からむこらむ
〜その138:キニーネと帝国の興亡〜


まず最初に......

 こんにちは。だいぶ秋らしくなってきましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 ま、昼と夜で気温差が大きくなりましたが。服装が難しい感じがします.......風邪には気をつけましょう。

 さて、今回ですが。
 前回はマラリアの唯一の特効薬であるキニーネについて、これが広まるまでの話をしました。今回は、このキニーネについてとその後の話をしてみたいと思います。
 ま、色々と触れるとまた延々と長くなりますので色々と省く事になりますが、重要な点はしっかりと触れたいと思います。
 それでは「キニーネと帝国の興亡」の始まり始まり...........



 さて、前回はキニーネが広まるまでの話をしました。今回はそのキニーネについてと、20世紀からの様々な展開についての話をしてみたいと思います。

 まず、キニーネと言う物質について話しておきましょう。
 前回触れた通り、「マラリアの唯一の特効薬」であるキニーネがキナノキから分離されたのは、19世紀前半に二人のフランス人によって行われました。しかし、この物質の構造や合成については当時の技術では解析できず、20世紀に入ってからとなります。
 キニーネの化学構造・人工合成はキニーネの分離が行われてから当時の有名・無名の化学者が挑みました。しかし、成功するものはなかなかおらず、化学組成は判明しても構造まではなかなか出ませんでした。そして、結果としては構造は1908年に判明します。そして、キニーネの人工合成は1944年に、(有機化学では非常に有名な)ロバート・ウッドワード(Robert Woodward)達の努力により達成されました。



 二つ構造が見えますが、左は立体的に、右は平面的に描いたもので基本的には同じものです。専門的にはキノリン環とキヌクリジン環を持つ化合物でして、ゲラニオールとアミノ酸であるトリプトファンから生合成されると推測され、経路の推定がなされています。
 この化合物は既述の通り人工合成も成功してはいますが、工業的な合成段階となると色々な障害が多いようでして、工業合成で一般に供給するよりはキナノキから取ったほうが安上がりとなっています。ですので、皆さんがキニーネを飲む機会(おそらく硫酸キニーネでしょうが)があれば、合成ではなくキナノキから取ったものとなります。
 そうそう。キニーネの合成は19世紀後半〜20世紀初頭までの大きなテーマでした。そう言った研究の「副産物」はいくつか知られており、「からむこらむ」でもその66で触れたパーキンの「モーブ」といったものもその一つとなっています。あの人工染料はキニーネと言う大きなテーマがあってこそ、と言うものとなっています。
 ここら辺はなかなか面白いものがありますが。

 さて、このキニーネを生み出すキナノキですが。
 戦前はジャワ島を中心(約90%)にセイロン、ビルマといったところで栽培されたキナノキは、現在も主にジャワ島で栽培されています。キナノキ(Cinchona)属であるC. ledgerianaC. succirubraと呼ばれる木が栽培されていまして、大半は前者のC. ledgerianaとなっています。生薬調整のためにはキナノキを根こそぎ堀出して、幹や枝の樹皮をことごとく採取します。この中に含まれるアルカロイドは5〜8%で、その2/3をキニーネが占めています。大体7〜8年目がキニーネ含有量が最大になると言われています。
 キニーネとその類縁のアルカロイドは分離されていまして、キニーネ以外にシンコニン(cinchonine)、キニジン(quinijine)、シンコニジン(cinchonidine)といった物が知られています。これらはいずれも類縁のものでして、立体構造の違い程度の差となっており、興味深いものとなっています。
 以下に構造をあげておきます。



 キニーネと比べると非常に良く似ていると思いますが。シンコニジンはキニーネの「-OCH3」の部分が水素になっています。キニジンはキニーネの立体異性体(その24参照)、シンコニンはシンコニジンの立体異性体となっています(青字部分参照)。
 この様な、キニーネに似たアルカロイドを「キナアルカロイド」と呼んでいます。

