からむこらむ
〜その194:再発見と疑惑〜


まず最初に......

 こんにちは。1月も今週で終わりとなりますが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 まぁ、最近はインフルエンザだなんだとにぎやかですけど。気をつけて過ごしたいものですね。特に受験生は気をつけて欲しいものですが........ま、そういうシーズンですか。

 さて、今回は色々とあって悩んだんですが。
 え〜、軽いネタでいってみようかと思います。これは以前にも触れた「名誉争い」の類い、となるのですが..........こちらは、別に不幸な結果にはならなかったものの、どうにも「???」というものがある話です。まぁ、人間らしいというか何というか........
 ま、比較的気楽な話ではあるのですが........また考えてしまうものがあると言えるかもしれません。
 それでは「再発見と疑惑」の始まり始まり...........



 おそらく皆さんは「遺伝」という言葉をご存知だと思います。
 「遺伝」.......昨今は専ら「遺伝子」というような部分が注目されているかと思いますが。ま、そう小難しい物を知らないと何もかもが駄目というものでも無く、ある程度は日常では使われる言葉です。ま、体質やらそういうもの、外見的なものといったような生物学的な意味で「遺伝」という言葉を使う人がいれば、単純に「血は争えない」というような意味で「遺伝」を言う人もいますけどね。

 さて、「遺伝」の小難しい話は一つ置いておきまして。
 「遺伝」というと忘れてはならない人物がいます。いわゆるメンデルがその人でして、「メンデルの遺伝法則」または「メンデリズム」と呼ばれる「遺伝の法則」を発見した事で有名な人です。ここら辺は中学でも名前ぐらいは聞くでしょうか。高校なら内容まで大体触れる物ですし、ある程度名前は有名だと思われます。
 グレゴア・ヨハン・メンデルは19世紀のドイツの人でして、自作農の果樹園農家の息子に生まれました。とは言っても、そう裕福ではなく、色々と苦労はしたようですが。そして、ギムナジウム卒業後に修道院に入り、一方で代用教員として教鞭をとっています。
 とは言っても、この人もなかなか妙な人でして........
 この人、本職の方では司祭になるのですが、実は司祭の仕事が苦手だったと言われています。これは、司祭までいくと人の苦しむ姿を直にみていく必要があるわけで、彼はそれがかなり苦痛だったようです。一方、代用教員の方は評判が非常に良かったようで、こういったことから正教員を目指したものの、最初は生物学の成績が悪くて試験に落ちている、という話が残っています。二度目は面接官と論争になったとか色々といわれているのですが、そちらは本人はあまり語っていないそうですので理由は今となっては不明です。
 こう見ると、メンデルという人物はある意味「不器用な」人なのかもしれませんけど........ただ、当時は今ほど職業選択の自由などという物はありませんでした。そう裕福ではなかったので食っていくためには必死だった訳で、色々と不本意なものはあったとは思われます。

 さて、二度の教員採用試験に落ちたメンデルですが、二度目を受けた1856年頃から彼の勤めていたブリュン(現チェコのブルーノ)の僧院の一角で、有名なエンドウを使った遺伝実験を行います。
 8年間の実験で彼は一つの遺伝に関する法則  メンデルの遺伝法則を発見します。
 以上で表される法則は、当時としては非常に斬新なもので、彼はこれを統計的にまとめ挙げて論文『植物-雑種に関する研究』に仕上げ、1865年に「自然研究会」で発表します。しかし、彼は「低学歴」だったうえに当時の論文は「ばく大なデータを載せて、膨大な著述にする」物だったこと。そして、何より当時の生物学会においては進化論が大きな話題になっており、メンデルの発見は「大したものではない物」に映った様で、メンデルの発表はそのまま無視されてしまいます。
 これに彼は相当がっかりしたようですが........
 その後、1868年には修道院長になり実験から手を引きます。そして、修道院長になって晩年の10年間は修道院の課税問題に抵抗して大きく争うのですが、彼は病気になって結局この争いに敗れ、失意のうちに1884年に世を去ったと言われています。
 色々と、苦労の多い人生だったといえるのかもしれませんが.........
#尚、現在はメンデルの法則も様々に調べられていますが、独立の法則などは例外が多いことも知られています。
#ただ、古典的ですが遺伝学の礎を作り上げた功績は大きいのです。


