今年の夏は長いのかなあ、夏は苦手。
今晩9時から東京12チャンネルで『エス』(2001)という映画が放映される。
「エス」は精神分析で有名なフロイトの「自我」と「超自我」に並ぶ概念。
自我が現実原則に従う意識的なもの、超自我が良心など道徳律に従う無意識的なものであるのに対して、エス(イドとも呼ばれる)は快楽原則に従う無意識的な本能的性欲動の源泉である。
心理実験で刑務所の看守と囚人の役割を与えたときに、人間がその役割に沿って簡単に人格が変容してしまうという実話を元にした映画である。
2週間の実験の予定が7日間で中止、現在はこのような実験が禁止されているとともに、今も訴訟問題で係争中らしい。
人間の脆さは、催眠誘導のような特殊なケースにおける被暗示性として知っていたものの、このように環境要因だけで簡単に変わってしまうのは本当に恐ろしい。
このような役割の中に喜びを見出すように、自分も確実に変容してしまうと思う。
[2004/9/23]
渋谷のBUNKAMURAのオーチャードホールに、ニューヨークシティバレエを観に行ってきた。
2階席の端(2階R8列1番)だったが、バランシンのように全体の構成で見せる振付家には良かったようだ。
バッハの曲を使った「コンチェルト・バロッコ」、ストラヴィンスキーの曲を使った「デュオ・コンチェルタンテ」と「アゴン」、スーザの曲を使った「スターズ&ストライプス」、いずれも生演奏という贅沢さ。
バランシンの振付を観るのは初めてだった。
それまでのクラシックバレエ(物語バレエ)に対して、バランシンはモダンバレエ(抽象バレエ)を確立し、その流れは現在のフォーサイスのようなコンテンポラリバレエに繋がっている。
バランシンのバレエは想像したとおりに優雅で美しかったが、ダンスの動きや組合せ方に物足りなさを感じた。
最後のスーザの曲はまさに運動会、衣装もあいまって可愛く楽しい作品だった。
しかし、アメリカの国旗を出されると、テロを思い起こしてしまう。
[2004/9/22]
500個の風鈴の音を聴いてみたい!
こう思ったのは、駒沢敏器さんの「生命の音」の第三回「屋久島で500個の風鈴を聞く」を読んだときだった。
風鈴が500個もあると、お互いに共振して、この世のものとは思われないような音がするようだ。
その後に、岡野弘幹(天空オーケストラ)さんは、さらに1000個の風鈴のインスタレーションを録音した「MUSIC OF WIND/風鈴」というCDを出したらしい。
そして、ついにソーシャル・ネットワーク・サービスのMixiで、500個の風鈴の音を聴くためのプロジェクトのコミュニティを立ち上げた。
2005年の夏辺りを目指して、自分達で風鈴を調達して、風鈴を吊るして、聴くというアクティブなものだ。
風鈴の数、風鈴を設置する場所、それ以外の内容はまだ決めていない。
光の中だけでなく闇の中でも聴く、子供を巻き込む、視覚障害者を巻き込む、VJを行う、色々考えられるが、基本的には風鈴の音をちゃんと聴くことを重視したい。
[2004/9/20]
星を見上げながら、青い光と波の音に包まれて、ただひたすら漂う時間。
福島県いわき市のアクアマリンパークに、庄野泰子さんの波の音を使ったサウンドスケープのインスタレーション"Wave Wave Wave"(1998-2000)を聴きに行ってきた。
最初に昼間に着いたときは、海岸べりにある単なる金網の凹凸、その上に横たわってみても背中が痛いだけで、ノイズに埋もれた波の音は、普通の海岸に横たわっているようだった。
夜のライトアップの時間、仄かに青い光の上で波間に漂っている感じ、周期的な波の音の合間に、波が崩れるちゃぷんという音が驚くほど大きく感じる。
じっと星空を見つめていると、自分の想いが立ちのぼって、星空に消えていくように感じた。
[2004/9/18]
同じ世界にいる人や、同じものを観ている人はいる。
しかし、同じ世界から同じものを観ている人には出会ったことがない。
同じものを観ていると思ったら、全く別の世界から観ていたりする。
[2004/9/17]
ゼリーはメディアである。
地球の大気がゼリーだったら。
これはミクロの世界と似ている。
歩くより鞭毛の方が速そうだ。
コミュニケーションは音声ではなく、
むにゅむにゅとした圧迫感。
お風呂に入れるゼリーのこと考えていたら妄想した。
[2004/9/14]
ピーター-リム・デ・クローン監督の「オランダの光」という作品が、11月3日から恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館ホールで上映されるようだ。
