からむこらむ
〜その179:栄誉の価値〜


まず最初に......

 こんにちは。10月も半ばとなりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 大分涼しくなってきましたけどね。そろそろ肉まんなどの買い食いがおいしくなる頃でしょうか?(笑)

 さて、今回のお話ですが。
 前回までは数回にわたって興奮薬の話をしました。ということで、まぁ長かったので久しぶりに息抜き代わりにちょっとした、科学史系の話をして見ることとしましょう。正直言えば与太話みたいなものですが。
 ま、科学の「栄誉」に関する話なのですが........これがまた、泥仕合というか凄いことになるケースがあったりしますので。しかもこれが本当に.......
 それでは「栄誉の価値」の始まり始まり...........



 皆さんは「科学者の栄誉」というものはどういうものであるかと思うでしょうか?
 今現在、あるいは過去にそういった分野に関わったことのある人はおそらく分かるでしょう。もっとも、これは常識的に考えれば大体分かるものですが。
 それは何か?
 実際にはいくつかあります。例えば「その道の権威」になる、というのは一つの栄誉です。もっともそうなるためには常に「最先端」である必要がありますし、常に成果を出していかなければなりませんが。また、そうなるにはやはり「こういう未知の部分を解明した」という様な実績が必要です。これは容易に想像がつくでしょう。
 これ、言い換えれば



「俺が最初だ」



 ということに他なりません。発見、発明というのは総じてこれが栄誉になり、場合によっては歴史に名を残すこととなります。ただ、同時期に独立して他所でこういう事が起こると、これがまた争いの種になり、揉めることとなります。中には相手が先だったということを譲ってあっさり終わることもありますが、大体はそうは丸く収まりません。ノーベル賞受賞者同士で不仲というケースだってあるぐらいですから。まぁ、もっともフグ毒のケースのように学会で同時発表=全員発見者、というケースもあります。これは大体納得の上になりますけどね。
 ただ、これは現代での話。過去では今のような情報あふれる世界ではなく、タイムラグがあったり数年後に発表、あるいは遺稿から判明したとかそういうものも数多くあります。よって、色々と判断しかねる物もあったりしまして、それで争いになるケースがあります。
 今回は、その「争い」のもっとも凄まじいケース  4人が争い、3人が不幸な死を迎えた話を紹介しましょう。


 まず、皆さんは医学の上で極めて重要な発見を挙げよ、と言われたら何を挙げるでしょうか?
 って、どっちかというと医者向けの質問になるような気もしますが。これはたくさん挙げることが可能です。というより、医者だったらある程度は挙げられないと駄目な気もしますけどね。ま、こういったものの中で確実に挙げられるものの一つとして、「麻酔」というものが挙げられると思います。
 この麻酔というものは極めて重要でして、例えば麻酔無しでの外科手術などは現在では考えられないものがあります。これは患者の苦痛を取り除くものとしては必須でして、もし麻酔をかけずに手術をすれば、それは果てしない苦痛を伴うものとなりますし、また時としてショック死を引き起こします。これが無かった(色々と「この人物が行ったのではないか」というのはとにかく)過去には、大掛かりな外科手術の生存者はナポレオンの時代で1000人に5人足らずという話もあるようです。一応、「何なら意識を飛ばせば良い」ということで酒を大量に飲ませて酩酊状態にする、さもなくば屈強な男が押さえつけて強引に、あるいはぶん殴って気絶させて........という極めて乱暴なものもあったようですが......どちらにしても、それまでの「外科手術」に対して最も的確な言葉は「拷問」であった、といっても過言ではありませんでした。
 ここら辺はそれほど詳しく書かなくてもある程度の想像は出来るかと思いますが。

