からむこらむ
〜その207:コーヒーとサナトリウム〜
まず最初に......
こんにちは。8月ももうすぐ終わりになりますが、皆様如何お過ごしでしょうか?
まぁ、本当に8月もあっという間と言うか。夏らしくなかった故でしょうかねぇ?
さて、そう言うことで今回の話ですが。
前回に結核についての概要と、流行、その実態などについて触れてみました。と言う事で、今度はその治療などに関する話をしてみようと思います。ま、これも色々とありますが、本当に昔からある病気ですので........
とりあえず、有名な病気故に話が多くなりますけどね。
それでは「コーヒーとサナトリウム」の始まり始まり...........
前回までは結核という病気と、その歴史などについて簡単に触れてみましたが。
さて、ここで結核の治療法について触れるとしますと.........
当初は結核の治療は有効なものがありませんでした。これは当然医療レベルが低い上に結核の原因も良く分かっておらず、更に伝染性のものである事も理解があまりなかった事があります。事実「結核は遺伝性ではないか」と考えた地域もあったそうで、一家に結核患者が出ると家族ぐるみで悲惨な目にあう所もあったようです。
そう言うようなのはともかく、比較的初期の「治療法」としては近世初期のヨーロッパの専制君主による「ローヤルタッチ(royal touch)」があるでしょうか?
これは「王には病人を治す力がある」と言う迷信から始まったもので、5世紀頃のフランスから始まったと言われています。中世ヨーロッパの特に英仏でしばしば行われており、当時の記録にはローヤルタッチによって「治癒した」と「王の威厳を」云々と言う物が残っているようです。そして、このローヤルタッチの対象となった「王の病」に「瘰癧(るいれき)」、つまり結核性頸部リンパ節炎がありました。
もちろん、それで治るなら世話はないですが。
実際、これを信じなかった王もいまして、イングランドのウイリアム三世は頼まれてこれを一度だけ行った際、「神よ、この患者によき健康とよき理性を与えたまえ」(もちろん「理性」はこの迷信を皮肉ってのこと)と祈ったそうで、それ以降この迷信はすたれたようです。
ま、そう言う例はともかく、大体は療養と言った物しかなかったようです。しかもこれも色々とあって、内容としては食事制限と言う事もあったようですが.......ただ、栄養障害と言う考えもあったりと時代・地域で違います。ま、基本的には安静と栄養が結核の基本的な対処だったようです。
本格的な結核の対策やその原因の追及は、16世紀半ば頃からはじまりました。
これは当時の医師ヒエロニムス・フラカストリウムにより結核の伝染説が提唱されまして、これはヨーロッパ全域で認められます。そして17世紀になると結核患者発生の際に届け出、隔離、衣服・家具の処分や家屋の改築、改築後1年間の家屋使用禁止などがヨーロッパで法令化され本格的な対策がとられ始めます。更にこの頃になると肺結核の研究が進み、オランダの医師が結節結核について、そしてイギリスの医師も肺結核について解剖学的な観点から詳細に調べ、記録を残します。
19世紀になると、フランスのR.T.H.ラエネク(聴診器の考案者)が多数の結核患者の解剖から肺結核を滲出型と増殖型に分類を行います。そして、1865年になるとフランスのビユマン(Jean Antoine Villemin)が結核患者の痰をウサギに接種して結核を引き起こさせ、これによって結核に感染性がある事を立証。その後コッホが1882年に結核菌を発見し、結核が菌による感染で起こる病気である事を証明します。
コッホの研究は地道な努力が実を結んだもので、その最初はベルリン中の病院を回って結核で死亡した患者の臓器や結節を集めて菌を探すものでした。
これはかなり苦労する事となります。と言うのも、コッホは染色法を用いて結核菌を探すのですが、しかし「これ」と思うものが染まらない。理由は簡単でして、実は結核菌は表面に脂質が多く、これが染料をはじいて細胞内への侵入を防いでしまい染色されなかったのですが.......ただ、当時はこれが分かりませんでした。そして染まらないと言う事は菌がどれか分からず、菌が分からなければどんな培地で飼育すれば良いかも分からない。そして増やせなければ実験も確認も出来ない、と.......
ではどうすれば良いか?
