今年はTurrellの"Roden Crater"が公開となる年、"Roden Crater"を観てしまったら、何を目標に生きれば良いのか。
最近、オーストラリアからWilliam Forsytheの"Limb's Theorem"について書いてきた人がいて、メールを交換していたら、Sylvie GuillemがForsytheの"In the Middle Somewhat Elevated"を踊っている下記の映像が日本以外では手に入らないらしい。
l) Sylvie Guillem (1993) [PILC-1161, Pioneer]
<Episodes (M.Bejart), Swan Lake (M.Petipa), In the Middle Somewhat Elevated (W.Forsythe), Sissi (M.Bejart), Manon (K.MacMillan), Wet Woman (M.Ek)>
ちょっと気になってWillemsのCDを調べてみたら、新しいCDがフランスのAmazonで見つかったので注文。
こういうときにAltaVistaの翻訳機能は便利だ。
c) Thom Willems / Enemy in the Figure (2003) [472721-2, Accord, Universal Classics France]
<Enemy in the Figure (1989), Of Any If And (1995), Pas./Parts (1999)>
また、iPodのWindows用ソフトのmusicmatchに検索機能が付いていたので、ここでもWillemsを調べてみたら、なんとWillemsの曲を含めたForsytheのバレエの音楽を集めた"Music
For William Forsythe"というCDが、1999年にドイツのWhatnessというレーベルから出ているらしい。
しかし、Amazonの検索には引っかからず、Whatnessでも売り切れていた。
ポルトガルのショップのHPに載っていたのを見つけたけれども、まだ売れ残っているかどうかメールで確認中。
それから、バレエ関係のお店フェアリーのHPで「フォーサイス・イン・ニューヨーク〜NYCB、振付の記録〜」という1989年のビデオが販売されていた。
"Impressing the Czar"(1988)と"Behind the China
Dogs"(1988)のリハーサルが入っているらしい。
即注文。
[2003/6/14]
松下電器の「ミュージックソムリエ」という感性に基づいた選曲システムに、iPodに入っている曲を入れて自分の音楽を嗜好性を見てみた。
曲から、テンポ、ビートなど8つの特徴量を抽出して、Quiet-Active(縦軸)とHard-Soft(横軸)にマッピングするらしい。
縦軸は「にぎやか⇔静か」という能動因子らしく、曲の音量から計算しているようで、横軸は「機械的⇔人間的」という情動因子らしく、曲の周期性からの揺らぎのようなものを見ているようだ。
[2003/5/31]
以前に「都市のサウンドスケープ」で、自動車の騒音が音の遠近感のような都市のサウンドスケープを完全に破壊してしまったと書いた。
ところで、「音の遠近感って何だろう?」というのが今回の話題である。
「感覚・知覚心理学ハンドブック」(誠信書房)の「両耳による知覚:音像の空間的印象:音像の距離感」によると、音像の距離感に寄与する主な要因は下記の4つらしい。
最初の3つは単耳(?)によるもの、最後の1つは両耳によるものである。
これを視覚と比較してみると面白い。
視覚の単眼の「調節機能」、「透視変換」、「運動視差」、「視野」による距離知覚に対応するものは、聴覚にはなさそうである。
視覚の両眼の「輻輳」による距離知覚も同様であるが、ウサギのように耳を動かせる動物なら可能かもしれない。
視覚の両眼の「視差」による距離知覚に対応するものは、まさに聴覚の「両耳間のレベル差、時間差、相関係数」である。
聴覚の単耳の「音の大きさ」による距離知覚は、音の大きさに関する知識がある場合の距離知覚で、視覚の単眼の「親しみのある大きさ」による距離知覚に対応する。
聴覚の単耳の「音色」による距離知覚は、高周波成分の多少による距離知覚で、視覚の単眼の大気中のちりや水蒸気によって暗くなったりする「大気遠近法」による距離知覚に対応する。
