イベントの感想

(バレエ/ダンス、その他)


バレエ/ダンス

その他


バレエ/ダンス

NTT ICC オープニングパフォーマンス [1997/4/18]

東京オペラシティで「オーディオ・バレリーナ」のパフォーマンスを観て(聴いて)きました。

結果的には、バレエとは程遠い音響的なパフォーマンスでした。
パフォーマンスは「ガレリア」と呼ばれている吹き抜けの長く緩やかな階段のある場所で1時間ほど行なわれました。
私は知り合いの作品をちょっと見せて貰っていたので、ガレリアに着いたときには既に「バレリーナ」達は階段の上に現われていました。
「バレリーナ」達は上下黒のタイツに黒い靴に黒いサングラス、「バレリーナ」達の衣装はそれぞれ微妙に異なっています。
そして、アクリル(?)の透明な円錐状の「チュチュ」を着けていました。
この「チュチュ」にはいくつかの小さなスピーカーやら回路基盤などが付いており、スピーカからはノイズのような持続音がずっと流れていました。
小さなスピーカーなのにガレリアには音がよく響いています。
腰のところに付けている黒いボックスがテープレコーダらしく、再生されているようでした。
また、手にはなんと(!)金属製の熊手(柄の長いほうきのようなもの)を持っています。
階段の上に「バレリーナ」達が揃ったとき、彼女達はやおら「熊手」を持ち上げ、床に振り降ろすと、金属的な凄い音が響きました。
どうやら金属の熊手の部分にコンタクトマイクが仕込まれていて、その音が変調されているようでした。
「バレリーナ」達は「熊手」を引きずりながら、そろりそろりと階段を降りていきます。
ノイズのような持続音に、「熊手」を引きずる金属音、ときおり階段を落ちるときの大きな金属音が空間を満たしています。

バレエには全く関係ないけど、それなりに楽しめました。

ダンスと観客 [1997/3/31]

最近、メディアアートの新しい作品のこととか読んでいたら、ダンスってどうして古典的な枠組みの方が受け入れられているんだろうと考えてしまいました。
古典的な枠組みというのは作品と観客が明確に分離していることです。
観客が作品とインタラクションするのは、観客の頭の中での鑑賞行為においてのみです。

メディアアートの最近の主流では、アーティストは作品自体を創るのではなく、作品が構成されるための環境と、観客とのインタラクション(コミュニケーション)の仕組を規定するだけです。
そして、作品自体はその環境と観客とのインタラクションにより構成されていきます。

ちょっと無理に図式化してみると下記のような感じです。

ダンスで最も緊密に行なわれるコミュニケーションは振付家とダンサーとの間です。
最近のフォーサイスの作品では、振付家とダンサーとの間にはメディアアートに近い方式が用いられているみたいです。
つまり振付家が作品を完全にコントロールするのではなく、振付家は作品の大枠とダンサーとインタラクションする仕組を創り、ある程度の部分をダンサーに任せてしまうといった具合です。

もちろん観客参加型の作品はあることはありますけど(AGUA GALAなどはそうでしょう)、あまり成功しているとは言い難いし、観客とのインタラクションで作品が成立しているというよりは、観客の一部をダンサーとして取り込んでいるに過ぎないと思います。

ダンスにおいては、メディアアートに比べてこのような形態が難しいのは、恐らく大勢の観客の前で公演を行なわざるを得ないことでしょう。
生身の人間を使っているし、興行的な面からも。

メディアアートでは固定した作品という概念はないし、少なくとも観客の数だけの作品が生まれます。
観客の感受性の質によって面白くもなるし、つまらなくもなる。
その結果としての作品は他の大勢の観客にみられるべきものではありません。

でも、プライベートダンスみたいなものを考えると、凄く贅沢だし、妖しげ。
ダンスではやっぱり自分がダンサーになるしかないのでしょうか。

H・アール・カオス / 「ロミオとジュリエット」 [1997/3/29]