最終的にコッホはこの解答を実験を重ねて導き出します。その方法はアルカリで菌の表面を処理し(これで脂質を除く)、これにメチレンブルーで加温染色すると言うものでした。これにより結核菌は染色され、顕微鏡下にその姿を表す事となります。専門的には「抗酸菌染色法」と呼ばれるこの方法は、酸に抵抗性のある結核菌(前回触れたようにこの菌は「抗酸性」)などに対して現在でも使われる方法となっています。
コッホはこうして判別できた結核菌を動物に移植してその様子をみます。結果、動物は結核にかかっている事が分かり、これにより結核が菌によって引き起こされる事を確認しました。
これは1882年3月にベルリンで行われた学会で発表されて、非常に大きな評価を受ける事となりました。つまり「結核菌」により原因がはっきりしたわけで、対策が本格的にとられるようになります。
結核菌の発見により、研究が行われ始めたのがワクチンでした。
実はちょうどこの頃パスツールがワクチンの研究(ジェンナーの天然痘の接種は18世紀末)を行われており、ワクチンの研究は盛んだったようで、コッホも「結核ワクチン」の開発に挑みます。そして研究の結果、コッホは1890年に培養結核菌ワクチンである「ツベルクリン」を発表します。
このワクチンの登場により、結核撲滅への期待されたのですが........ところが実際には効果が上がりませんでした。
しかしツベルクリンはその後、注射後の炎症反応が結核の診断に役立つ事が判明し、その目的で使われるようになります。そして更なる研究の結果、やがて1908年にパスツール研究所のカルメットとゲランの二名によって病原性のない、「結核の免疫」を人工的に与える事に成功します。これはウシから作られたウシ結核ワクチン、いわゆる「BCG」として広く知られるものとなります。これはやがて1921年にフランスのアレによって、「BCGワクチン」として新生児に結核発病予防の目的で初めて接種され、これをきっかけに各地にこの方法が広がり、行われるようになります。
これは結核予防として重要なものとなりました。実際ご覧の方の中でツベルクリンもBCGも受けた事がある人はいらっしゃると思いますが.......これは前回触れたような結核の脅威を防ぐために必要なものだったりします。
ま、受けた頃は思いもしないものだったりするかもしれませんが。
このような動きの他、別の技術もまた発達して結核治療に関与します。
結核の治療には1882年、イタリアのフォルラニーニによって人工気胸術が開発されます。これは胸壁と肺との間にある胸膜腔に針をさし、空気を送りこんで肺を収縮させる方法で、これにより病巣から菌が拡散するのを防ぐ事が出来ます。更に1895年にレントゲンによってX線が発見されると、これによる臨床診断(肺結核にかかっていれば肺に空洞が生まれる)が可能となり、結核の診断に画期的な進歩を与える事となります。
ツベルクリンや外科手術はその後の結核の治療に大きく役に立つ事になりました。実際、19世紀末頃から外科手術による結核治療(胸部形成術なども発達したのが影響)が盛んになり、特に人工気胸術は良く使われるようになります。そしてツベルクリンは結核の有無の診断に有効に使われました。
しかし、こう言った治療法は主力にはなるものの、全員がこのような治療法を受けられるわけでもなく、また確実に治ると言うものでもありませんでした。
このような一方、結核の療養としてとして古くからある療養施設に「サナトリウム」と言うものもあり、利用されました。
いわゆる「結核療養所」として広く知られるサナトリウムは、ラテン語sanus「健康な」とorium「場所」を合成した言葉でして、意訳すれば「病気を治す」と言う意味を持ちます。実際には結核療養所だけでなく、精神病やハンセン病など慢性疾患を対象とした、長期間入院する患者を収容する医療施設、と言う定義がありますが、あまりこれは有名ではないようです。もっとも、昨今は「病院」で一括する傾向でして、「サナトリウム」と言う言葉は実質「死語」に近いのかもしれませんが。
一応、「結核療養所」と言う意味で見ていきますと......古くは寺院がこの役割を担い、「神の恵み(=治癒)」を祈るところでした。そして中世ヨーロッパでは「ローヤルタッチ」を受けるために患者が集まった所でもありました。
近代的な「サナトリウム」は18世紀末にロンドンに作られた王立海水浴病院に始まるようです。これは漁夫が瘰癧にかからない事と、瘰癧にかかった子供が海水浴の後に元気になったから、と言う経験則により作られたものでした。実際にそうなのかは疑わしいですが、しかしこの病院は開放的であり、当時の「患者を閉じこめる」事が多かった病院(ナイチンゲールの登場まで病院と言えば普通こうだったと言われています)からすれば画期的だったようです。
しかし本当の意味で成功したサナトリウムは、最初はスイスに作られました。
これは面白い話がありまして、19世紀頃にベルリンでカフェの展開に成功したエンガディンの人達が関与しています。彼らはスイスの、現在では保養地として有名なエンガディン(エンガディーン)出身なのですが、この地が狭くて人口過剰気味。そう言う事で、彼らは中世ヨーロッパで勇名をはせた「スイスの傭兵」として各国へ出ていくか、あるいは出稼ぎを行う必要がありました。
と、「スイス人の傭兵?」と思われる方もいるかもしれませんが、中世ヨーロッパではスイスの傭兵は最強と言われており、しかも国・州を挙げての「官業」として成り立っていました。特にフランスで多くの血を流していた彼らは勇猛果敢な兵士として有名(金の亡者とも言われたそうですが)でして、ルイ十六世の護衛などをしています。また、バチカンの護衛などしていたのは彼らでして、バチカンの護衛兵のユニホームはエンガディン人達の影響があるそうですが.......
