からむこらむ
〜その113:天平の祈りと災禍〜


まず最初に......

 こんにちは。新年度も1週間を過ぎましたね。皆さま如何お過ごしでしょうか?
 関東ではソメイヨシノは大分散ってしまいました。体調も同様に散っている方が多いようですが.........お気を付けを。

 さて、今回からは........前回の最後にぼそっと書いたように、水銀の話でもしてみようかと思います。とは言っても、今回はその「イントロ」としてのお話ですが。
 一般には「毒」という認識の強い水銀ですが、思われる以上に生活に密着し、そして長い間人類はこれと付き合ってきました。
 では、どういう局面で使われていたのか? 今回はその代表例を扱い、イントロとさせていただきましょう。
 それでは「天平の祈りと災禍」の始まり始まり...........



 さて、大分前ですが。
 過去にこの「からむこらむ」で鉛の話を扱ったのを覚えているのでしょうか? この話の最初の時、つまりその63において、こういう質問をしてみました。


「毒性元素」の種類を挙げてみて下さい。


 この時には、一般に「毒性元素」と呼ばれる中で「カドミウム」を挙げ、またその時の話の中心となった「鉛」を挙げました。そして.......このときに「水銀」の名も挙げてみました。
 今回は、この一般に「毒」と思われる「水銀」という元素について触れてみようかと思います。

 さて、「水銀」と言うとこれまた色々とイメージがあるかと思います。大半が極めてネガティブなイメージなのでしょうけど。
 この元素の元素番号は80。重い金属元素でして、かつ常温で唯一液体の金属です。元素記号は「Hg」でして、英語では「mercury」と書きます。この呼称は面白いものでして、英語ではローマ神話の俊足を持った商売の神(そして、泥棒の守護神でもある)マーキュリー/メルクリウスを意味し、ギリシア神話のヘルメスに相当します(これは前回を考えると面白いかも知れません)。これは、水銀が流動性に富み、生物のごとく素早く動く事から名付けられた様です。元素記号の「Hg」はラテン語hydragyrumに由来し、「水のような銀」を意味します。これと同じイメージを持ったのか中国では古来より「水銀」と呼び、その名称が日本に入ってきて現在に至ります。この独特の「液体金属」の特徴から、英語では別名「quicksilver」と呼ばれています。
 この金属はその液体という特徴から、各地で共通したイメージを持たれている、と言うことが言えるでしょうか。
 水銀の原子量は200.6。重い元素の常で同位体が多数存在しており、196〜205まで存在しているようです(とは言っても、205は放射性でほとんど存在しない)。その一番存在比の多いものは原子量202のものとなっていますが、30%も満たない存在比となっています。
 この金属は前述の通り常温で唯一の液体の金属でして、その融点は-38.842度。沸点は356.58度で密度は13.5g/cm3です。金属としては低い融点と低い沸点(鉄はそれぞれ1540度、2750度)でして、また揮発性が高い金属として知られています。
#映画「ターミネーター2」の「T-1000」の様になることはありません。念の為(笑)

 この元素は古来より知られている元素でして、紀元前にはすでにその利用法がいくつか知られていました。例えば紀元前1500年のエジプトではすでにこの元素の化合物が使用されていました。そして、紀元前300年頃にはメッキを行うのに必要な原料として使用されていまして、遺跡より発掘されるものに水銀を用いて金メッキが施された遺物が見つかっています。
 さて、水銀とメッキ、と言うとピンとこない方もいるかも知れませんがかなり密接な関係にあります。
 その101でも少し触れていますが、水銀の性質には面白いものがありまして、他の金属と混じることで合金を作り出します。例えば、金、銀、亜鉛、カドミウムなど様々な金属と合金化し、その含量によって固体、ペースト状となります。これを「アマルガム(amalgam)」と呼んでいまして、これはギリシア語で「柔らかい物質」を意味する「malagam」に由来します。
 では、これでどうやってメッキを行うか?
 金メッキの場合、最初に金のアマルガムを作りまして、これを対象物に塗ります。ここで熱を加えると沸点の低い水銀は飛んでいって金が残ることとなり、金メッキが出来る事となります。この手法によるメッキ法は「アマルガム法」と呼ばれます。尚、「メッキ」は今では「鍍金」と書き、「ときん」とも呼ばれますが、昔は「滅金」と書きました。これは水銀に金が溶けることにより出来るアマルガムを「滅金」と呼んだことに由来しています。
 日本では、飛鳥時代の仏像制作に金メッキが施されたことが最初と言われています。そして、その時代の約100年後に、当時最大規模の金メッキが施された巨大建造物が出来ることとなります。
 今回は、水銀の話に本格的にはいる前にその話をしてみましょう。