 ここでは麻酔の作用やら全体の歴史やらは本題ではないので置いておくこととしまして。
 近代において「麻酔」の効果を持つ単純な化合物の最初は何だったか、というとこれは一酸化二窒素(N2O)と言われています。亜酸化窒素とも言われますが.......この気体は通称「笑気ガス」と呼ばれまして、これを吸うことで顔が引きつって笑ったように見えることから命名されました。あ、これで「笑う」ということはありません。あくまでも顔がそうなるだけ。もっとも人間の心理とは面白いものでして、実際に笑い転げるとかあるそうですけどね。
#笑気ガス=笑うもの、という思い込みからなるらしい。
 さて、この笑気ガスの麻酔効果を発見したのは1798年、当時20歳だったハンフリー・デイビーでして、彼は当時イギリスのブリストルにあった気体研究所で種々の気体を調べ、それを医学的に応用する研究をしているうちに発見しました。これが評価されまして、後に彼は王立研究所に職を得まして教授に昇格。そして彼は種々の元素を発見して性質を確かめるなどの業績を残しています。ついでに、彼の助手が彼のマイケル・ファラデーだったりします.......そう、電気の研究で偉大な業績を残した人物です。
 ところで、デイビーは笑気ガスが外科手術に使えるだろうと示唆はするのですが、これについては誰も調査はしませんでした。
 ということで、笑気ガスは医学的にみれば埋もれていくこととなります。
 しかし、笑気ガスは娯楽用としては使われることとなります。これはこれを大量に吸えば「酔っぱらった」様になって「ハイになる」ということで、パーティーの際にこれが用いられ、パーティーでの「酔い」を促進するためなどに用いられていました。そして、そういった使われ方が唯一の使用法だったのですが.........

 時は移りまして1844年。
 アメリカのコネチカット州ハートフォードでコルトンという男が笑気ガスの娯楽用の公開実験を行います。これに参加したのが、その場にいた歯科医ホレース・ウェルズの相方サミュエル・クーリーでして、彼は笑気ガスを吸った後に酔いの為に暴れ出しまして、取っ組み合いの末によろけて倒れます。この衝撃で我に返った彼は大人しくウェルズの元にもどるのですが、この時に周囲の人たちがクーリーのイスの下に血が溜まっていることをみて驚き、これをすぐに告げます。見ればクーリーの足には深い傷が.......しかし、彼は笑気ガスの効果の為にこれに気付きませんでした。そして、ガスの効果が抜けるまで痛みを感じませんでした。
 これを見てウェルズは、当時極めて苦痛を伴うものであった抜歯にこのガスが使えるのではないか、ということに気付きます。
 ピンと来ない方がいらっしゃいましたら........麻酔無しで歯を抜く行為がどういうものか? というのを想像すれば........当時は麻酔がありませんでしたから。ウェルズは笑気ガスがこの苦痛を取り除くことに使えるのではないかと考えました。
 そして、自ら実験台になりまして、笑気ガスを吸って意識を失っている間に友人の歯科医に虫歯になった自らの臼歯を抜いてもらいます。
 結果は、彼が期待した通りでした。


 さぁ、これから話が本番です。結構ごちゃごちゃしますので、注意して欲しいのですが。
 1845年、笑気ガスの成功を確信した彼は、ボストンのマサチューセッツ総合病院の階段教室において笑気ガス麻酔による抜歯の実演を公開します。彼は志願者を使ってこの実験を行いました..........が、運命の女神は彼を見放します。
 緊張のせいか.......彼は、麻酔が十分に効く前に抜歯を命じまして、これによって患者は絶叫。つまり大失敗を冒し.......彼は公開を見に来た観衆(教員・学生等)の激しいブーイングと「インチキ」コールを受け、失意の中で教室を去ります。

 では、このままで終わったのか?
 話は続きます。ウェルズの教え子で協力者であったウィリアム・T・G・モートンはウェルズの失敗の後、改めて患者に笑気ガスを使う事を決心します。
 ウェルズの失敗の後にも患者に笑気ガスを使って手術に成功していることを知っていた彼は、協力者チャールズ・T・ジャクソンに笑気ガスの製法の相談します。これに化学者であったジャクソンが以前にエーテルに麻酔作用がある事を知っていたことから「笑気ガスではなく、麻酔に使えるエーテルを使ってはどうか」という事をアドバイスします。
 この「エーテル」とは何か、と言いますと。ま、有機化合物の一種でして、アルキル基を酸素で結んだものです。一般にはジエチルエーテル(C2H5-O-C2H5)を意味しています。これはエタノール(飲めるアルコール)の脱水反応より出来るものです(条件がありますが)。
 これによってモートンは1846年9月30日、小臼歯抜歯手術にエーテルを利用しまして手術を見事に成功させます。更に約2週間後の10月16日(そう、このコラムの公開日の156年前の明日!)に師モートンが失敗したマサチューセッツ総合病院において、エーテルを麻酔剤として患者の頚部の腫瘍を取り除く外科手術(執刀はこの病院のウォーレン博士という人物が行う)を公開で行い、そして見事にこれに成功します。
 衆人環視の下、それまで存在しなかった患者に苦痛を与えないで外科手術を行う方法に成功したモートンは、これによって名声を得ることとなり、翌月には当時の外科医の第一人者(ビジェロウ博士なる人物だそうですが)に絶賛され、更には学会誌に発表。そして11月12日にはジャクソンに奨められて手続きを行っていた特許の取得をします。
 これはまさに医療に革命をもたらし、そしてモートンには「麻酔の発見者」として大きな栄誉が来る........はずでした。

