この間、藤幡正樹さんというメディア・アーティストの"Nuzzle
Afar"という作品がICCで展示されたときに、それに関するレクチャーを聴いてきました。
藤幡さんは仮想世界の性質は現実世界の性質とは異なるのだから、仮想世界での身体性も現実世界での身体性とは異なるべきだと考えています。例えば、仮想世界では移動に時間がかからないので足はいらないといったようにです。
そして、今回の作品もインタフェース機器はトラックボールだけ、アバタ(仮想世界の中の自分の分身)も球体でした。
しかし、アバタは動いた軌跡を空間に線として残していき、その軌跡の最初には尻尾のようなものがついていて、それに他のアバタが触れると軌跡を辿ることができます。
つまり仮想世界に残されたある人の痕跡から、その人の追体験ができるわけです。
このように仮想世界での身体性が現実世界の身体性と異なれば、例えば設計する仮想世界の構造も当然のように現実世界とは異なってくるはずです。
ご存知かもしれませんが、最近の物のデザインにはアフォーダンスという心理学の概念が用いられています。
アフォーダンスというのは人間の行為を誘導するような性質です。
例えばドアの場合、それが押したり引いたりするだけで開閉するドアであれば、良いデザインでは引く方には手を入れて引っ張れるような取っ手がついており、押す方には基本的には何もついていないはずです。
もし、押す方に取っ手のようなものがついていれば引っ張ってしまう可能性あるからです。
さて、このような考え方に基づくと、仮想世界のドアには取っ手は必要ありません。
そもそも仮想世界に手そのものが入らないから、手によるアフォーダンスが使えないからです。
しかし、彼が採用していた窓にぶつかることにより隣の部屋に行く方法では、うまく隣の部屋に行けなかった人もいたらしいです。
これは現実世界とのアナロジーが取れなかったためです。
従って、どのようにしてどのような新しい身体性を導入していくかは難しい問題だと思いました。
彼はこの100年ぐらいでこういったインタラクションの方法論が確立されていくだろうと考えています。
現在のVRは現実世界での身体性を仮想世界でも実現しようとして、インタフェース機器の開発に四苦八苦しているわけですが、うまく新しい身体性を呈示できれば現在レベルのインタフェース機器でも十分に面白いことができるのではないかと思います。
すべての世界は結び付いている、それはささいな結び付きかもしれないが、大量に結び付くことにより複雑な系を構成し、興味深い現象を見せてくれる。
<背景>
●閉じた世界はつまらない
インターネットは物理的に繋がっている、ウェブページはリンクで繋がっている、それだけ。
インターネット上のデータが結び付いて相互作用するようなものはあるのか?
●VRMLによるバーチャル・ワールドとは?
ワールドと外部との結合はユーザを通したリアル・ワールドとのインタラクションのみである。
●VRMLによるマルチユーザ・ワールドとは?
シングルユーザ・ワールドに加えて、ユーザ同士のインタラクションがある。
個々のユーザのワールドは別ワールドで、これらのワールドがコミュニケーション・プロトコルにより密結合している。
シングルユーザ・ワールドもマルチユーザ・ワールドもユーザとのインタラクションを除けば閉じた世界である。
インターネットを通して世界(リアルワールド)を感じること。
(リアル・ワールド→)インターネット→バーチャル・ワールド→ユーザ
<目的>
インターネットを通して(部分)世界を結合して相互作用させること。
ワールド←→インターネット←→ワールド
<実現方法>
インターネット上のデータに反応する開かれたワールドを結合する。
●反応する開かれたワールドとは?
ワールドとは内部状態を持ったインターネット上のプログラム。
インターネット上のデータを入力として、その入力データを解釈して、ワールドの内部状態に反映させ、ワールドの内部状態からインターネット上に新たにデータを出力する。
別のワールドの出力データを入力とすること、出力データが別のワールドの入力データとなることにより、複数のワールドが間接的に結合される。
2つのワールドにおいて、一方の出力データが他方の入力データとなり、一方の入力データが他方の出力データであるとき、2つのワールドにフィードバック・ループが形成される。
ひとつの反応する開かれたワールドにより、リアル・ワールドから取り込まれたインターネット上の入力データを用いて、最終的には出力データまで生成したものがSensoriumで用いている方法である。
●インターネット上の入力データ
インターネット上でアクセス可能なすべてのデータ。
常に変化し続けるものが望ましい。
リアル・ワールドから取り込まれたデータ、バーチャル・ワールドから生成されたデータ、プログラムにより生成されたデータ、ユーザにより生成されたデータなど。
テキスト、画像、音など。
●入力データの解釈と内部状態へのマッピング
入力データは単なるデジタルデータであり、入力データの解釈は、そのデータが生成されたときの解釈に従う必要はない。
また、内部状態へのマッピングは、そのデータが生成されたときの内部状態からデータへのマッピングに従う必要もない。
例えば音のデータを画像として解釈しても良いし、画像のデータを内部のマテリアルの反射特性にマッピングしても良い。
●内部状態から出力データの生成
●インターネット上の出力データ
出力データはインターネット上からアクセス可能にすることにより、このデータが入力データとして別のワールドに取り込まれる可能性がある。
●何故、コミュニケーション・プロトコルによる密結合でなく疎結合なのか?
できるたけ多くの多様なワールドを結び付ける、結び付けられるワールドの負担を軽くする。
将来的には疎結合を補完するものとして密結合。
<プロセス>
これは新しい技術ではなく、新しい運動であり、どうやって広めるかが重要である。
できるたけ多くの面白いインターネット上のデータを集めて、普及のためのウェブサイトに置く。
いくつかの反応する開かれたワールドを制作して、普及のためのウェブサイトに置く。
ユーザにより制作された反応する開かれたワールドにより生成されたデータを、普及のためのウェブサイトで紹介する。
リンク先、データの内容、(データを標準的に取り出すためのJAVAのクラス・ライブラリ)
面白いワールドを制作するためのノウハウを、普及のためのウェブサイトに置く。
<問題点>
疎結合にしているためにリアルタイムの変化を取り込めない。(リアルタイム性よりも広がりを重視)
セキュリティの問題から結合は一方向、2つの結合で相互作用を実現する。
面白い入力データを生成できるか?
VRMLのバーチャル・ワールドの場合にはリアル・ワールドとの結合はユーザのみ。
ユーザがいないときにはデータは変化しないか、単調なものになり易い。
VRMLのバーチャル・ワールドの場合には内部状態の変化が記憶されず、ワールドの立ち上げ時にリセットされるものが多い。
本当に複雑系を形成するのか?