「ロミオとジュリエット」を3月29日にA席21番で観てきました。

前回の埼玉のさいたま芸術劇場のホールは傾斜がかなりついていて上から眺めたので、今回は前から観ることにしました。
しかし、グローブ座の舞台は予想外に高く、床のライトが漏れてくるガラスとの絡みとか、最後にジュリエットが沈んでいくところとが十分見えなかったのは残念でした。
やっぱり2回観に行くべきなんでしょうね。

ロミオのような役は白河さんの特意中の得意といったところで、いつもほれぼれしてしまいますけど、今回はジュリエットの役が良かったです。
前で表情が良く見えたこともあり、本当に切なくなってしまいました。

また、ライティングは埼玉の時に比べてシンプルになった気がしました。
でも下からのライトは本当に効果的ですね。
それからロミオが踊る時のノイズ的な音響は非常に好きです。

大島さんがダンスの振り付けを止めてみたらどうかなあと思いました。

確かに、白河さんは凄いダンサーだと思うし、人間が踊るということは確かに表現力は豊かかもしれないけど、どうしても動きには制約があるわけです。

例えば、どんな形や色にもなり、どんな動きも可能な「もの」に大島さんが振り付けるとしたらどういう表現になるのだろうと私は想像してしまったわけです。
この「もの」として私の頭の中にあるのはCGのオブジェクトです。
もちろん、大島さんのイメージから、形や色、そして動きを自由に創って行くのは至難の業だろうし、現在のCGの表現力の未熟さ、CGツールのインタフェースのレベルの低さ、変換作業にかかる時間の長さで、大島さんの怒りが爆発しそうな気もするけど。^_^)

あるいは大島さんは人間の振り付けにしか興味がないのかな。

Pretty Ugly Dancecompany [1997/2/28]

ランドマークホールで行なわれたAmanda Miller振付のPretty Ugly Dancecompanyの公演を観てきました。
これは横浜ダンスコレクションの一つとして行なわれた公演で、最初は他にも幾つかの公演に行く予定にしていたものの、ここのところダンスを観に行く気分に陰りが出てきて、急遽電話で予約をいれたものながら、A列14番という良い席で観ることができました。

"Two Pears (part 1)"は、舞台の左右の袖を半分カーテンで仕切って小道具を配置した空間が面白いものの、ダンス自体はいま一つで、ここのところの睡眠不足から睡魔に襲われそうでした。
"Arto's Books"は、4人のダンサーの動きがきっちりと構成された作品、NDTIIにより初演されたのに何となく納得してしまいました。(休憩時間には伊藤キムやキノコのメンバーなど大勢のダンサー達がいた模様)
"Meidosems"は、暗闇の中でお互いに探りあうような動きが面白い男性と女性のデュオによる作品でした。
"Pretty Ugly"は、1988年にフランクフルトバレエによる初演というパンフレットの部分を見て、てっきりForsythe&Willemsによる作品だと誤解していました。
音を寸断していくことによってリズムを生み出していく音楽、ハードで切れの良い動き、延ばした手の動きの美しさ、デュオの作り方の面白さ、まさに古き良き時代のForsytheという感じでした。赤のロングドレスを着た女性とシャツにパンツの4人の男性の組み合わせもちょっと危険な香りがして素敵でした。

この古い作品を最後にもってきたのは観客としてはすごく楽しめたけれど、Amanda Millerとしてはどうだったのでしょう?

NDT3 [1997/2/7]

パークタワーホールでのNDT3の公演を観てきました。作品は以下のとおりで、いろんな振付家の小品が集められたものでした。

私が求める空間はそこにはなかったものの、コミカルな表現や感情の表現などはなかなか楽しめました。やはりNDT3のように年配のダンサーによって構成されたカンパニーでは、抽象的表現よりも演劇的表現に片寄るのはしかたがないところでしょうか。

