からむこらむ
〜その206:白いペスト〜


まず最初に......

 こんにちは。見事に冷夏となっている東日本ですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 まぁ、気付けば8月ももうすぐ終わり。早いものですけど.......

 さて、そう言うことで今回の話ですが。
 え〜、前回までの2回でペニシリンと抗生物質の話をしましたが。とりあえず、今回はそれにも絡んできますけどね.......一つの有名な病気の話と、それに関連した話をしてみようかと思います。
 ま、歴史で民間レベルで詳しく調べれば必ず当たる話でもありますかね.......それ程重大かつ恐れられた病気の話です。
 それでは「白いペスト」の始まり始まり...........



○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時には極端の苦痛に苦しめられて、五分も一寸も体の動けない事がある。苦悶、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居った病人の感じは先ずこんなものですと前置きして

(『病牀六尺』より、第一回の一部抜粋/正岡子規著/岩波書店)

 次の名前を挙げられた時、皆さんはその共通点を見いだすことが出来るでしょうか?
 その名は「正岡子規」「石川啄木」「樋口一葉」「二葉亭四迷」「国木田独歩」「宮沢賢治」........もちろん、他に挙げようと思えば挙げられるのですが。
 共通点の一つはある程度の教養があれば容易でしょう。つまり、いずれも「文学」において名を残している人達です。時代は明治から昭和初期(太平洋戦争前)にかけてですが、学校なんかで挙げられることの多い人達であると言えます。
 そして、他にも共通点はあります。
 何か、というと.......その「死因」でして。いずれも「結核」で死んでいる人達でもあります。子規や啄木、一葉は日記にそれを残していますし、二葉亭四迷は朝日新聞特派員としてロシアに派遣され、その帰路の船上で死亡など、調べてみれば簡単に知ることが出来るでしょう。他にも挙げれば中原中也や堀辰雄といった作家も結核に倒れています。
 もちろん、彼らのような名の知られた人達だけが結核で死んだわけではありません。
 実は、彼らの生きた時代には多くの人達が結核に倒れていきました。


 さて、皆さんは「結核(tuberculosis : T.B.)」という病気をご存知でしょうか?
 名前を知らない人は少ないと思われるほど有名な病気だと思います。ですが、実際に「どういう病気か」といった具体的なものになるとなかなか知らない人が多いのではないかと思います。自身や身近な人がかかった、というなら別ですが.......まぁ、せいぜいが「風邪に似ている」「血を吐く」とかその程度でしょうか? おそらく細部に関しては若い人よりは、年配の方が詳しい病気でしょう。
 この「結核」の定義はじつに簡単なものです。
 それは「結核菌に感染して起こる慢性疾患」を指します。この結核菌は1882年、コッホによって発見された菌で、学名をMycobacterium tuberculosisと書き、マイコバクテリウム属に属する菌です。好気性、抗酸性のグラム陽性無芽胞桿菌と特徴が知られるこの菌は、病気に関連したものを調べれば必ず出てくる程の菌となっています。

 では具体的にはどういう病気なのか?
 最も有名なのは「肺結核」でしょう。これは実際に結核の中では大きい割合を占め、事実「結核」=「肺結核」と言うイメージが強いようです。肺結核は通常結核菌を持つ人、特に肺に空洞のある人が咳などをして結核菌がばらまかれ、これを近くの人が吸い込むと感染する、飛沫感染が発端となります。
 この後はどうなるか?
 結核菌は通常は肺に侵入し、ここで病巣を作ります。ここでは主に二つの病巣ができまして、初感染原発巣と肺門のリンパ節に出来る初感染リンパ節巣があり、そして菌が肺胞を潰していくこととなります。もっとも、これらは健康な人であれば比較的治癒しやすいので、はた目肺結核にかかっているとは分かりません。これは、大体後日にX線で調べると病巣跡が石灰化していることで判明することが多いようです。
 この状態は初期のものとなります。
 しかし治癒しても数年あるいは十年以上経過して、例えば疲労やストレスが過度になると、初感染後に潜伏していた結核菌が増殖を始め、肺結核が再発することとなります。これを慢性肺結核症と言いまして、特に成人での結核はこれが多数を占めると言われています。実際、有効な治療法のない時代に結核にかかると約1/4は再発・慢性化したようで(半数は死亡、残り1/4は自然治癒)、再発・慢性化は決して無視できないものとなっています。
 では、肺結核は進行するとどうなるか?
 これは肺の組織(肺胞など)をどんどん融解していき、肺に空洞を作っていきます。患者は自覚症状として疲れやすくなり、食欲もあまりなく微熱傾向。体重の減少が見られ、更に咳や痰が止まらなくなります。そしてこれが進行するとやがて、(よくドラマなどで表現される)喀血や血痰といった症状を呈すようになります。
 この症状は急速と言うより、少しずつ進行していきました。その結果、体力は少しずつ奪われて徐々に消耗し、やがて死に至ることとなります。その消耗はかなりのもので、まさに「病牀六尺」。つまり、「六尺の病床が余には広過ぎる」状態となります。