「トロバール・クリュス」の棺桶に入ってきました
:-)。
瞑想状態には今一つ入り込めなかったけれども、ゼリーの感触はひたすら気持ち良かったです。
《トロバール・クリュス》
3月6日の土曜日の「トロバール・クリュス」に観客として参加するとともに、閉館後に被験者として実験的に体験してきました。
「トロバール・クリュス」の被験者は、応募者の中から審査により選ばれるのですが、147通の問い合わせ、49組の応募の中から4組が選ばれました。 私は3月6日の被験者の補欠候補となり、水戸芸術館で待機しなければならないかわりに、希望すれば閉館後に実験的に体験できるというものでした。 アーティストの意図としては、多くの観客の前で体験することにより被験者にプレッシャーを与えることも大きな要素なので、閉館後の体験は実験的なものなのです。
残念というか、ほっとしたというか、本番の被験者は無事に現れ、私は閉館後に体験できるということになりました。 というのは、体験は全裸の方が良いと書いてあったので、本番の被験者に昇格したらどうしようかと思っていたのです。 (裸になるのは抵抗ないけれども、私の裸なんか見せられる観客が気の毒で :-)。
〈観客として2回目の体験〉
昨年の11月22日に行なわれたスペシャル・プレビューに次いで、観客として2回目の体験でした。 しかし、今回は前回とはまた別の感覚を味わってきました。
会場はそれほど広い部屋ではないので、会期の最後の週末ということもあり、かなりの人込みで部屋の中の床の上にはぎっしりと人が座っており、座り切れない人は入口や出口の付近の通路に立っているという状態でした。従って、観客はリラックスした状態で見るという雰囲気ではありませんでした。まあ、偉い人のお葬式ならこんな混雑になるかも知れませんね :-)。
少なくとも視覚的に被験者に近い体験をしようとするなら、床の上に寝ころがって見るのが良いようです。実際に閉館後の私が被験者のときには、水戸芸術館の人やボランティアの人など少数の観客しかいなかったので、寝ころがって見ていた人もいたようです。
「トロバール・クリュス」は日没時の微妙な光を利用して行なわれるため、今回は5時半に開始されました。
前回は水槽のかなり近くの、水槽に登るための梯子の近くに座って、水槽の横から眺めていました。従って、水槽の内部が良く見えないことや、直接水槽を見ようとすると、ストロボの光が眩しいので、壁に移った光や影を中心に見ていたのです。
ところが今回は水槽の被験者の足下の方から眺めたので、水槽の中が下のガラス面を通して非常に良く見えました。そして、ストロボの光が眩しいのを無視して、目を大きく開けて直接水槽を見ました。
目を大きく開けて見たために、モワレの様なストロボの光の残像が非常に面白かったのです。ストロボの点滅のパターンが前回と違うように感じたので、後で松本さんに訊いたところ、パターンは毎回変えているようです。
また、水槽の中の被験者はホルマリン浸けの死体のようで、ストロボの光が被験者の上部や下部などいろいろなパターンで光るために、光に包まれた被験者そのものや、被験者のシルエットが空中に漂っているようで非常にきれいでした。また、ゼリーが掻き混ぜられ砕かれているために、砕けたゼリーの境界面で光が反射してキラキラと光っていました。
今回の被験者は若くてきれいな女性だったのですが、足を動かしたり、少し横向きになったり、良く動いたのが不思議な感じでした。(審査で私の方が補欠にされたのは当然だと納得してしまった ;-) この被験者は体験前もプレッシャーを感じるどころか、笑顔を浮かべて楽しそうにしているのが可笑しかったです。こんなに動いたら瞑想状態には入れないのではないかと、私はこのときに思いました。
〈被験者としての体験〉
水戸芸術館のロビーに約束の時間に集合したときに、我々被験者は控室に通され、そこから歩いていく道順を教えてもらいました。水戸芸術館の裏側はまるで迷路のようで、裏側を見られただけでも収穫だと満足しました。
本番終了後に私はバスローブをまとい、サンダルだけを履いて控室に待機し、時間が来ると水戸芸術館の人に案内されて迷路のような館内を歩いていきました。 もう一人おじさんが私の後に体験するとか言って、一緒になりました。水戸芸術館の館長さんでした。
私が被験者のときは日没時の明るさを利用できないので、隣室とのカーテンを少し開けて漏れてくる人工の光の中で梯子を登り、水槽のゼリーの中へ入って行きました。閉館後すぐに入ったせいか、ゼリーの表面は冷えてはいましたが、足から入っていくと、意外にもゼリーの内部はまだ充分温かでした。
と言うのは、このゼリーは砂糖30kgにゲル化剤と水を加えたもので、毎回早朝に水戸芸術館にあるレストランで作り、水槽に流し込んでおくと、夕方にちょうど冷えて人間の体温に近くなるそうなのです。表面は冷えて固まるのですが、内部はなかなか冷えず、これを本番前に掻き混ぜるのです。従って、閉館後の私の体験の時間ではゼリーが冷えてしまっているのではないかと予想していたのです。また、体験後のゼリーの処理は、言われてみれば納得なのですが、トイレに流してしまうそうです ;-)。
さて、通常ゼリーなどはベタベタするものなので、手とかに付くと気持ちが悪いものですが、このように体全体を包み込まれると、そういうローカルな(?)感触は全くなく、柔らかく包み込まれるような感触が非常に気持ちが良いのです。(人肌とどっちが良いと言われたらどっちだろう :-) お風呂のさらさらとした水の感触とは全く違います。
とにかく、ゼリーの内部に入り込むことが大切だと思ったので、横たわると回りにあるゼリーを掻き分け、手で身体の上に持ってきて身体を沈み込ませました。観客として見たときに書きましたが、入ってみるとゼリーは均質ではなく、なめらかな部分に冷えて固まった部分が混じっています。
耳までつかると音も遮断されて、耳を出す場合とは異なった感じ方ができると言うことだったので、頭をゼリーの中に押し込んで耳まで浸かるようにしました。しかし、外からの音がかなり入ってきたことから、後で考えたところ私の短くはない髪が邪魔して耳を完全に被うことができず、髪の間に保持された空気を伝わって外からの音が入ってきたようです。
まあ、こんなものかなと思って、動くのをやめると、それが合図でストロボが点滅し始めます。被験者のときはストロボの光が強すぎるので、目を閉じなければならないのですが、瞼を通して入ってくるストロボの光のモワレのパターンが面白かったです。観客として見たときは白いモワレなのですが、被験者のときは瞼を通して見るので、目を閉じて太陽を見たときに経験するような赤いモワレがいろいろな形に変化していきます。
しかし、ゼリーの上に浮かんではいるのだけれども、ゼリーが下から押し上げてくる感じが強く、気持ちの良い浮遊状態(精神の安定状態)から放り出される感じが強くなり、予想していたような瞑想状態には今一つ入り込めませんでした。これは精神的に疲れているときに、どうしても眠れない感じに近く、眠ろうとしても睡眠状態から押し戻されるような感じでした。さながら、成仏できずにもがいている死者のようだと思ってしまいました。
私は身長が177cmなので、爪先まで伸ばすと足の先と頭が水槽の壁に触れてしまうのも、瞑想状態に入れなかった原因のひとつかも知れません。(応募要項では180cm以下なら大丈夫のはずだったのです)
そこで途中から瞑想状態に入るのはあきらめて、ストロボの光のモワレのパターンを楽しもうとして、たまたま手を動かしたところ、これが非常に面白いのです。
