からむこらむ
〜その137:ジェスイットとジントニック〜


まず最初に......

 こんにちは。いよいよ10月になりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 今年も早いもので3/4が過ぎました。良く言われますが振り返ると早いものですね........

 さて、今回ですが。
 前回はマラリアについての話をしてみました。で、今回は前回の最後で触れた通り、この特効薬が広まるまでの話をしてみようかと思います。
 それは、伝説が残るような話から始まり、そして宗教闘争の狭間で複雑な運命を辿った物だったのですが.........ま、気楽に読んでいってください。
 それでは「ジェスイットとジントニック」の始まり始まり...........



 前回はマラリアの話をしましたが。
 マラリアは中世に至るまでは死の病としてかなり恐れられていたのは前回書いた通りです。しかし、中世以降にはその特効薬が発見され、そして成果を挙げていきました。
 その特効薬はおそらく皆さん御存じだと思いますが.......南米原産のアカネ科キナ属(Cinchona)のキナノキより得られる「キニーネ」と呼ばれるものがそれになります。
 今回はこのキニーネについて、広まっていくまでの話をしてみようかと思います。


 熱病に有効であるキナノキの発見には次のような伝説が残っています。
 南米のアンデス高原と言うのは標高1500m以上で暖かく湿った斜面があり、ここでは現地で「キナキナ(quina-quina/kina-kina)」と呼ばれる数種類の木が生えていました。現地ではこの木は毒である、と伝えられていたのですが........さて、ある時この木々の間を熱病にかかった現地の少年がふらふらと彷徨っていました。そのうち、水たまりを見つけた彼は倒れ込むようにしてその水を飲んだところ、その水が苦かったことに気付きます。見ると、周りには毒と言われるキナキナの木があり、その一本が倒れて水たまりに突っ込んでいました。しかし彼は熱病による渇きと熱で苦しむよりは、とその水を飲み渇きを癒そうとしました。そして、驚いたことに毒を飲んだはずの彼の命には別状はなかったうえ、熱が下がって彼は元気を取り戻します。そして、村に帰る道を見つけて無事に生還します。
 生還ののち、彼は村でこの話をし、そこから彼の地に住む人々は熱病を直すのにキナキナの樹皮より得たエキスを使ったと言われています。

 この話の中で少年がかかった熱病はマラリアで、そしてこの木がキナノキ、と言われています。もっとも、真偽は不明なのですが........
 さて、大航海時代に南米に手を伸ばしたスペインですが、17世紀頃にイエズス会の宣教師達の耳にこの少年の話が届いた、と言われています。この事に興味を持った宣教師達(彼らは布教以外に情報収集もしていました)によってこの「キナキナ」の樹皮が集められる様になり、やがて治療に用いられるようになって、「キナノキの樹皮」としてヨーロッパに紹介された、と言われています。

 しかしながらヨーロッパへ伝わったと言う話には、また別の伝説が残っています。
 それは、スペインのペルー提督伯爵の妻であるキンコン(チンチョン)婦人がマラリアにかかったものの、ペルー産の木の樹皮のエキスによってこれから回復し、これに驚いた婦人がこの樹皮をスペインに持ち帰って(1638年と言われています)ヨーロッパにその効果を広めたと言う話が残っています。この伝説をもって植物学の大家リンネは、1742年にこの熱病に有効な樹皮を持つ木を「キンコーナ(Cinchona)」、と命名しました(「キナノキ」の事です)。しかしながら、彼はこの件については二つのミスをしていました。一つは夫人の名前(Chinchon)に因んで付けたのにつづりを間違ったこと。そして、もう一つはこの伯爵夫人は実はマラリアにもかからず、しかもキナノキの樹皮を持ち帰らなかったと言われています。何故なら、彼女はスペインへの帰路でコロンビアのカルタヘナと言うところで亡くなったと言われていますので........