 では、結核とはこれだけなのか?
 答えは「No」でして......肺結核は結核の代表格で実際に多いのですが、何らかの形で結核菌が肺の外へ出ると他の組織に転移することがあります。これには主に三つあり、管内性転移(菌のある痰を飲み込むなどして腸管など管へ転移)、血行性転移(血管に大量の結核菌が入り転移)、リンパ行性転移(リンパの流れにのって転移)といったものがあり、いずれも全身に広まることとなります。
 その場合はどうなるか? おそらく普段聞くことが無いような病名が登場します。
 例えば管内性転移では気管、気管支結核や咽頭結核、中耳結核、更に腸結核や膀胱結核、卵管結核や結核性の子宮内膜炎を引き起こします。血行性では結核性髄膜炎、結核精髄膜炎、腎結核、関節結核、副睾丸結核といったものを。リンパ行性では頚部リンパ節結核が代表的でしょうか。血行性、リンパ行性のどちらでも起こるものもありまして、結核性胸膜炎や結核性腹膜炎などがあります。
 こららは結核菌の転移による感染症となります。
 実際、結核と言うと肺結核で云々ということがよく聞かれますが、しかし冒頭の『病牀六尺』を著した正岡子規は肺も当然やられた上(医者から「この状態で生きていることは驚き」と言われるほど大部分が空洞化していたらしい)、結核の転移によって脊髄カリエスにかかっています。カリエスとは要は結核菌が組織を溶かしていく症状で、子規の場合は脊髄が溶かされていくという事になります。
 カリエスはかなりの激痛を伴い、子規の『病牀六尺』ではかなりの苦しみの様子と鎮痛剤の使用の記録が残っています。
モルヒネなど使ったようですが。
 他にも、中原中也も結核性脳膜炎にやられたと言う話もあるようで、実際には結核とはかなり幅が広いものであるといえるでしょう。
 そうそう、一般に対象は人間のみと思われやすいですが、結核菌の感染対象は幅広く、実は人畜共通感染菌となっています。実際、衛生面での検査ではこの菌は検査対象となっており、ウシ、ブタ、ニワトリなどで検知されることがあります。ウシでは家畜法定伝染病になっていまして、確認され次第屠殺の処置がとられるようになっています。


 では、この結核という病気はいつごろから知られていたのか?
 既に新石器時代の青年と思われる遺体や、先史時代のBC5000年頃の人骨に結核の痕跡が認められており、更にはBC1000年頃のエジプト第21王朝のミイラにも脊髄カリエスの痕跡が認められていることから、かなり古くからの病気であり、おそらくは人類の起源とほぼ同じ頃には発生していた病気であったと考えられているようです。つまり人類との「つきあい」が古くからある病気であると考えられています。
 そのこともあり、結核の記録は各地の伝承のなかに既にあるようです。例えばヒンドゥーの教典に肺結核を意味する「消耗」という言葉が使われています。上述の通り「消耗」は結核を指すには実に的確な言葉でして、実際にギリシア語、ラテン語で「phthisis」と書く「消耗病」と言う言葉があり、それは肺結核を意味するものとなっています。
 もう少し新しい物だと、古代ギリシアではヒポクラテスは肺結核についての記述を残し、アリストテレスは空気による伝染を初めて唱えています。この頃には色々と肺結核について知られているようです。
 もっとも症状だけでなく具体的な部分は更に後になりますが。