柔らかだと思っていたゼリーの粘性が強く、身体にまとわりついて動かないのです。動かそうとしても、押される感じはないのに、不思議に思うように動かないのです。それが、ある限度を越えるとジュルっと一気に動いていきます。もっと動いて遊んでみようかとも思ったものの、死体がもぞもぞと動いているのも変だという思いが掠めたために、あまり動けなかったのは残念でした。
今回のワークショップの意図からはずれるけれども、全くの個人スペースでこういうゼリーの中で思う存分遊んでみたいと思いました。(と言ったからって、お風呂でゼリーを作らないように :-)
砥綿さんには体験前に「ゼリーの中で自由に遊んでもらって良いですよ」と言われたにもかかわらず、死者はじっとしているべきかなと思ったことと、動かない方が瞑想状態に入れるのではないかと考えたのは失敗でした。
何よりも「ディヴィナ・コメディア」の写真を初めて見たときから、どうしても「トロバール・クリュス」を体験したいという思いが強すぎて、入ったときの状況を空想しすぎて、頭でっかちになっていたのが最大の敗因でした。
どのアートに関しても言えることですが、何も知らない状態で自分の感性そのものだけで作品に触れることは非常に重要だと思います。もちろん、その後でアーティストのその作品に対する思想を調べてから、もう一度同じ作品に触れることも大切だし、最初の感じ方との違いを分析することは面白いと思います。
11月22日の日曜日に、1992年11月21日から1993年3月7日まで水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されている、
水戸アニュアル'93
「アナザーワールド・異世界への旅
(あるいはヴァーチャル・リアリティからの逃走)」、
および同日に行なわれた、
ワークショップ
「トラバール・クリュス」
スペシャル・プレビュー、
に行ってきました。
水戸芸術館までの行き帰りにそれぞれ3時間強もかかってしまったけれども、企画展でこれだけ面白かったのは久しぶりでした。なかでもRichard Wilsonの"20:50"は本当に素晴らしかったです。作品についての細かい情報はカタログに記載されていると思い込み、作品の解説の詳細は読まずに見てきており、記憶に頼って書いている部分も多いので、間違っているところがあるかも知れません。
また、カタログはまだvol.1しかできていませんでした。vol.1には本展覧会に関する解説、および作家・作品に関する解説などが記載されています。本展覧会に出展されている作品がすべて紹介されていないのが難点ですが、内容的にはかなり濃いものだと思います。vol.2には詳細な作家経歴と文献リストが記載されているようです。
[古来はリアリティとは間近に見て触れてみることだった。現在のリアリティはテレビジョンにより空間的に拡張され、ビデオにより時間的に拡張され、やがては計算機世界と物理世界の融合により、バーチャルなものもリアリティとして受け入れられるだろう。]
といった具合に、最近ではVR(バーチャルリアリティ)に代表されるように、情報化、ハイテクノロジー化の波が日常生活のリアリティを変えつつあり、それと引き換えに我々は"もうひとつの世界"を失いつつあります。このような危機感から本展覧会は企画され、日常を異化し、精神的で想像力に満ちた"もうひとつの世界"、すなわちアナザーワールドへと転換させることを目的としているようです。また、『この展覧会は東西の価値観を横断する試みとして、中心に葛飾北斎、ロスコの二人が置かれている。両者に共通するのは精神的で、我々を畏怖させ、崇敬の念を喚起させるような美、超越的な存在を描き出そうとするその態度である。[長谷川祐子学芸員]』そうです。
さて、第1室にはインド生まれでロンドン在住のAnish
Kapoorの作品が展示してあります。この作品は青い石のようなオブジェが、龍安寺の石庭のような感じで部屋の中に散在しています。この青は石の上に吹き付けられた顔料で、ビロードのように柔らかく拡散反射します。
A.Kapoorはこの作品の他には、建物の床などに穴を空けるような作品を中心に作っているようで、彼の青は以下のような意味を持つようです。
『鮮やかな青は、彼によれば大地の色である"赤"の一種であるという。それは影、闇をつくる色でもある。無限の穴の内側にはこの青が用いられている。(中略) 彼の用いる顔料(パウダー)は光、発光体のメタファーである。それは”影の光”とでもいう感覚に近い。[長谷川祐子学芸員]』
第2室は葛飾北斎の木版画ですが、私はどうもこういう作品は苦手なのでパス。
第3室は1984年に結成され、現在はジャン=フランソワ・ブラン(Jean Francois Brun)とドミニク・パスカリーニ(Dominique Pasqualini)によるフランスのIFP(Information Fiction Publicite)というグループの作品が展示されています。平べったい円柱の底面に青空と雲の写真を張ったものが、円柱内に入っているライトに照らされて、あたかもそこに空があるような感じで、部屋の中央上方にある天窓から五段重ねで吊り下がっています。まさに空が降ってくるという感じ。
また、部屋の端の方には「トラバール・クリュス」で用いられると思われる透明なゼリーで満たされたガラスの水槽が、私の背の高さぐらいのところに支えられていました。「トラバール・クリュス」については後述します。
第5室にはロシア生まれのMark Rothkoの作品が展示されています。M.Rothkoの作品は画面に柔らかな矩形状の色面が水平に浮かぶような抽象的なもので、今回は黒を基調としたもの(「Number 5(1964)」、カタログではほとんど真っ黒)、暗い赤を基調としたもの(「Number 11(1957-58)」)、黒の上に赤からなるもの(「無題(1961)」)、というほとんど同じような構図の作品が展示されていました。1978年にニューヨークで開催されたM.Rothkoの展覧会のポスターで、上部に紫の色面、下部に橙色と黄色の色面があり、中央の黒い帯で分断されているものをたまたま私は持っているのですが、M.Rothkoの暗い色の作品はこれまで見たことがなかったこともあり、かなり気に入りました。ヒューストンのロスコ・チャペルには、彼の最晩年の作品である大壁画があるそうで、ぜひ見てみたいと思ってしまいました。
第6室に入るドアおよび出るドアはガラスの上に青い塗料が塗られていて、その塗料が削り取られて耳の模様が描かれています。そして、第6室には天井から高さ9m、幅18mぐらいの大きなシルクの布が垂れ下がっていて、その上には青いボールペンでびっしりと線が描かれているという、ベルギーのJan Fabreの作品が展示されています。この作品は部屋の上部に換気孔があるためか微妙に揺れており、その反対側には昆虫(蜘蛛)を使ったオブジェがガラスの標本箱の中に入れて展示されています。(ファーブル昆虫記か? :-)
J.Fabreの表現している《青の時間(heure bleue)》とは、『深い沈黙の短い時間、嵐の前の凪の時間であって、夜に生き物が眠りについてから昼の生き物が甦るまでの間である。この深い沈黙こそわたしが青いドゥローイングで表現しようとしているものである。...... わたしは青とともに青のうちに生きる。そしてまた永遠とともに永遠のうちに生きる。』だそうです。
カタログvol.1を見ると、Christoではないけれども、城の全ての壁面を青いボールペンの絵で被った作品とかもあるようです。カタログに載っている部屋中が青いボールペンの絵で被われている「青い部屋(Der Blaue Raum)(1988)」の写真にはすごく惹かれるものがあります。