 さて、このままなら多分科学史に書かれている内容は違っていたでしょう。
 1847年3月2日。モートンの協力者であったジャクソンは、モートンの名を伏せたまま自分がエーテル麻酔の「真の発見者」である、ということを発表します。これは、ジャクソンがモートンにアイデアを提供した事を理由にしています。
 ジャクソンの主張はこうです:「1846年のあの日、モートンにエーテル麻酔を教えたのは私である。そもそも、私は1841年冬から翌年にかけて実験で塩素を使っていたが、これにやられてしまった時にエーテルとアンモニアを吸えば楽になる事を見つけた。翌朝エーテルをもっと吸うと咽喉の痛みを感じなくなって、更に吸うと意識を失いかけた。こういった経験があるからモートンにエーテルが麻酔になる、ということが言えたのだ。だから私がエーテル麻酔(=外科手術のための麻酔剤)の真の発見者である。」
 これを聞いたモートンは、猛烈に反論します。しかしジャクソンは止まらず、ウェルズやデイビーをも非難します。曰く、デイビーが笑気ガスに麻酔効果なんかないと言った、ウェルズも同じことを言っている........ま、誤った引用なんですけど。
 この結果、モートンとジャクソンは仲たがいを始め、猛烈な非難合戦が始まる事となります。そして、エーテルの特許も裁判に持ち込まれることとなります。

 ところで、モートンとジャクソンしか出てきていませんが。
 あの、公開手術に失敗したウェルズはどうなったのか? というと、彼は公開手術の後、麻酔の失敗から患者を死亡させてしまいました。その結果彼は歯科医を廃業し、更には気に病んだのか精神病にかかります。そして、1848年に当時33歳だった彼は自殺をしてしまいます。
 が、この自殺の後、今度はウェルズの夫人が「笑気ガスの麻酔を用いて手術を行ったのは夫が最初である。よって、麻酔法の発見の先取権そのものは夫にあるはずだ!」と主張します。
 そして、モートン、ジャクソン、ウェルズを交えて「誰が最初に麻酔法を発見したのか」ということがおのおのの支持者も交えて激しくやり合うこととなります。その結果、彼らは議会にまで持ち込み、「誰が最初かを決めてくれ」と言うのですが........
 ところが、これが更に混迷の度合いを深めることとなります。
 実は、「俺が最初だ」の争いに更に一人参加することとなったからでして............

 1849年12月、ジョージア州の外科医クロフォード・ロングは「私が7年前に麻酔を用いて外科手術を行った」という主張を始めます。
 彼の言い分はこうです。つまり、1840年頃には娯楽用の笑気ガスの効果をもたらすようなものに、エーテルがあることを知った。これがまた偶然から痛みを抑える事を知った。ここから麻酔の可能性に気付いた彼は、1842年3月30日に友人の頚部腫瘍の手術に際してエーテルを用いて麻酔し、この腫瘍を取り除いたんだ、と。彼の言い分をとれば、これはウェルズが笑気ガスで抜歯手術をする2年以上前に既に麻酔によって外科手術が行われていた事になります。
 そして、議会に麻酔騒動が持ち込まれる時に、ロングの友人達がロングの先取権を議会に訴えてこれが大きくなります。そして、1853年にはロングも麻酔薬発見者としての先取権を主張し始めます。
 もっとも、議会は公式な判定を下すことを断るのですが..........

 さぁ、ごちゃごちゃしてきた人もいると思いますので、今までの経緯を簡単に表にしておきますと.........