 結核はヨーロッパではかなり古くから各地に分布していたようです。
 中世ヨーロッパの記録では、この病気は普通にかかる人が多かった事が知られています。特に都市化が進むとこれが顕著になったようで、ルネサンス期に都市化が進んだイタリアでは非常にありあふれた病気だったと言われており、例えばルネサンスを代表する画家の一人ボッティチェリがしばしばモデルにした、美女シモネッタ・ベスプッチは肺結核で16歳の若さで死亡しています。
 近世ヨーロッパでは特に上流階級で結核は流行したようで、ナポレオンも左肺に空洞があったとも言われています。
 大体この頃の結核による死亡率は時々隆盛しては減る、と言うパターンだったようですが.......しかしこの頃はまだ本格的な脅威ではありませんでした。

 結核が本当に問題になるのは、19世紀のヨーロッパです。
 19世紀ヨーロッパといえば、イギリスが産業革命を迎えて工業が発達した時代ですが、この進行とともに結核もその本当の猛威を振るうこととなります。
 産業革命と言うと蒸気機関などが有名ですが、社会と人の流れで見ると、社会経済が農村型から工業型へと転換し、そして農村部から都市部へと人口が移動していった時代です。いわゆる現代でも通じる「資本主義社会」の誕生となるわけですが、この時に数多くの労働階級が生まれ、同時に彼らは都市で劣悪な条件で働いていました。
 その様子は調べれば様々に出てきますが、窒息するような工場で、高湿でほこりまみれの仕事場で機械に囲まれ、一日十時間以上の労働は当たり前という環境でした。彼らの住む場所はスラムで狭くて不衛生。給料は安く栄養失調気味であり、生活に困窮して飲酒・非行に走る人が増えることとなります。
 こう言った不衛生で栄養に乏しい環境の中、イギリスではその労働階級にあった人達の間で爆発的に結核が増えていくこととなります。その脅威は凄まじく、イギリスでは1780年頃に結核のピークを迎えるのですが、その死亡率は人口10万人辺り1000人と極めて高い数字を示します。これは凄まじい数字でして、ヨーロッパで「白いペスト」と呼ばれた肺結核は極めて恐れられる事となりました。
 「白いペスト」の実態は実に悲惨だったようで、数多くの労働階級の人々が倒れていくこととなります。その報告は、エンゲルスやチャドウィックらによって行われ、記録されています。

 イギリスで広まり猛威を振るった「白いペスト」は、次に工業化著しいアメリカでも発生することとなります。
 更に産業革命なった各国でも同じ様相を呈し、多数の死者を出すこととなります。1830年頃にはヨーロッパと北アメリカでは人口10万人に対し200〜500人と言う大きな割合を示す事となりました。
 しかし、時間が経過すると徐々にその傷からの回復を見せるようになります。実際、工業化が進んで繁栄が広まるとその猛威も徐々に収まることとなり、最初に被害が拡大したイギリスがもっとも早く回復の傾向を見せることとなりました。欧米でも19世紀半ば辺りを境に死亡率は減少する事となります。
 これにより以前ほどの脅威は無くなるのですが......しかし、結核にかかる人は依然多くいました。


 さて、では日本での結核と言うものはどうだったのか?
 日本でも結核は古くからあったようです。江戸時代には「ぶらぶら病」などと呼ばれ、心因性と考えられていた面もあるようです。これは体力の減衰によって動きにくくなるからではないかと思いますが。上流貴族では思春期の男女に多い病であると考えられたようですが、しかしヨーロッパと同じく本格的な流行は工業化が進んでから、つまり富国強兵や殖産興業の政策が進む明治時代となります。