#ちなみに現在もバチカンのスイス傭兵は継続中=ローマ教皇を守るのはスイス傭兵!
さて、そんな彼らの中でも傭兵にならずに出稼ぎにいった者たちの一部は、17世紀頃からはベネチアで菓子職人として、そしてカフェテリアの展開で大成功を納めていました。事実、ベネチアでは多額の税金を納めるエンガディン人が大分いたようです。が、しかし1766年にベネチア当局と揉めてその地を追放されてしまいます。ベネチアを引き払った彼らはしばらく鳴りを潜めることになるのですが.......しかしやがて新興国として勢いのあるベルリンへ、新天地を求めて移動します。
1818年、ベルリンで彼らはカフェ事業の展開を開始。そのままベルリンでもベネチアと同じように菓子(ドイツの菓子「エンガディー」はエンガディン地方の郷土菓子です)とコーヒーで大いに稼ぐ事になります。この成功の裏には「絶妙な」サービスがあったようで、カフェはプロイセン軍人をターゲットにして例えば重砲を店前に並べてみるとか、壁に軍人の肖像画を飾ってみるなど、軍人を「良い気分に」させていた様です。そして、気を良くした彼らがよく来るようになって......当然儲かる事になります。
こうして大成功を納め、金を稼いだ彼らは......しかし異国の地で骨を埋めるつもりはなかったようで、成功後に故郷へ帰り、そこで墓や隠居後の住まいを建てることとなります。
そして、これが重要なのですが........更に彼らは故郷の地に、例えばサン・モリッツやダボスに豪奢なホテルも建てました。
何故ホテル群が重要なのか?
実はこの後、ヨーロッパでは鉄道網の急速な整備拡張(これはダイナマイトが大きく貢献していることをお忘れなく)が行われるようになります。このためにヨーロッパでは鉄道が各地に延長され、駅も各所に出来ます。そして、スイスの高地もその中にありました。
こうして鉄道網が拡張された結果、スイス高原地帯に建てられていたホテル群は大いに活躍する事となります。時代の流れもあったのですが、つまりこの地に避暑地やウインタースポーツのメッカとしての機能、そして結核療養所としての機能を与える事となりました。
これはいずれも非常に成功してスイスの観光産業の隆盛をもたらす(つまりコーヒーによってもたらされたと言えますが)とともに、この地が「サナトリウム」の「手本」として知られる事となります。事実、これより後はスイスにならってサナトリウムは高地・山地に多く作られる事となり、日本でも明治からこれが導入されます。
ところで何故高地に結核療養所なのか?
これは結核は清浄な空気がよいため、肺にも良かろう(結核は肺病とも呼ばれたわけですので)と言う考えに基づいたようです。もっとも、これは一つの「イメージ」というか幻想でして(転地による気分転換は効果として大きいと思いますけど)、しばらく後に調査されたデータは、実際には他所でも高地の結核療養所と治療効果は変わらなかったようです。
こう言った事から、やがて結核患者に必要なものは十分な栄養と休息であると認識されるようになるのですが.........