そして、なんと光のアーティスト、ジェームズ・タレルが出演するらしい。
オランダのHPによると"the people"のところにJames
Turrell、"the locations"の"America"のところに"Roden
Crater"が載っていた。
どうやら"Roden Crater"の映像が使われるようだ。
その中の記述によると、"Roden Crater"は2005年までは公開されない。
しかし、もうだまされないぞ、2005年に公開されるとは書いていない。
[2004/9/12]
公的な性格から私的な性格へ。
電話の家庭への普及に関して言われていることは、住居の中での電話の位置の変化である。
家庭への普及の当初は玄関に置かれていて、家の中と言っても最も公的な場所であった。
それがリビングという私的な場所に移り、さらには個々の部屋という個人的な場所に移った。
そして、遂には場所ではなく、個人に付随するものとなった。
では、個人から先に電話はどこに向かうのだろうか。
個人の体のそれぞれの部分が電話を持つ。
これは通信機能を持つ様々なデバイスが、ウェアラブルとなり身に着けるようになれば、容易に展開可能な世界である。
しかし、もっと重要な展開は、意識から無意識に向かうことである。
意識的に誰かに電話をかけるのではなく、無意識に誰かと電話が繋がるのである。
情報の伝達から関係の共有へ。
最近の特に若者が携帯電話で伝えていることは、どうでもいいような内容である。
音声通話では、これを音声のグルーミングと呼んでいる人もいる。
携帯メールでも、同様にテキストのグルーミングと呼べるだろう。
つまり携帯電話では、シャノン-ウィーバーが考えたような情報の伝達ではなく、繋がり感とでも言えるような関係の共有が行われているのである。
この関係の共有に、現在の携帯電話の音声通話では、言語に付随した非言語であるパラ言語が使われている。
言い換えると、会話という意識的な行為の中で、関係の共有が行われている。
しかし、今後は無意識に繋がる電話(通信)により、関係の共有が行われるようになるだろう。
そして、そこで共有される関係は、非言語的なものになると予想される。
[2004/9/4]
携帯電話はなぜ普及したのか?
便利だからというのは、全くの的外れだと思う。
携帯電話が普及したのは、どきどきするからである。
電話をかける状況を考えてみよう。
以前の固定電話では自宅などで座ってかけることが多かったのに対して、携帯電話では動き回りながらかけることが多い。
座って安静にしているときと、動き回っているときとでは、心拍数がかなり違ってくる。
つまり、携帯電話は心拍数の高いときにかける電話なのである。
では、心拍数の高いときに電話をかけるとどうなるのだろうか?
ダットンとアロンの「つり橋実験」では、つり橋の上という高いところで、異性と対面したときの性的興奮度が調べられた。
人間は高いところにいると、高さに対する無意識の恐怖から心拍数が上昇する。
そして、人間にはこの心拍数の上昇の原因を、何らかのものに帰属させようとする性質がある。
一般的には、この帰属の原因を「高い場所」ではなく「好き」に誤認することとなり、相手の異性を好きになったと勘違いすることになる。
同様に携帯電話においても、動き回っているときの心拍数の上昇の原因を、携帯電話の相手への好意などに帰属させることになる。
つまり、携帯電話で話すことは楽しいことなのであり、これが携帯電話を普及させた真の要因なのである。
[2004/9/4]
月光浴、ベッドから窓を見上げたら、満月の光が差し込んでいる。
満月には、なぜ惹きつけられるのだろう。
光とすれば、太陽の反射だから、太陽の光のサブセットに過ぎない。
重力とすれば、満月も新月も同じはずだ。
太陽と地球と月の重力の関係にしても、満月のときだけ特殊だとは思えない。
きっと、闇に対する畏怖に関係しているのじゃないかと思う。
満月は闇を切り裂くものだから。
[2004/8/31]
ホンモノ、本当のもの、そんなものはどこにもなかった。
幼い頃、父親を亡くし、母親の愛情に微かな疑問を感じ始めたときから、何か本当のものを求めていたように思う。
初めてそれを意識したのは、椎名麟三の「生きる意味」を読んだときだった。
このタイトルはひどく嫌いだったけれども、書いてある内容は「ホントウ」とは何かということだった。
例えば、本当の愛とは何か、それがどうして本当と分かるのか。
それからは本当のものとは何かを求めて、書物を読んだりして苦しんでいた。
最終的に最も確かだと思えた論理学や数学基礎論を勉強してやっとわかった。
何事も信じることなしには始まらない。
ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなかった。
例えば、論理学はある規則に基づいた「正しい」推論の過程を保障するだけに過ぎず、その結果の「正しさ」は恒に真である公理を信じることから始まる。
「信じよ、さらば救われん」、信じることを厭わない者には、すべてが与えられる。
しかし、それは単に誰かによって無批判に信じられたものに過ぎない。
信じるという不確かなことを嫌う者は虚空に閉ざされてしまう。
本当のものとは本当であると信じられたものに過ぎない。
少なくとも私の定義では「本当」のものは存在しない。
(こっちにも同じような内容の記述)
[2004/8/29]
フランクフルトのMuseum fur Moderne Kunstの近くの本屋さんでBill Violaの本を買った。
"The Art of Bill Viola" (Thames & Hudson, 2004, 22 Euro)
William ForsytheやBallett
Frankfurtの本はなく、James Turrellの本は4冊あったものの、日本語版で持っているものとか、内容的に今ひとつだった。
Bill Violaは2月にロンドンのTete Modernで観た"Five
Angels for the Millennium"(2001)がえらく気に入ったので、Violaに関する本を欲しいと思っていたところだった。
[2004/8/26]
"The Art of Bill Viola"と、その中の"'Departing
Angel'; 'Fire Angel'; 'Birth Angel' from Five Angels for the
Millennium, 2001"
フランクフルトのMuseum
fur Moderne Kunstに行ってきた。
展示作品は今ひとつだったけれども、建物がいやに鋭角的で内部の構造も面白かった。
と思ったら、James Turrellの作品があった。
絶句、こんなところでTurrellの作品に出会えるなんて...
"Twilight Arch"(1991)という作品は、直島にある"Backside of the Moon"(1999)と同様なaperture(開口)の作品。
四角く切り取られた開口部の裏側に、仄かなブラックライトが仕込んであって、開口部がまるで青いスクリーンのように眼前に広がってくる。
しかし、直島の照明は暗すぎたが、ここの照明は明るすぎて、1、2分で目が慣れて見えてくるのがちょっとつまらない。
(解説パンフレット(表/裏))
[2004/8/26]
外観と2階の内部(4がTurrell)
入場券の表裏とパンフレット
"Twilight Arch"(1991)
フランクフルト駅から地下鉄で2駅のBockenheimer
WarteにBockenheimer Depotがある。
昔からフランクフルトに来るときは、Ballett
Frankfurtの公演がないかと調べたものだった。
1997年にはOper Frankfurt(写真)で"Isabelle's Dance
(1986)というミュージカルを観た。
しかし、財政難や新しい保守的な市長との確執があって、Ballett
Frankfurtは解散し、振付家のWilliam Forsytheは新たにForsythe
Companyを結成して、Bockenheimer Depotを拠点にしようとしている。
Bockenheimer Depotの中はまだ改装中のようだが、来年にはここで公演が行われるようだ。
しかし、Forsythe Companyのダンサーの名簿を見ると、好きだったDemond Hartが移らなかったのは残念だ。
[2004/8/26]
Oper Frankfurt
Bockenheimer Depot
真っ暗闇の体験"Dialog in the Dark 2004 Tokyo"に行ってきた。
2002年のドイツ文化センターでの体験に引き続き、今回は外苑前の梅窓院祖師堂ホールでの体験。
暗闇の中にいると、目の中の光、私の場合にはヴァイオレットの光が、ゆらゆらと現れてきて楽しい。
今回の体験は前回と比較して、都会の環境が多かったように思う。
電車のホームとかノイズの多いところは、空間を知覚するための音が何も聞こえなくて本当に怖かった。
しかし、自分の聴覚による空間知覚が、あまりにもいい加減なのに、驚くとともにあきれてしまった。
滝というか水が落ちているところや、アテンドの視覚障害者の方の声のところに、なかなか辿り着けなかった。