第7室は今回の展覧会の中で、あるいは最近見た作品の中で最も気に入ったイギリスのRichard Wilsonの"20:50"という作品です。これは1987年2月にロンドンのMatt's Galleryで最初に展示された作品だそうです。
入口から部屋の中に先端が細くなっている三角形状の鉄製の通路が張り出しています。見たところ通路は高いところにあり、通路の外側下方にも何かあるように見えます。
ところが入ってみるとびっくり、この部屋は廃油を張った鉄製のプールで、通路の腰まである手すりの外側には廃油が目一杯たたえられていて、私が下方に何かあると思ったのは廃油の表面で鏡面反射した天井だったのです。確かに、部屋の外には消化器や火気厳禁の表示があるし、廃油で服を汚さないようにという注意書きがあるのですが、どうしてもそれは反射しているようには見えないのです。廃油は黒いので良く反射するのだろうけれども、完全には反射しないのでこの世のものとは思えないような不思議な暗さを持った空間が広がっています。普通の鏡とは全く違うし、よくある黒っぽい鏡とも違う。恐らく廃油の液面が非常に滑らかであることと、表面だけでなく内部でも一部反射しているのかも知れません。
とにかく、三角形の通路の先端に行き、下方(廃油の表面)を覗き込むと、高いという感じでもないのだけれども、とんでもなく不思議な場所に立っているような気になります。廃油に反射して映った天井だとわかっていても、気の遠くなるような、引き込まれていくような感じをぬぐい去ることができません。廃油の表面に息を吹きかけると表面が揺れるので、やっと我に返ることができますが、揺れが収まるとまた引き込まれていくという感じです。通路の先端は人が一人ぎりぎり立てるぐらいなので、私はもう少しでバッグを廃油の中へ浸けてしまうところでした。でも、水戸芸術館のきれいな女性が注意してくれます ;-)。
カタログの写真にも1987年に制作されたものの写真が載っていますが、こればかりは実際に通路の先端に立ってみないと絶対にわからないと思います。特に水戸芸術館の部屋は天井が高かったので余計に効果が大きかったようにも思います。ただ、備え付けの電話機が廃油で真っ黒になっているのは哀れでした。(展示が終われば取り替えるんでしょうね)
カタログにR.Wilsonが"20:50"について以下のように書いています。
『「20:50」に入った観客は逆転した世界を見る。それは現実であるが、逆さまに変えられた世界である。現実世界はオイルに反射して変容したのである。「20:50」を制作中、新しい世界を探求するということはまったくなされなかった。ただ、われわれの世界を今までと異なったしかたで見ようとし、既知とされる世界との調和を再確認するとともに、われわれが知っていると思っていることについて反省しようと試みた。われわれは廊下に足を踏み入れる。そこは現実で芸術家の手が提示される。ここから現実を限る鉄の通路は上昇し狭まっていく。そしてついにそのわれわれに対する誘導作用は果てしないアナザーワールドの中に消える。ここ、狭い現実空間に閉じ込められて、われわれは向こうに、われわれの世界と似ているが途方もない、何もかもあべこべのアナザーワールドを見下ろすのである。この世界に転落する恐れは廊下の壁によってひとまず遠のく。この廊下からはわれわれの既知の世界に対するわれわれの関係が規定され制御される。われわれはまさに自分の意志どおりに動いて、行為という意識の全くない世界の中に姿をくらますまでそろそろと進んでいくことができる。恐怖と驚嘆と(の両極)はわれわれを作品の中に連れこみ、またそこから連れ出す。(R.Wilson)』
第7室から第8室へ向かう暗く細長い廊下(?)では、京都市立芸術大学の出身者を中心として1982年に結成されたDumb Typeによる反復と突発性を主題とした作品が展示されています。この作品は腰ぐらいの高さのところにレールが張られており、その上を2つのものが移動しています。ひとつはプロジェクタを乗せたもので、壁の一方には裸体の胸が、もう一方には数字がびっしりと投影されていました。プロジェクタがレールの上を移動した距離と同じだけ映像も動くので、プロジェクションではなく暗い部屋の中に実際にあるものが、スポットライトで照らし出されているように感じられます。もうひとつはレールの下にぶら下がったもので、赤いレーザーが壁に照射されるとともに、同時に虫の音のようなキュキュという音も鳴っていました。これらのものは時速40kmで動くという話でしたが、そのときはビデオで撮影中だったためかかなり遅く動いていました。
第8室ではイタリアのFrancesco Clementeの確か"The Indigo Room (1983-84)"という青を基調とした作品が部屋の周囲に展示されていました。作品は濁った青の上に墨のような黒いもので描かれているのですが、インクの匂いなのか、動物園のような臭い匂いがきつくて私は絵を見るどころではありませんでした。
第9室では、コンプレッソ・プラスティコのメンバーの平野治郎、精神科医でありサウンドアーキテクトであるユン・ドッサ、作曲家で編集者である谷崎テトラの他4人によって1992年に結成されたユニットLSX(light speed institute)による「触覚、視覚、全てにおよぶ意識変容装置」が展示されており、実際に体験することができます。
この装置は、ヘルメット、アイフォン(眼鏡型ディスプレイ)、いろんな機器が入っているランドセル状の箱、グローブ、(ジョギング?)シューズから構成されています。ヘルメットには、アイフォンに立体映像を提示するための2つのカメラ(とても小型とは言えない監視カメラ?)、1本のマイク、およびヘッドフォンが付いています。手袋にはアクチュエータが付いていて、シューズのコンタクトマイクから拾った音が振動に変換されて伝えられます。(一種の触覚ディスプレイ)シューズにはコンタクトマイクが付いていて、この音はヘッドフォン、手袋のアクチュエータ、アイフォンに送られます。アイフォンには両眼用の液晶ディスプレイが2つ付いており、バックライトの換わりにストロボが使われており、シューズのコンタクトマイクの音により、ストロボするようになっています。従って、カタログに書かれているように『あなたの足が地面につく ......そのインパクトの瞬間のみ、あなたは外界を知覚することができます。』ということになります。これを付けた人が展示室内を歩いている様子は一種異様なものがあります。私はたまたま使っている人がいたこともあるけれども、こういう拘束性の強いものは苦手なので試してみませんでした。
これはVRではない、と彼らも書いているように、この装置は計算機により構築されたバーチャルワールド(計算機世界)を体験させるものではなく、拡張された感覚器を通して、拡張された物理世界、すなわちアナザーワールドを体験させようというものです。今回の展示の中で、21世紀の技術を前提としたアナザーワールドを示唆していた点で非常に面白かったものです。
21世紀のヒューマンインタフェースに関わる技術の中で主流となるのは、VRのように計算機世界に人間が入り込むのではなく、計算機世界を物理世界に取り込むことによって物理世界を拡張するというaugmented realityやubiquitous computingの考え方だと言えます。そういう意味でも、この装置は私にとって非常に共感を覚えるものでした。
第3室で4時半から5時過ぎにかけて行なわれたのが、砥綿正之と松本泰章によるワークショップ「トラバール・クリュス」のスペシャル・プレビューでした。(私が今回水戸芸術館に行ったのはこれを見るのが目的!)