 さて、関東地方で中学生の修学旅行と言うと、管理人の頃の定番は「京都・奈良」でした。ご覧の皆さんにもそういう方がいらっしゃるとは思いますが.......もっとも、最近は北海道が人気No.1だそうですが。
 京都、奈良と言うのは御存じの通りたくさんの文化遺産がある場所でして、京都は平安時代などを中心に、奈良は奈良時代の文化遺産が残っています。それゆえに修学旅行の対象となりやすく、また観光名所であり、海外からの観光でも有名なスポットとなっているようです。この中でも特に奈良時代は80余年余りの時代ではありましたが、「天平文化」として花開き発展した頃の仏教文化の名残が残っており、貴重な文化遺産となっています。
 さて、この「天平文化」と言うもの。この名称は当時の元号よりとられていまして、おそらく義務教育では必ず、そしてほぼ唯一奈良時代に名を残す天皇である聖武天皇の治世でした。聖武天皇は仏教の信仰に篤く、そして仏教による国の統治と安寧を願う、と言う思想.......一般に「鎮護国家」と呼ばれる思想を持ち、それを実践した天皇として知られています。その真骨頂は御存じ奈良の東大寺であり、一般に「奈良の大仏」として知られる銅造毘盧遮那仏座像となっています。
 これらの制作は、当時の国家の威信を懸けた大事業となり、そして世紀の難作業でもありました。

 さて、奈良時代の聖武天皇の治世をまず話しておきましょうか。
 聖武天皇は天武天皇のひ孫に当たりまして、724年に第四五代天皇として即位します。この時期は平城京遷都から14年後。当時の大国、唐より律令制を導入してこれを基本として政治を行っていました。ただし、万事が順調とは行かず、『万葉集』の山上憶良による貧窮問答歌が示すように民の生活は極めて苦しく、追い討ちをかけるように当時は度重なる天変地異に疫病などが発生していました。朝廷では藤原房前(ふささき)、麻呂、宇合(うまかい)、武智麻呂の4兄弟が政治の実権を握っており、様々な弊害(長屋王暗殺など)を出していたのですが........しかし、737年に九州で発生した天然痘が畿内にやって来て打撃を与えます。これで藤原四兄弟始め多くの公家、民が死んだとされています。
 さて、このような中、聖武天皇とその皇后である光明皇后は、世の乱れ具合に非常に心を痛めたようでして、崇仏により傾倒し、橘諸兄(たちばなのもろえ)や吉備真備、玄ぼう(「ぼう」は「日」に「方」)らを用いて政治を行います。が、藤原宇合の子である広嗣(ひろつぐ)の乱がおこるなど、世情が安定することはなかなかありませんでした。