 さて、ところで、もしメンデルの発見がそのまま埋もれたままなら? 少なくとも今に彼の業績は残っていないでしょう。
 では、何故残っているのか? これは、メンデルの法則を「再発見」した人「達」がいるからです。これは、1900年に発行された『ドイツ植物学会誌』の第18巻に、同時に独立した3名によって同じ主旨の論文が発表された事によります。
 しかし、この再発見は色々ともめることとなりました。つまり「誰が最初の再発見者なのか?」

 発表した3名を紹介しましょう。
 一人目はオランダのヒューゴー・ド・フリース。
 当時53歳のアムステルダム大学の教授でして、遺伝学、植物学、進化学に通じた非常に著名な人物です。特に1889年に発表した「細胞内パンゲン説」は後の遺伝子につながる概念であり、更に1901年には進化の原動力として「突然変異説」を発表するなど、科学界において非常に多大な貢献を残しています。
 二人目はドイツのカール・エーリッヒ・コレンス。
 当時37歳のチュービンゲン大学教授で、植物学の教授でした。この人物は後に非メンデル性遺伝の研究によって細胞質遺伝学の創始者となるなど、大きな貢献を残す人物です。
 三人目はオーストリアのエーリッヒ・チェルマク。
 当時30歳でウィーン農科大学で研究中でして、発表した論文はもともとウィーン農科大学の講師就任論文として学長に提出していたものでした。この人物は農作物の遺伝学と育種に関する権威となりまして、メンデル遺伝学を実際に農業に応用する研究を行うなどの業績を残しています。

 彼らは同時に、しかも同じ雑誌に同じ主旨の論文を発表することになりました。
 が、しかし実はこれには非常に大きな裏話というか、揉める経緯が含まれているものでした。とりあえず、各人の発表までの流れを紹介する事としましょう。

 最初の発見・発表はド・フリースによって行われました。
 彼は1896年の終わり頃には既に実験を終え(つまり既に遺伝の法則を発見している)、そしてその頃に偶然メンデルの論文を知ったとされます。そしていくつかの研究と論文発表を経て、彼は1900年の3月に「遺伝の法則を発見」した旨の論文を執筆し、このフランス語版をフランス科学アカデミーへ、ドイツ語版をドイツ植物学会(当時のヨーロッパでは、この学会が植物学に関しては最も影響力があったらしい)へと送ります。受理されたのは独語版が先でしたが、印刷は仏語版が先で4月に、独語版もまもなく印刷に入りました。もっとも、独語版はメンデルへの記述があったものの、仏語版ではこれが省かれていました。これは、科学アカデミー側が例会で読み上げた際にメンデルの部分を省略したからといわれています。
 そして、この省略が後に問題になります。

 ド・フリースの仏語版論文の別刷りは4月21日、コレンスの元へと届けられます(論文はライバルや協力者などに送る事があります:先取権などの問題もある)。この時、既に彼は遺伝の法則を「発見」していたのですが、更に1899年末頃にはメンデルの論文も読んでたため、彼は自らの発見を「二番煎じ」と判断し、特に急いだアクションは取っていませんでした。しかし、この別刷りが届くと大きく慌てることとなります。
 先手を打たれたことに気付いた彼は、急いで自らの論文を書き上げます。これは猛烈なパワーが必要となることなのですが、しかし彼は一晩でこれを書き上げ、更にこの論文の内容にド・フリースが書かなかったこと、つまりメンデルの事について触れることとしました。これは、ド・フリースの仏語版論文にメンデルの既述が無いのにメンデルが使っていた言葉(「優性」「劣性」といったもの)が使われていたため、「ド・フリースはメンデルを差し置いて、自分を発見者として言うつもりではないか?」と疑ったためです。
 実際、その点について論文には皮肉が入っているとか言われていますが........
 それはともかく、彼が書き上げた論文のタイトルに『品種間雑種の子孫の行動に関するG.メンデルの法則』とつけました。つまり「メンデルの法則」を入れるなど、大分念入りにド・フリースへの牽制を入れまして、翌日にドイツ植物学会へと送付します。急いだ甲斐もあって24日には論文が受理され、5月26日にはその原稿のゲラ(活字組版)が彼に送られます(印刷はまだで、この後に行われる)。
 尚、ド・フリースの独語版にはメンデルの記述があったため、独語版がコレンスの元に届くとコレンスは校正中の後書きにこの旨を記した事は彼の名誉のために書いておきましょう。