Forsytheのはちょっと期待外れ、照明を含めた空間の表現はこういう小品を集めたものでは無理かも。
"THE OLD MAN AND ME"での二人のダンサーSavine KupferbergとGerard Lemaitreは良い味を出していました。
"NO SLEEP TILL DAWN OF DAY"はKylianの作品だけあって気合いが入っていましたし、非常にできが良かったです。
縦に入ったスリットが奇麗な木の椅子を横にずらっと並べた舞台、椅子を倒してその下にダンサーが入ったときに、天井からのライトが椅子のスリットを通してダンサーの身体に落とす影、KylianはTVで「かぐや姫」しか見たことがないものの、Kylianらしいと思わせるものでした。(ちょっと凝りすぎて鼻についたりするのですが ^_^)
"SUSTO"は天井から吊された逆三角形のガラスの容器から落ちてくる砂をつかったコミカルな作品、あれだけ落ちてくる砂の中で踊るダンサーは大変、日本人だったら顔の彫りが浅いので砂が目に入って大変だろうなあと、いらぬ心配をしてしまいました。(落ちてくる砂の使い方でも昨年のカオスの大島さん達の「ヴィア・クルシス」とは雰囲気が全然違う)

William Forsythe / "Limbs Theorem" [1994/11/8]

中心部に円形の吹き抜けがある彩の国さいたま芸術劇場で、11月2日の水曜日に公演されたフォーサイスの「肢体の原理」を見に行ってきました。
フォーサイスの作品は初めてだったのですが、ライティングの素晴らしさに涙が出てくるほどでした。
ほのかな光の中でのダンス、強い光の中でのダンス、シルエットでのダンス、影の中でのダンス、壁に映る影のダンス、すべて計算されているんでしょうね。
ダンスは良くわからないし、記憶を辿って書いているので間違っているところがあるかも知れません。

新宿から埼京線に乗って40分弱で与野本町、ホームから眺めると辺りは民家が多くて暗い、その向こうの方に一際明るいところが彩の国さいたま芸術劇場らしい。
階段をおりる途中でおやっと思ったら山口小夜子さんだった。

「肢体の原理」は三部構成で各幕の間に休憩が設けられているようだ。
私の席はD−2で舞台は近いが舞台の左奥がちょっと見にくいかなあというところ。
第一幕、幕が開くとかなり暗い舞台に、石をガラスにぶつけるような音に電子和音が混じったような音響が流れる。

舞台には四角形のキャンバスを裏返しにしたようなものが、四角形の一つの頂点を舞台中心において吊り下げられている。
この中心のところに白髪を後ろで束ねたがっちりした男性が座っている。
(この男性が四角形のものを回転する役割であることが後でわかる)
あと舞台上には2つの球体が置かれている。

横から差し込む僅かな光の中での黒いレオタードのダンサーの緩やかな動き。
ほのかな光の中でのダンス、シルエットでのダンス、壁に映る影のダンスが繰り広げられている。
光が次第に強くなり、黒いレオタードから出ているダンサーの白い腕が光の中に浮かび上がってくる。
あまりのライティングの凄さに感激して思わず涙が出てくる。
次に上からの強い光に切り替わり、四角形のものが動かされ、さらには回転して、舞台の上に光と影の変化をつけていく。
そして、その光と影の中でのダンス。

ダンサーのダンスも手と足の動きを中心としたしなやかな動きで、特に男女のデュオのダンスの美しさは期待どおりである。
期待どおりと言うのは、以前に現代舞踊のレクチャーを受けたことがあり、そのときのフォーサイスに関する浅田彰の何を主張したいのかわからないとりとめのない話にはうんざりしたのだが、フォーサイスの振り付け中のビデオでの男女のデュオの動きの美しさが強く印象に残っていたからである。
(それ以前には「失われた委曲」が再演されるという話で三宅一生の衣装にのみ興味があったのだが)

と、思っていると第一幕が終り、カーテンコール、そして休憩。

第二幕、舞台の中央に左奥から右前の方向に波打った木のついたてが置いてある。
同じく舞台の上に斜めにロープが置いてあり、ダンスの間にこのロープに波が伝わって行ったり来たりする。

左隅の床の上には移動可能な小型のライトがあり、ライトが照らし出す局所的な光の中での黒いレオタードの女性と白いレオタードの女性の床の上での動き。白いレオタードに反射する強い光が眩しい。

何だかすごく遠近感のある舞台だなあと考えていると、天井はもちろん高いが本当に奥行も深い舞台である。

緊張感を高めるような高音が音響に加えられるとともに、ライトがダンサーによって左前に移動され、衝立の左前は光の世界、右奥は影の世界となる。
光の世界では黒い衣装の男女によるデュオ、影の世界では白いレオタードの男女によるデュオが繰り広げられる。
いずれも第一幕よりも激しいダンス。