前回の「ディヴィナ・コメディア」から「トラバール・クリュス」でリファインされたのは以下に示す点だそうです。
『リファインされるのはまず被験者が一人という設定(そもそも死は一人で迎えるものだ)と観衆の想定による負荷の増大、秘儀めいた安堵感のある黒という空間から開かれた不安な白い環境へ、さらに音を取り除くことで被験者を委ねどころの無い闘争的なフィールドに置くという点だ。[黒沢伸]』
さて、「トラバール・クリュス」は暗くなるのを待って始められました。
ただし、IFPの作品のライトは点いており、相変わらず青空が天井から降っているような状態のままです。
金属のパイプによって2mぐらいの高さに支えられ、透明なゼリーで満たされたガラスの水槽には、4辺の角と中央にストロボが付いており、それが水槽の上部と下部に合計16個あります。ストロボから引かれたケーブルは、ストロボ、室内照明、スピーカなどをコントロールする装置に繋がれています。
「トラバール・クリュス」は最初うねるような発振音風の響きによって始まります。
これは昔の小杉武久などによるタージマハール旅行団の音楽に近いものです。
音楽が終わると、部屋の入り口から黒いパンツをはいた筋肉隆々の黒人モデルが登場します。モデルは水槽の近くで黒いパンツを脱いで真っ裸になり、水槽に架けられた金属製の梯子を登り、そして水槽のゼリーの中に身を沈めます。と、IFPの作品のライトが消されて室内は真っ暗となります。彼の身体がゼリーの中に沈むときの、チュルチュルというような音だけが聞こえてきます。
すると突然、線香花火のような感じでチカチカとストロボが点滅し始めます。
次に一定のリズムでいくつかの組合せのパターンでストロボが点滅し、さらには天井のライトも一緒に点滅し始めます。
この点滅のときに、IFPの円柱状の作品の影がいろんな場所に移っていくのが面白いです。
最後は水槽の16個のストロボと天井のすべてのライトが同時に点滅して、目が光の点滅についていけないせいか、周りの壁というか、目の前いっぱいにモワレの様なものが現れます。
これはすごく面白い、と思ったら終わってしまいました。
IFPの作品のライトが点き、モデルが水槽から降りてきました。
水槽の中にいると瞼を閉じていてもストロボの点滅のために、このようなモワレが現れるそうです。
結論を言うと、(写真でしか知らないけれども)前回の「ディヴィナ・コメディア」とは違って外から見た視覚的な面白さに欠けるために、やっぱり体験しないとわからないだろうな、ということです。
浜松町のニューピアホールで7月17日から26日まで開催されているアートラボ第2回企画展「Total
Hoverty」に行ってきました。
部分的には面白かったのですが、まあこんなものかなという感想です。(終了期日をすっかり勘違いしていたので慌てて行ってきました)
Total Hovertyは、オランダのアーティストGerald
Van Der Kaapと、複数の日本人アーティストにより今回の企画のために新たに結成されたプロジェクトMission
Invisibleによる展覧会です。(Henly Kawaharaもボディソニックなどで参加しているみたい)
ホールの中には以下に示すような展示がされていました。
5枚のスクリーン +-=====---=====---=====---=====---=====-+ | お墓状の | ヘッド| お墓状の | | AV装置 | フォン| AV装置 | +---------------+-------+---------------+ | | | 第2ブロック | +---------------+ +---------------+ | ボディソニック | | ボディソニック | +---------------+ +---------------+ | 第2ブロック入り口 | | | | | + | | + 入口 | 2 | 出口 + カメラ|* 枚 | + | | の *|カメラ | | | 絵 | | | | | | | 第1ブロック | | +--+ +--+ | | |机| |机| | +-----------======-----======-----------+ 2枚のスクリーン
ホールの左側面の入り口の重いドアを開けると、中はかなり暗くなっています。
左手奥の壁のスクリーンには映像が映し出されており、右手奥の壁にもスクリーンがあり、その下の少し明るいところに係員が立っています。
展示は2つのブロックに分かれており、入口の右方向、すなわちホールの後ろ半分には第1ブロック、入口の左方向、すなわちホールの前半分には第2ブロックがあります。
第1ブロックの壁には2枚のスクリーンがあり、それぞれの下にはモニタと机があり、机の上にはトラックボールが付いたマウスが置いてあります。
その後ろには大きな絵が2枚向き合って置かれており、それぞれの絵の上にはビデオカメラが絵を写せるように取り付けてあり、しかもカメラは絵の上のどこでも移動できるような仕掛けになっています。(プロッタのペンのところにカメラがある感じ)
鑑賞者は机に座って、トラックボールによりカメラを移動させ、絵の中で自分が見たい部分をモニタあるいはスクリーンで見ることができます。
カメラによる映像は、マウスの2つのボタンを使ってズーミングを行ない拡大・縮小することができます。
ズームには実際にカメラの焦点距離を変化させるものと、ピクセルを拡大するデジタルズームとがあります。
2つの絵はカラープリンタにより出力されたもので、模様の様な絵全体の上に日本語と英語による大小の文字が書かれています。
一方の絵には、「見るためには歩かなければならぬ絵。...」、他方の絵には「見るためには立ち止まり、頭を反らさなければならない絵。...」などと書かれています。
私は絵の上の文字を読むのではなく、ある程度絵を拡大した状態で映像が流れてにじむほどトラックボールを勢い良く回転させることで、Brakhageの映画の映像のようなものを作って遊んでいました。
第2ブロックの入口を入ると、大きな奇妙な靴を履いた係の女性が円柱をつぶしたような白くて大きいミントキャンデーくれ、まずボディソニックが置いてある最初のコーナーに案内してくれます。
そこでは座蒲団状のスピーカによるボディソニックによる音と、正面のスクリーンに映し出された映像を楽しむことができます。
スクリーンの下には、次に案内してくれるお墓のようなAV装置がずらっと並んでいます。
このボディソニックのコーナーとお墓状のAV装置の下からは青白い光が漏れており、お化け屋敷の中で縁台に座っているような錯覚に襲われます。
お墓状のAV装置は以下に示すような形状をしており、片側4個づつ合計8個ありました。
+----+ | | モニタ +====+ | | 内側が鏡張りの箱 鑑賞者 ______ | | \===============〇 | +--------------------+ +--------------------+ ベッド
お墓のような部分から人間の首から下が出ているのは一種異様な雰囲気があります。
ベッドに横たわり、お墓のような部分に頭を突っ込むと、中は鏡張りになっており、頭の上方1.5m位の高さにモニタが、頭の左右にスピーカがあります。
モニタに映像が映し出されると、鏡に反射して万華鏡のように見えます。
映像は風景、海岸の人物、抽象的なものなどが、多重露光、ネガ・ポジ反転、フリッカ、振動などされたものです。