 キニーネのマラリアへの作用機構は解明されています。
 キニーネはマラリアのDNAに結合し、生体の必須成分であるたんぱく質の生合成を阻害します。これによりマラリアを殺すのですが、前々回に触れたマラリアのサイクルで触れた胞子小体や、赤血球への感染以前には効果があまりないとされています。
 尚、キニーネには筋や腺と言った代謝作用を抑制し、熱の発生を低下させて体温を下降させる効果があります。他にも子宮収縮作用や心筋抑制作用といった物があります。こういった作用からか、強壮剤や苦味健胃薬、鎮痛剤といった使用用途があるようですが、大量に使用することで副作用が出ることも知られています。これは耳鳴りや頭痛、目まいといった症状の他に溶血、視障害といったものがあります。

 以上が「キニーネ」と言う化合物そのものについての話となります。

 ところで、前回にはキニーネの広まるまで、と言うことで19世紀までの話をしました。
 かなり重要ですので、この後の話をしておきましょう。

 激戦の末、オランダがキニーネの供給の覇権を握ったことは前回触れました。これはオランダに「マラリアの唯一の特効薬」たるキニーネの独占供給と言う、極めて経済的に高い地位を与えます。そしてオランダによるキナノキの移植・栽培はかなり進み、その結果として「供給過剰」状態にまで陥って、生産調整が行われるまでになります。この様に十分に供給することが出来ましたので、キニーネは比較的安価な物となります。事実、1920年代のアメリカで5グレイン(=325mg)で3〜4セント程度と言われています。マラリアの治療ではキニーネを2〜3日間、一日約15グレイン(=約1g)飲むことを考えると、これは非常に安価に治療ができたと言えるでしょう。もっとも、これは「先進国」での事情でして、(現在と同じように)貧しい国ではこの金の確保も難しかったのも事実ではありますが。
 とにかくも、オランダは全世界においてキニーネの唯一の供給国として「キニーネ帝国」とも言える地位を築きます。もっとも、これが面白くない国もありまして.......ま、アメリカなどは相当にこの事実に反感を覚えており、色々とアクションを取ったりしています(ここら辺は、今も昔も変わりません)。

 ではマラリア治療薬がキニーネしか実際にはなかったか?
 実際にはそうではなく、人工合成によるマラリア代替薬の研究がドイツで行われることとなります。理由はありまして、1914年から始まった第一次世界大戦により、反同盟国の立場であったオランダがドイツへのキニーネの供給を断ったことがきっかけとなっています。
 この研究は実際に実を結びまして、ドイツは代替薬「キナクリン(アテブリン)」を開発。これは実際に第一次世界大戦後に各国へ技術供与され、アメリカなどでドイツとの提携会社が生産を行いました。
 こうして代替薬が作られるようになるのですが、値段や供給量の問題から大戦後においてもオランダの「キニーネ供給国」と言う地位は揺らぐことはありませんでした。実際、アメリカは第二次世界大戦直前にオランダより軍用に370トンものキニーネを買い付けていたりします。
 しかし、この地位はやがて、三つの要因によって崩されることとなります。

 1941年、日本の真珠湾奇襲に始まった太平洋戦争は、日本軍を資源の確保の為に東南アジアへと進出させることとなります(原油・ボーキサイト他、戦略重要物資の宝庫です)。この結果、インドネシアを始めとする東インド諸島は日本軍の手に落ち、これによってキニーネ供給が一斉に断たれることとなります。これは世界的に非常に大きな打撃を与えることとなりました。そして、これらの地域は戦後は独立したためにオランダの手を離れ、オランダのキニーネ独占を崩すこととなります。
 こう言ったことのほかに、更に新規の合成抗マラリア薬がキニーネをより不要のものとします。
 これは、第二次世界大戦により抗マラリア薬の研究が活発になり、数千もの化合物が検査され、いくつかが実用化されるなどしていました。もっとも、太平洋戦線のアメリカ軍においては過去にドイツ軍が使っていたキナクリンを利用していましたが。
 ところがこのように備えていたのにも関わらず、太平洋戦線の米軍の一部部隊はマラリアに大いにやられたと言われています。
 理由はいくつかあるのですが.......その中の一つに日本による対米向け戦略放送(敵対国の戦意の喪失などを目的としたラジオ放送。当然相手国の言語で放送)の影響があったと言われています。これは(知る人ぞ知る)ラジオ宣伝員「東京ローズ」が関わっていまして......と言うのはキナクリンには肌の色を黄色くする、と言う副作用があり、これを「東京ローズ」は大いに指摘します。更に「東京ローズ」が米兵に信じ込ませた致命的なものとして「キナクリンは性的不能にする」と言う物(実際にはデマ)がありました。これを信じた米軍兵士達はキナクリンの積極的な使用を控えてしまい、ニューギニアにおいて上陸後の二週間に95%兵士がマラリアにかかったと言われています。
 これにより、かなりの戦力ダウンとなったようです。
#死人よりは病人・けが人の方が人手を必要とすることを考えると尚更です。