 一方、チェルマクはどうか?
 1899年に彼は遺伝の法則を「発見し」、更に同年の暮れにはメンデルの論文を読んでいました。このため、彼もコレンスと同じく「二番煎じ」と思った様です。そして、同年12月にウィーン農科大学の講師就任論文として、彼は「発見」に関する実験結果を90ページの論文として書き上げ、1900年1月27日に学長に提出していました。しかし、4月にド・フリースの仏語版論文の別刷りを受け取ると、これを読んだ彼はコレンスと同じ所感を覚えます。
 つまり「メンデルを知っているくせに書いてないのではないか?」
 しかし、出し抜かれた事を知った彼は、急いで大学の了解を得て論文を取り戻して『オーストリア農業研究雑誌』に投稿します。しかし、更にド・フリースの独語版論文が彼の元に届き、次いでコレンスの論文も彼の元に届くと、これに大きく慌てた彼は学長に提出した90ページの論文を10ページに短縮し、これを『ドイツ植物会誌』に提出します。更に八方手を尽くしてド・フリースとコレンスの掲載予定号に間に合うようにしてもらい(遅れると先取権の問題だけでなく、本当に「二番煎じ」になって認められなくなるので、必死にならざるを得ない)、その甲斐があって6月2日にこの論文は受理されることとなります。

 経緯をまとめておきますと.........

ド・フリースコレンスチェルマク
メンデルの論文を
知ったとされる時期
1896年末頃1899年末頃1899年末頃
1900/0127日に講師就任論文として提出
1900/03仏語版、独語版論文を投稿
1900/04論文が印刷21日ド・フリースの仏語版論文を受け取る
急いで論文を書き上げ
24日ドイツ植物学会で論文受理
ド・フリースの仏語版論文を受け取る
その後独語版論文とコレンスの論文を受け取る
1900/0526日独語版ゲラを受け取る
1900/062日ドイツ植物学会で論文受理
※:彼らはメンデル以前に法則を発見したと主張。

 こう見ると、1900年の4月〜6月までのわずか2ヶ月の間に激しい動きが見られることがわかります。そして、コレンスもチェルマクも、ド・フリースの論文を見て大きく刺激された、ということもわかると思います。
 こういった経緯の末、目出度く『ドイツ植物学会誌』第18巻に3名の、同じ主旨の論文が掲載されることとなるのですが........しかし、この後に「誰が再発見者としての栄誉受けるのか」が取りざたされる事となります。これは、各人の名誉に関わる訳ですので、当然各人とも敏感になるのですが.......

 では、誰がその栄誉を受けたのか?
 最初に行動して論文にして出した、という点でド・フリースについては文句が無いです。よって、彼には一般に「再発見者」としての栄誉が与えられています。そして、コレンスもメンデルをより積極的に評価し、更にド・フリースのメンデルに関する点の不備を指摘するなどの功績が認められ、彼も「再発見者」としての栄誉が与えられます。
 ではチェルマクは?
 実は彼は最初は認められませんでした。というのも、若い上に実績が無い。そして、二人に比べて論文の内容も見劣る点があるとされたようです。事実、ドイツの植物学の創成期において指導的地位にあったシュトラスブルガーの著した教科書『植物学教程』において、メンデルの遺伝法則の再発見者として、ド・フリースとコレンスの名前はあったものの、数年間はチェルマクは完全に無視されていたそうで、チェルマクは発見者としては認められていなかったようです。
 もっとも、最終的にはチェルマクはメンデルの論文の価値というものを学会へ強く訴えた成果、というものも認められまして、彼も「再発見者」として認められるようになります。最終的に3名ともその結果には満足したようで異議を唱えず、更には現在でも異論は唱えられていないところを見ると、やはりそれぞれの「貢献」がある、という事になるでしょうか?
 そして、これで丸く収まったこの話は麻酔についての争いの様な事にはならず、皆で平等にその栄誉が分けられる事となった、という事である種の「美談」となっています。


 ........といったところで終わり...........では実は無いんです。
 何でか? 実は、3名ともちょっとした「疑惑」があります。

 彼らの「疑惑」とは何か?
 3名ともメンデルの法則について、次のような共通する主張があります。それは、「自分の実験が終わってから偶然メンデルを知った」という事です。これは言い換えれば「遺伝の法則は全部自力で見つけた。後でメンデルがこの法則を打ち立てていたと知って驚いた」という事になります。
 では、これは本当なのか?