最初はモニタの管面が意識されて、映像そのものを見ているのです
が、ふっと距離感がなくなり、万華鏡のような全体がテクスチャとして頭の中にもわもわと広がっていきます。
これがなかなか面白い。
最後はヘッドフォンが4つ吊されていて音楽が流れているコーナーです。
同じ場所からプレートが下がっていて「トンズラするから一発射っておかないと。(I
need a fix cause I'm going down.)」という文字が書かれています。
私は平日の昼に行ったので全体で十人に満たないぐらいでした。
営団地下鉄の表参道駅の近くにあるスパイラルガーデンで、建築家の入江経一とコンピュータ・アーティストの藤幡正樹のコラボレーションによる「インターコミュニケーション'92−脱着するリアリティ」が行なわれており、「参加」してきましたので報告します。
このイベントは今週の木曜日までですので、興味を持たれた方は急いで見に行ってください。11時から20時までやっています。
少し長いです。
1996年に西新宿の「東京オペラシティ」内にオープンする予定であるNTTによるソフト中心のミュージアム「インターコミュニケーションセンター」に関連して、このイベントは開催されているものです。
第1回イベントは、「インターコミュニケーション'91−電話網の中の見えないミュージアム」として1991年3月15日〜3月29日まで、プッシュホン回線を使ってインタラクティブに行なわれました。
私もこの予告を見て電話をプッシュホン回線に換えたのだけれども、それ以降は全く使っていない。(NTTにだまされたかな
:-)
なかなか面白いとは思ったのですが、所詮電話なので音質が余りにも悪いこと、インタラクションが電話のボタンに限定されてしまうことが不満でした。
確かReichの曲だったかな、電話から聴いたときには悲しくなってしまった。
第2回イベントが、今回の「インターコミュニケーション'92−脱着するリアリティ」で1992年3月28日〜4月16日まで行なわれます。
入江さんが構造物などハードを担当しており、藤幡さんが音や映像などのソフトを担当しています。
脱着するリアリティ(Removable Reality)とは、ヘッドフォンの脱着により見えない(ソフト的な)リアリティを与えることにより、リアリティの在り方を問おうというもののようです。
受付では、赤外線によるワイヤレスのヘッドフォンが渡されます。
このヘッドフォンの赤外線集光部の上には上向きに逆円錐状の紙製のカバーがついており、後でわかったのですが、後述するガラス装置での赤外線の混信を防ぐもののようです。
しかし、デザイン的には猫の耳のよう。
入り口には、3本のスポンジ(ウレタン?)の円柱が立っており、その間を縫うようにして会場内に入って行きます。
なんでこんなところにスポンジを置いて壁を作ってあるのかと最初は思った。
会場は、ゾーン1、ゾーン2、ゾーン3に分かれています。
ゾーン1には、ガラス装置と呼ばれるものが置いてあります。
これは表面にガラスが敷かれた傾斜する床で、だいたい縦4m、横15m、最大高さ1m位だと思います。
この傾斜する床は直角三角形の板を横に並べていくことによって作られています。(後述する逆円錐装置もそうだけれども、このような作り方はsweepによるモデリングのようで面白い)
板の間は隙間が空いていて、その隙間の間を黄色いサイレン用ライトの光が縫うようにして走っています。
それらの板の上に強化ガラスの板が置かれています。
ガラス板は滑りそうで(私が行った日は特に雨だったので)、しかも割れそうな気がしてみんな恐る恐る登っていきます。
バランス感覚を崩したい、そしてアンバランスな状態の隙間に色々なものが入ることを入江さんは意図しているそうです。
ガラス装置上の空間は縦3×横5の15の空間に分断され、それぞれの空間(チャンネル)ごとに、ガラス装置の上方に設置された送信器から赤外線によりヘッドフォンに音が送信されてきます。
人々はガラス装置上を歩き回ることにより、チャンネルを選ぶことが出来ます。
つまり、身体の移動がインタフェースで、自分自身がポインタ。
それぞれのチャンネルごとの音の長さは7分33秒で、ガラス装置に関する解説、入江さんと藤幡さんによる脱着するリアリティに関するテキストの朗読、電話の時刻案内の声などがあります。
隣のカフェで人々がくつろいでいる横で、傾斜したガラス装置上にヘッドフォンを付けた人々が歩き回っている様子は一種異様な感じです。
ゾーン2は、ゾーン1からゾーン3への通路でなにもないのですが、ヘッドフォンには雑踏の中のような音が送信されてきます。
ゾーン3には、逆円錐装置と呼ばれるものが置いてあります。
これは半径5〜6m、最大高さが周辺部で2m位の逆円錐というか、
すり鉢状という感じのものです。
基本的には、ガラス装置と同様な直角三角形の板を半径方向に置いていくことにより、逆円錐の形状が作られています。
これにも黄色いサイレン用ライトの光が下から板の間を縫うようにして光っています。
ガラス装置とは違って表面には何も置かれていないけれども、表面はわざとでこぼこさせているのと、木の板もぐらぐらするようにわざと固定していないことにより、入江さんの意図したアンバランスな状態が実現されています。
外周上のスロープを登っていった内部には、円の中心に対してほぼ対称な位置に二つの直方体のスポンジのベンチ、二つの扇型の白いスクリーンがあり、天井から吊り下げられた丸いテーブル内には二つの液晶ディスプレイが埋め込まれています。
スクリーンは扇型のスポンジに白い布を巻いて作ったもので、天井から吊り下げられたプロジェクション装置から映像が投影されています。
スクリーンの一つには"REMOVABLE REALITY"の文字の一部が映し出され、もう一つのスクリーンには下方を覗き込んでいる二人(入江さんと藤幡さん?)を下から魚眼レンズのようなもので撮った映像が映し出されています。
これらの映像はときどき回転します。
ヘッドフォンには、雑踏のような音が送信され、映像が回転しているときには回転の速度に応じて変化する電子音風の音が送信されてきます。
この映像および音は、会場で撮った映像および音を再生する予定であり、しかも入り口のスポンジの回転に連動して回転する予定だったはずなのですが、実際は不明です。
しかし会場の中で少しヘッドフォンを外してみると、瞬時にフィジカル・リアリティの世界に引き戻されて、自分だけ浮いてしまったような感覚に襲われます。
受付では脱着するリアリティのカタログ(2800円)なども販売されていました。
カタログといっても3つ穴ファイルに収められたかなり分量のあるものです。
内容は以下のようなものです。
品川の原美術館の会員向けに第10回「Meet the Artist」として、2月24日の月曜日に宮島達男さんの講演が行われました。
資料では、「宮島さんは、デジタルカウンタと言う素材を通して東洋的な時間と空間の概念を視覚化する作品で近年国際的に注目を集めています。奨学金を得てアメリカ、ドイツでの1年余りの留学を終えて昨年帰国なさいました宮島さんにスライドを交えながら自作について、また今後の展開などのお話を伺います。」と紹介されています。
午後1時半から3時までが講演および質疑応答で、その後にカフェで宮島さんを囲んで懇談会がありました。
講演は主にスライドによる作品解説が中心でしたが、デジタルカウンタを使った一連の作品を支える3つのコンセプトである、
やデジタルカウンタについても説明がなされました。