 話を戻しまして......キニーネ代替薬の開発は戦争中も積極的に行われていたのですが、この中で有望な物が一つ見つかります。
 この新たなる代替薬の発見は偶然からもたらされたものでした。これは、北アフリカ戦線で捕虜としたイタリア兵が持っていた丸薬がきっかけとなっています。連合国側はこの丸薬を抗マラリア薬と考えて研究した結果、これがドイツで新しく開発された物で「クロロキン」と呼ばれる物質であることが判明します。この物質はドイツではキナクリンに劣ると考えられていたのですが、連合国側で詳細に調べた結果、実際にはキナクリンよりも10倍も効果が高く、副作用も少ないことが判明しました。これによってアメリカはこの物質の生産に入り、大戦中に数トンものクロロキンを供給します。
 尚、このクロロキンの生産は相当に「突貫工事」だったようでして、当時の大学と化学者達で相当必死になって作っていたようです。
 以下に、リン酸クロロキンの構造を挙げておきます。



 こう言った二つの大きな要因によってオランダはキニーネ供給国の地位を失い、「帝国」は崩壊していくこととなります.......っと、先に挙げた「三つの要因」に一つ足りませんが、これは最後に触れておくこととして先へと進みましょう。
 大戦後はアメリカが中心となり、クロロキンの他にアラレン(パルドリン)と呼ばれるような代替薬を中心として合成抗マラリア薬は活躍することとなります。そして、積極的に朝鮮戦争やベトナム戦争、その他紛争地域などで使っていきました。

 では、キニーネの地位はこれで落ちてしまったのか?
 実際にキニーネを駆逐すると思われる勢いで戦後に合成抗マラリア薬は広まっていきました。しかし、この合成薬の大量使用により、徐々にこの合成薬に耐性を持つようになったマラリアが出現、広まってくると事態が一変します。これは、クロロキン等の合成薬の過剰な使用によって引き起こされたものでした。
 この結果どうなったのか?
 実は面白いことにこの事によってキニーネが再度注目を浴びることとなります。と言うのは、合成薬による耐性をマラリアは身に付けることが出来ましたが、不思議なことにキニーネに関してはいくら使っても(今のところは)耐性が出来てこないと言う、と言う非常に興味深い事実によります。これは本当に興味深いものでして、これによって合成薬がキニーネに取って代わることなく、実は現在でもキニーネは非常に抗マラリア薬として非常に重要な地位を占めています。とは言っても合成薬が全く使われていないわけではなく、クロロキンや他の合成薬(キニーネ類似構造のものや、サルファ剤に近いものなど)も有力なキニーネ代替薬として現在も使われています。もっとも、クロロキンの使用地域では耐性マラリアの発生が報告されていたりと、海外に旅行する際には気をつけておきたい情報であったりしますが。
 尚、この薬剤は日本でも抗マラリア以外に慢性炎症(特に腎炎)に有効だったため、そう言った方面においても使用(日本薬局方では「リン酸クロロキン」で登録)されていました。しかし、長時間・大量使用によってクロロキン網膜症(視覚障害の一種)といった副作用が発生して問題になります。これによって1975年に薬害として国、メーカー、医療機関を相手に訴訟が起き(クロロキン訴訟)、82年に原告側勝訴となりました。こういった事態を受け、現在では日本ではクロロキンは使用禁止となっています。


