追従するというリーディングの技術が可能となる。
さて、このような深い繋がりの関係は生身の人間だけに限られるのだろうか。
道具を使うことによって、道具まで感覚が延長されることが知られている。
例えば剣道では剣が道具となって、前述の感覚の延長および運動の延長が行われる。
言い換えると、剣が相手と深く繋がるコミュニケーションのためのメディアになっている。
となれば、コンピュータが介在したメディアにおいても、人と人の無意識の密結合は不可能ではないと思えてくる。
現在の電話は「電話をかける」と言う意識的行為を契機としているので、なかなか無意識の蜜結合までは至らない。
深い繋がりとしての無意識の蜜結合を実現するためには、意識の介在をできるだけ除き、身体レベルまたは感情レベルでの遅れのないフィードバックループを実現する必要がありそうだ。
さて、話は変わるが、コミュニケーションの要素として発話行為とアドレス行為がある。
対話(dialogue)ではこの二つの行為、喋るという行為と誰に向けて喋るという行為が一体化しているので、普段は気付いていない。
しかし、対話がコミュニケーションのすべてではない。
アフリカの一部には投擲的発話(casting talk)というアドレス行為の存在しない発話があり、道端で誰にともなく話しかけている人がいるそうだ。
また、インターネットの掲示板などでも、明確なアドレス行為が存在せず、場にテキストを投げるようなものも少なくない。
では、アドレス行為の存在しない武道とは何だろうか?
12月の日野さんのワークショップに参加する予定。
身体塾と表現塾があり、バレエやダンスに興味があるので、表現塾には興味があるものの、自分では表現はできないので、身体塾のみに参加する予定。
それにも増してフォーサイスの振付けるバレエが来年3月の公演でどのように変化しているのか凄く興味がある。
[2005/11/27]
昨日、知り合いの研究所に、同じく知り合いと一緒に遊びに行ってきました。
研究所はなかなかの山の中で、昔に勤めていた某社の研究所の隣でした。
そのときに一緒に訪問した今間さんの話から思い付いた造語がタイトルの「記憶動」です。
記憶動は、人間が記憶している色の記憶色に対して、人間が記憶している動きのことです。
専門でない部分も多々あるので、突っ込みどころ満載だと思います。(笑)
●今間さんの話
さて、今間さんの話はアニメーションの動きの強調表現のことでした。
アニメーションの中の動きは、実際の物理世界の動きとは異なり、動きの「タメ」のように時間軸の伸び縮みがあったり、体の一部が大きくなるような空間軸の伸び縮みがあったりします。
この強調表現がないとアニメーションの動きはそれらしく見えません。
これはアニメーションのキャラクターがリアルでないためだけではなく、人間を使った映画や演劇での人間の動きでも、何らかの強調表現がないと面白くないようです。
最近では、アニメーションの動きはモーションキャプチャという動きを自動的に記録する装置で撮られることが多いです。
このときに、普通に動きを撮ると面白みに欠けるので、専門の役者さんの大げさな動きを記録するようです。
今間さんの研究は、この面白みに欠けるもとの動きのデータに強調表現を自動的に加えようというものです。
●知覚からの話
強調表現で連想するのは、CG(コンピュータ・グラフィックス)で写実性を重んじるフォト・リアリズムの研究に対して、漫画の線画の表現のようなノン・フォトリアリズムの研究です。
フォト・リアリズムの画像に対してなぜノン・フォトリアリズムの画像の方が知覚しやすいのか?
そもそも人間の知覚において、モノの輪郭を抽出する処理が行われており、その輪郭抽出の手掛かりがあらかじめ与えられているので知覚しやすいという話があります。
同様に考えると、動きにおいても特徴抽出が行われ、その特徴部分が強調されている表現の方が特徴抽出しやすいので、知覚しやすいという考えになります。
つまり、動いていない部分は知覚する必要はないし、等速運動も動きが予測できるので最初と最後の位置さえ知覚できれば良いことになります。
●記憶からの話(「記憶動」)
記憶色というものがあります。
人間が実際に知覚する色と、人間が記憶する色(記憶色)とは違うのです。
例えば、空の青、信号の赤、これらは記憶の中では実際の色よりも彩度が高く鮮やかになっています。
だから、写真は記憶の印象に近いように、カメラで実際に撮った色よりも鮮やかにプリントされています。
この記憶色と同じようなことが、色ではなく動きにあるかもしれないと思いました。
つまり記憶される動きは実際の動きを強調表現したものであるという仮説です。
だから、アニメーションの強調表現の動きを見た方が、実際の動きを見るよりも記憶の動きに近いので心地良く感じるというものです。
同じ動きを見るとなぜ心地良いのか、この辺りは画像に関しては単純呈示効果というものがあり、呈示すればするほど選好性が高まるという実験があります。
では、なぜ強調表現として記憶されているのか?