麻酔薬の争い
ロングウェルズモートンジャクソン
18423/30 友人の頚部腫瘍の切除にエーテルを使用
184412月 笑気で自分を使って抜歯
1845マサチューセッツ総合病院で笑気を用いた抜歯に失敗
18469/30 小臼歯抜歯手術にエーテルを用いて成功
10/16 マサチューセッツ総合病院でエーテルを公開の外科手術に用い成功
11/12 特許を取得
モートンの手術にエーテル使用のアドバイス
特許取得のアドバイス
18473/2 エーテル麻酔の唯一の発見者と主張
1848精神病で自殺
夫人が麻酔薬発見の先取権を主張
184912月 7年前のエーテル麻酔の成果を発表
(53年から先取権を主張)

 となります。まぁ、泥沼化一直線ですが.........
 さて、この後について触れていきましょうか。
 1850年、フランスの科学学士院はモートンとジャクソンに5000フランの賞金を贈ります。さらにロシア・スウェーデン・プロシアが英断を評価してモートンに対し、イタリア・トルコが着想に対してジャクソンに勲章を贈ります。更にジャクソンはプロシアからもプロシア赤鷲勲章を受けるなど、これだけ見れば麻酔の発見と使用がいかに各国に影響を与えたか、という事は良く分かるかと思います。
 でも、1853年にはロングが先取権の主張を始めることとなり......更に泥沼化となっていきます。

 3者のその後を見ていきましょう。
 モートンやロングは手術に対してエーテルを使い続けています。ところがエーテル麻酔では事故が多発しまして、特に医師の中でも保守派からこの事に対して攻撃が始まります。ただ、まだ最初は大丈夫だったのですが.......一方、ジャクソンはモートンから非難を浴びまして、1854年にロングの先取権を認める羽目になります。
 モートンはしてやったりか? いや、違うんです。
 1862年12月8日、長い間続いていた特許訴訟の結果、モートンへの特許が取り消されることとなります。更には1868年にジャクソンの言い分を正当化する論文が登場。更にエーテルへの批判もあってついに彼は職を追われます。そして、この年にニューヨークのセントラルパークで何者かに襲撃されたらしい彼は、意識不明の重体で発見されてその後死亡します。特許が取り消されたことから貧困の中であえいでいた家族は、これにより路頭に迷うこととなります。

 さて、ライバルが減って残り二人。
 ロングはどうなったのか? と言いますと......実は1878年に死亡します。1815年生まれですので享年は63歳(62かも)となりますが.......これは自然死でした。ジョージア州は彼の功績を讚えまして彫像を建てるなどし、更に碑文には彼が硫酸エーテル(当時の専門用語でジエチルエーテルのこと:エタノールの脱水で硫酸を使うためか?)を手術用麻酔に使えることを発見した事を書きます。
 ま、そういう意味では彼は栄誉に包まれて世を去った、と言えますが.........
 では、最後に残ったジャクソンは?
 ジャクソンは1880年に亡くなります。場所は精神病院でして........モートンと争った彼は、あまり高い評価を得ることもなく、やがて精神に障害を持つようになって凶暴化しました。これにより、精神病院に監禁されることとなりまして、そのまま精神病院で亡くなります。
 そして、誰もいなくなります。

 では、結局誰が栄誉を受けたのか?
 ロングは上述のように、順調に人生を終えてジョージア州が彼を讚えています。でも、激しく争い、そして悲惨な晩年を迎えたモートンとジャクソンも欧州各国ではその功績を認められました。そして、失意の中歴史に埋もれたウェルズも実は1864年にアメリカ歯科学会から、1870年にはアメリカ医学会から「アメリカにおける麻酔の発見者である」という決議を受け、遅まきながら栄誉を受けることとなります。
 そして、彼らに刺激されて麻酔薬は研究されました。1853年にはイギリスでスノーがヴィクトリア女王にクロロホルム(CHCl3)を用いて王子レオポルドの無痛分娩に成功(これも色々と話がある)するなど、麻酔薬は広く使われ、そして新しいものを模索しながら研究されていったといえます。
 1884年にはコラーによって局所麻酔が発見されてまた新たな麻酔の開拓が行われるわけですしね........


 一応、現在の科学史ではロング、ウェルズ、モートン、ジャクソンの4名にそれぞれ麻酔剤発見の栄誉を与えているようです。
 もっとも、このごたごた話付きで、ですがね。


 では、今回は以上で.........




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今まで興奮薬のキャンペーンで連続した話続きでしたので、今回は一回読みきりで科学史的なものを扱って見ましたが........まぁ、あるんですよ、こういう泥沼化して不幸がつきまとう話が。
 ま、こういう話もあるということですが.......ただ、「先取権争い」はやはり激しいものです。これは特に泥沼化したものですが、多かれ少なかれ揉めることは良くあります。
 えぇ、科学者も人の子。名誉欲や金が関わると争うことが多くなるわけです。例外もありますけどね。

 さて、そういうことで一つ終わりですが。次回は何をしましょうかね?
 まぁ、とりあえず考えておくこととしましょう。良いネタがあるといいですけどね(^^;。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2002/10/15記述)


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