からむこらむ
〜その139:栄光と沈黙〜


まず最初に......

 こんにちは。十月も中旬となりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 いや、なんか個人的には非常に早く日が経っているのですが。あっという間に年末になりそうですね........

 さて、今回のお話ですが。
 とりあえず続いているマラリアに関する話ですが、前回、前々回と特効薬であるキニーネについて触れました。が、今回は別方面で、前回の予告通りDDTについての話をしてみようと思います。
 一応、農薬の話になりますけど.......ま、農薬の総括的な話は別の機会として、とりあえずはDDTについて、マラリアを起点として話してみたいと思います。
 それでは「栄光と沈黙」の始まり始まり...........



 さて、今までマラリアの話から始まり、そして前々回前回とその特効薬キニーネについての話をしました。
 ところで、そのマラリアについての話をした際にも触れているのですが.........マラリア治療へのキニーネの多大なる貢献については最低限の説明はしました。これはキニーネと合成薬による人類による「抵抗」とも言える方法ですが、実はもう一つ人類がマラリアに「抵抗」する方法がありました。
 ま、前回の最後にも触れていますけどね。
 これは非常に明確、かつ有効な方法でした。それは、手っ取り早く「病気を、それを駆除すればよい」と言う思想に基づきまして.......しかもその大元はアメリカで軍隊の、特に衛生問題に絡む問題の対処(これは既述していますけど)から始まったものでした。
 そして、それがマラリアと言う問題を超えて大きく広がっていくのですが.......

 時代は第二次世界大戦より前。
 この当時、農薬は基本的に植物由来の物が多く、アジア、アフリカを中心に栽培されていました。この分野における日本の影響力も強く、当時は御存じ「蚊取り線香」の原料である除虫菊の世界最大の生産・供給国が日本であり、各国へ輸出を行っています。しかし、世界が徐々にきな臭くなり、ヨーロッパではついに戦争に突入。これと同時に(植民地であった)アフリカからの農薬の輸入が途絶えることとなります。また、アジアでも戦争によって日本からの除虫菊の輸入は途絶えることとなります。
 こう言った事態により、世界中で農薬不足の問題が発生することとなります。そして、この様な状況から各国を農薬研究  特に天然由来ではなく、「合成農薬」の研究を進めさせることとなります(ここら辺はキニーネと一緒です)。
#他にも除虫菊の有効成分の分離なども急いだりしたようですが(合成で、と言う思想があったようです)。
 この農薬の研究は至極当然のことでして、マラリアの話をしたときにも少し出しましたが........ま、農薬というのは「農業向け」と言う概念がもたれている方が多いと思いますが、実際には市民生活のほか、軍隊の行動を左右する「衛生問題」と言う極めて重要な問題にも関与しています。実際、今まで触れているマラリアの他、ノミ、シラミ、ダニ、ゴキブリや鼠と言った生物は食物の汚染や病気の媒介などを行います(ノミや鼠はペストの元ですし)ので、これらの駆除および衛生状態の保持は軍隊にとっては至上命題の一つでした(現在でもそうです)。
 この点はしっかり覚えておいて欲しいのですが........
 ところで、当時のアメリカにおいて農薬というと、実は主に日本からの除虫菊に頼っていました。しかし、両者の関係悪化から除虫菊の入手が困難になると、アメリカは代替物の必要性が増すこととなり、そしてスイスと共同で合成農薬の研究を開始します。

 さて、こうしてアメリカは合成農薬に本腰を入れるのですが、一応「アテ」はありました。
 その「アテ」は1938年、スイスのミューラー(Müller:二文字目は「u」にウムラウト)らが薬剤の試験中に偶然見つけた物でした。彼は研究所において、それまでに合成された物質の試験中、偶然にもある薬剤に殺虫効果があることを発見します。このことは合成農薬を研究していた米軍の注目を引き、その化合物の研究に力を入れることとなります。
 このミューラーが発見し、米軍が目をつけた化合物こそ「DDT」でした。
 米軍はこの化合物の研究を進めます。彼らの試験した結果、風土病害虫の駆除等に大きな効果があることを確認し、1943年に「軍需品」として生産・供給を開始します。そして前線へと送られて「防疫用」に大量使用されることとなります。
 これが、一世を風靡した農薬「DDT」のデビューとなりました。そして、同時にこれが世界で始めての「有機合成農薬のデビュー」ともなりまして、様々な意味で非常に大きな一石を投じることとなります。
 もちろん、この時に将来起こる「波紋」を予想した者はほとんどいなかったのですが。