 倒幕後の日本は明治政府の指導の下、列強に追いつかんとしていました。このためには産業革命は必須のプロセスであり、工業には力が入れられる事となります。
 日本が最初に力を入れた工業は繊維業でした。日本初の官営工場として有名な富岡製糸場はその代表格でしょうか? そして全国に製糸場および紡績工場が造られ、やがて日本の輸出の主力を担うこととなりますが......
 さて、ここで労働力に目を向けてみましょう。こう言った繊維業の工場で働いていたのは主に繊維工女達、いわゆる「女工」と呼ばれた女性達です。彼女らは主に農村から来た「出稼ぎ労働者」でして、工場に住み込みで働くこととなります。その数はかなりのもので、1900(明治33)年の統計では民間の工場(10人以上)の労働者数は38万8296人。その内繊維産業が23万7132人を占め全体の60%以上。更にその約88%が女子であったと言われています(更に12歳未満の子供もかなりいた)。
 ところで、この女工というもの。この職業は外から見れば「花形」とされたこともあるのですが、しかし実態は極めて劣悪な労働条件でした。
 中学校程度の教科書にも載る彼女達の労働実態は過酷で、1897年頃の紡績工場の女工は昼夜2交代制で12時間労働(実働11時間)。休日は隔週で1回、賃金は日給7〜25銭というデータがあります。が、これは「マシ」でして......紡績工場は大企業が多く運営していたのですが、中小の多い製糸業、織物業の女工は16〜17時間労働もまれではなかったようです。
 尚、当時の米価は1升(=10合)で14〜15銭。大学を卒業した役人(エリートです)の初任給で月額40〜50円程度。他の労働では東京砲兵工廠や石川島造船所といった重工業の男子労働者で1日10〜11時間労働で休日は月2回。給料は日給30〜35銭で、実際は残業で13〜16時間働いて50〜60銭の日給を得ていたと言われています。
 このような女工の生活は農商務省(戦前の省の一つ)が1903年に『職工事情』などで報告されているのですが、有名なのは毎日新聞記者横山源之助が日本の貧民社会(当時は東京でもスラムがあったような時代です)の実態を調査し、それをまとめて1899年に刊行した『日本之下層社会』があるでしょうか。五つのテーマを扱った中の一つに「手工業の現状」という部分があり、女工達の現実を報告しています。
 その内容の一部を書きますと、桐生・足利の女工の様子を「聞いて極楽、観て地獄」」と評し、職工自身もそう言っている事。更に前橋の工場では「労働時間の如き、忙しき時は朝床を出て直(ただち)に業に服し、夜業十二時に及ぶこと稀ならず。食物はワリ麦(荒くひいた大麦)六分に米四分、寝室は豚小屋に類して醜陋(しゅうろう)。」と書いています。他にも地方では業務が暇になると雇い主は女工を奉公に出して、その収得を自分のものにしている、とか。一年に支払う賃金は多くても20円とか、女工のなり手が少ないので会社が女工募集人を地方にだして連れてくるとか、当時の劣悪な環境を書いています。また、当時では監督者が労働者を虐待するのも普通にありました。
 このような報告は他にもあり、代表的なものとしては細井和喜蔵(わきぞう)が自身の紡績工場での体験を元に書いた『女工哀史』がありまして、この中で「女工小唄」として「籠の鳥より監獄よりも 寄宿ずまいはなお辛い 工場は地獄で主任が鬼で 廻る運転火の車 糸は切れ役わしゃつなぎ役 側の部長さん睨み役」が紹介されており、女工達の悲惨な生活が浮き彫りになっています。尚、女工達は逃亡を企てようにも工場周囲に張り巡らされた高い塀に阻まれ(「籠の鳥より監獄よりも」とはまさにこれ)、結局はその環境で働く事を強いられました。こういった事は『あゝ野麦峠』などでも有名でしょう。
 この結果は各地で、例えば坑夫の虐待が雑誌『日本人』で取り上げられて問題になった高島炭坑事件や、甲府の雨宮生糸紡績場での女工による日本最初のストライキなどが発生して表面化。労働者も団結して法整備を要求して、という労働問題に発展していく事となるのですが.......
#現在なら間違いなく労働基準法等違反ですが、当時は一切そのような法律は無かった事は頭に入れておくとよいでしょう。
#当時は「利益」「繁栄」を優先する風潮があった事と、資本家が政治家に圧力をかけていたために尚更法整備は進まなかったという背景があります。
#そして、やがて社会主義思想と結びついて云々、となるわけですが.......

