日々の雑感 [2003/10-12]

今年はTurrellの"Roden Crater"が公開となる年、"Roden Crater"を観てしまったら、何を目標に生きれば良いのか。


ふたつの心臓

人間の身体にふたつの心臓があったら、そして、そのひとつが誰かの心臓に繋がっているとしたら...
ふたつの身体にひとつの心臓では近過ぎる。ふたつの身体にふたつの心臓では遠すぎる。
[2003/12/25]

大島早紀子、幻想を孕む『身体』

アメーバのような有機体が養分を摂取する時、アメーバの身体は、対象に近づかなければならない。だから「距離」と漠然と意識するもの、それが、アメーバの知る「空間」だろう。アメーバにとって「時間」はあるか。養分に接近するその動きを行動とみなすなら、その欲望の到達までに時間性は介在するだろう。くらげにとっては、上と下はあるだろうが、前と後はない。右と左もない。360度均一な身体だからだ。ある一定の進行する方向を持たないのだから、くらげには右や左、前と後という空間の概念は生まれない。生物は、予め「身体」に規定された意識しか持ち得ないのである。
(view point、セゾン文化財団ニュースレター、31 May 2003、「舞踊」雑考(H・アール・カオス 1997-2002)より)
[2003/12/23]

青い浸蝕、倉重光則展

「ブラッケージ・アイズ2003-2004」の合間に、横浜の神奈川県民ホールギャラリーに、倉重光則展を観に行ってきた。
パンフレットの写真を見ると、暗い中にネオンの光が浮かび上がって、かなり良い雰囲気だった。
しかし、実際には館内が明るすぎて、ネオンや蛍光灯の形による作品だった。
歪んで反射する床も今ひとつだった。
その中で比較的良かったのは、壁まで赤く塗った赤いネオンの「赤の時空」(2003)。
やっぱり、光そのものを扱ったタレルの作品に比べるべくもなかった。
[2003/11/23]

ブラッケージ・アイズ2003-2004

横浜の赤レンガ倉庫に「ブラッケージ・アイズ2003-2004」を観に行った。
横浜では昨日からこの3連休と来週の金土日に開催されている。
昨日は風邪で休養してしまい、今日は13時からのプログラム6と17時からのプログラム15を観た。

プログラム6:Scenes from under Childhood-A

プログラム15:Stan's Window

赤レンガ倉庫の1号館3階ホールは、まずまずの広さだが、外部の音が遮断されていないのと、スクリーンが小さかった。
プログラム6の初期の作品は、じっと観るのはつらくて寝てしまった。
映写機の音などが、ミニマル・ミュージックのように不思議な音階を奏でていた。

プログラム15の最初の2つの作品はサウンドが入っていて最悪だった。
それ以降は最近のハンドペイントの作品。
"Garden Path"(2001)は、Brakhageがフイルムをペイントしているところを、このプログラムの後にトークするMary Beth Reedが撮影している部分が興味深い。
"St. Tula's Pagoda"(2003)は、BrakhageがペイントしたフィルムをMary Beth Reedが撮った作品。
Mary Beth Reedのトークは、Brakhageが最晩年にペイントしたフィルムを、彼女がオプティカル・プリントを担当していた頃の話。
Brakhageは初期に目を閉じたときに現れるような"closed eye vision"の映像の実現を目指していた。
その頃から"visual music"というものを考えていたらしいが、ハンドペイントを行うようになって、頭の中のエネルギーを表現しようという"visual thinking"の映像の考えに至ったらしい。

2階では『リスポンド・ダンス』展が行われ、Brakhageの作品がプリントされて展示されていた。
これはむちゃくちゃ良かった。
私は空間認識能力と比較して、時間認識能力に劣っているので、映像や音楽やダンスの動きの理解が苦手である。
しかし、映像がプリントされ、時間が空間に展開されているのを観ると、初期の作品の訴求力の強さ、ハンドペイントの作品のあまりの美しさに圧倒された。
(写真の下の3枚は、左から"Mothlight"(1963)、"Dog Star Man"(1961-64)、Hand Paint Films(右から"Ephemeral Solidity"(1993)、"Commingled Containers"(1997)、"Rage Net"(1988))。
[2003/11/23]

西村佳哲『自分の仕事をつくる』晶文社

西村さんの『自分の仕事をつくる』の中で興味深かった言葉。

人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。(p.6)

しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることから、世界が変わる可能性もあるのではないか。(p.7)

デザインしなければならないのは、モノそのものではなく、それを通じて得られる経験だ。(p.74)