 ま、この様にこの木に関しては色々と伝説があって混乱の元を作っているのですが.........
 伝説はともかく、実際にマラリアの治療にこのキナ皮が使われた確実な記録は1630年頃、リマでイエズス会の宣教師によって、と言われています。しかしながら、彼らがキナ皮の効果をどうやって知ったかについては今もって不明です。もちろん、伝説の通りかも知れませんが。ともかくその効果を認めたうえ、その重要性を彼らは理解していました。そして、彼らが中心となってヨーロッパへとキナ皮を持ち帰って広めていこうとしたのは事実のようです。あ、リンネの話も事実です、念の為。
 この様にイエズス会(ジェスイット)が中心になった結果、マラリアの特効薬であったキナノキの樹皮の粉末は、ヨーロッパでは当時「ジェスイットの粉」と呼ばれていました。


 ところで、こうしてヨーロッパにもたらされたキナノキですが、知られるかぎり唯一のマラリアの特効薬であるこの木は残念ながらなかなか広まりませんでした。
 これはいくつか理由がありまして、まず新規の治療法という物に抵抗を覚えたものが多かったこと。そして、当時は新教と旧教の激しい対立(宗教改革の波が激しかった)があり、これに関連してイエズス会が嫌われたこともありまして、「イエズス会の宣教師が海外から持って帰ってきた怪しい薬を広めようとしている」と言うような風評がたったりします。ましてや「ジェスイットの粉」と呼ばれていましたから、この名称が使用妨害を助長した可能性は十分あると言えます。
 今現在の感覚ではピンと来ないかも知れませんが、後者の宗教的対立の影響はかなり大きなものがありました。実際、対立の激しい地域でこの薬を使用することは破門の対象となることもありました。
 こう言った事のため、治せるはずの人々が死んでいたと言うのはなんとも言い様がありませんが.........
 さて、そんな逆風の中、一人のイエズス会の枢機卿がこの薬を広めようと努力します。彼の名前はヨハネス・デ・ルゴ(ジョン・ド・ルゴ、とも)と言いまして、枢機卿であり、哲学者でもあり、そして教会内部でも高い地位にある人物でした。彼は前回でも触れた通り「ローマの道は死の道」であったことを良く知っていましたし、それによる人的損害が大きいこと、そして民間での被害も大きいことを大きく憂いていました。
 どうにかならぬか?
 打開の為、彼は1649年のイエズス会の大会議においてキナ皮について討論に持ち込みます。そして、この会議の後に彼はローマを始めヨーロッパの各都市にこの特効薬を分配し、更に普及のための活動を始めることになります。これは彼が1677年に死を迎えるまで続けられました。
 しかしルゴの必死の活動にも関わらず、一部の理解は得られたものの全体としては「ジェスイットの粉」は宗教対立の中で嫌われてしまい.......つまり、彼の活動は「失敗」に終わってしまいました。