 さて、このような女工の過酷な生活は、イギリスと同じ運命をたどることとなります。
 過酷な労働時間に不衛生、栄養不足の環境と言った女工の間で結核、特に肺結核が爆発的に増加します。ま、当時は「肺結核」と言う表現よりは、劣悪な環境や過酷な労働にかかわった人がかかる事の多かったために「労咳」「労さい(病垂れに「祭」)」、「肺病」などと呼ばれましたが。
 では、罹病した女工はどうなるか、というと保険・補償などといったものは無く、そのまま工場から追い出されて故郷に追い返されることとなります。そうして帰路の途上や自分の故郷で彼女らの大半は死ぬこととなるのですが........
 しかし、問題はそれだけではありません。
 結核を患った彼女らは、また故郷で結核を移すこととなります。そうなれば移された村の人達で今度は結核が流行することとなる........しかも女工らは一ヶ所から来ているわけではなく、全国から集まって、そして結核をもって全国に追い返される。この結果、全国に結核はまん延することとなり、特に貧困層や青年層を中心結核にかかる人が激増します。
 これはちょうど明治後半から大正、昭和初期の話でして、日本における産業革命や軽重工業発達の時期と重なります。

 全国に広まった結核は恐ろしいほどの猛威を振るいました。
 例えば1900(明治33)年からの統計を見ると、この年から1950(昭和25)年までの50年間、一時期を除いて死亡原因のトップは結核でした(1920(大正9)〜1925(大正14)年では肺炎がトップ)。その率は10万人辺りの人数で、1900年が163.7人(総計71,711人)、その後も増加して1910(明治43)年に230.2人(113,203人)、1918(大正7)年には257.1人と結核の最盛期を迎えます。その後は200人前後で推移し、戦中の1943(昭和18)年に235.3人(171,473人)を記録します。具体的な死者数にすれば、明治の終わりには10万人を突破。その後1950年頃までずっと結核の死者は10万人を越える事となります。ただ、戦後の混乱期を抜けると減少していまして、1955(昭和30)年には10万人辺り52.3人、具体的には46,735人と激減します。
 この通り、戦前の結核はまさに「国民病」というべき物でして、戦前に結核にやられる人は珍しくありませんでした。これは同時に多数の「才能」ある人達が結核のために死んでいったことも示し、大きな社会的損失となります。


 このように、結核は世界各国で大きな社会問題になります。
 しかしこの問題のタイミング、罹病した人達はいずれも共通項がありまして、産業革命の社会経済が農村型から工業型へと転換する時期に爆発的に増加し、そして都市の劣悪な条件で働いていた労働階級に広まっています。そして、工業化が進んで繁栄が進むと環境の条件が変化する事もあって結核の発生は下落傾向になります。
 もっとも、社会情勢によってこれは変動しますし大流行する事もありますので「長期的には」という注釈は必要でしょう。更に減るとは言っても治療法も昔は限られており、結核は間違いなく多くの人達を死に追いやっていきました。
 それだけに、各国とも結核の対策は非常に重要な課題として扱われていくのですが........


 さて、治療法などの話を、と思いましたが長くなりました。
 今回はこのぐらいにして、次回にその話について触れる事にしましょう。




 ふぅ...........

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 え〜、まぁこの間抗生物質の話をしましたけど。ま、これで触れられる話もあるなぁ、と言う事で思いついたのが結核でした。と言う事で、結核の話をしてみましたけど。まぁ、今は忘れ去られている傾向の強い病気ですが、しかし「過去のもの」とするには少し、と言う事情があるものです。
 ま、そう言う点なども絡めて、と思いますがね.......

 さて、そういうことで今回は以上ですが。
 次回はこの続きといきましょう。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2003/08/22公開)


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