家の二階に上がる吹き抜けの空間、マーク・ロスコの作品のポスターで埋め尽くされている。
知り合いのキュレータが言っていた、ロスコを好きな人は精神的に危ないと。
[2005]
1994年に観たヤン・ファーブルのダンスの作品「時間のもうひとつの側」のポスター。
この作品は最後に大量の白い皿が天井から落ちてきて割れ、白く光る破片の中を女性ダンサーがポアントで踊るというものだった。
この年に始まった神奈川芸術フェスティバルはもの凄い振付家達を呼んでいた、
ヤン・ファーブルの他にウィリアム・フォーサイス、勅使川原三郎、ダムタイプ、フィリップ・ドゥクフレ。
[1994]
コンピュータ・グラフィックスの研究を始めた頃、William
Lathamの彫刻的な作品が好きで、作品を買えないかと問い合わせた。
送って貰ったカタログから気に入った作品を知らせたら、英国からエージェントが写真に焼いた作品を持ってきて、ホテルのバーでポンドの現金で支払った。
[1991]
米国のSiggraphに相当する欧州のコンピュータ・グラフィックスのEurographicsという学会に参加するために、1991年にウィーンなどに行ったときに買った版画。
このときは社長と一緒に行ったので、ドイツのフランクフルトから欧州に入って、オーストリアのウィーンの他に、スイスのレマン湖、フランスのパリに立ち寄るという豪勢な旅だった。
Eurographicsはこじんまりとした学会で、ウィーンの王宮の一部で開催された。
王宮の中のショップで買った版画(左)と、近くのギャラリーで買った版画(中)は、いずれもウィーンらしい陰翳のあるところが気に入った。
しかし、飛行機に乗るときには、これらを入れた筒が怪しまれて、足止めを食らうことになった。
パリのギャラリーではフランスらしい版画ということで、女性のヌードのリトグラフ(右)を買った。
[1991]
銀座のワシントン靴店で開催された「ディジタルイメージ1991展」で買った楜沢順さんの「Silent
Noise#1」。
楜沢さんとは、後にSIGGRAPHのアートギャラリーに出展したときに再会した。
記憶違いかもしれないけれども、実はこのときにもうひとつ気になった作品が、C社のプリンタを使った安齋利洋さんの面白い質感の赤い裸婦の作品。
[1991]
ハワイの美術館で買ったO'Keeffeのポスター、海一面に流氷がほわほわと浮かんでいる。
[1990]
人工知能の研究をしていた会社を辞め、新しくコンピュータ・グラフィックスの会社に転職を決めた。
転職前にゆっくりしようと考え、1ヶ月は無職でハワイに遊びに行った。
ハワイではワイキキの古いホテルに泊まり、ギャラリーに遊びに行ったりした。
近くの高いギャラリーには、ホアン・ミロの黒をベースにしたリトグラフがあり、お気に入りだったがとても高くて買えなかった。
観光客向けの安いギャラリーには良く遊びに行ったので、日本人向けの通訳を頼まれたりした。
そこには当時としては珍しくコンピュータ・グラフィックスの作品も置いてあった。
Rodney Changという作家の作品は面白かったので購入しようとしたら、そのお姉さんのSylvia
Looという人に紹介され、Rodneyの家に作品を見せてもらいに行き、スープまでご馳走になった。
そこで購入したのがこの4点、左から"Island
Comforts"(1986)、"Behaviorists"(1986)、"Computer
Space"(1986)、"Pompei"(1987)。
写真に焼いたものとシルクスクリーンがあり、すべて写真を買おうとしたが、"Island
Comforts"だけは本人が譲ってくれずシルクスクリーンにした。
支払いは現金のみということで、持って来たお金を数えたら、ちょうどぴったりだったので、みんなでマジックだと驚いた。
[1990]
駒井哲郎、「岩礁にて」
(1970)
思春期ぐらいから駒井哲郎などの銅版画が好きになり、銅版画入りの豪華本を買ったりした。
今でも覚えているのは、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』の豪華本、駒井哲郎の版画が入っていた。
駒井哲郎も埴谷雄高も好きだったものの、この版画は気に入らず売り払ってしまった。
この絵は筑摩書房の現代版画シリーズの『駒井哲郎』に入っていた版画。
(1972)
思春期の初めの頃、このまま日本にいてはいけない、何か新しい体験をしなければと、多様な年齢の子供達による米国への体験旅行に参加した。
その体験は強烈で、と言うか、米国での生活に強い憧れを持った。
そして、その想い出が消えないように、帰ってしばらくは、雨戸を閉めて家の中に引きこもってしまった。
これは昔のロサンジェルスのディズニーランドの売店で買った絵、海岸に一人の少年が背を向けて座っているもうひとつの絵の方が気に入っていたが、お金が足りなくて買えなかった。
生まれた家にあった絵。
大きな会議室にかかっていた。
会議室と呼ばれていたけれども、実際に会議をしているのは見たことがない。
南側にアップライト・ピアノがあり、その上には古めかしい風景画、東側の押入れの上の壁には噴火した山が描かれた大きな絵が掛かっていた。
西側には出窓とソファがあり、ソファで飛び跳ねると、東側のドアがガタガタいうのが面白くて良く飛び跳ねた。出窓にはステンドグラスがはめ込まれていた。
窓はすべてとても重く網戸が入っていた。地表に出てきたばかりのアブラゼミの幼虫を父が捕まえてきて、この網につかまらせたことがあった。初めて見た羽化したばかりの成虫は、真っ白で緑の血管がとてもとても綺麗だったのを覚えている。
北西側には赤い煉瓦の暖炉、その裏の応接間にも暖炉があった。いつの頃からか、暖炉の上には祖父がオーストラリアで買ってきた夕焼けに染まったヨットハーバーの大きな絵があったけれども、この絵は安っぽかった。
暖炉はずっと使われていなくて、一度使ってみたいと思っていた私は、あるとき新聞紙をそこで燃やしてみた。するとパチパチという音とともに凄い勢いで火が煙突の方まで広がり、中にたまっていた木の葉がパチパチと燃える音がして、火事になったらどうしようとものすごく焦った。幸いなことにしばらくすると火は消えた。
会議室の真中には、以前には土間に置いてあった正方形のテーブルを二つ並べて卓球台になっていた。卓球をしたことがあるのは覚えているけれども、誰としたかの記憶がない。
ある夜、卓球台の横に黒いネズミがいて、それを思いっきり蹴飛ばした。幼心には自分は凄く勇気があると思ったものだが、どうやら蹴飛ばされる前に既に死んでいたのではないかと思う。
会議室に泥棒が入ったことがある。朝起きて会議室に入ると、引出しがすべて開いていたので、閉めなければと思ってすべて閉めたら、後で警察が来て指紋をとったときに、べたべたと指紋がついていたらしい。子供の頃は本当に几帳面だった。