実は強調表現として記憶されているわけではなく、知覚のところにも少し書きましたが、強調される特徴的な部分だけが記憶されており、他の部分は補間されているという考え方もできると思います。
これは動きの記憶の特徴点による圧縮とも言えます。
記憶の圧縮に関しては、エピソード記憶から意味記憶への変化も圧縮だと言えます。
あるシーンをそのまま覚えているようなエピソード記憶は、海馬に一時的に蓄積されてから側頭葉に蓄積されます。
エピソード記憶には様々な情報が含まれているものの、想い出として想起しないと次第に劣化して、辞書のような意味記憶として他の新皮質に蓄積されてしまいます。
例えば海に行ったときの豊かな想い出としてのエピソード記憶は、複数の海に行った記憶とともに「海」に「行った」というようなシンボルの結合として意味記憶に蓄積されてしまいます。
さて、これまで動きの記憶と単純に書きました。
動きの記憶と言っても、自分の動きの記憶と、知覚された動きの記憶は同じものでしょうか?
自分の動きの記憶は小脳に蓄積、知覚された動きの記憶は大脳新皮質で異なるようにも思えます。
しかし、そう単純ではなく、実は人間の知覚と運動との強い関係性についての研究があります。
例えば、ボーリングのボールが右側のガーターに落ちそうになると(知覚)、ボールが落ちないように投げた人の体は左に傾く(運動)ことが知られています。
[2005/11/26]
知り合いに自分がMじゃないかと思っている人がいる。
彼氏に手首を縛られたときとか、レイプみたいにされたときに感じたそうだ。
でも、彼氏もMっぽいので言い出せないみたいだ。
色々話してみて、彼女はセックスすることに罪悪感を感じているのではないかと思った。
セックスに罪悪感を持つと、普通は男性恐怖症になるか、逆に風俗関係に走ってしまうことが多いと思う。
彼女の場合は、普通のセックスでも正常にオーガズムを得られているものの、その快感を受け入れることに罪悪感を持っている。
だから、その罪悪感に対して、縛られたりレイプされたりという罰を受けないと安心できない。
この罪悪感の元を辿り、それを許してあげることができれば、罪悪感なしにセックスを楽しめるのだと思う。
[2005/11/13]
今日は体調がイマイチのところを横浜労災病院の山本晴義先生の「ストレスと心身医学」という講義を聴いてきた。
先生の話は何度か聴いているものの、いつも熱意に新しい気持ちにさせられる。
今日は時間の余裕もあり、対象も専門家なので、いつもに増して深い内容だった。
三つほど感じたこと。
一つ目は、先生のメール・カウンセリングについていつも思うこと。
研究の目的などもあって、ひとりで担当されているものの、その方法論やノウハウが先生だけがわかっていても意味がないと思う。
早いうちに方法論やノウハウを教育プログラムとしてまとめることによって、より多くの人々が救われるのではないかと思う。
二つ目は、個人情報に関して。
個人情報は基本的にはネットワークから切り離された計算機に保存するのが普通。
でも、メールの場合にはネットに接続しないわけにはいかないのでどうするべきか。
三つ目は、先生が監修しているうつの予防のCDに関して。
ちまたの販売目的のCDとは異なり、先生が監修されるからには、ちゃんとした科学的根拠が必要だと思った。
講義中に回覧されたので、あまり詳しく読む時間がなかったものの、比較実験として先生のCDの音楽視聴時と音楽なしが比較されていた。
実際にはちゃんとした比較実験を行っているのかもしれないものの、CDの有効性を示すためには、音楽なしではなく何らかの他の音楽の視聴時との比較を行うべきだと思う。
[2005/11/13]
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』(2005)、白水社、1,890円
安静のはずがAmazonから送られてきたので読んでしまった。
面白い!