以降もほとんどその局所的な照明によるダンスが続く。
強い光によるシルエットが美しい。

黒い衣装には黒い房のようなものが付いているものもあり、回転すると遠心力で面白い形を作り出していた。

最後の方にはライトを衝立の近くに持ってきて、衝立を利用したシルエット、衝立に映る波打つ影。

今になって気付くがダンサーはそれぞれ個性があって、しかも非常に鍛え上げられている。

第二幕が終了。
第一幕の横からのライティングによる光と影の作り方、第二幕の局所的な光の使い方は見事と言うしかない。

第三幕、
舞台の右前に1/4の球、その上半分は骨組みのみ、下半分は内側が白いスクリーンになっている。
舞台の左上には長い鉄柱が横に吊り下げられている。
いずれもダンスの間に回転する。
1/4球の内側が白いスクリーンなので、回転の角度によってスクリーンに反射する光が舞台上の明るさを微妙に変化させていく。

舞台の右奥から中央に向かって黒い仕切りがあり、舞台奥には白いカーテンが吊り下げられている。
衝立の向こう側からのライトにより左前のダンサーのシルエットでのデュオの息を飲むほどの美しさ。

次に衝立の向こう側の光の中から大勢のダンサーが繰り出してくる。
このときに背後の白いカーテンには風が吹き付けられているのか、ライトのある方向から波打っており、その波に光が当たって波状の明暗の動きを作り出している。

第三幕では身体を前後に傾けるような動きが目につく。大勢によるユニゾンの動き、私にはこのダンスは今一つという感じ。
男性のダンサーの毛皮風のパンツが面白い。

第三幕も終了。
席の真横辺りがダンサーの控室なので、帰り際に控室に向かう小夜子さんなどの関係者とすれ違う。

埼玉まで来て高いお金を払ったことは問題なく、久しぶりの深い満足感で帰途につく。

PS.
11月7日の月曜日のランドマークホールでのビデオ・インスタレーション「フォーサイス博士のマインド・マシン」とフォーサイスの講演会も聴いてきました。
前者はガラスの小さな舞台を作り、その上に寝ころがったダンサーの動きを下からビデオカメラで撮り、後からエフェクトをかけたもの。
このビデオをホールに吊されたガラス板の上に投影したものです。
このようなガラス板が6枚あり、恐らく時間をずらしてビデオを再生しているようです。
動きが制約されること、ライティングの妙味を味わえないことから私には今一つでした。
私は動きからミジンコを連想してしまった。(^_^;
ただし、音としてダンサーの息遣いが使われており、これが何と言えば良いのだろう、舞台上のダンサーの息遣いを聞いているようなどきどきした感じを与えてくれます。

フォーサイスの講演会は講演会と言うより、布施英利という死体に関する本を書いている人との対談でした。
ダンスという生体を扱うものと死体とを対比させようという意図があったようで、題材としては面白いと思ったものの、内容が全く噛み合っていませんでした。
別にお互いの主張が食い違っていてもお互いが理解し会えていれば良いのですが、これがだめでした。
まあ、フォーサイスが抽象的な表現を使っていて通訳も困っていたくらいでしたが。
しかし、もう少しフォーサイスというかダンスを理解できる人と対談させた方が面白かったのではないかと思いました。


その他

Terry Riley / "Solo Midi Grand Piano" [1992/3/6]

新橋の汐留JR跡地にある東京パーンホールでのTerry Rileyのコンサートに参加してきました。
コンサートは"Solo Midi Grand Piano"と題して、3月6日と7日に下記のプログラムで行なわれました。

3月6日(金曜日)
Salome Dances for Peace, Underworld Arising, 15/16 (???), The Ecstasy, Mongolian Winds, Radio Man, (Chorus 110-111, from "Mexico City Blues" by Jack Kerouac), A Rainbow in Curved Air
[休憩]
Song from the Old Country, Purya (Traditional Indian Raga), Havana Man (world premiere)

