からむこらむ
〜その64:白さと美人と役者と鉛〜


まず最初に......

 こんにちは。 またもや激しく動く気温にやられ気味の管理人です。 皆様は無事に生きていらっしゃるでしょうか?(~_~;;
 まぁ、わかっているんですけど.........やっぱり5度違うと体への負担が顕著です。 くれぐれもお気を付けをm(_ _)m

 さて、今回は前回の続き。そう、「鉛」のお話です。 前回をご覧になっていない方はそちらを先に見ていただいて...........今回も、もう一回歴史と元素の絡みの話をしたいと思います。  前回はローマでしたが、今回は........今度は東洋に視点を移してみたいと思います。
 それでは「白さと美人と役者と鉛」の始まり始まり...........



 それでは、前回の続き.......今回は東洋に目を向けたいと思います。

 さて、突然ですが............古今東西、面白いことに「美人」に共通する「条件」って御存じでしょうか?
 ま、もちろん国によって違いますし、ましてや昨今は価値観が大きく変わっていますが........... あぁ、事前に言っておきますけど、差別とかそういう話じゃないですからね(^^;; そういうことでの攻撃はお断りさせてもらいます(^^;;
 話を戻しまして、「美人」の条件。いくつかは時代と共に大きく変化していくことが知られています。鼻の形とか、目の形、髪の毛の条件とか色々と変わるんですけど..........ただ、そう言った中でも共通するものがあるように思えます。 その条件とは..........ま、御存じの方も多いでしょうが、ずばり「色白」である、という点でした。

 さて、今から1000年ぐらい前。ちょうど日本では「源氏物語」が書かれたころ。日本では平安時代の貴族による政治........いわゆる藤原一族による摂関政治が全盛期を迎えようとしている頃。 ごく一部の貴族は贅沢三昧の生活をしていました。 ま、女性による進出も目覚ましく(「才女」は貴族の娘の教育係をしていましたし、「実業家」もいたようですし)、そして様々な舞台にそう言った女性は出てきていたのですが.............
 さて、当時の記録を残すものにはいくつかあるのですが..........その一つにはちょうど「かな文字」が発達していたので、これを使った文学がありました。 そして、当時発達し、一部は文学とも繋がった「絵巻」なんてものも、当時のありのままの様子を残していて貴重なものであったりします。
 そんな当時の絵巻はいくつかあるのですが..........ま、その中の特徴を一つ一つ挙げていっていくのも面白いのですが、取りあえず人物に注目してみますと.........絵巻の中の女性、顔は「美人の条件」であるためか、ことごとく「白」だったりします。
#中国でもそうでしたので、影響があったのかも知れませんが(^^;;

 当時の代表的な絵巻の一つである「源氏物語絵巻」では、人物の顔は「つくり絵」と呼ばれる手法で描いていました。 これは、墨の細い線で下書きの輪郭をとった後、「胡粉(ごふん)」と呼ばれる塗料で全体........輪郭の墨線まで.........塗りつぶし、その上に改めて目や鼻を墨、唇を朱でかき起こしてゆく、という大和絵独特の方法で描いていました。
 さて、この「胡粉」という塗料は白い色の「絵の具」です。つくり絵ではこの胡粉はかなり厚く塗られたそうでして、絵の人物の顔は真白だったと言われています。 そしてその正体は........少なくとも、日本では鎌倉時代までは「鉛白(えんぱく)」と呼ばれる白色顔料でした。 そして、そういった絵から見られるように.......当時の女性達も絵画同様に鉛白から精製した白粉(今では「おしろい」。当時は「はふに」)を塗りたくって顔を白くしていた、という事が知られています。 ちなみに、「白色」と鉛の関係ですが、面白いことに日本書紀では「鉛粉」という字に「シロキモノ」なる振りがなされていたそうです。これの女房言葉表現により、「白粉」は現在の発音である「おしろい」となったと言われています。 まぁ、その歴史の古さが伺えますが...........