 ド・フリースはどうか?
 メンデルの法則に「分離の法則」というものがあります。これは、エンドウ豆で言えば、黄色と緑の物を交配させると、黄色が優勢なために、生まれてくる雑種第1代では黄色となるのですが、しかし雑種第1代同士を交配させると、雑種第2代では黄色:緑=3:1の比率になります(ここら辺はネットを漁ると簡単に出ると思います)。
#親世代 黄色(AA)×緑(aa)→第1代:黄色(Aa)  第1代:黄色(Aa)×黄色(Aa)→第2代 黄色(AA、Aa、aA)、緑(aa)
 ド・フリースは1896年頃にメンデルを知ったというのですが、これを追跡すると、どうにも1899年12月時点の論文まででは、この分離の法則についてどうも理解が出来ていないらしい、という事が指摘されています。というのも、1897年の論文では雑種第2代で2:1という比や4:1という数字も出しています。そして、1899年の12月の論文では「雑種第1代が3:1になる」と書くなどどうにもおかしく、そして1900年のある論文ではそれまで扱っていたデータについて比率を変え、突然「3:1に近い」と書いているとか。
 つまり、どうもメンデルの分離の法則について理解が足りているように見えず、メンデルを知って「理解した」のでは?

 では、コレンスは?
 彼は遺伝の法則について、1899年の10月ごろに「ベッドの中でひらめいた」としており、その後メンデルの論文を知って読んだとされます。実際、同年の論文にはメンデルの名が出ているそうです。
 しかし、彼はフォッケという人物の著した『雑種植物  成長への寄与』という本を参考に実験をしていたとされていまして、しかもこの本では既にメンデルについて触れられていたとされています。彼は「それには気付かない」まま実験をし、そしてある時ひらめいて、その後メンデルを知った、という主張をしているのですが.........
 しかし実験は数年間かけてやっていたものでした。なのに、参考とした実験の本に書いてあった物に本当に気付かなかったのか?

 じゃぁチェルマクは?
 チェルマクの回顧録では、1899年の暮れにメンデルの論文を読み、その内容に驚いたとされています。ところがこの回顧録には、この人は1898年にド・フリースを訪れた事があるとしています。そして、ちょうどド・フリースはその時には分離の法則について追試中だったとしています。
 それならば?
 チェルマクはその時には既にメンデルを知っていたのではないか? 他にも彼の論文は不完全なところが多い、とされています。それはデータが曖昧だったり、あるいは遺伝の法則を本当に理解していたのかについて疑問が浮かぶ、という指摘がされているからでして、実際に不備が多いようです。

 と、以上が簡単ながら彼らについての「疑惑」です。
 つまり、どうも自分の研究の前、あるいは途中でメンデルの論文を知っていて.......そして、それを「参考にして」自分の論文を作った、という可能性もどうも否定できないのではないか、と。事実、もし自分でちゃんと法則を打ち立て、理解していたならば起こらない、というものがどうもあるらしい。
 では、これは真相について検証できるのか?
 その答えは.........残念な事に検証は不可能です。よって真相も「不明」です。何といっても、100年以上も前の話ですし、当時を知る人も実質皆無な上、当事者も全員墓の下。つまり、「本当に自力だったの?」という疑問が残るものの.........という形になっています。
 しかし、彼らのおかげでメンデルが注目を浴び、そして遺伝学の大きな発展を見せたのは確か。
 まぁ、そういう意味では彼らに「再発見者」の栄誉を与える事は間違いではない、とも言っても良いでしょう。それだけの功績はあったといえますから。

 まぁ、でもやっぱり真相が気になる、というのは管理人だけではないでしょう。
 事実、色々な人がこの点について触れていますので.........


 さて、という事で長くなりました。
 今回は以上、という事にしましょう。




 終わり、と。

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 ちょっと色々とネタが見つからなくて、色々と困りましたが(^^; え〜、やや急ごしらえですが、ちょっくら科学史ネタをしてみました。とりあえず、有名なメンデルに関する話だったりしますので、興味があればまた自力で探してみても興味深いものがあると思いますけどね。
 とにかくも、こういう経緯があった、というのは知っていても面白いかと思います。

 さて、そういうことで終わりですが。次回はどうしますかね.........
 とりあえず、もろもろとあるので、また軽めのネタを探したいと思いますが。まぁ、見つかるか.........(^^; 頑張ります。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2003/01/28記述)


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