からむこらむ
〜その192:ころりころり〜
まず最初に......
こんにちは。1月も半ばとなりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
いやぁ、何やら気温の高低がおもむろに激しくなりましたね。お体にはくれぐれもお気をつけを。
さて、今回のお話ですが。
え〜、結構考えたのですが、最近やっていないなぁ、という分野の話がありますので、そういう方面の話をしようかと思います。
ま、非常に有名で名前を聞いたことの無い人はおそらくいないでしょう。しかし、名前は有名でありながら昨今ではその実情をよく知らない人が多いと思われることも確かです。また、その歴史もあまり知られていません。
日本でも200年に満たない歴史しかない物なのですが.........
それでは「ころりころり」の始まり始まり...........
世の中には「必要は発明の母」などという言葉があります。
この意味は特に説明の必要はないでしょう。まさに文字通り、です。一方、このような言葉の類似として、公衆衛生の分野では「発明の母」ならぬ「衛生の母」なるものがあるようです。
それはいったい何なのか?
今回は、その話をしてみようかと思います。
日本の歴史を見ますと、江戸時代というのは一つの大きな時代として扱われます。
江戸時代という時代は大体「トピック」ごとにさらに区分をすることが出来ます。たとえば、文化から「元禄文化」とその後の文化文政の、いわゆる「化政文化」と言われる様なわけ方を出来ます。一方で、政治や情勢から区分もすることが出来ます。細分すると際限が無いですが、五代将軍綱吉の頃の前後で一つの区分(武断政治から文治政治への変革期)としますし、またその後の3大改革(享保、寛政、天保)を経て開国・幕末という部分でまた一つの区切りをする傾向にあります。
ま、受験とか教科書見るとこういうわけ方はよくされていますが.......一応、ちゃんとした社会情勢の変化があるので、根拠はちゃんとあるものです、念のため。
ところで、開国から幕末という時代はよく知られるように一つの大変革期でした。
ペリー来航から本格化する開国の流れは、鎖国状態であった日本に大きな変化を及ぼしました。それは大量の異文化・異世界の流入でして、これにより行き詰まっていた国内は一気に動き出します。事実、倒幕への動きは開国が極めて大きな役割を果たしたことは言うまでも無いでしょう。
その開国ですが、よく知られているように1853年にペリーが日本に来航した事から本格的に動き出します。そして翌1854年(嘉永7年、安政元年)に日米和親条約を締結して開国の運びとなります。これにより日本は開国するわけですが.......そのさらに数年後の1858年、井伊直弼が大老になり、独断で日米修好通商条約を6月に締結(その後数ヶ月で各国と同様の条約が締結)。そして、その翌年にかけて橋本左内、吉田松陰らをとらえて死刑にする.......というのがいわゆる「安政の大獄」となります(これもまたかなり色々とありますが)。もっとも、翌1860年に井伊は桜田門外で暗殺、世に言う「桜田門外の変」でこの世を去ることになりますが。
しかし結局は井伊が倒れても、開国の流れは着実に日本を倒幕へと向かわせることとなりますけどね........
そしてその井伊直弼が大老につき、日米修好通商条約を結んだ1858年。
この年、日本は非常に大きな災禍に見舞われることとなります。そのきっかけは7月、長崎の出島に入港した米蒸気船ミシシッピ号から始まります........これはオランダの医師で、江戸時代末期の医学に大きな影響を与えたポンペが『日本滞在見聞記』に記録していおり、この船の入港後、同船の乗務員と出島の人たちの間で激しい下痢と腹痛、嘔吐を訴えるものが相次ぎます。これをポンペは長崎奉行所に報告をするのですが、この症状を訴えるものは拡大しててやがて九州・四国に広まり、さらに大坂、京都、江戸と三都を通ってついには奥羽を越えて箱館(函館)にまで及ぶこととなります。
この拡大は極めて急速であり、そして症状を見せたものは短期間で命を落とすものが多くいました。記録によれば夏場のわずか50日間で3万余が死んだとも言われています。当時の瓦版では江戸市中の火葬の総計は12万3000余、『武江年表』では2万8000余と残されているようです。ま、後者が信ぴょう性が高いと考えられていますが。
一方、他の説によると江戸では1年で4万とも、そして流行が収まるまでの数年間に10万余から26万余もの人名が失われたという記録もあるようです。全国では.......推して知るべし、でしょうか。
これが日本史上最大の疫病災害の一つである、伝染病「コレラ」の大流行でした。この時のコレラは一般に「安政コレラ」と呼ばれています。
さて、日本でのコレラ。
もともと、日本では1822年に発生していました。その時に長崎のオランダ人から「コレラ」を教えてもらったと言われているようで、当時の名だたる蘭方医達はこの時に初めてコレラを知ることとなります。その中の一人である大槻玄沢などはこの病気を詳細に記録していまして、症状の詳しい記録がされているようです。
この当時にはすでに罹患者は「三日でころり」と死ぬ、ということと、コレラという名称から「三日コロリ」などと言われていたようですが......ただ実際には半日で死ぬこともありましたし、「コロリ」という言葉自体はもっと古いものだそうで、元禄時代にはこの言葉があるそうです。もっとも、それがコレラを示すのかはわかりませんが........(個人的には元禄のは別の病気ではないかという気がしますけど)
とにかくも1822年の発生は九州〜中国地方〜大坂で比較的規模が大きく発生した(中国か朝鮮半島から来たと見られています)ようですが、安政コレラに比べればまだまだでして、安政コレラはその規模から明確に社会問題になるほど深刻なものでした。
では人々はどうしていたのか?