それから、ブランコに乗るところが、今回は時間の都合なのか、10人中2人しか乗れなかったのは残念だった。
最後のバーのテーブルで、飲み物を注文して飲むところ、アテンドの方がグラスを腕に沿って、手のところまで渡してくれたり、暗闇の中だと心理的距離が近く感じられて涙がこぼれてきた。
[2004/8/11]
産業カウンセリングの勉強をしているけれども、もし本当にカウンセリングをやるようになって、クライアントが自殺をしてしまったら、どういう気持ちになるのだろう。
昔は人と深く交わることを嫌い、恐れて避けてきただけに、どういう影響を受けるのか分からない。
逆に、自分が自殺をするようなことになったら、クライアントはどういう気持ちになるのだろう。
[2004/8/6]
あさのあつこの「バッテリー」にはまっている。
小学生の読み物ながら、主人公の一人の原田巧は、野球のピッチャーの天才で、いわゆるジコチュウだけど、自分だけを信じて真っ直ぐ進み、何も恐れないというか、恐れることを恐れている。
その姿が、才能はなかったけれども、今の自分が失った、昔の自分の姿に重なるところがある。
そう思いながら歩いていたら、いつも地面しか見えなかった道の、遥か遠くが見通せた。
[2004/8/6]
ラブ・ドール見学会での、目を閉じた人形の人気があったことに関して。
なぜ眼を閉じている方がいいのか。
心理学の親和葛藤理論とかに関係するかもしれません。
親和葛藤理論は、二人が交わす視線の量は、促進する接近力と抑制する回避力との平衡によって決まるというアーガイルという心理学者による理論です。
促進する接近力には、相手のことを知りたい(フィードバック要求)とか、相手と親しくなりたい(親和欲求)というものなどがあり、抑制する回避力には、見ることで相手に何か(例えば胸の谷間を見ているとか)を知られてしまう(秘密漏洩の不安)とか、相手が自分を拒絶していることがわかってしまう(拒絶確認の恐怖)というものなどがあります。
この視線を抑制する回避力のために、相手との対人関係の親密さに応じた距離までしか、物理的にも心理的にも近付けないことになってしまいます。
もし、相手が眼を閉じていて、相手の視線が確実にないとすれば、視線を抑制する回避力は弱くなり、視線が増大します。
そして、結果的に相手との物理的および心理的な距離を容易に縮めることができます。
目隠しをして何かをするというのも、視覚の感覚遮断により触覚の感度を高くするという理由もありますが、このような心理的な理由も小さくはないと思います。
[2004/8/3]
夜10時からのNHK教育TVの芸術劇場の中の海外音楽情報で、「フォーサイス、フランクフルトバレエ団さよなら公演(パリ)」と題して、フォーサイスに関する情報が放送された。
内容は、フランクフルト市の財政難のため7月3日のパリ公演を最後にフランクフルト・バレエが解散したこと、フォーサイスがボッケンハイマー・デポの列車倉庫でフォーサイス・カンパニーを立ち上げたこと、来年の4月に新作の公演を行うことだった。
フォーサイス・カンパニーは18名で、財政はかなり厳しいようだ。
フォーサイスは市の対応にかなり怒っていた。
代わったフランクフルト市の市長が、クラシックバレエしか観ない保守的な人物だという話は取り上げられなかった。
[2004/8/1]
顔って、どうして大切な部分に思えるのだろう。
進化生物学的には、顔は食物を摂取する器官が発達したものだと思う。
食べられるかどうか物を確かめる器官から、相手を確かめる(情報受信)器官に発達して、最終的には相手に表現する(情報発信)器官にもなった。
顔は世界と繋がるための器官であるとともに、人と繋がるための器官。
女性の唇が厚くなったのは、進化生物学的に意味があるらしい。
陰部(陰唇)を連想させる唇の方が、オスを惹きつけやすいので、遺伝的に有利になるという。
同様な話は、女性の乳房が大きくなった理由が、お尻を連想させるからだというもの。
(写真は、春木豊、「身体心理学」、川島書店、三木成夫の人間とムカシホヤの相似性の図)
[2004/7/28]
人形と言えば、ハンス・ベルメール。
ベルメールを知ったのは十代の終り頃。
どうやってベルメールを知ったのかは思い出せない。
(写真:Hans Bellmer,
"Photographien", Schirmer/Mosel (1983)より)
[2004/7/26]
香川県の直島に新しくできた地中美術館にジェームズ・タレルの作品が3つも展示されるらしい。
"アフラム、ペール・ブルー"は、壁にプロジェクションした光で、立体に見える昔のやつだと思う。