3月7日(土曜日)
Shri Camel, Ebony Horns, Descending Moonshine Dervishes
[休憩]
Septimal Violin, (Just Intonation Tuning of 7th Limit), Embroidert, Havana Man (world premiere)

私は6日の方に行ってきました。
(プログラムの後半は変更されたのですが、聞き落としてしまった)

東京パーンホールは、壁面スピーカ・システムAFP(Audio Flat Panel)、および壁面スピーカにより作り出される3次元音響をコントロールするデジタル音場制御装置DSFC(Digital Sound Field Controler)を備えています。
ホールの周囲の壁と天井に柱状にスピーカがあり、一面はほとんど全面がスピーカの壁となっています。
今回は、これらの装置を使った「HI-REAL」シリーズの第5弾、および東京パーンの1周年記念として催されたようです。
(今回は使わなかったけれども、壁面の一つはハイビジョンスクリーン)

ハイビジョンスクリーンの壁側に頂点が客席に張り出すようにして三角形状のステージが作られ、多目的ホールなのでホール内に折り畳み椅子を並べて客席が作られていました。
ステージ上にはグランドピアノやキーボードなどが置いてあり、聴衆はほぼ満席で200名ぐらいいたでしょうか。

インスタレーションはSally Davisという人が担当しており、前述の三角形状のステージの客席に張り出した二辺上に細い竹の棒に葉のようなものをつけたもの、ステージの上方には恐らく細い竹など
を使った魚のようなものを飾っていました。
ステージの後ろには4枚の垂れ幕があり、垂れ幕には墨で蛇のような記号が散らばっていました。
これは何か意味があるのでしょうか。
蛇のような記号の片方は二又になっていました。
ライティングはElaine Buckholtzという人が担当していました。
彼女たちは二人とも今日がRileyとの初のコラボレーションだそうで、演奏中にElaine Buckholtzは客席の後方でライトのコントロールを、Sally Davisは同じ場所で演奏を聴いていたようです。

ステージにはまずサックス奏者のGeorge Brooksが姿を現し、続いてRileyが白いインド風の衣装に帽子と眼鏡をつけ、例の顎鬚で現れました。
Rileyが腰を下ろしたグランドピアノの向こうにサウンド・エンジニアのMikail Grahamが現れ、演奏が始まりました。
演奏は8時から10時半まで続きました。
George Brooksは1982年以来ライリーとともに演奏活動をしており、1989年に結成された即興演奏集団KHAYAL(カヨール)の創設メンバーの一人だそうです。
Mikail Grahamは1988年以来ライリーと共同作業をするとともに、MIDIやコンピュータを駆使した作曲システムの開発を行なっているそうです。
Rileyのここ数年のほとんどの曲は、このシーケンス/ノーテーション・ソフトウェア「ノーテータ」を使って作曲されているようです。
今回は東京パーンのデジタル音場制御装置DSFCもコントロールしていたようです。

最初の曲は"Salome Dances for Peace"(1985-86)からの抜粋でした。
低音の振動音にサックスがからんでき、そこにRileyの両手を奇妙に動かしながらのボーカルというか唸り声やピアノが加わってきます。
この曲はもともとKronos Quartetのための弦楽四重奏曲でもあり、私も聞き込んでいなかったこともあり、あれこんな曲だっけという感じでした。
また、Rileyの使っているのはてっきりグランドピアノかと思っていたら、これはピアノの音色を様々に変化可能なヤマハのMidi Grand Pianoらしいことが後でわかりました。
(普通ならコンサートのタイトルからすぐわかりそうなものだけど、私は楽器に暗いです :-<)

次に曲はボイスと、それをエレクトロニクスにより変調した曲へと変わっていきました。
この部分は壁面スピーカにより意図的に音響をコントロールしていました。
さらに、曲はどんどん変わっていくのですが、比較的聴いている"A Rainbow in Curved Air"も全然それらしく聞こえなかった。