江戸市中では鎮守の神輿を担いで厄除け.......をしようとしたものの、ちょうど将軍家定逝去の直後ということで、うちわになぞらえた八つ手の葉を軒端にぶら下げて魔よけとしたなどあるようです。
しかし当時はコレラの原因は一切不明で、各地で大混乱を起こしました。最初の頃は「三日コロリはある種の毒が大気中にあり、これが体にはいると発病する」と信じられていた、つまり空気感染するものと思われていたようです。これは拡大の早さもおそらくこの説を手伝ったとも思われますが........ただ、日本の医者は黙って見ているわけではありませんでした。オランダ人医師などから知識を得るなど蘭方医達も奮闘してようで、さまざまな活動をしていたようです。もっとも「三日コロリの原因」には酒、ソバ、カキ、クリ、ウナギ、ネギなどが挙がっていたようですが.........そしてこういった中でも「元凶」とされていたのが魚類であり、その代表格にはイワシが挙げられていました。市中に「イワシを食べれば三日コロリになる」という説が出回ってついには誰も食べぬようになり、漁村は商売上がったり、となったようです。一方で鶏卵や野菜は大丈夫、と言ううわさが広まってこれらは非常に良く売れたとか。
その結果、当時の風刺画には擬人化した「野菜」と「魚類」が戦をする、と言う様な絵があるそうですがね.......ちなみに、当代随一の浮世絵師であった安藤(歌川)広重はコレラによって命を落としたと言われているようです。とは言っても、異論もあって真相は不明ですが。
三日コロリの元凶探索はまだありまして、イギリス人将兵が長崎で井戸を探していた、ということから「イギリス人が井戸に入れた毒が原因だ」という説も流れたとか。そういうことで、一時期は「イワシとイギリス人」が同列に嫌われることになったようですが.......他にもやはり定番ですが、「物の怪」説が出まして「きつねが取り憑いた」他類似の説が大量に流れ山伏が「大活躍」、お札・魔よけの類いは売れに売れ、またそれで大もうけしたとか云々あるようです。もちろん、まじめに知識のある人は本を書いていろいろとしたようです。たとえば、緒方洪庵(適塾で有名)は『虎狼痢治準(これらちじゅん)』という本を、新宮源民らは『コレラ病論』という本を世に出しています。もっともこれらはいずれも翻訳物で、「必要に迫られたから出した」と言う物だったようですが。
尚、原因とされる噂ですが........魚類・イワシの根拠は良くわかりませんが(すぐ傷むとかそういう問題ではないでしょうか?)、外国人をターゲットにした「原因」説は理由があった上に信じられたようです。これは、開国の流れに反対していた勢力の流した流布など諸説ある様で、当時の社会情勢にきっちりと結びついたものとなっています。
ところで、コレラを世界史上でみるとどうか?