 ところで、広嗣の乱のまっただ中の頃。かなりの政治・国内の混乱に嫌気が差したのか、聖武天皇は行幸を思い立ち、畿内を二ヶ月かけて行幸します。そして、最後の滞在地である山背国で突如「都には帰らん」と言い出し、741年にこの地に恭仁京(くにきょう)の造営を開始します。そして、持ち前の仏教への信仰の篤さを証明する事例として有名な、国分寺、国分尼寺の創建の勅命を下します。しかし、翌年には恭仁京を離れて近江国に移り、ここに新しく都を造ることを宣言。これが紫香楽宮(しがらきのみや)でして、この遺構は去年の11月下旬に発見されています。
 さて、紫香楽宮ではかなり歴史的に重要な事項があります。一つは、律令制を崩す原因となった、そして良くテストにも出てくる墾田永年私財法が743年に出されます。そして、同年の冬に大仏造立を発願(ほつがん)しまして、「人情(こころ)に一枝の草、一把(すくい)の土を持ちて像を助け造らむと願う者有らば、恣(ほしきまま)に聴(ゆる)せ。」と続日本紀に残っているように、全国より資源と人民を集め、そして国家の威信と鎮護国家思想の大成をかけて大事業に挑むこととなります。これの指導には、国中公麻呂(くになかのきみまろ)と、当時民間で布教活動を行い、時として弾圧されていた僧である行基が任じられました。
 しかし、紫香楽宮での大仏建立事業は困難を極めます。理由は飛んでもないものでして、大仏の制作を開始して間もなく、聖武天皇は難波に遷都します(難波宮)。しかし、役人が一通り移ると、何を思ったのか天皇は紫香楽宮に戻ってしまいます。ここでまた大仏造立は続けられるのですが、今度は紫香楽宮周辺で火事が頻発。これには「大仏造立に反対する勢力が........」などと言う噂が出たようです。
 このような状況では、ますます政治は混乱する........そういうことで聖武天皇もいい加減に気付いたのか、それとも意を決したのか、745年に平城京へ戻ることを宣言し、更に紫香楽宮での大仏造立を中止。以後、聖武天皇の治世の間に遷都することはなく、やっと腰を据えて大仏造立が始まることとなります。

 平城京での大仏造立は都の東にある東山の金鐘寺の寺社地で行われることとなります。ここはやがて748年に東大寺(これは、「都の東にある大寺」という意味)と呼ばれるようになるのですが。それはともかく、ここで土台を作りまして土の大仏を完成。この大仏を元に8段階に分けて鋳込みを行って青銅製の大仏を完成させます。このとき使用された銅は国内産が使われました。
#708年に流通した「和同開珎」は秩父より貢銅があったことを記念して名付けられたことを考えると面白いかも知れませんが。
 しかし、この仏像造立は一つの問題がありました。それは、聖武天皇は金銅製の大仏........つまり、青銅の仏像の上に金のメッキを施した大仏を考えていたのですが、肝腎の金が国内に無い。しかし、これは749年に陸奥の国で金が見つかったことで解決します。これは聖武天皇をかなり喜ばせたようでして、これを機に元号を「天平」から「天平感宝」に変えます。また、これを機会に聖武天皇は娘である安倍内親王に位を譲り上皇になり、安倍内親王は即位して孝謙天皇になります。
 尚、余談ですが「天平感宝」は3ヶ月も経たない間に「天平勝宝」に変わりまして.......この年は日本で唯一元号が三つも存在している年となっています。
 まぁ、都の例と言い、なんとも移り気な天皇、という気がしないわけでもないですが。
 さて、こうして見つかった金は精練されてから上述の通り水銀とアマルガムを作りまして、アマルガム法によって大仏にメッキを施していきます。そして、最終的に金銅の大仏が完成します。
 こうして、752年。聖武上皇と、光明皇太后、孝謙天皇隣席の下で開眼供養が執り行われます。これには文武百官が集まり、更に僧一万人が集まって読経したとされ、極めて盛大に行われたと記録されています。
 これをもって、天平文化は最盛期を迎え、そして仏教は国家の支配下に収められて厳しくコントロールされ、鑑真の来日によって更に発展していくこととなります。

 余談ですが、現在の大仏は青銅製ですが、読んで行けば分かる通り、建立当時はメッキによって金ぴかだったことが知られています。しかし、度重なる火事・戦災で大仏殿は2回ほど焼け落ちていまして、大仏も地震で9世紀に首が落ちたり破損がいくたびも起きています。その度に修復していたのですが........その結果、大仏の現在の胴体は鎌倉時代のもの。頭部は元禄時代の物となっており、建立当時15.7mあった大仏は現在14.85mとなっています。建立当時のものは台座の蓮弁の一部だけです。
 一度、金ぴかのものも見てみたいものですが........