 そうそう。最後にキニーネの代替治療薬と言う点においてですが。
 一応、これは補足的な物として書いておきますが、実はキニーネ以外にも有効だったらしい(?)植物も一応知られています。例えば、キナノキ以前の中世ヨーロッパでは「聖ジョンの薬草」と呼ばれたオトギリソウの一種が有効であった様でして、ワインと一緒に飲んでいたようです。一応、効果はあったようですが.........
 また、中国南部やインド北部に自生するユキノシタ科(Saxifragacae)のショウザンアジサイ(Dichroa febrifuga)が「常山(じょうざん)」と漢薬名で市場にあるのですが、これがマラリアに対して有効であることが知られています。実際、この根の抽出物を三日熱型マラリア患者に投与したところ、キニーネに比べて同等の解熱作用を持つことが知られています。しかし、抗原虫作用としてはキニーネよりも一日ほど遅れることが知られています。この根からは色々と、抽出物による実験と、化合物の分離が行われています......ま、スペースもないので構造や化合物はここでは控えますが。
 以上を考えると、ある意味「キニーネが絶対的に唯一の特効薬」ではないと言えるかも知れません。
 もっとも、大量に栽培されていて供給が容易と言う点、つまり「実用」と言う点などから、現在においてもキニーネの地位はやはり高いままです。


 さて、長くなりましたが。
 以上がキニーネそのものについてと、20世紀に入ってからの動向となります。

 ところでオランダがキニーネ供給国としての地位から落ちる、つまり「帝国の崩壊」となる原因の二つを既に挙げました。しかし、もう一個は挙げていません。
 その最後の一つは何か?
 これは、アメリカが戦後にマラリア駆除の為に選んだ戦略の一つでして.......要は「マラリアが媒介されるなら、その媒介者を断ってしまえばよい」と言うことで、殺虫剤によるハマダラカの駆除を行います。その戦略は成功し、アメリカのマラリアを90%も減少させます。
 その殺虫剤の名前こそは、彼の有名な「DDT」と呼ばれるものでした。

 次回はこの、非常に有名なDDTについて触れてみようと思います。
 今回は以上ということで........


※:2002/05/27追記
 キナクリンの構造はその159に掲載しています。尚、最近狂牛病及びクロイツフェルト・ヤコブ病に対する治療薬として期待されており(異常プリオンの蓄積を防ぐらしい)、将来的にこういった薬が使われる可能性があります。

 キニーネの代替薬ですが、非アルカロイドも知られていまして、その代表格としてキク科ヨモギ属のクソニンジン(Artemisia annua L.)が知られています。この植物は中国の民間薬で「青蒿(quinghao)」と言われるもので、古くから使われています。この植物より得られたアルテミシニン(artemisinin)の薬効が1979年以降注目されています。

artemisinin


 専門的にはセスキテルペンの一つでして、窒素を含まない点でキニーネとは大きく異なります(この差は大きいです:その点ではある意味THCと同じく注目に値します)。全合成は1987年に行われています。
#ヨモギ属(artemisia)は、その141のアブサンの話で語源の由来が出ていますのでご参考まで。

 また、最近(2002年3月)では同じく非アルカロイドで「1,2,6,7-Tetraoxqspiro[7.11]nonadecane」の物質(「1,2,4,5-テトラオキサシクロオクタン」の3位に「シクロドデカン」が結合したスピロ化合物)が抗マラリア薬として働く、という事を岡山大の教授らが発見しています(この件に関して、Nishitaniさんから構造の情報を教授していただきました。ありがとうございますm(_ _)m)。

 他にも、京大と米の大学の合同で研究した結果、マラリア原虫の酵素を阻害する化合物が開発されるなど、様々な方面で抗マラリア薬が開発されています。

 尚、某医療漫画や毒を扱うサイトなどでマラリアの特効薬を「ストリキニーネ(strychnine)」(その164参照)などと言っているケースがありますが、恐らくキニーネと混同しているようですのでご注意を!




 これでキニーネは終わり、と。

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回は前回にキニーネが広まるまでの話をしました。今回はそのキニーネそのものと、20世紀の動向について触れてみました。まぁ、もっと書きたい物とか、構造の提示とかしたかったのですが、そこまでやると足りないものもありますので。ま、ある程度の要点を押さえつつ色々と書けたかとは思いますけどね。
 ま、マラリアとキニーネと人との関係を掴んで貰えれば幸いです。

 さて、今回は以上として次回ですが。
 取りあえず話の予告通り、ですね。ま、DDTについての話をしてみようとおもいます。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2001/10/09記述 2002/05/27追記(Thanks>Mr.Nishitani)


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