聴覚の単耳の「直接音と間接音のレベルの比」による距離知覚に対応するものは、視覚にはなさそうである。
[2003/5/17]
ダンスと映像とサウンドのパフォーマンスを行うb66/cellによる「DANCE & MEDIA ART PERFORMANCE
test-patches」を、5月16日に赤坂のドイツ文化センターに観に行ってきた。
HPを見て期待が大きかっただけに、ちょっと求めるものとは違った感じだった。
映像とサウンドはまずまずだったものの、ダンスがコミカルな動きと舞踏的な動きが中心で、ちょっと個人的な好みとは離れていた。
また、ダンサーがジャイロセンサを身に着けることにより、インタラクティブな映像となる部分もあったようだ。
しかし、新しい表現ができているとは思えなかったし、従来の映像やサウンドにダンサーが合わせるやり方と比較して、ダンサーが楽になったかどうかもわからなかった。
恐らく、実際にダンサーのように体験してみれば、その面白さを実感できたのかもしれない。
それから、Saccade-based Displayという人間の眼球運動(サッカード)による残像を利用したディスプレイは面白かった。
これは縦一列にLEDを並べたディスプレイであり、LEDの明滅が網膜上では、その人固有の眼球運動により平面図形に見えるものである。
舞台では、横に4つ並べられたディスプレイの間に、円や菱形などの幾何学模様が現れていた。
幾何学模様は手前にいるダンサの上にも見え、立体視の条件の整合性が取れず、不思議な感じに見えるということだった。
しかし、この効果はディスプレイとダンサとの距離が近かったため今ひとつであり、目の前に指を出して確認してみれば良かったと後悔した。
[2003/5/16]
以前に「自由意志」で書いたことが、Tor
Norretrandersの「ユーザーイリュージョン―意識という幻想」(紀伊国屋書店)にも載っていた。
ちょっと感じが違うので再録。
意識に関して良く取り上げられるのは、コーンヒューバーの実験やリベットの実験である。
筋肉を動かすときには、脳に準備電位というものが現れる。
例えば、指を曲げようとすると、指が動く前に脳に準備電位が現れる。
リベットの実験は、この指を曲げるための準備電位の現れる時刻と、指を曲げようと意識した時刻との、前後関係を調べた実験である。
常識的には、指を曲げようと意識してから、脳に準備電位が現れ、そして指が動くという順序に思われる。
しかし驚くべきことに、指を曲げようと意識する時刻の0.35秒前に、指を曲げるための準備電位が現れるのである。
つまり、短期的には自由意志は存在せず、「意識的な自分」は「無意識的な自分」の行為を後から意識することがある。
もちろん、短期的にも「意識的な自分」は「無意識的な自分」の行動を抑制することはできると言われているし、長期的には「意識的な自分」が「無意識な自分」に影響を与えていることは明らかである。
しかし、「意識的な自分」が無意識的な自分も含めた「真の自分」のほんの一部に過ぎないことも確かである。
これはリベットの実験だけに限らず、心理学において感情が認知的 *1) であることや、分離脳患者の実験 *2) からも支持される。
「意識的な自分」が「真の自分」のほんの一部に過ぎない。
従って、単純に「意識的な自分」から「真の自分」を知ることは困難である。
瞑想などの変性意識を利用した「意識的な自分」をなくすという方法でも、「真の自分」には到達できるとは思えない。
この「真の自分」を知るためのひとつの方法は、外から自分の行動を観察することである。
一般的に、言語(意識)は建前で行動(無意識)は本音と言われている。
また、コーチングにおいて自分のミッションを知る方法も、過去の特に子供の頃に大切にしていたものから判断する。
自分の行動を観察できるという点で、LifeSliceは「真の自分」を知るためのひとつのツールになりえると思う。
*1) 感情が認知的であるとは、「悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか」という問題として良く取り上げられる。
「悲しいから泣く」のように、脳内で感情がまず生起してから、表出されるのではなく、感情が認知的であるという立場は、「泣くから悲しい」のように生理的な変化がまず生じて、その無意識の認知(知覚)によって感情が生起すると考える。