日野さんの考え方は脳科学などの実験結果からも納得のいくものです。
それにFEEL&CONNECTの考え方は、武道やダンスだけでなく、コミュニケーションやインタラクションに応用できる可能性を持っていると思った。
いずれにせよ、The Forsythe Companyの来春の公演は面白そうです。
これを知っていれば、今夏の安藤洋子さんのワークショップは観ておくべきでした。
それから、この冬の12月20日から23日までのワークショップに、ますます参加したくなった。
[2005/11/4]
人間とは、暗闇から出でて、暗闇に消えるものである。
暗闇への消え方が、忽然と消えるか、徐々に消えていくか。
「その隠者は自身を索めようとして先ず足を切った。更に索め得られる、そう呟きながら、次に手を切った。そして、次第に自身を切り刻んでいって、影も形もみとめられなくなったと云われる。」(埴谷雄高、『不合理ゆえに吾信ず』)
脳の機能局在性のように、人間であることの局在性は意味があるのか。
そもそも局在性の考え方が、西欧的な還元主義に基づいている。
隠者が影も形もみとめられなくなったとき、そして人間が暗闇に消えるとき、ある時点で人間でなくなるわけではなく、ホログラフィのように人間の影が薄くなって消えていくのだろう。
[2005/10/31]
たまたまmixiのWilliam Forsytheのコミュニティを読んでいたら、The Forsythe Companyが来年の3月に彩の国さいたま芸術劇場で公演するみたいだ。
Forsythe本人の公演は久しぶりなので楽しみ。
2006年3月1日(水)・2日(木)・4日(土)・5日(日)の4日間。
「ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う」(白水社)も面白そうなので購入した。
著者で武道家の日野さんのウェブページも面白い。
ダンス関係の身体塾、リンクが切れているけどフォーサイスカンパニーでの一週間。
この冬の12月20日から23日までワークショップが、YOKO ANDO Projectとして開催されるようだ。
[2005/10/30]
一週間くらい前から、特に左耳が気圧が変化したように音がガンガン響くので、耳鼻科に行ったらストレスによる突発性難聴で、安静にしていないと耳が聞こえなくなると脅された。
ここのところ、プライベートでも忙しかったのと、睡眠時間がもったいないので削ったのが効いた。
来週からオランダに出張、審査員に発表にミーティングのはずが、出張は取止めで安静となった。
幸い、初期に医者へ行ったので、服薬と安静で回復に向かっている。
しかし、安静は何もすることがなくて辛い。
人間の知覚は不思議だ。
難聴のときは聴力が落ちているから、聴覚の感度を上げて補おうとするのか、聴力が落ちすぎて感度を上げすぎて、ハウリングのように感じてしまう。
視覚には同様のことはないのだろうか。
極度の疲労で視力が落ちることがあるが、そのときは感度が上がるように思えないし、感度が上がることでのノイズによる幻視はないように思える。
しかし、何かの障害があるときは、普段は成立していたリアリティの幻想が崩れるのが面白い。
いずれにせよ、最近は順調に回転しているように思えたものの、ちょっと無理があったのかもしれない。
人生万事塞翁が馬、このひと休みによって、自分がどういう方向に変わるのか、あるいは変わらないのか、興味のあるところ。
[2005/10/19]
26日の聴力検査結果と診断書を持って、会社の産業医の判断を仰ぐ。
診断書「病名:左突発性難聴。右疾患あり、平成十七年十月十九日当院初診。聴力検査の結果、中等度の感音性難聴を認め、病状から右疾患と診断した。安静・加療を要するので、安静ならびに通院加療を指示した。」
産業カウンセラーの勉強から産業医の役割については知っていたものの、実際にその場で対面するのは初めてだった。
産業医から面談報告書(就業意見書)というものを作成してもらった。
産業医の意見「1.現在、病状は改善しており、出社は可である。但し、当分の間、残業を控えることが望ましい。2.出張、休出、深夜残業勤務は、原則として禁止する。3.主治医への受診をつづけること。」
ということで、制限付きながら仕事に復帰した。
[2005/10/27]
(左が19日の最悪の状態、中が22日の状態(機械および補正が異なる)、右が26日の状態)
今日は朝から夕方まで家族療法の講義を聴いてきた。
個人だけでなく周りの人を含めてカウンセリングすることの大切さは理解できる。
しかし、統一した技法が確立されていないことと、理想の家族の形を求めるという点が、社会・文化的な影響を受けやすいのではないかと思う。
ここで理想の家族とは、すべての家族が等しく繋がっているのではなく、夫婦が強く繋がっている家族が理想らしい。
社会的動物でも家族を構成するものは多くはないと思うが、このような夫婦が強い家族構成は進化生物学的にどういう意味を持つのだろうか。
社会的動物の家族でも子供が成長すると親から離れていく。
もし、親と子供との繋がりが強すぎれば、近親相姦になりやすく遺伝的に子孫が残りにくいのではないかと思った。
ちなみに、おしどり夫婦のおしどりは毎年相手を変えるそうだ。
[2005/10/15]