このコンサートは"New Islands"という構想だそうで、「過去の代表作を多様な島々とみなし、そのあわい(?)を流れながら島と島をつなぐとともに、それらすべての島々を含み、たゆたう、いわば巨大な海流のような存在として構想」しているものだそうです。
ということで、私には過去の島々はほとんど見えず、新しい島々としてみていたようです。
ミニマル・ミュージックを超え、「新たなる地平」ということだけど、Rileyは自分で演奏するときはいつもこういう即興演奏なんでしょうかね。
過去の作品を再現するという意志がないというか、興味がないみたいですね。

PS.
Rileyも変わったし、自分も変わったこともあるけど、残念ながら1977年に初来日したときに"Shri Camel"を聴いたときほど感激しなかった。
でも、このホールの壁面スピーカを使ってXenakisの曲を一度聴いてみたいと思ったのは私だけ?

小杉武久 [1991/10/25]

新宿御苑近くの東長寺で10月24日の木曜日に8時半から10時ぐらいまで約1時間半にわたって行なわれた小杉武久のパフォーマンスを聴いてきました。

パフォーマンスは下図に示すように、東長寺の本堂横の回廊に100名ぐらいの聴衆を集めて行なわれました。


+------------------+
|                  |
|       本堂       |
|                  |
+------------------+
|   s          s   |	s:小型スピーカ
|  +------------+  |
|  |            |k |	k:小杉武久
|  |            |  |
|  |     水     |  |
|  |            |  |
|  |            |  |
|  +------------+m |	m:私
|                  |
+-----+------+-----+
      | 入口 |
      +------+

回廊の中には薄く水が張られており、聴衆は回廊の板の間に座り込みながら小杉さんの演奏を聴きます。
演奏は発振音のような音から始まり、次第に様々に音色が変化していくという、小杉さんのいわゆるwaveによる瞑想音楽です。
そして、電子バイオリンによる即興演奏が絡み合っていくというのが主な展開です。
電子音楽に影響を受けた70年代のドイツのスペースミュージックに通じるところもあります。
小杉さんは本堂に向かって右奥、私は右手前に柱に持たれて座っていたために小杉さんの演奏がほとんど見えず、たまに電子バイオリンの弓の一部が見えるぐらいだったので、その他の使用楽器については良くわかりませんでした。
ただし音から想像すると、以前の飯村氏のビデオ作品「SKY AND GROUND」に小杉氏が即興で演奏したビデオコンサートのときと同じようにリコーダから拾った音を変調する装置なども使用していたようです。
また本堂地下で10月8日から26日まで「四つの装置」と題して展示が行なわれているようで(展示は8時までなので見損なってしまいましたが)、恐らくこの「四つの装置」も演奏に使われているのではないかと思います。

小杉さんの演奏を聴きながら回廊の中の水の表面を眺めていると、次第に瞑想状態に陥っていきます。
水を静かに眺めるということは最近の生活では全くないので、非常に新鮮に感じました。(昔は時間が悠々と流れていて、自然の僅かな変化にも驚いたものですが)水の表面は静かに湛えられているのではなく、風などの僅かな変化によって水面はさざ波に覆われ、様々に表情を変えていきます。
そして、水の表面の変化が、水に映り込んでいる本堂および格子を通して見える本堂の明かりの表情にも変化を与えていきます。
演奏の最後の方には小雨が降り始め、水面に落ちた雨による波紋が全体に広がっていき、いくつもの波紋が互いに重なり合っていました。

残念だったのは、板の間に長い間座り込んでいたためにお尻が痛くなったことと、お寺の前の道路から時おり聞こえてくる車の騒音により、現実に引き戻されたことです。
おまけに、屋外なので寒かったためと、雨のせいで風邪を引いてしまったようです。

PS.
瞑想中にふと頭の中をよぎったのは、何故かウルトラQの寺院の炎上シーン、それとラスコーリニコフのコートの中で光っている斧。

飯村&小杉 / "SKY AND GROUND" [1991/9/30]

9月27日(金曜日)の19時から1時間半、池袋西武のStudio 200で、飯村のビデオ作品「SKY AND GROUND」に小杉武久が即興で演奏するというビデオコンサートが行なわれました。参加者は30名ぐらい。