 さて、この大仏造立に関してはいくつか資料が残っているのですが。
 この造立につぎ込まれた労力は『東大寺要録』に残っていまして、木材知識(寄進者)が51,590人。木材役夫は述べ1,665,071人。金知識は372,057人。金役夫は述べ514,902人となっています。当時は600万人に満たない人口でしたので、それを考えればこの人数の大きさはいかほどであったかは想像に難くないかと思われますが........ このときの寄進者は貴族や裕福な農民層でして、墾田永年私財法で財を増やした人達が中心だったようです。
 そして、造立に使われた資材も大仏殿碑文により残っていまして、使われた銅が739,560斤(443.736t)。錫(「白め」(「め」は「金」へんに「葛」)は12,618斤(7.571t)、炭が16,356斛(1,193.988m3)となっています。
※注:1斤=16両=600g、一斛=72リットルで換算していますが、じつは人によって換算がまちまちですので、本などによっては数字が違う可能性が高いです。
 そして、使用された金(練金)は10,446両(392kg)。水銀は58,600両(2.198t)でした。

 では、ここで考えてみましょう。
 水銀は当時の認識はともかく、現在では毒性元素として名高い.......つまり多かれ少なかれ「有毒」な元素です。そして、アマルガム法によるメッキ法は水銀を蒸発させるわけですので、当然この作業に従事したものに少なからぬ水銀の影響が出ます。しかも、その作業のために水銀が大量に使用されました。
 つまり?
 当時の記録によると、大仏造立に携わった人達には少なからず病気になった者がいたようです。これは、重労働であることや、医療技術の問題が当然あるわけですが、しかし、この為に勅命で高価な薬などを使用して治療に当たったと記録されている(その一部は東大寺の正倉院に納められています)います。ここで考えると、造立の最終段階であるメッキの最中には、この水銀による中毒症状による病気が多かったのではないか、と推測されています。
#余談ですが当時の「薬」は今のような根拠が無いものもあり、今現在では「毒」として認知されているものもありましたので、中には治療で余計に悪化させた可能性もありますが。
 興味深いことに当時の記録では大仏の造立の間も、そして後も都の近辺では疫病や不作が続いた様です。実はこの原因の一端は、作業によって大気中に出ていった水銀ではないかと考える人もいます。つまり、大気中に出ていった水銀を何らかの形で摂取(大気汚染や、水源の汚染など色々とあります)すれば、当然人々の間で「疫病」が流行ることとなるでしょう。そこまで行かなくても、何らかの障害が起きた可能性があります。また、降雨などで土壌に水銀がしみ込むと、その残留性は長いことが知られており、また植物にとっても水銀は毒ですので土壌中の水銀によって稲などの作物の生育が阻害された可能性はあると思います。仮に雨などで土壌中の水銀が流れたとしても、やがて地下水や川などに入って水質汚染を引き起こすこととなります。
 以上より、この大仏造立以降、多かれ少なかれ水銀による害が起きており、場合によっては水俣病に近い症状が都の周辺で認められた可能性は安易に否定できない物があります。

 こう考えると.......聖武天皇と盧遮那仏造立、と言うものは当時与えた影響を考えますと、一概に教科書レベルでの話ではすまないことになります。
 つまり、一般に言われる「鎮護国家の思想」の推進を行い、仏教の発展の基盤を築き、天平文化の発展に貢献した、という側面が大きくありますが、同時に民へ大幅な負担をかけ、揚げ句水銀中毒を引き起こした可能性もあり、周辺地域を水銀汚染させたと言うことが言えます。
 ま、聖武天皇が少なくとも「国のため、民のため」にやった誠意は否定されるものではないのですが、天皇によって引き起こされた民衆の悲劇は無視出来るレベルではないように思えます。
 .......そういう意味では、この天皇は「良き施政者」だったのか、と言われると難しいものを感じますが...........