(ヌード)写真に対する興奮の自己認知において、偽の心音をフィードバックする「偽の心音実験」や、吊り橋で出会った人に好意を抱く「吊り橋実験」などから、感情が認知的であるという立場が支持されている。
*2) 分離脳患者の実験とは、左脳(大脳左半球)と右脳(大脳右半球)とを結ぶ脳梁を切断された患者に対して、左脳と右手・右脳と左手のそれぞれに対して別の作業を遂行させるという実験である。
意識でき、言語で報告できるのは、左脳と右手による作業のみである。
しかし、左脳は直接的に知ることのできない右脳と左手の作業を、見ることによって間接的に知り、無意識のうちに適当にでっち上げて報告する。
[2003/5/10]
下條信輔の「サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ」(中公新書)によると、人間の記憶は宣言的記憶と手続き的記憶に分かれているそうだ。
宣言的記憶はいわゆる記憶で、意味記憶やエピソード記憶のように、意識的にアクセスできる顕在的記憶である。
手続き的記憶は自転車の乗り方のような記憶で、意識的にアクセスできない潜在的記憶である。
宣言的記憶は系統発生的(進化論的)には比較的新しく、個体発生的にも手続き的記憶が先に発達するようである。
生後一、二年目までのことを覚えていない乳児性健忘の理由は、個体発生的にまだ宣言的記憶が発達していないために、赤ちゃんのときの記憶にアクセスできないかららしい。
ただ、意識的にはアクセスできないものの、手続き的記憶としては存在するので、人格形成には決定的に影響を与えるそうだ。
[2003/5/10]
心理学で「色の恒常性」というものがある。
「白い紙は明るいところでも暗いところでも白く見える」とか「サングラスをかけても空は青い」などである。
本当は、白い紙は暗いところでは灰色になっている。
これがLifeSlice Colorにもはっきりと現れているのではないか。
木々の緑とか空の青とか、はっきりした色に思えるのに、LifeSliceの画像を分析してみると、はっきりとした色が出ない。
もちろん、ひとつの原因は色の平均をとっていることに問題がある。
マジョリティの色を取った方が良いかもしれない。
しかし、もっと根源的な部分には「色の恒常性」の問題がある。
いわば人間の思い込みが、例えば白っぽい空を「青」く見せている。
もちろん、この思い込みは完全に仮想的なものではなく、感覚器官とか脳とかで実際に物理的に補正されているはずである。
と言うことは、色の心理的な影響も、「色の恒常性」によって補正された色に影響を受ける。
だからLifeSliceの画像の色を見ても、それだけで色の心理的な影響を推し量ることはできないと思う。
確かに心理的な景色は彩度が高いようにも思う。
「色彩科学ハンドブック」(日本色彩学会編)の「色の心理的特性」に「記憶色」というのが載っており、りんごの赤とか、バナナの黄のように、記憶における色は彩度が高いようだ。
[2003/5/10]
"Colors"という花屋の花を貰った。
[2003/4/25]
最近、人生に大きな岐路があった。
昨夏からストレスで体調を崩していたのだけれども、それを機会にカウンセリングやコーチングなどの勉強をし始めたら、自分のミッションがはっきりと見えてきた。
これまでを振り返ってみると、確かに自分のミッションに近いことをしていたのだけれども、それはストレスで容易に崩れ去るようなものだった。
そのミッションを実現するために、会社の中で異動するか、会社を辞めるかという瀬戸際だった。
どちらに転んでも、自分のミッションを実現する方法は考えてあったので、どちらが良かったのかはわからない。
しかし、よりリスクの少ない異動の方が決まったので、そちらの道を選ぶことにした。
しかし、人生は偶然と呼ぶのにはあまりにも不思議なことが多い。
コーチングの本を読んでいなかったら、自分のミッションを明確にすることはできなかったかもしれない。
そして、今の素晴らしいコーチに出会うことはなかっただろう。
また、異動先にしても、その部署があることを知ったのは、外部のメーリングリストに、そこの部署の人がたまたま投稿したからだった。
私あるいはその人がそのメーリングリストに入っていなかったら、私がそのメールをたまたま読まなかったら、そのメーリングリストに入るきっかけとなった別の人に出会っていなかったら。
こんなにいっぱいの偶然によって今の自分がある。
[2003/4/20]