ファシリテーターとは、【Facilitate:容易にする、促進する】という言葉のとおり、トップダウン型のリーダーシップやディレクションとは異なる、支援者的な存在を指す。スポーツ選手に対するコーチは、その分かりやすい一例だろう。(p.108)

ファシリテーター10カ条 (p.121)

  1. 主体的にその場に存在している。
  2. 柔軟性と決断する勇気がある。
  3. 他者の枠組みで把握する努力ができる。
  4. 表現力の豊かさ、参加者の反応への明確さがある。
  5. 評価的な言動はつつしむべきとわきまえている。
  6. プロセスへの介入を理解し、必要に応じて実行できる。
  7. 相互理解のための自己開示を率先できる、開放性がある。
  8. 親密性、楽天性がある。
  9. 自己の間違いや知らないことを認めることに素直である。
  10. 参加者を信頼し、尊重する。

何になりたいからなるっていうより、あれは嫌だからこっちだなっていうくり返しの結果、何かこう追いつめられるようにして、自然に現在に至っている感じ。現在の仕事は、ドロップアウトの延長上にあるんです。(p160)

みんなが自分の仕事を、本当に自分の必要な身の回りのものをつくり出すことだけに向けたら、環境への悪い影響もなくなるんじゃないかな。(p.188)

成果は目標ではなく結果にすぎない。(p.245)

人は能力を売るというより「仕事を手に入れる」ために、会社へ通っている。そんな側面はないだろうか。
...
ところで、私たちが会社から仕事を買っているとしたら、そこで支払っている対価はなんだろう。それは「時間」である。そして時間とは、私たちの「いのち」そのものである。(p.257)
[2003/11/22]

第59回メンタルケアのスペシャリスト養成講座の基礎課程

第59回メンタルケアのスペシャリスト養成講座の基礎課程を受けた。費用は13万円。
講座は慶大の三田キャンパスで、9月28日、10月13日、11月2日、3日、9日の5日間の10時から16時45分に行われた。オリエンテーションが適切でなかったために、メンタルケアの全体像が理解できず、それぞれの講義の位置付けが不明確であった。また、講義態度、講義内容に関して、講師のレベルに大きな差があった。そして、質問時間をほとんど取らなかったのは問題だと思う。
以下はそれぞれの講義に対する寸評。

なお、講座の最後に提出するレポートの出題内容と提出内容
[2003/11/16]

バレエ・プレルジョカージュ「ヘリコプター/春の祭典」

バレエ・プレルジョカージュの「ヘリコプター/春の祭典」を、11月7日の金曜日に新国立劇場の中劇場の1階10列27番で観た。
プレルジョカージュを観るのは初めて。
かなり昔に「肉体のリキュール(1988)」の公演があって、チケットを買おうとしたら売り切れだったことがある。
今回は「ヘリコプター」というシュトックハウゼンの「ヘリコプター・カルテット」に振付けたものと、既に多くの振付家が振付けているストラヴィンスキーの「春の祭典」である。
時間ぎりぎりで急いで来たこともあり、11月というのに本当に暑い。

「ヘリコプター」は最初にステージの床全体に、ヘリコプターのプロペラの回転を模した映像が映し出される。
男性ダンサー3人と女性ダンサー3人が、ヘリコプターのプロペラの回転を模した動きを、ソロや複数のダンサーが絡み合って表現する。
特に複数のダンサーによる動きの連鎖を多用していたが、動きそのものは音楽と同様に単調に感じた。
床の映像は途中から波面のような映像になり、ダンサーの動きと波面の変化の絡み合いは非常に面白い。
ただ、席が1階席の前から1/3あたりで、高さが十分でないために、床の映像が見にくかったのが残念だった。
もっとすり鉢状のホールでやれば面白かったと思う。

「春の祭典」は本当に多くの振付家が振付けている。
プレルジョカージュの男性ダンサー6名と女性ダンサー6名による振付は、男女の荒々しい性愛が直接的に表現されて戸惑ってしまった。
最初に女性ダンサーがパンティを脱ぐところはまだしも、途中の男女の直接的な絡みとか、最後には一人の女性が生贄となり、裸にされるのはちょっと直接的過ぎるように感じた。
まあ、ストラヴィンスキーの曲の初演とか、ニジンスキーによる最初の振付はもっとスキャンダラスだったのだろう。
今のところ「春の祭典」はH・アール・カオスのが一番好き。
[2003/11/8]