小杉さんが昔タージマハール旅行団を結成してインド音楽や声明などに影響を受けた即興演奏をしていたころから、私は彼の音楽が好きだったので見てきました。

まず、「SKY AND GROUND」の映像が流される前に、小杉さんの例の電子バイオリンによる即興演奏から始まりました。
これはバイオリン風の楽器の音色を様々に電子変調させるものです。

そして飯村さんの「SKY AND GROUND」、これはニューヨークとサンフランシスコで撮影された空と地面の映像により構成された1991年の作品で、下図のような構成の10台のモニターにより写し出されます。


          +---+---+   +---+
          | G | S |   | G |
      +---+---+---+---+---+---+
      | S |   | G | S |   | G |
+---+ +---+---+---+---+---+---+ +---+
| m |     | S |   | G | S |     | m |
+---+     +---+   +---+---+     +---+

図中の"S"はSKYの映像が写し出されたモニター、"G"はGROUNDの映像が写し出されたモニター、"m"は参照用のSKY(右)およびGROUND(左)のモニターです。

飯村さんの作品は残念ながらこれまで全く見たことがなかったので、過去の作品との比較はしようがないのですが、この作品はSKYを象徴する映像と、GROUNDを象徴する映像が、空間的にも時間的にも非常に断片的に生起し、そして消滅します。
SKYを象徴する映像としては、青空、雲、空の端に断片的に見える木の枝、ビル、街灯、旗など、GROUNDを象徴する映像としては、道路、水たまりに映る空、人の影、マンホールなどが部分的に写し出されます。
SKYおよびGROUNDのそれぞれ5つのモニターには全く同じ映像が映しだされるので、部分から全体を構成することはできません。
そして、それらの部分的な景色は都会の風景から自然の風景に変わっていきます、草、花、雪、池などの映像へと。

小杉さんの演奏は、最初はリコーダ(たて笛)を2つに分解したものに様々な場所から空気を吹き込み、小型マイクで音を拾ったものを変調するというものです。
音と行ってもリコーダの各部分を通る空気の流れで、表現力としては今ひとつという感じがあります。
最後には、リコーダを叩いたり、擦ったりします。
次には口にマイクを近付け、様々な声や、声にならない空気の流れの音を拾っては変調していきます。
これらの音は一種異様な迫力のある音で、思わず引き込まれて、自分も声を発しそうになるほどです。
すると後ろから奇声や様々な音が、最初は変調した声と肉声とを対比させようとした演出かと思ったのですが、どうやらのってきた人が奇声をあげていたようです。
最後は電子バイオリンによる演奏でした。

イメージフォーラムのフィルムヒストリー [1990/8/20]

イメージフォーラムのフィルムヒストリー(実験映画入門)を観てきました。
連日6時半から10時過ぎ(予定では9時半)までという強行スケジュールのためいささか疲れてしまいました。(時間がないので毎晩カロリーメイトが夕食!)
これまで、海外の実験映画は観たことはあったのですが、日本の実験映画は観たことがなかったので、この機会にまとめて観られたことは収穫でした。
解説は西嶋憲生さん(Brakhageの専門家)および松本俊夫さんでした。
全部で60本位あり、とてもすべてコメントできないし、忘れてしまったり、寝てしまったのがあるので、印象に残ったものをいくつか挙げてみます。
(最後に上映した全作品のリストを挙げておきました)

個人的趣味からやはりBrakhageの「ドッグ・スター・マン」は素晴らしかったです。(変な先入観を与えそうで言葉で書けない :-<)
ところで、Brakhageを含めて実験映画の何本かがアメリカではビデオになっているようです。(ケネス・アンガーの作品は以前からビデオになっているのは知っていました。でも、あのホモとナルシズムの映画にはついていけない)
外苑前のOn Sundaysに売っているという話だったのですが、Brakhageのは売り切れていて(今後入れる予定もないそうです :-<)、しかたなくMaya Derenのビデオを買ってしまいました。
ちなみにBrakhageの最後の一本は西嶋さんが買ったそうです。
これらは、mystic fire videoからでているExperimental Filmsのシリーズで、私の買ったのはVol.1、

 "Meshes of the Afternoon"  '43-59
 "At Land"    '44
 "A Study in Choreography for Camera" '45
 "Ritual in Transfigured Time"  '45-46
 "Meditation on Violence"  '48
 "The Very Eye of Night"   '52-59