尚、サナトリウムと言うといくつか書くものもありますが。
サナトリウムの隆盛は一つの文化(と言い切って良いかは難しいかもしれませんが)を生み出します。例えば堀辰雄の『風立ちぬ』のような「サナトリウム文学」と言うものを作る事となります。もっとも、この言葉は今となっては「死語」に近いものものがありますけれども。
ただ、現実はサナトリウム文学にあるような「儚さ」と言う様なものとは一線を画す部分もやはりありました。中でも悲惨なのは入所したのは良いものの、最初は比較的多かった家族の来訪が徐々に減っていき、やがては「忘れ去られて」しまうと言うケースがだいぶあったようで、入所者は非常に孤独にさいなまされる事があったようです。
「闘病」と言う現実がそこにあったと言えるのかもしれません。
尚、日本における戦前の結核対策の動向を簡単に示しておきますと。
明治の医療行政は、1872(明治5)年に文部省内に医務課が設置された事から始まります。2年後に医制が公布され、翌年に衛生行政は新設された内務省衛生局へと移り、以後1938年に厚生省が設置されるまで衛生局がこの役割を担います。
ちなみに「内務省」とは戦前の日本に存在した省でして、国内の行政関係の大半を一気に引き受けていたところです。特に警察や地方行政の機能も収まっていまして、色々と弾圧もろもろと絡んでいるため、「良くない」イメージがあるところでもありますが.......実際、衛生問題は警察行政に組み込まれていました。
最初の結核療養所は1889年、兵庫に作られます。そしてコレラの大流行などもあって、1897年にはコレラなど8疾病を対象とした伝染病予防法が制定されるのですが、これは第一条に「此ノ法律ニ於テ伝染病ト称スルハ「コレラ」、赤痢(疫痢ヲ含ム)、腸「チフス」、「パラチフス」、痘瘡、発疹「チフス」、猩紅熱、「ヂフテリア」、流行性脳脊髄膜炎、「ペスト」及日本脳炎ヲ謂フ」と規定されており、結核は対象外でした。しかし、その後結核が大問題になると1919(大正8)年には結核予防法が制定されます。これは全15条よりなる法律でして、感染が起きた場合と、対処などの規定が定められています(尚、昭和26年の結核予防法とは別物です)。
そして、1937年に旧保健所法によって全国49カ所に保健所が設置、翌年に厚生省が設置されるなど衛生行政は強化されます。
しかし、結核治療は基本的に海外と同じようなものでして、ある種の薬剤や外科手術、そしてサナトリウムや病院、自宅での静養が普通だったようです。
さて、ここまで結核の原因や治療などについての話をしていますが.......ご覧の通り有効かつ効果的なものはなかったと言えます。
ですが、肝腎の部分にまだ触れていません。何かと言うと「治療薬」と言う物です。
結核の治療薬は昔から研究がされていました。
その昔のものの内容は........今まで「からこら」を読んだ事のある方ならある程度パターンが読めると思いますが、そのご多分に漏れず大体が呪術的。実際に作られてもその効力は果たしてどうか、といった物が多かった、と言うよりほとんどがそう言うものでした。
おそらく、それによってより悪化したケースもあるのではないかと思いますが。
19世紀になるとアヘンなど用いられたようで、以前書いたように鎮咳作用や下痢を抑える作用があり、更に苦痛を和らげると言う効果があったために大分使われたようです。もっとも、これはクインシーの『阿片常用者の告白』や、それに影響されたイギリス作家達のアヘン称賛も大きい影響があったようですが。もちろん、これは「症状の緩和」には役立ったでしょうが、実際には結核菌は死んでいない上に何よりも中毒のリスクは存在していたため、根本的な解決にはなりませんでした。
その後も結核治療薬はその後もいくつか登場します。
1900年頃、つまり正岡子規や樋口一葉の頃には「炭酸クレオソート」と言うものが使われていたようで、彼らの日記にもそれが記録されています。クレオソートは木のタールより蒸留して得られるフェノール類の混合物でして、殺菌や防腐作用(クレオソートはギリシャ語で「肉の保存」を意味する)、下痢止め、そして局所麻酔作用があります。。局所麻酔作用は実際に虫歯に詰めるなどの目的で使われる事もあります。また、物によっては木材の防腐目的でこれが使われる事があるなど、大分幅が広いと言えますが........などと書いてもピンと来ないと思いますが。
早い話、今で言えば「正露丸」などに含まれる成分がこれです。
これは有効な薬剤のない明治後半頃には良く使われたようです。その他、1920年代にサノクリンと言う金塩が使われた事もあるようですが、これも有効ではなく、逆に肝機能障害を引き起こすといった問題が判明して使われなくなります。
もちろんその後も研究はされるのですが、しかし結核への有効な治療薬は登場しませんでした。
では、本物の「治療薬」はいつ登場するのか?