 ま、ルゴの活動はこの様にして収束してしまうのですが........しかし、最終的にはこの薬は世界中に広まることとなります。それは、ルゴの様な地位のある人物ではなく、同時期のイギリスにいた一介の医者  しかもかなり山師  の「活躍」によって、でした。
 その人物はロバート・タルボー(Robert Talbor:タルボアとも)と言いまして、両親が裕福だった彼は大学に行き、ケンブリッジで薬剤師の見習いをしていた頃に「ジェスイットの粉」と出会ったと言われています。そして薬剤師になった後の1661年に湿地帯が多く、非常にマラリアが多かったサセックスに移り住み、ここで「偽医者」ながら開業をします。
 開業した彼は何をしていたかと言いますと........この地でキナ皮(もちろん「ジェスイットの粉」)の処方をしてマラリアの治療を開始し、大きな成果を収めていました。もっとも、宗教対立の厳しい御時世でしたし、そして何よりも彼の名声のためにその特効薬の処方は一切明らかにしませんでした。ただ、それまで有効な手段の無かったマラリアの治療が大成功を収めていたのは事実でしたので、徐々に彼の評判は高くなっていきます。同時に、彼が「ジェスイットの粉」を使っているのではないかという疑惑も高まっていたのですが........しかし彼はこれを否定するため、「ジェスイットの粉などというものは、非常に危険な効果をもたらす」と声明を発表。一方で彼は薬の内容を決して明らかにしませんでした。
 このような名声と疑惑の中、1668年に彼はロンドンに移ります。ここで彼は正規の医者に見放されたマラリア患者(医者にとってはジェスイットの粉は憎むべき対象でしたから)を彼の薬によってたちまちに直していきます。やがてその評判はロンドン中に響き、彼の患者には貴族や裕福な層の人たちが名前を連ね、そして彼は流行の医者として名声と金を手中に収めるようになります。そんな中、1672年には『熱病学ーマラリア熱の原因と治療に関する合理的説明』を著して、自分を熱病学者と称してマラリアについての(ある意味奇妙な内容の)記述  もちろん薬の成分については触れずに  をするなど、「箔」をつけるべく活動していました。
 この様に活躍していたタルボーですが.......更に幸運なことに、彼は最大の名誉を手に入れることになります。
 それは、1678年。時の国王チャールズ2世がマラリアにかかり、彼に治療を依頼したことでした。もちろん、王立医科大学の医者や侍医達は「あのような怪しい町医者を」と強行に反対しますが、結局はタルボーは王宮に入ることとなり、そして王のマラリアを治してみせました。これにより王は彼を大いに気に入り、感謝して彼を王宮に召され、そして爵位を与えてタルボーは「タルボー卿」となります。更に王立医科大学のメンバーに彼を指名するのですが......しかし、大学は彼を嫌い薬の成分の公開を求めますが、結局は王が押しきり、かくしてタルボー卿は王立医科大学のメンバーとなります。
 この様に医者のエリートとなったロバート卿ですが、活躍はこれで終わりではなくまだ続きます。しかも、更なる名誉が彼を待っていました。
 その契機はフランス王ルイ14世の皇太子がマラリアにやられたのが発端となります。この報を聞いたチャールズ2世はタルボー卿を思い出してフランス王の元へと急派し、そして彼はこの任を速やかに全うしました。これを見たルイ14世は彼を高く評価し、騎士の称号を与え、更にウィーンやマドリードへと彼を派遣して各地でのマラリア治療に当たらせ、その結果彼はフランスでも大成功を治めます。彼の薬は「イギリス人の治療薬」「タルボーのマラリア熱を直す素晴らしい秘薬」などともてはやされ、更にフランスの由緒あるタルボー(Talbot)家と重ねられて、彼はフランスでも「タルボー卿」として知られることとなりました。
 さて、やがて彼はイギリスに帰国することとなるのですが.......ルイ14世は彼の薬が持ち去られるのを好まれず、彼に成分と処方を買い取りたいと申し出ます。タルボーはこれを断わるのですが、王は代案として「処方を書いてくれるなら、それを封印して金庫にしまい、タルボーが死ぬまで明かさない」と約束。タルボーはこれに同意します。そして、王は彼に3000クラウン(イギリスの5シリング貨幣。当時フランスでも通用)を支払い、更には終身恩給を付けました。
 帰国したタルボーは、その後にセント・ジョーンズ大学の平民評議員に任ぜられるなどします。そして、1681年に名誉を保ったまま、秘薬の成分を知られることなくこの世を去りました。

 この様に、非常にタルボーと言う人物は幸運だったのですが.......もう一つの幸運があります。それは、彼が死んだ後の17世紀末には「ジェスイットの粉」はイエズス会宣伝の衰退とともに以前ほどの忌避はされなくなり、徐々に「ジェスイットの粉」と言う事ではなく、単に「マラリアの特効薬」としてキナ皮が使われるようになって一般に広まった事でしょうか。と言うのは、もし彼がもう少し遅かったら、きっと彼が名声を得る前に治療法が一般化したでしょうからね。
 ま、極めてまれなケースと言えるかも知れません。