H・アール・カオス、生命の魅惑と恐怖

10月16日の木曜日の17時から慶大の日吉キャンパスの来往舎イベント・テラスに、H・アール・カオスの振付家の大島さんとプリマダンサーの白河さんら出演の公開講座「生命の魅惑と恐怖」スペシャルエディションのレクチャー&パフォーマンスを観てきた。
日吉キャンパスにこんな立派な建物ができたとは知らなかった。

慶大教授で舞踊評論家の石井達朗氏との対談を中心に、「春の祭典」のビデオ、「エラン・ヴィタール」の冒頭の白河さんによるダンス、「カルミナ・ブラーナ」のビデオ、「砂漠の内臓」のビデオ、「神々を創る機械」の最後の白河さんと木戸さんと小林さんによるダンスが行われた。
まず驚いたのは、パフォーマンスのダンスが公演さながらに踊られたこと。
白河さんはそんなに歳が違わないというのに、一切れの贅肉もない見事な身体による素晴らしいダンスだった。
しかし、「砂漠の内臓」の砂が情報を表現しているとは知らなかった。
パフォーマンスの「エラン・ヴィタール」と「神々を創る機械」は対になった作品で、前者が生で後者が死を表現しているらしい。
「神々を創る機械」を踊る白河さんを観て、ヘビースモーカーである大島さんと白河さんが、タバコで命を縮めて欲しくないと切に思った。

公演後に大島さんを控え室の前で見つけてお話をした。話の内容は秘密。
[2003/10/16]

ダンス情報などもろもろ

Rosasの"Rain"の公演で貰ったパンフレットなどから面白そうなものをもろもろ。

H・アール・カオスの公演が来年の2月5日〜8日に世田谷パブリックシアターであるらしい。
11月22日に前売りだが、その前にファンクラブの優先前売りがあるはず。
9月のパルテノン多摩での公演を見逃したので、これは必見。

ちょっとカオスのHPを覗いて見たら、10月16日の木曜日の17時から慶大の日吉キャンパスで、カオスの振付家の大島さんと、プリマダンサーの白河さん出演の公開講座「生命の魅惑と恐怖」スペシャルエディションがあるらしい。
レクチャー&パフォーマンスということで
むちゃくちゃ楽しみ。

11月7日〜9日に新国立劇場の中劇場でアンジュラン・プレルジョカージュの「ヘリコプター/春の祭典」。
プレルジョカージュはずっと見逃してきたので観たいような気がする。

10月17日に"Koyaanisqatsi"、18日に"Powaqqatsi"というPhilip Glassの映像作品&生演奏。
興味はあるのだが、生演奏にそれ程の価値を感じず、S席9,500円は高い。
[2003/10/12]

Rosas "Rain"

10日の金曜日にさいたま芸術劇場にRosasの"Rain"を観に行ってきた。
RosasはAnne Teresa De Keersmaekerが率いるベルギーのダンス・カンパニー。

音楽の構造に忠実で、ちょっと可愛い仕草のような振付が特徴だ。
今回の公演では、ジョーン・バエズの曲を使った
Keersmaekerのソロ・ダンスの"Once"と、Steve Reichの"Music for 18 Musicians"を使った"Rain"があった。
埼玉まで2回は遠かったので、好きなReichの曲を使って、バリエーション豊かそうな"Rain"にした。

"Rain"は3人の男性ダンサーと7人の女性ダンサーによる作品。
舞台の上方の円形の枠から垂らされたロープが背景のカーテンになっており、これが揺らされたときの動きが美しい。
ダンスは10人のハーモニーが微妙に変化して行き、
特にデュオでは相手を蹴ったりして、動きの連鎖を作っていくところが面白かった。
衣装も微妙に一人ずつ変えていっていた。
[2003/10/12]

RosasのDVD

RosasのDVDがダゲレオ出版から出ているのを見つけた。

それは嬉しいのだけれども、この"Fase"の内容の公演が、昨年の12月にさいたま芸術劇場で行われていたとは知らなかった。最近はバレエやダンスに関して情報不足でがっかり。

"Rosas Danst Rosas"は以前のビデオの内容に、公演の映像が入っているのが嬉しい。来日公演を思い出す。

"Fase"はすべてSteve Reichの初期の曲に振付けたもの。
Reichの初期の曲は大好きなものの、Keersmaekerに忠実に再現されるとちょっと退屈。
良く考えてみると、Reichの曲はあまり意識的に聴くことはなく、無意識に曲の微妙な変化に身を任せている。
それがダンスを観ることで、意識化されてしまっているのが原因のようだ。
無意識の目を持ってダンスを観ること。
しかし、"Violin Phase"の灰の上に描かれていくダンスの軌跡は美しい。

[2003/10/12]


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