 これを機会として使用されることとなったDDTは前線や、後方、そして捕虜収容所などで使われます。その効果は大きく、当初の目的通りハマダラカやシラミ、ノミ等の駆除に活躍して衛生面において大きな貢献をします。そして、戦後に民間に開放されるにおよんで、本格的に幅広く使われることとなります。
 この影響は極めて大きく、使用された各地での衛生状態の改善に用いられ、そして重要視されます。実際、アメリカではマラリアの駆除に大々的に使われまして、DDTによって国内のマラリアが90%減少すると言う結果を生み出します。日本でも.......これを読まれている中で経験をお持ちの方(50代後半以上ですが)もいらっしゃるかもしれませんが、占領軍によって、シラミ、ノミの駆除の為(防疫のためです)に大量に使われることとなります(通勤中などの駅で吹きかけている様な写真が多く残っているので有名でしょう)。そのせいか、シラミなどが非常に多かった当時において「どんどん減っていく」という感想などが残っています。それは、大いに歓迎されました。

 さて、このようにしてDDTは活躍をするのですが。
 ついでというのもありますので少し触れておきますが、この第二次世界大戦で生み出された農薬は、実は他にもありました。基本的に「方向性」はアメリカと一緒なのですが、1942年ごろにフランス、イギリスでそれぞれ同時期に、別々に殺虫作用をもつ合成農薬が発見・確認されています。これは「BHC」と呼ばれる農薬でして、合成が容易でDDTよりも即効性があったことから需要が極めて多くありました。この農薬も戦後にDDTと同じく活躍します。
 更に1945年にはとある合成法(学生さんなら「Diels-Alder反応」でピンと来ないといけませんが)で作られる、一般に「ドリン剤」として総括される化合物群もDDT、BHCと同じ目的から開発されます。
 これら三つの化合物は、炭素(C)、水素(H)を中心とした有機化合物に塩素(Cl)が関与した構造として共通していまして、「有機塩素系殺虫剤」として開発されたという共通点を持っています。そして、三者とも戦後に「合成農薬」として農薬の中心を担い、活躍することとなります。
 他にも、ドイツで戦時中に開発された有機リン系殺虫剤「パラチオン」もこれに加わります。
 これら農薬の成果は著しく、いずれも世界で(もちろん日本も含む)活躍することとなりました。
#DDT-BHC-パラチオンの3種で「一時代」を築き上げます。

 では、これらの.......特にDDTの成果はどの様なものだったか?
 DDTはマラリアを媒介するハマダラカの駆除に非常に大きな効果をだしまして、一例は先ほども挙げたように、DDTによってアメリカのマラリア患者は90%も減ることとなります。これの意義は大きく、当然キニーネ(代替薬含む)に依存しなくて済むと同時に、マラリアによる恐怖と言ったものも減らすこととなります。当然医療体制や予算にも影響しますので、単純に「患者が減る」以上の大きな成果を挙げたと言えるでしょう。
 このDDTによるマラリア駆逐の勢いは凄まじく、1960年代にアメリカで出版されたある本には、DDTのその「威力」を評して「あと2〜3年のうちにマラリアは征服されるのかもしれない」と評しています。事実、世界中で使われたDDTは各地で防疫に、特にマラリアの駆除に用いられた結果、インドでは第二次大戦後に年間7500万人ものマラリア患者がいたのですが、これがわずか10年で年間500万人に減ることとなります。
 この様に、今まで衛生問題のために為す術もなく死んでいった人達を救う、と言う非常に当時としては「画期的」な、そして多大な影響を与えた農薬は人々の支持を集めます。そして、1948年にミューラーはDDTの殺虫作用の発見の功績からノーベル賞を受賞することとなります。

 DDTが好まれて使用された理由はいくつかあります。
 まず、急性毒性が当時知られていた農薬としては小さかったこと........少なくとも人間への影響力が少ない、つまり安全性が高いことがあります。これは、戦後まもないころのNational Geographic誌に掲載されていた写真に象徴されています。この写真は海岸かどこかで、後部にDDTのタンクを乗せた車がDDTを散布している、と言う物でして、このタンクには「虫には効くが、人には効かない」と言う様なことが書かれてありました。こういう点のほかにも、適用できる害虫が幅広くあり、また残留性が高いために効果の持続性が長いと言うことがありました。持続性に関しては重要でして、「撒いた後」に一定の効力が残ることで再度撒く手間などが省ける、と言うことがあります。つまり、手間やコストの削減が可能でした。また、化学的に見ても合成が簡単でして大量生産に向いているというのもありました。
 こう言った理由は防疫目的には最適でしたので、大量に使用されるに至ります。

 この様に大きな衛生面に大きな影響を与えたDDTですが、やがて農産物への転用が図られるようになります。
 農産物向けの、いわゆる一般に言われる「農薬」(「農業害虫防除」が目的)としてのDDTは、上述の条件を持っていましたが、これは農産物への適用としては非常に有効なものでした。また、一方戦後の復興や衛生面の改善から急激な人口の増加が見られたこともあり、食糧生産の大幅な増大は各国とも急務でした。
 この様な背景から、衛生面で使用されていたDDTはやがて農産物用へと転用が図られ、そして使用されることとなります。
 同様に、同じ有機塩素系農薬であったBHCやドリン剤も道を同じ道を歩むこととなります。