 ここで、鉛白という物に触れておきましょう。
 鉛白の歴史は結構古く、元来は輸入してきたものだったようで、隋・唐の時代に日本に伝えられてきた、と言われています。
 平安時代には重要な化粧品である白粉を作るために上記の通り鉛白から精製したのですが、この鉛白の製造法は結構単純でして............ 鉛の板を積み重ね、この下に酢を入れた容器を置き、炭火で沸騰させた蒸気を当てると出来ました。 これを精製して白粉ができ上がり、となっています。
 さて、こうして出来た鉛白。 この正体は「鉛白」の名に入っている通り塩基性の鉛の炭酸塩でして、その化学式はPb3(CO3)2(OH)2で表される物質です。 そう、見事に鉛の化合物だったりします。
 尚、鉛白そのものは古くから絵画・塗装用に使用されており、現在でも日本人形に胡粉と膠(にかわ)を混ぜたものを顔に塗っていますし、また油絵の絵の具である「ブラン・ダルジャン(シルバーホワイト)」で御馴染みのものだったりします。 もっとも、「シルバー」とは言っても、中身は実は鉛なんですが(^^;;

 さて、平安時代の話にここで戻りましょう。
 上記の方法で鉛白から作られた白粉は、ツキとノビが良かったそうで、ちょうど内裏雛の顔のように仕上がった、とされています。 が、しかし.......鉛白製の白粉を常用すると、「白粉焼け」という.........顔色がどす黒くなってくる(!)状態になり、そして鉛の毒で..........前回触れたローマ人と同じ轍を踏む、という事になってしまうのですが(^^;;; しかし、そこは「美の追及」の魔力か、はたまた意地かはわかりませんが(ましてや当時は鉛の毒性は知られていないわけで(^^;;)、王朝の三位以上の貴族や、官僚(四・五・六位)の妻、娘達はこぞって顔を彩った、と言われています。
#ついでに言うなれば、当時は風呂に入る習慣はあったものの、「一週間に一回」ペースだったわけで.............(^^;;

 ちなみに、この化粧での与太ですが..........
 鉛白から白粉を作る費用は結構な物だったそうで、当然のことながら白粉を買い求める階層は限定されていました。つまり、宮廷勤めでも「下衆」に位置する人達は当然買えない。 ですが、「上の好むところはしたもこれを習う」という例え(意味はまんまです(^^;)の通り、下衆の人達も顔を白く塗りたい.........ではどうするか?
 これを解決すべく開発したのが「之呂岐毛乃」........「しろきもの」と呼ばれるものでした。 これは、白米を日光にさらして粉にしたものでした。これを塗って顔を白く、と挑戦したのですが..........難点が一個ありました。それは、「粘着性がない」。 つまり? そう、ツキが悪い化粧ですから.........一定時間経つと、ぽろぽろとこぼれていく、という有り様になります。
 面白いのは、『枕草子』にこの「之呂岐毛乃」がこぼれる話があるそうでして............ 一月七日の白馬(あおうま)の節会の折りに、左右の馬寮(めりょう)から舎人(とねり)に連れられて二十一頭の馬を出した。ものの........(異様な雰囲気だったのか)この白馬たちは興奮し初めて舎人が大忙し、という状態になるのですが...........この舎人。冬のさなかにも関わらず汗をかいてきて、結果。この舎人が顔に塗った「之呂岐毛乃」がぽろぽろと剥げ落ちた..........なんて話が残っているそうです。
 白粉よりは安全性高いんですけどねぇ(^^;;

 さて、この鉛白。活躍は平安時代のみではありませんでしたが.......一応、代替品も出ています。
 桃山時代以降は、胡粉は炭酸カルシウム(CaCO3)に変わったとされています。もっとも、中国では胡粉というと「鉛白」らしいのですが(^^;; で、源氏物語絵巻の時代(院政末期)から数百年後の江戸時代初期。この源氏物語絵巻が補修されたのですが、この補修に使用された胡粉は炭酸カルシウムとなっています。
 ですので、これを逆手にとってX線で源氏物語絵巻を見ると、鉛白と炭酸カルシウムの違いから元の鉛白の絵柄が出てくるそうです(^^;;
 もっとも、鉛白は硫化水素を含む状態では黒く変化してしまうので、物によっては過酸化水素水(H2O2)で処理して、安定な硫酸鉛にして固定化するらしいのですが.............
 しかし、あくまでも「胡粉」の変わりであって、白粉の変わりではありませんでした。