世界的に有名な伝染病、というものはいろいろと知られています。たとえばペストや天然痘、結核はかなり長い間歴史に記録されているもので、結核などは今でも問題になっています。これらの伝染病は「古くからの」定番といえるものでしたが.........しかし、皆さんはコレラが流行したのはいつごろからかご存知でしょうか? 紀元前? 3世紀? 7世紀? 10世紀? まぁ、いろいろと意見はあるでしょうが.......実はコレラが世界規模で歴史に出てくるのは19世紀以降となっています。
そう、まだ実は200年も歴史が無い、実に新しい国際的な伝染病です。
もともとコレラはインドのガンジス川の、特に下流のベンガル地域の三角州地帯での風土病的な性格を持つ伝染病だったと言われています。しかし、イギリスによるインド支配が進むと、当然イギリスはベンガル地域に侵入。そして、そこでコレラに感染した人間が帝国主義全盛の、領土の激しい取り合いをしていた各地へと出ていって、やがて感染が拡大していったと言われています。これは、昔では考えられなかった文明諸国による交通の活性化が大きく関与していまして、文明の影響で広まっていった伝染病の例の一つとなっています。
その拡大は着実かつ急速なものでした。
最初にコレラの発生が確認されたのは1817年で、イギリスがインド支配を確定的にした第三次マラーター戦争の起きた年でした。そして、その後カルカッタ(現コルカタ)でコレラが大発生し、その後北上の後に西進してシリアへ行きます。一方、東進したものもありまして、それらは東南アジア沿岸を経由(船によるものでしょう)して中国に侵入し、1822年、つまりわずか5年で日本に到達します。
この様な流行の拡大は1817年から23年まで続きまして、これがコレラの第一次パンデミー(世界的流行)と呼ばれています。
第一次パンデミーから数年後の1826年には早くも第二次パンデミーが始まりまして、この時には北進してロシアに侵入し、1829年にはモスクワに到達。やがて南下してヨーロッパを襲うこととなります。まずは東欧のポーランドとオーストリア地域で大流行をし、隣国ドイツにはダンチヒ経由で流行が拡大。そして哲学者ヘーゲルはこの時にコレラにやられ、論敵ショーペンハウエルは避難を余儀なくされます。
その後もコレラの拡大は続き、32年にはフランス、33年にはスペインに渡り、34年にスイス、35年にイタリアへと広がります。大陸だけではなくイギリスにも渡っていまして、これを機にイギリスからアメリカに脱出する人が激増。同時にアメリカにコレラが渡ることとなりまして、これによってアメリカでもコレラが大流行し、あっという間に大西洋から太平洋側まで到達。
これによってコレラは「世界制覇」をすることとなります。
この第二次パンデミーは1826年から37年まで発生しました。もっとも奇妙なことに1838年に忽然と消えることとなり、これでコレラの流行が一段落することとなりますが..........
しかし、平穏は長く続きません。その後わずかの間を置いて第三次パンデミーが発生することとなります。
1840年頃から始まった次の流行は、ヨーロッパでは1842年にハンブルクで確認されてから拡大し、1860年まで流行します。日本はこの第三次の時に本格的な大流行を起こしまして、これが上に説明した「安政コレラ」でした。
ところでコレラとはどういう病気か?
具体的な原因などは後述しますが、簡単にここで説明をしておきますと、主症状として下痢を引き起こす病気です。とは言っても「単なる下痢」なぞではありません。極めて強烈な下痢でして、あっという間に脱水症状を引き起こして対処をしなければ二三日、早いと発症したその日のうちに死んでしまうという病気です。
「たかだか下痢でしょ?」とそれでも思う人がいるかもしれません。
でも、こういう情報を示したらどう思われるでしょうか.........大体、コレラによる下痢便の量は一日に10リットル以上、多いと数十リットルに及びます。人間の約70%は水である、ということを知っている人は多いでしょう。あなたが仮に60kgの体重として、その7割の42kg=42リットルは水ということになります。人間は大体一日2リットル前後の水が必要といわれています。つまり、単純に言えばその程度の損失が毎日生じているわけです。
これに対して単純に下痢便のほぼすべてが水として、1日10リットル抜ければ? あなたの体重は一日にして60kgから50kgへ落ちます。どんなにハードなダイエットもそこまではいけないでしょう。しかも生命に必要な水が10%以上も損失すればそれは致命的なダメージです。
そして、何よりも厄介なのはこの病気は極めて感染力が強い、という点がありました。
この二つ、つまり死に至る程激しい下痢による衰弱に、極めて強い感染力は大流行とそれに伴う多数の死者を説明するには十分な物でしょう。事実、度重なる大流行も相まって、各国ともコレラには戦々恐々とする羽目になります。
では、このコレラそのものの原因は何なのか?
流行は相変わらず続いていました。第三次の後に程なく第四次が起こり、さらに1881年から96年まで流行した第五次パンデミー(発見からわずか70年足らずで5回も起きている!)も起こりますが.........この時、ドイツのとある医師が歴史に登場することとなります。
第五次パンデミーの間の1883年、アジアで発生したコレラはエジプトへ侵入します。コレラが発生したアレキサンドリアへこの医師は調査のために派遣され、そして歴史に登場することとなりました。
その人物は?