これはペニシリン、つまり抗生物質の登場が大いに関与する事となります。
ペニシリンの研究で活躍したフローリーとチェーンと同時期に、アメリカで膨大な数の微生物のスクリーニングプログラムを開始した研究者がいました。この人物の名はセルマン・A・ワクスマン(Selman A. Waksman)と言いまして、「抗生物質(antibiotics)」の名付け親となった人物です。
ワクスマンは1888年ウクライナ生まれで、後にアメリカに移住。その後ニュージャージー州のラトガース大学で農学を修めた後、彼は土壌微生物の研究を続けて同大学の教授になります。そして、当時著名な微生物学者であったロックフェラー研究所のデュボス(René Dubos)が土壌微生物の抗生物質を探していたと言う事で、ワクスマンもこれに着手しました。
彼はアルバート・シャッツやエリザベス・バジーといった同僚の協力を得て研究を行います。そして1943年、ある農夫が持ち込んだニワトリの死骸から放線菌Streptomyces griseusを分離し、更にこの微生物から「ストレプトマイシン(streptomycin)」と言う抗生物質を単離します。
このストレプトマイシンは興味深い事に、試験管内(つまりin vitro)の実験では結核菌の成長を阻害する効果を見せました。これはそれまで、有効な治療薬のなかった結核への治療に希望を持たせる事となります。
翌1944年、アメリカのメイヨークリニックの研究者W・H・フェルドマンとコーウィン・ヒンショーは、ストレプトマイシンは結核に感染した実験動物に有効である事を発表します。既にペニシリンによって「抗生物質」が注目を浴びていたこともあり、ストレプトマイシンも大いに期待される事となりました。実際、アメリカの製薬会社であるメルク社はストレプトマイシンの生産をこの後に始める事となります。
これはペニシリンの当初の頃とは明らかに対応が違いますが.......そして1944年11月、ストレプトマイシンは人間に投与される事となりました。
最初に投与されたのは、進行性結核患者ですでに重い症状となっていた20歳の女性でした。ペニシリンほどの劇的な回復はなかったようですが、しかし彼女は結核の病魔から逃れる事に成功し、32ヶ月後に退院する事となります。彼女はその7年後に結婚し、3人の子供をもうけます。そして重要な事に、その後の彼女の人生において結核は再び現れる事はありませんでした。つまり、ストレプトマイシンは体内の結核菌を駆逐し、その再発をも防ぐ効果があることを見せます。
さて、彼女がストレプトマイシンを投与されて結核と闘っている間にも他の患者にこの薬は投与されました。1945年には34名、1946年には100名の結核患者についてストレプトマイシンの効果が認められます。その結果はヒンショーによって発表され、人類はそれまで為す術も無かった結核に対し、武器を持った事が確実になります。
ただ、その成果の発表と同時に、この薬剤の大量投与で平衡感覚の異常や聴覚異常が起こり、更に長期の使用で腎臓障害も起こすといった副作用も知られる事となります。ただ、間違いなく結核に対して有効な薬剤であり、他に対抗手段が無かった以上、ストレプトマイシンは使用される事となります。
事実、結核に対してストレプトマイシンは重要な役割を担って行く事となります。
また、ストレプトマイシンは結核菌への作用はもちろんの事、ペニシリンが有効でなかったいくつかの菌に有効であり、そう言った面でも注目を浴びています。もっとも、ストレプトマイシンは結核治療薬としての活躍が著しく、その点で有名になりますが。
専門向けですが、構造を出しておきますが。基本的には三つの糖類が繋がったものとなります。
このストレプトマイシンはアミノグリコシド系抗生物質の抗生物質で、作用機構は細菌のたんぱく質の合成阻害と考えられています。たんぱく質の合成を担うリボゾームに作用し、この合成の邪魔をするものとなっていますが、基本的には動物のリボゾームとは反応をしないため、安全性が高いものとなっています。
また、通常では硫酸塩として用いられます。
#尚、他の作用機構も存在していて、殺菌作用はその複合と考えられているようですが。
この抗生物質の発見が「大きい」事は、1952年にワクスマンがストレプトマイシンの発見の功績より、ノーベル生理学医学賞を受賞した事で分かると思います。もしかしたら、これをご覧の方で実際にストレプトマイシンに助けられた人もいるのではないかと思うのですが........
さて、結核治療薬はこれだけか?
いえ、実際にはまだあるのですが.......少し長くなってしまいました。
今回は以上と言う事にしましょう。
やれやれ........
さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
ま、前回に引き続いて結核の話でしたが、今回は治療法の探索と治療薬の登場と言う話をしてみました。まぁ、あれこれと触れようと思えば更にいくらでも出てくるのですが、それだけというのも何ですので。もっとも、大分触れる事は出来たと思いますので、まぁそう悪くはないと思いますがね。
ひとまず、現在の一般の認識と昔の認識の違いは極めて大きい、と言うのが非常によく分かるかと思いますが.......
さて、そういうことここまで触れましたが。
次回はその他の治療薬とその後、そして現状について触れる事としましょう。
そう言うことで、今回は以上です。
御感想、お待ちしていますm(__)m
次回をお楽しみに.......
(2003/08/26公開)
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