 そして、話は江戸時代。
 出雲阿国から始まったとされる歌舞伎が江戸時代に隆盛をしますが............この時代の役者達。実は、鉛白製の白粉を使用していた、という事が知られています。もちろん、平安時代の貴族達が使用したように、ツキとノビが良かったため持ってこいだったのでしょうが............ で、当時の舞台役者は以前から楽屋風呂に入る前には白粉をすっかり落とすように、と厳しくしつけられていたそうで、もともとはエチケットだったのでしょうが、これが白粉から来る鉛中毒の害を出来るだけ押えていた、ということが言えます。 もっとも、場末の田舎芝居なんかではどうも徹底されているわけではなかったそうで............鉛中毒による死者が多かった、と言われています。
 もっとも、当時の白粉は役者のみが使用していたわけではなく、相も変わらず貴族や、そしてお金のある家の奥方でも行われていました。そして、段々厚化粧になる傾向があったという事ですから........(^^;;
#御台所(将軍の奥さん)は3時間かけて化粧といいますし........(^^;;
 まぁ、花魁や役者など、特に白粉に接する機会が多かった人達は............少なくとも、鉛による影響が多かったのではないか、と推測されます。 まぁ、鉛による死者は有意に多かったでしょう。 特に「売れっ子」だった場合には.............
 ま、それはともかく。 この鉛白の白粉による被害は明治になってからも続き、鉛中毒による死者が多かったとも言われています。
 こういう事や、また鉛が原因である、という事が叫ばれたのでしょうか。明治から徐々に「無鉛白粉」が出てくるようになっています。そして、鉛白粉が禁止されるに至り、少なくとも白粉による鉛中毒は激減していきました。
#今でも、鉛白製の白粉はありません。念の為(^^;;
#代替品は、二酸化チタン(TiO2)などが知られています。

 尚、日本のみならず明代(室町時代の頃)、清代(江戸時代の頃)の王侯貴族の館の女性達も例外なく鉛白の白粉による厚化粧をしたそうです。しかも、日本では歌舞伎役者ぐらいしかしなかった、「上半身塗りたくり」という化粧法が彼の地では流行していたこともあるそうです。
 と言うことは?
 もし、あまりこう言うのに気付かない、しかも余り入浴しない女性が乳母を務めたとすると..........上半身塗りたくる訳ですから、当然乳房にも塗りたくります。と言うわけで、当然のことながら乳児に与える乳には高濃度の鉛が含有しますので............... 結果、鉛中毒で夭逝する皇子女が少なくなかった、という記録があるそうです。
 ま、こういう場合には.........おそらく日本の、特に平安時代でもそうだったのでしょうけど結論は大抵は「誰かの呪詛」になるケースが多かったわけですから..............
 えん罪は多かった、と思われます(^^;;
こえぇ〜〜〜(~_~;;


 ま、ローマ人のみならず、東洋でも結構豪快にやっていますねぇ(^^;;
 もっとも、ローマ人は酒。東洋では「美の追及」........という違いがありますけどね(^^;; 「美」と「食」の追及が命を縮めた、と言えるのかも知れません。

 と、長くなりました。
 今回は完全に歴史の話になっちゃいましたね(^^;;
 次回に持ち越したいと思います。

 次回は、鉛の毒性などの話に触れてみたいと思っています。




 結構あるもんだな..............(^^;;

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 前回はローマ人と鉛、の話でしたが........今回は東洋に目を向けて、特に白粉の話を中心にしてみました。
 まぁ、前回にも言いましたけど歴史と科学のつながりってのは本当に面白いものだと思っていますので..............楽しんで読んでいただければ嬉しいです。

 次回は、鉛の毒性と、現在使用されているもの、などに焦点を当てて触れてみたいと思います。
 お楽しみに。

 さて、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 それでは、次回をお楽しみに.............

(2000/04/18記述)


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