ちなみに会費は1500円でした。
宮島さんがこれだけ成功(?)したのは、やはり3つのコンセプトの素晴らしさというか、非常に共感できるところが第一でしょう。
そして、そのコンセプトをデジタルカウンタという現代のテクノロジにより、非常に抽象化された形で実現したことだと思います。
宮島さんは3つのコンセプトを人間のあるべき未来像として考えたそうです。
原美術館の2階には宮島さんの「時の連鎖」(1989年)が常設展示されています。
これはドーナツを半分に切ったような部屋の外周の頭ぐらいの高さに1列の赤色のカウンタ列、内周に膝ぐらいの高さに1列の倒立した緑色のカウンタ列が並べられているという作品です。
半分に切られたドーナツの2つの切断面が入口と出口になっています。
なぜドーナツの半分なのかと以前から思っていたのですが、宮島さんによると、作品が展示されている半分がimaginary
world、ドアの外側の架空の半分(実際には原美術館の廊下)がreal
worldなのだそうです。
宮島さんが使っているデジタルカウンタを簡単に説明します。
デジタルカウンタは10進2桁の1から99までを表示します。
ただし、0は表示しないようになっています。
この0が表示されない理由は良く尋ねられるそうで、やはり0が無とか空を表現すること、および点滅することによるリズムなどの視覚的効果だそうです。
以前の作品ではカウンタの色は赤のみでしたが、最近では緑のものも使っています。
しかし、これは純粋に技術的な問題からで、充分に明るいLEDが以前は赤しかなく、最近でも緑以外は良いものがないそうです。
カウンタの速度はつまみで調整することができます。
個々に固有の時間を刻んでいるカウンタを個人に対応させ、相互に配線されているカウンタの集合を社会に対応させることにより、「個人と社会」という見方をするのが一般的な解釈なようです。
まあ、個人に死がなく永遠に時間を刻み続けているのが多少気になりますが、周期が寿命で、それに輪廻のような考え方を入れるのでしょうか。
カウンタ同士がどのような関係を結ぶのかに興味があったので質問してみたところ、この関係はデジタルカウンタの桁上がり信号を別のカウンタに入力することだけのようです。
言い換えると、2つのガジェットが上位の2桁と下位の2桁という関係になるわけで、結局はより大きな桁数のカウンタの数字が単にばらされているだけになってしまうので、これは関係としては単純過ぎるようにも思いました。
でも視覚的効果という点では充分なのかもしれません。
というより複雑でコントロールしきれなくなるというのが正解なのでしょうね。
私個人としてはカウンタの速度の変化とか、リセット(真っ暗になる)とかもコントロールできたほうが面白いように思いました。
作品の製作の仕方は、
が主な作業で、電源を入れてみて視覚的に満足が行くまで調整するようです。
カウンタ同士が関係を結んでいるため一部の修正が全体に影響を与えるので、この配線と調整が大変な作業でインスタレーションの間は何日も徹夜をするようです。
133651と名付けられた1990年以降の作品では上記のカウンタを10個並べたユニットと呼ばれるものを用いて製作が行われています。
ユニット内のカウンタ同士は配線により結合されており、その配線の組合せの数が133651通りあるのが名前の由来だそうです。
つまり、昔の作品における結合された10個のカウンタがひとつのユニットに相当することになります。
そして、1番から133651番まで番号づけられたもののうち、7の倍数のカウンタは緑色のLEDを用いています。
なぜ7かには特に理由がないようですが、素数だし、133651が7で割り切れることもあるようです。
また、一度使った配線は2度と使わないそうで、現在までに2000個とか3000個ぐらい使ったそうです。
現時点ではユニット間の配線を使った作品はまだないそうです。
最近の作品では、この赤のユニットと緑のユニットを効果的に配置しています。
ユニットやユニットの集合が社会を表現するとすれば、このような色の違いで人種とか文化をより端的に表現しようとしているようです。
ただし、最近の133651ではまだユニット間の配線もしていないし、赤のカウンタと緑のカウンタが交じったユニットも存在しないため、赤のカウンタと緑のカウンタが関係を結んでいるものはないようです。
昔の作品では、赤のカウンタと緑のカウンタとの間に配線がされて、関係を結んでいるものはあったような気がします。
そこで、人種とか文化とかの交わりは考えないのかという質問をしてみました。
直線的に並べた作品で赤のカウンタと緑のカウンタが混ぜ合わされたものはあるそうです。
私としては、色が変化するカラーカウンタを使って人種とか文化とかの交わりによりカウンタの色が変化していくものも面白いと思うのですが、技術的というか、コスト的にも難しいようです。
コストと言えば、最近は大量にカウンタを使用しているので、コストダウンがはかれているそうです。
最後に、原美術館のショップでは1991年にオランダのMuseum
Het Kruithuisとドイツのdaadgalerieで開催された個展の資料 "TATSUO
MIYAJIMA 133651"(3000円)が販売されていました。
作品を写したカラー写真と解説、Lynne Cooke,
"Tatsuo Miyajima's chronovision"、 Jos Poodt,
"Miyajima's metaphors"からなる88ページのものです。
解説は4か国語(英語、ドイツ語、オランダ語?、日本語)でなされています。
10月8日から29日まで茨城県に展示されている、ブルガリア生まれの梱包の芸術家クリストの作品「アンブレラ」を10月15日
の火曜日に見に行ってきました。
当日は展示以来初めてまともな晴天だったようで、「アンブレラ」を思う存分見ることができました。(雨の時は傘は閉じています
:-)
私が参加したのは、10時半水戸駅(11時半水戸芸術館)集合のバスによる「クリスト観賞ツアー」で、水戸芸術館の「クリスト展」を見た後に、茨城県北部にバスで「アンブレラ」見に行くというものです。
(初日の日本でのセレモニーに参加し、茨城県北部の青い傘を見た後、時差があるけれどもその日のうちにカリフォルニアの黄色い傘を見に行くというツアーもあったようです。でも高い!)
水戸芸術館での「クリスト展」の観賞時間が30分程度と少ないこと(ただし6時半まで開館しているので、ツアー終了後見ることは可能)、「アンブレラ」を見て回る時間や場所が限られること、参加費用が高いこと(バスで回るだけで何で4000円? しかもこのツアーはクリスト自身とは関係ないので、収益が彼の作品の制作費用に還元されることもない!)がこのバスツアーの欠点です。
もし何人かで行く場合で、平日で渋滞に巻き込まれないようなら車で行ったほうが、安いし自由に動けるので良さそうです。
駐車場もある程度ありますし、休憩所で傘の配置の地図を手に入れることもできるはずです。
さてまず、高さ100mの面白い形のタワーがある水戸芸術館の現代美術ギャラリーでの「クリスト展:ヴァレーカーテンの全貌とアンブレラ・プロジェクトのためのドローイング」です。
この展覧会は9月14日から11月24日まで開催されており、名前のとおり「ヴァレーカーテン」と「アンブレラ」の資料だけが展示されています。(もちろん、初期の作品を除けば、実物が美術館に展示されるはずはない!)