です。 (Vol.2もMaya Derenみたい)

話が逸れてしまいましたが、他に良かったのはジェイムズ・ホイットニーの「ラピス」です。
これはCGアートに関連している人は言うまでもなく御存じだと思います。
「ラピス」は曼陀羅を題材にした非常に美しい作品です。
円形の曼陀羅風のものがラヴィ・シャンカール?の音楽と共に変容していきます。
ただ、この作品は四角形のスクリーンにはどうも収まりが悪いという感じです。
(あと、音楽は私だったらRileyを使いたい)

ブルース・コナーの「5時10分発ドリームランド行き」も映像、音楽とも良かった印象がある(そうメモってある)のだけれど内容を忘れてしまった。

ポール・シャリッツの「T,O,U,C,H,I,N,G」は例によってフリッカーの作品です。
以前見たときはわりと好きだったように記憶していたのですが(違う作品かも知れない)、映像が汚くて今はだめという感じです。
これに対して「分析的探求II」はこれまでのフィルムを再構成して作った無音の作品なのですが、これが異様に美しいです。
(恐らくカラーのフリッカーの作品を中心に再構成してあるからだと思う)

ブラザース・クエイの「ギルガメッシュ/小さなほうき」は奇怪な人形?を使った作品で私の感覚とはずれるけれど面白い作品だし、好きな人は異常に好きだろうと思います。

さて、日本の作品では伊藤高志の作品が「SPACY」、「BOX」、「GHOST」と全部で3本上映され、いずれの作品もスピード感があってなかなか面白いものでした。
「BOX」はCG的な観点から見ると単に立方体とその変形にテクスチャマッピングしただけなのですが、最も良かったと思います。
さらに、良かったのは彼の作品の音楽を担当している「いながきようすけ」です。
「SPACY」では電子音響風、「BOX」ではミニマルミュージック風で私は非常に気に入ってしまいました。(「GHOST」のはいまいち)

大辻清司の「キネカリグラフィ」は日本の映画らしくない抽象的な作品で嫌いではないのですが、ノーマン・マクラレンなど海外作品の焼き直しと言った感じです。(もっと他の作品も見たいような気もするけど)

「猶予もしくは影を撫でる男」は音楽はミュージックコンクレート風の面白いものなのですが、映像は私はああいう汚いのは生理的にだめです。

奥山順市は音楽におけるCageなどと同様に芸術行為(あるいはパーフォマンス)としては非常に面白いと思います。(作品としては難しいところ)
「切断」はフィルムをつなぐのにスパゲッティや髪の毛を使ったりして、従って上映中に切断してしまうというものです。(それを編集したフィルム!)
「我が映画旋律」は光学的に記録してある音声の部分を映像として見せたり、逆に映像の部分を音声の部分に記録してその音を聴かせるというものです。

出光真子の「雪ヶ谷にて2」は月の光、木もれ日、反射する光などを通して光を造型しようとした一連の作品の一つです。
この作品が興味深かったのは、ちょうど同じ頃に私も光と闇を題材にした抽象的な写真を撮っていたからです。(埴谷さんの小説の影響もあったのですが)
点光源や線光源をカメラをバルブのままで撮り、カメラを動かすことにより光の軌跡で造形しようとしたものです。
でも、マン・レイの写真を見てから撮るのを止めてしまいしました。
現像もしないとこれ以上面白いことはできないと、その当時は思ったからなのですが。(私は面倒なのでしたくなかった)
今から思えば重要なのは、どんな技術を用いて表現されているかではなく、何が表現されているかなのですが。

最後に、野上純嗣の「すみつぐのつぐ」は今年のイメージフォーラムの大賞を取った作品だそうです。
でも、私にはその理由が理解できない。
日本の作家は一部の例外を除いて何故こうも生活の臭いが強く、しかもそれを抽象化もせずにそのまま使って平気なのか疑問に思ってしまいます。

参考までに上映された全作品のリストを挙げておきます。

<8月11日>

<8月13日>

<8月14日>

<8月15日>

<8月16日>

<8月17日>


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