池上本門寺にお会式の万灯練り行列を見に行ってきました。
駅から本門寺までものすごい人ごみでした。
それぞれの地域コミュニティのメンバーが数十名ぐらいずつグループになって、万灯というイルミネーションを引っ張りながら、鐘や太鼓を鳴らして練り歩いていきます。
このグループはいわば特定文化ドラムサークルで、ベースの鐘のリズムにいくつかの太鼓のリズムを重ねて、それぞれ固有のリズムパターンを創り出しています。
それぞれのリズムは特徴があって聴いているだけで楽しくなってきます。
そして、グループはこのリズムなどの共有によって、ある種の変性意識状態での強い繋がりを保っています。
グループ同士は万灯練り行列に共に参加しているという弱い繋がりを持っているのではないかと思います。
万灯練り行列は最終的には本門寺の大堂まで練り歩いて行き、大堂の中では僧侶が大太鼓を一定のリズムで叩き、それに合わせて信者たちが団扇太鼓を叩きます。
僕もお堂に上がり団扇太鼓を叩いてみましたが、リズムが単調なので面白みに欠けました。
恐らく長時間叩いていると、ある種の変性意識状態に入り、繋がりを感じることができるのかもしれません。
[2005/10/12]
"The Chichu Art Museum: Tadao Ando Builds For Walter De Maria, James Turrell, and Claude Monet", Hatje Cantz, 5,056円
こんな本が出版されているとは知らなかった。
"オープン・フィールド"の中に入ってみたい。
[2005/10/10]
直島の地中美術館ができてから直島に行っていない。
タレル好きとしては地中美術館に行かねばなるまい。
ということで、来年の春に向けて2泊の旅行を計画中。
資料をプリントアウトしてにらめっこ。
初日、15時に直島到着、タレルのオープンスカイか文化大混浴。
二日目、家プロジェクトと地中美術館で夕方まで、夕方からタレルのオープンスカイか文化大混浴。
三日目、朝は地中美術館、午後から帰りの移動。
[2005/10/8-9]
池上本門寺のお会式の10月12日(水)の万灯練り行列での太鼓。
東京写真美術館で10月1日(土)から11月13日(日)までの「恋よりどきどき:コンテンポラリーダンスの感覚」と「ローザスとアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの25年」。
ICCで10月21日(金)から12月25日(日)までの「アート&テクノロジーの過去と未来」。
それから、横浜トリエンナーレに行って、横浜をぷらぷらしたいな。
[2005/10/5]
ステレオグラムが魅力的に見えるのは、両眼視差によるステレオ視なので、通常の立体視の条件の多くが崩れているからだと思っていた。
例えば、水晶体の焦点調節とか、輻輳角という両目の寄せ方とか。
しかし、単純に条件の崩れというより、その崩れによる何らかの顔面フィードバックからの感情の変化があるのかもしれない。
例えば、両眼を寄せたときと離したときで感情が変化するとすれば、ステレオグラムで交差法で見た場合と平行法で見た場合で、同じように見えるように調整されていたとしても、違った風に見えるのではないかと思う。
[2005/10/4]
今日はサイクリングも兼ねて、友人の作ってくれた風鈴イベントのDVDを、池上本門寺に渡しに行ってきた。
途中の多摩川の川原には彼岸花。
子供の頃は庭にたまたま生えていた彼岸花の鮮烈な赤が神秘的に見えた。
本門寺に着くと、10月だというのにまだセミ(ツクツクボウシ)が鳴いている。
片隅では、ボーイスカウトの子供達が、お坊さんの指導の下、お会式の太鼓の練習をしていた。
良く聴くと、このリズム、なかなか難しい。
人ごみは大嫌いだけど、12日の夜からの太鼓の音は聴いてみたいな。
例によって、売店に立ち寄り精進アイスを食べた。
売店の人は顔を覚えていてくれて、制覇した精進アイスの中で、さっぱりしてもう一度食べたかったマンゴーを食べた。
それから、池上会館の展望台でコンビニで買ったパンを食べた。
展望台からは境内のうっそうとした木々、夜にはライトアップされる五重塔、下の方にはお墓が見える。
死んだら焼き捨ててもらうつもりなので、何で多くの人はお墓を作りたがるのだろうかと思った。
基本的には、仏教思想の死生観を受け入れるかどうかで、お墓は二次的なものではないかと思う。
現世での苦しみ、昔は物質的な苦しみに隠れていた精神的な苦しみが、今はもろに出てきていると思う。
それを癒すのは感性的なものなのか、医療やカウンセリングのような治療的なものなのか、それともそもそも癒すべきものではないのかもしれない。
最後に、風鈴イベントの聴覚的な中心だった仁王門から此経難持坂(シキョウナンジザカ)に立ち寄った。
今日も此経難持坂から強い風が吹き上がってきていた。
この空間を3次元的に風鈴で埋め尽くせて、階段を登って空に駆け上がっていく風を感じられたらなあと思った。
[2005/10/2]
友人が『500個の風鈴の音を聴く』のDVDを作ってくれた。
実は彼がフライヤーも作ってくれている。
むちゃくちゃ嬉しい。
おまけに綺麗なジャケットも付いている。
これは本門寺でお世話になった方にも配らねば。
[2005/10/1]