「ヴァレーカーテン(1972)」は梱包以外で布を使用した最初の作品だそうで、コロラドの渓谷に巨大なオレンジのカーテンを吊したものです。
ドローイングの他にカーテンの布やワイヤロープなどが展示されていました。
しかし、クリストの作品を美術館で見るというのはなんか味気ないものです。(ビデオで見ると案外面白いけれど)
マイアミの11の島をピンクの布で取り囲む「囲まれた島々(1983)」は色合いが美しいという点では好きだけど、私は最近の作品よりもやはり初期の梱包シリーズの作品の方が好きですね。
今回、茨城県の北部に展示されている「アンブレラ:日本とアメリカ合衆国のためのジョイント・プロジェクト」は1985年にニューヨークで発表されたそうで、カリフォルニアに29kmにわたって黄色の傘を1760本、茨城県北部に19kmにわたって青い傘を1340本、合計3100本の傘を立てるという作品(プロジェクト)です。
傘は、高さ6m、直径8.69m、重さ203kgの8角形で、すべての傘の設置費用などで2600万ドル(三十数億円)かかっているようです。
また、エコロジーおよび設置費用の回収の観点から、プロジェクト終了後には傘の支柱は鉄屑に、傘の布は土嚢の袋に再利用されるそうです。
展示期間は、10月8日から10月29日までの予定だったのですが、8日は雨のため傘を開くことができず、9日からに延期されたようです。
また、茨城件北部が「アンブレラ」の展示場所として選ばれたのは、いくつかの条件があったようです。
ひとつはもう一つの設置場所であるカリフォルニアに容易に移動できること(すなわち国際空港の近く)、東京の近くということで国際的な知名度があること、同様の理由で観賞者を大量に動員可能なこと、人工的な建造物があまりないことなどだそうです。
しかし、クリストのプロジェクトのおかげで、この地域にかなり国から予算がおりたようで、新しく橋やトンネルが作られ、道路が整備されたようで、特に赤い橋桁にはクリストは失望したようです。
さて、水戸芸術館での「クリスト展」見学後、大型バス2台に分乗して「アンブレラ」を見に行きました。
展示場所につくまでは水戸芸術館から1時間強、2ヶ所で合計2時間程度の自由時間(昼食時間、丘登り)がありました。
傘を見ながら弁当を食べるというのは遠足っぽくて面白いですよ。
(しかし、バス内でのガイドの観光案内にはうんざり、水戸黄門は予想したけれど、水戸の議員の自宅なんぞ教えてどうするの)
私はクリストの作品を実際に見るのは初めてだったのですが、最初にクリストの青い傘が見えてきたとき、何故か失望してしまいました。
そのひとつは傘の色が光沢のある明るい青色で、おまけに支柱まで青色で、以前からドローイングを見て持っていたイメージと比べて少なからず違和感を持ったことがあります。
ただし、バスから降りて傘の間や下を歩き、傘の薄い生地が風に揺れて太陽の光を反射する様子などを見るに連れ、段々と面白くなってきました。
特に、水(川)の中に合計90本立てられているという傘は、お茶会の傘のようで美しいし、傘が立ち並んでいる丘や谷を登っていくのは楽しいものです。
ただ、傘全体の繋がりが希薄というか、あまり感じられないためなのか、迫力に欠けるように感じました。
私のこれまでのクリストの作品の観賞が写真とかビデオによるマクロ的な観賞であり、このように実際に見て回るミクロ的な観賞がなかったために、全体を捉えられないことによる戸惑いがこの原因かも知れません。
もし山上やヘリコプターなど上空からも見ることができたり、後で「アンブレラ」のマクロ的な写真とかビデオが出れば、また感じ方が変わるのではないかとも考えています。
でも、カリフォルニアの黄色い傘も見たかったなあ。
配置の仕方もかなり違うし、地形も気候も全く違うし、全然違った感想を持ったかも知れない。
恐らく、こんなに雨の多い所に住んでいる日本人の傘に対する考え方とは、違うものが得られるのでしょうね。
言い忘れましたが、クリストの傘は防水加工がしてありません。
つまり、日傘 :-)。
最近(いつも?)少し変なことを考えているので書いてみます。
芸術、特に美術の分野において視覚によるもの(視覚芸術)が優位である(たくさんある?)ように思うのは私だけでしょうか。
ところが、視覚芸術においても案外重要視されている質感(表面の様子、固さ重さなど)には本来触覚に属するものも多いと思います。
ところが、我々は経験的に得た視覚情報と触覚情報との繋がりに関する知識から視覚情報だけである程度の触覚情報を得られるようになってきており、このために触覚情報をあまり重要視していないのではないかと思います。(例えば動物が触覚情報で危険を察知してももう既に遅いですよね)
そのことは現実に生活する上では非常に役に立ってはいると思いますが、ある意味では芸術表現を狭めているのではないかと思います。
つまり、見ただけで表現されたものの質感を自身の先入観により予測してしまうのです。
また、我々は決して物自体を見ているのではなく、物と相互作用した光を見ているのです。
そして、この相互作用した光により間接的に物を認識しているのに過ぎないのです。
従って、物をより直接的(この言葉の定義も難しそうだけど)に認識するものとして触覚を捉えることもできます。
では、触覚が重要であるとして触覚芸術というものはあるのでしょうか。
彫刻、特に盲人のための彫刻というものがありますが、これは純粋に触覚芸術であると言えます。
ただ、目の見える人がこのような作品を見て触れる場合には、視覚的な情報による先入観などが作品の観賞を妨げるものとなるかもしれません。
ただし、彫刻の欠点は現実に存在するものしか表現(制作)できないことだと思います。
実際に存在しないものを表現することができ、それを触ることができれば非常に面白いのではないかと思います。
例えば、現実には存在しないような質感を体験することなどができるわけです。
さらに、これを例えばCGなどと結合すれば、視覚による経験的な知識に縛られないような新たな表現を得ることができるかもしれません。(つるつるの表面だと思ったものがねばねばだったりして
:-)
これを実現するための技術として、仮想現実(artificial
reality)に注目することができると思います。
ただし、現在のデータグローブやデータスーツなどはデータの入力に重点がおかれ、質感などのデータの「出力」のことはほとんど考慮されていません。
(人間に害を及ぼさない範囲で?)「ぬるぬるした感触」、「ざらざらした感触」、さらにはこのような古い言葉では表現できないような新たな感触を得ることができるような仮想現実の出力装置というのは実現できないものでしょうか。
触覚による美って何。つるつるしているものが美しいの?
ホノルルと言えばホノルル美術館が有名ですが、有名なホテルがたくさんあるだけにギャラリーも数多くあります。
その中でも、ロイヤルハワイアンショッピングセンター内にあるギヤラリーでは非常に感激しました。シャガール、ピカソ、ゴヤ、ミロなどの作品がゴロゴロしています。
特に私が素晴らしいと思ったのは、ミロの版画(アクアチント)です。黒いバックグラウンドに青や緑の微妙な変化が加えられている抽象的な作品です。(題名は忘れたけれども)
安ければ買いたかったのですが、2万ドルで手が出ませんでした。(店の人に「高そうですね。」と尋ねたら、「そんなことはありませんよ。2万ドルです。」と言われてしまった。確か
に絵に比べれば安いけれど)
しかしながら、ギャラリーで最も面白かったのはインターナショナルマーケットプレイスにある"Arts
of Paradise"です。
ここは地元の作家の作品を安く売っているところとして有名です。ハワイの作家の多くは明るい色調と素朴な題材を特徴としています。(私は残念ながらこのような作品は好きではありませんが)
このギャラリーで私が面白いと思った作家は、Michael
ColumboとRodney Changの二人です。
Columboは墨絵のような雰囲気を持った抽象的な作品(海というか波のようにも見えるもの)をアクリル絵具?で描いている人です。構図は非常に面白いのですが、色彩はあまりにも明るくてしかも単調過ぎて私は今一つ好きになれませんでした。
これに対して、Rodney ChangはCG(コンピュータグラフィックス)を使ってはいますが、非常に絵画的な作品を作っている人です。絵画的というのは、悪く言えば3次元的ではなく2次元的ということです。しかしながら、多くのCG作家の消化不良を起こしたような3次元CGに比べて遥かに新鮮に感じました。(もちろん素晴らしい3次元CG作家もいることは認めま
す)
私は幸運にもその画廊のディレクタからRodneyのエージェントであり、姉でもあるSilvia
Looを紹介してもらい、Rodneyの自宅を訪れることができました。さらに、幸運なことにそこで彼
にあい、パーソナルコンピュータを用いて制作している現場を見せてもらうことができました。(彼の作品があまり3次元CGを用いていないのはコンピュータのパワーとも関係があるようです)
結局、彼自身やギャラリーをとおして4枚の作品("Ponpei",
"Computer Space", "Three Fisherman",
"Island Comfort")を購入してしまいました。
CGの作品の販売というのは日本ではどのように行なわれているのかは知りませんが、彼らは管面を写真撮影したものを「オリジナル」としてサインを入れて売っていました。そして、そのオリジナルからセリグラフ(シルクスクリーンの一種)により100部ほどのreproductionを作って、通常の版画と同様に限定数とサインを入れて売っていました。(ちなみにオリジナルは400ドル程度、セリグラフは150ドル程度でした)