"オープン・スカイ"は、光の館と同様な空を切り取る作品。
"オープン・フィールド"は、良く分からんと思って調べたら、自分のHPが出てきた。
直島の家プロジェクトの「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」を加えて4つになってしまった。
行くしかない。
ついでにうさぎ島(大久野島)も行きたい、って近いかどうか知らない。
それから、10月9日にオープンする石川県の金沢21世紀美術館、ここにもタレルの部屋「スカイスペース」ができます。
こっちにも行かねば。
[2004/7/21]
首都圏外郭放水路、この写真は凄い。
http://tenplusone.inax.co.jp/underground/photo/atarashi01.html
絶対に行ってみたい。
江戸川河川事務所の8月の予定によると、 Aコース(ポンプ室→調圧水槽)とBコース(第4工区トンネル)は、いつでも都合が折り合えば1名でも参加できるようだ。
Cコース(フルコース)は、8月7日(土)は20名中残り12名、28日(土)はまだ余裕があるみたいだ。
ただし、工事現場が暑いので8月は9時30分開始だそうだ。
9月のCコースは1回のみ、時刻は未定、8月中旬には内容が決定するようだ。
9月以降の土日の午後を狙おうかなと考えている。
[2004/7/21]
進出色と後退色って、眼球の水晶体の調節機能が要因らしい。
知らなかった。
昔、バーチャル・リアリティに関係していたときに、人間の距離知覚で調節機能が有効なのは2~3m以内で、それ以上は輻輳とか両眼視差が有効だと読んだもので、進出色と後退色が遠くでも有効なのか興味があるところ。
もう一つ思ったこと。
黄色、570ナノメートルの波長の光を見たときだけでなく、人間の目の特性から赤と緑の光を混ぜたときにも黄色に見える。
このとき、前者だとぴったりと焦点が合うものの、後者だと焦点が合わないはず。
もちろん、赤と緑の中間に焦点を合わせると、結果的に両者の焦点の位置は同じになるかもしれない。
人間には両者の色の区別ができないと思っていたものの、この調節機能による差は知覚できるのだろうか?
[2004/7/15]
国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムのカラー空中写真に感激。
生まれた場所の1974年の航空写真があった。
懐かしい。
そして、1985年にはすべて消え去った。
[2004/7/15]
1974年
1985年
今の自分のテーマはなんだろうと考えたところ、主に3つのテーマがある。
これらを「人と人の繋がり」と「人とモノ・コトの繋がり」の観点から探求していくことである。
「自分を知ること」、この文章を考えながら書いている意識的な自分だけでなく、自分全体が何者なのかを知ること。
心理学的には年末にロールシャッハテストを受けるし、神経生理学的にはLibetの知覚における意識の遅れや行動における自由意志の問題が興味のあるところ。
これは「自分と自分の繋がり」ということでもある。
「心を癒すこと」、心を癒すようなヒーリング系・リラクゼーション系のモノ・コトを探求するという「人とモノ・コトの繋がり」がひとつ。
もうひとつは、カウンセリングを含めた臨床心理学の勉強により、人の心を癒すという「人と人の繋がり」。
「感性を刺激すること」、感性を刺激するようなアートを探求するという「人とモノ・コトの繋がり」。
一時期はアーティストとのコラボレーションに興味があったものの、今は自分で創っていくことには興味がない。
「人と人の繋がり」により、自分が出会ったモノ・コトを伝えたり、人が出会ったモノ・コトに繋がっていくことに興味がある。
勉強するばかりで、これらのテーマでお金を稼げないのが最大の問題。
[2004/7/15]
NTTコミュニケーション科学基礎研究所のオープンハウスの映像。
柏野さんの『「ずれ」と脳』は面白い。
この最初の「ずれを創り出す」部分の映像で、「バナナ」という単語が繰り返される。
私には、
バナナ ⇒ バナン ⇒ バナ
と聞こえた。
これは脳の感覚系ニューロンの感度が変化したためらしい。
次は良くある実験。
バ_ナ(_は無音)
の無音のところにノイズを入れると、
バ■ナ(■はノイズ)
なのだけれども、
バナナ
と聞こえる。
これは脳の上位部分での仮説によるものらしい。
さらに、この「バ■ナ」という単語が繰り返される。
私には、
バナナ ⇒ バタン
と聞こえた。
不思議。
明らかに人間が知覚している世界は現実世界ではない。
[2004/7/13]