この人物の名はローベルト・コッホ(Robert Koch)。微生物学・医学において燦然と名を残す彼は、コレラの原因を追及することとなります。
さて、コッホはこの頃にはすでにヨーロッパでは一目置かれる人物でしたが、当初は「単なる田舎の開業医」でした。
コッホについては微生物学および医学、衛生学などの側面で非常に書くべきものが多い人物ですので、あれこれ書くことは今回はスペースの都合上出来ませんが.......簡単にこの時までの経緯を書いておくと、もともと東プロシアのヴォルシュタインというところで開業医をしていたのですが、この片田舎での刺激のない生活にうんざりしていた時、27歳の誕生日に妻が顕微鏡をプレゼントしたことから微生物に熱中することとなります。
そして、最初の業績はその頃流行していた炭疽病による家畜の被害を調べたことでして、その結果炭疽病の原因となる菌、つまり炭疽菌を発見。これをブレスラウ大学のコーン教授に報告し、彼の指導によって植物学の雑誌にこれを報告。これにより炭疽菌はBacillus anthraxと命名され、世界中に知らされることになります。
#この時、微生物学の大家パスツールが彼を強力に支持したようです。
その後、ヴォルシュタインに戻ったコッホは、彼の発見が世界中を騒がしていることも知らずに過ごしていたそうですが、1880年にベルリンの国立衛生院に呼ばれ、そこで病原菌の研究に着手します。
彼はここでめきめきと頭角を現しまして、まず現在でも一般に使われる微生物の平板培養法を開発。これによって微生物の培養法を大きく改善します。さらにその後、19世紀に甚大な被害を与え続けていた伝染病である結核の原因となる結核菌を発見。これを1882年に発表し、これが非常に多くの評判を得ます。これは当然でして、治療困難で死に至る確率が高かった結核の原因を見つけ、これが治療法の研究への足がかりとなるからでした。
その後1884年に「コッホの原則」と言う、病気と微生物の関連を説いた原則(ある意味基本で「病変部から菌が見つかること」「微生物が純粋に培養されること」「他の個体に接種して同じ症状を出すこと」「同じ病気の個体から同じ菌が見つかること」といったものです)を打ち立てます。これは今でも十分に通じる物となっています。
そして、1905年には彼の功績が認められてノーベル医学・生理学賞を受賞するのですが.........
さて、そのコッホが結核菌の発表をした少し後の1883年、エジプトのアレキサンドリアでは上述の通りコレラが発生していました。
この調査のため、コッホは助手を伴って派遣されます。一方、フランスからもパスツール研究所から二名が派遣されます.........調査の目的はもちろん「コレラの原因は何か」なのですが.........しかし、彼らがアレキサンドリアに到着すると、タイミングが悪かったのかここでのコレラは下火になります。
そういうことで、あまり積極的な調査は出来なかったのですが..........しかし、下火になったとは言えどコレラはコレラ。フランスのグループの内一名はコレラに感染して死亡してしまうと言うアクシデントがありました。
結局、一通りの調査を終えた彼らは本国へと帰ることとなります。フランスのグループは訃報を携えて、コッホは現実にはどうなのかも良くわからないサンプルを携えて。
こうして帰国したコッホは、採取したサンプルを調べます。
このサンプルはコレラ症状を見せる患者から取ったもので、この中には欧文のカンマ(=「,」)型をした微生物がいました。これが気になっていた彼は、おそらくこの微生物がコレラを引き起こす菌ではないかと考えるのですが.........しかし、どうにも確証が得られない。とりあえず政府へアレキサンドリアでの報告書を提出の後、今度はインドに向かうこととなります。
インドには多数のコレラ患者がいました。インドでもし同じ微生物が確認できれば.........そしてしばらくの後、実験用のマウスを携えて彼はインドへと向かうこととなります。そして、インドについて調査を開始するのですが、ここでは極めて大きな収穫を得られました。つまり、彼のにらんだカンマ型の微生物はコレラ患者やその糞便、着衣などに認められた一方、どうも健康体の人には見つからないらしい。
自信を得た彼は、採取したコンマ型の微生物を培養した後、実験動物を使ってこの微生物がコレラの症状を引き起こすことをついに確認・証明をします。
そして帰国した後、コレラを引き起こす菌の存在を発表。同時に「コレラは衛生状態の改善で防ぐことが出来る」と主張します。
アレキサンドリアに渡った翌年の1884年の事でした。
こうしてコッホはコレラの原因菌を発見した、と言うことで評判を得る.........はずだったのですが、ところがこの後に一騒動起きてしまうのですが.........
さて、取りあえずこれ以上は長くなりますので。
今回は以上、と言うことにしておきましょう。
ふむ。
さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
ま、久しぶりの衛生物ですけど。とりあえず、有名な伝染病であるコレラについて、発見までの経緯を書いてみました。ま、もうちょい色々と書いてみたいものはあるんですけど、さすがにスペースがありませんので(^^;
ただ、おそらく考えられている以上に「新しい」伝染病で、かつ非常に問題を起こして歴史にも、そして科学にも関与したものですので。ま、そういうものにも関心が向いてもらえればと思います。
さて、そういうことで次回は以上の続きとなりますかね。
次回はコレラのメカニズムや、安政コレラ以降の日本でのコレラについて触れて見ようかと思います。
そう言うことで、今回は以上です。
御感想、お待ちしていますm(__)m
次回をお楽しみに.......
(2003/01/14記述)
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