 かくして「禁忌」でなくなったキナノキの粉末は徐々に民間に広まっていき、そして治療に使われるようになります。同時に、本来のマラリア治療とは異った、例えば神経強壮作用などがあると言われて、そのために使われたり、またあるいは別の治療薬として使われる事もありました。
 この様に広まっていった結果、今度はキナノキに関する研究が盛んになります。列強各国はペルーやボリビアからキナノキを取り寄せ、あるいは現地に派遣してこの木の研究を行います。その結果キナノキでも有効成分の量に差があることがわかってきますが.......しかし、有効成分の差があることはわかっても、マラリアに対する有効成分そのものは何であるのかは以前として不明でした。そして、当時徐々に活発になってきた科学により、これに対する研究が進められることとなります。
 その研究成果は、1820年9月11日にフランスで、当時32歳のジョゼ・ペルティエと25歳のジョゼ・キャバントーによって発表されました。彼らはキナ皮の中からマラリアに有効なアルカロイド(その5参照)を突き止めます。彼らはこの皮の現地での名称より、この成分を「キニーネ(「キニン」とも:quinine)」と命名しました。
 この発見の意義は大きく、当時それまで難儀していた薬の苦さや不安定な分量と言う点が改善されることとなります。更にキナ皮からキニーネを分離することによって適量を患者に与えることが出来る、と言う医療上非常に大きなメリットが得られ、マラリア治療に大きな改善がなされる事となります。これによって一層マラリアに対して治療効果が上がり、更に正確かつ確実な治療が行えるようになりました。

 さて、マラリアの特効薬としての認知と有効成分キニーネの分離がなされてから、需要の増大もあって必然的にキナノキにより大きな注目が集まります。しかし、その南米での採取の限界から価格の暴騰を引き起こし、更にキナノキが絶滅の危機に遭うこととなります。この事からキナノキの移植・開発が求められることとなり、19世紀前半から各国がこれに取り組み始めます。そしてイギリスとオランダが激しくこの覇権を争う事となります。
 両国はこの研究に膨大な金額を投資し、南米から各植民地......特に東南アジアに運んで移植を試みます。しかし、輸送中に枯れてしまったり、また輸送して根付いてもキニーネをさほど、あるいは全く産出しないなど両国とも非常にこれに頭を悩まされました。しかしながら最終的には1854年、オランダがジャワ(インドネシア)を中心にキニーネの多いキナノキの栽培に成功。イギリスはほぼ失敗に終わったことで、最終的にオランダがこの争いの覇権を握り、以降第二次世界大戦が始まるまではオランダがキニーネの供給を独占することとなります。
 これがまた、後に歴史を動かす要因となるのですが.........


 と、以上がキニーネが広まるまでの話となります。
 ま、かなりあいまいな伝説と伝承、そしてかなり幸運な男によって支えられたと言う面白い運命を辿っているのですが.........ま、これでもかなり省いた話になっていますがね。
 しかし、20世紀に入ってもこの物質は非常に大きな役割を果たすのですが、これは次回以降としましょう。

 っと、そうそう。最後にこういう話を一つ。
 19世紀にいわゆる「大英帝国」はインドを制圧して支配をしていましたが........さて、インドは湿地帯が多くここでのマラリアによる被害は多くあったことが知られています。しかし、支配者であったイギリス人は余りマラリアにかからなかった、と言われています。
 ......何故か?
 実は.......皆さん「ジントニック」って御存じでしょうか? これはジンをトニックウォーターで割ったものです。で、結構御存じない方もいらっしゃるかも知れませんが、トニックウォーターの正体は実はキナ皮を使った(今はキナチンキか硫酸キニーネ)で香味をつけた炭酸飲料を指します。一応、夏負けを防ぐとされていますが.........
 さて、インドはかなり暑い地域ですが、夏負け防止のため、そして仕事の終わりの一杯にイギリス人はジントニックを良く飲んでいた、と言われています。しかしながらインド人達はイギリス人のこう言った習慣を好まなかったと言われていまして......
 それがインドでのマラリア被害を防げなかった一因、と言う説もあったりします。
 ま、なかなか興味深い物ではあるような話ではありますが.........


 さて、では長くなりました。
 今回は以上ということで.........




 ふぅ.......

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回は前回話したマラリアの特効薬について、これが広まるまでの話をしてみました。まぁやや駆け足なんですがね。
 取りあえず、これが19世紀までの動向、ですが........これは20世紀に入るとまた大きく歴史に関与してくることとなります。そこら辺は次回以降に進めることとしましょう。

 さて、そう言うことで次回はこの話の続きと行こうと思います。ま、キニーネについての化学的な話も全然していませんからね。ここら辺も含めて色々と話をしてみたいと思います。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2001/10/02記述)


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