 さて、話はこれでおしまい、とはなりません。実はオチが一つあるんです。
 開眼供養の後の756年、聖武上皇は崩御します。このときに遺された品々が正倉院に収められ、これが当時のシルクロードを通じた東西交流を示す文化遺産として貴重なものとなっていますが........ さて、上皇崩御の後にも娘である孝謙天皇は父の仏教政治を推し進めていきます。このときに勢力を伸ばしたのが藤原仲麻呂(後の恵美押勝)でして、政治の実権を握ります。そして、758年に孝謙天皇は退位して上皇となり、淳仁天皇が即位してますます仲麻呂の力は増します。しかし、孝謙上皇の寵愛は仲麻呂から道鏡へと移り、そして道鏡はやがて政治に強く影響を及ぼしだします。これに不満を持った仲麻呂は764年に乱を起こして道鏡を排斥しようとしますが失敗。これを機に淳仁天皇は退位させられ、変わりに孝謙上皇が重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び天皇の位に就くこと)して称徳天皇となり、そして道鏡はますます重く用いられて765年に太政大臣禅師に。翌年には法皇になります。そして、仏教政治が進められますが.........
 769年。道鏡はついに天皇の位を望むようになり、大宰府による「お告げ」を作らせて自らを天皇にさせるよう工作を行いますが、称徳天皇はこれを確認させるために、信任厚い法均尼(和気広虫)の弟である清麻呂を確認のために九州へと派遣します。このとき、道鏡は清麻呂に「将来を約束」して都合の良いように、と考えたのですが........帰ってきた清麻呂は道鏡の意向とは正反対の「お告げ」であったことを奏上。道鏡はこれに怒り清麻呂を免官し、別部穢麻呂(わけべのけがれまろ)と改めさせて大隅国へ流し、道中暗殺を目論みますが、暗殺は失敗します。しかし、770年に称徳天皇は崩御し、道鏡は失脚。下野国薬師寺別当に左遷されてその地で没します。
 道鏡の失脚後、和気清麻呂は中央に呼び戻され、そしてまた政権に参画します。称徳天皇の後を継いだ光仁天皇はすでにかなり強くなっていた仏教政治を改め、造寺、造仏による財政逼迫の改善に着手し、乱れ始めた律令制の再建と多過ぎる役人の削減に着手。政治改革を開始します。そして、781年に光仁天皇の皇子である桓武天皇が即位し、光仁天皇の政治を引き継いで推進させます。
 桓武天皇は、平城京での強すぎる仏教勢力を嫌い、そして政治改革の必要性から783年、山背国長岡に都を遷します(長岡京)。しかし、長岡京造営中、担当者が暗殺されてしまい頓挫。そして、和気清麻呂の建議によって794年に平安京に遷都し、山背国を山城国と改め、ここから世に言う平安時代が始まります。

 さて、ちょっと長々と書きましたけど........平城京から平安京への遷都の話をしてみました。
 これのどこにオチがあるのか?
 平城京から平安京への遷都の理由は、大体こう説明されています.........「仏教勢力が強くなりすぎて、政治に支障が出てきたので、仏教勢力の少ない場所に移りたかったこと。更に律令制の立て直しの為に、心機一転を狙って行った」と。大体はこれで覚えさせられた人も多いとは思いますが.........
 しかし、大仏造立の話も含めて考えると、こういう側面も出てくる可能性があるんです.........「大仏造立で水銀を大量に使ったために周囲が汚染されてしまい、不作や病の原因となった為」。

 もし、水銀の話が事実であるのならば、個人的にはあながちこの説も間違いではないような気もします。

 さて、長くなりました。
 次回から水銀の話を本格的に始めることとしましょう。




 終わり、と。

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 まぁ、色々と考えたのですが、今回は水銀の話のイントロとしまして、日本での有名な建造物とそれに絡む話をしてみましたが.......結構御存じ無い方もいらっしゃるのではないでしょうか? なかなか面白いものだと思いますが。
 ここら辺は色々と突っ込んでいくと面白い部分ではありますが.........まぁ、やや歴史的な与太が多いですけどね(^^;;
 まぁ、本格的な話は次回以降としましょう。

 さて、そういうわけで次回から水銀の話を色々としてみたいと思います。結構歴史や生活に密着している話ですので、まぁ面白いかと思いますが。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2001/04/10記述)


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