 さて、「安全」を旗印に一般に浸透していったDDTですが........これは確かに衛生状況を改善し、そして食糧増産に活躍することとなります。実際、各国で大量のDDTが使用されそして「安全な物」として使用されていました。実際、大半の人々の認識はそのようなものでした。
 この結果、戦後の約20年間にDDTは多量に使われていき、そしてその効果は莫大な恩恵を人類に与えるのですが........
 しかし、やがてこの「栄光」も一冊の本をきっかけに、徐々に崩されることとなります。
 その本はレイチェル・カーソン(Rachel Louise Carson)女史による.......非常に著名な本となっている『沈黙の春(Silent Spring)』でした。

 『沈黙の春』に関して詳しいことを書くには明らかに時間とスペースがありませんので、実際に購入されてみること(新潮文庫で手軽に購入できます)を強くお奨めしておきますが........いや、これは価値がある本ですから。
 ま、簡単に言いますと、カーソンはこの本の中で、「最近の(当時1960年代)」DDTを始めとする合成農薬の過剰使用に対する警告を発します。それは、「無害」と信じられていた(乃至「信じさせられていた」でもいいでしょう)DDT等の合成農薬には問題があり、これを無視すればこれらによって生命の存在が断たれ、春になっても鳥は鳴かず、虫は飛ばず、植物も生えなくなる......まさに「沈黙の春」が訪れるであろう、と言う警告を与えます。
 実際、DDTがまだ民間に転用される前の1945年には、一部の学者によって(Wigglesworthらなど)いくつかの指摘......例えば、DDTに抵抗性を持つ害虫や天敵・花粉を媒介する虫の減少、食物連鎖による野生動物の危険性が指摘されていました。しかし、当時の世情(衛生面や食糧増産といった問題)からこの意見は聞かれることなく、そして約20年にもわたって放置されていました。
 その代償は、この『沈黙の春』によって見事に、しかも心配された点が指摘されることとなります。

 では実際に何が起きたか?
 無分別に、ただいたずらに大量使用した結果として、実際にDDTに対する抵抗性を持つ虫が現れ始めます。その結果、DDTがこれらの虫に効かなくなり始めます。そして、害虫の天敵までもがDDTによって死んでしまった結果、害虫の増加による農産物の被害が増えることとなります。また、花粉を媒介していた虫も死に絶えてしまい、植物に致命的な打撃を与えます。他にも『沈黙の春』でも強く言われている、食物連鎖によって生じる、いわゆる現在「生物濃縮」として知られる現象により野生動物の異常が報告されます。また、鳥の卵の殻が薄くなってしまい、そのために次世代が生まれてこないと言う報告が増えてきました。
 そして、「安全」と言われた人間への影響を調べたところ、人間の身体にも少なからぬ量のDDTが(もちろん生物濃縮などによって)見つかることとなります。
 更に、DDTは残留性が高く、長時間かけてもなかなか分解しないことも分かり、上述の結果とも併せて徐々にその立場が追いやられることとなってきます。更に同じ有機塩素系殺虫剤であるBHC、ドリン剤にもDDTと同じような批判が集まることとなり(確かに残留性が高いなどの共通点がある)、同時期に有機塩素系殺虫剤は全体的に追いつめられることとなります。
#そして、何故かミューラーにも批判が集まり、彼は苦悩することになります(心無い人間はいるものです)。

 これらの結果どうなったか?
 立場のなくなったDDT他有機塩素系殺虫剤は徐々に使用が控えられるようになります。そして、残留基準などが定められるなどするのですが、各国で使用が徐々に厳しくなって使用禁止になる国も増えることとなり、ついに日本で1971年に、DDT、BHC、(一部を除く)ドリン剤が揃って使用禁止になります。アメリカも翌年に使用が禁止となりました。現在では、「ほとんどの国での」使用が禁止されています。
 かくして、デビューから20年以上も続いたDDTの栄光は数年にして転落することとなります。そして、同時に重大な警告と教訓を人類に残すこととなります。


 さて、DDTはこの様な命運を辿っていまして........ま、これをもって人からある意味忌み嫌われていますし、報道もかなり「目の敵」に。そして環境保護論者からは「けしからん物質」と叩かれており、少なくとも禁止後に生まれた人にとっては「とにかく良くない物質」と言う認識になっていますが。
 ではこの物質はある意味そのような「不幸」しか生まなかったのか?
 一般の方(ついでに、強硬な環境保護論者から)は「Yes」と答えるかも知れません。しかし、識者は「No」と答えるでしょう。もちろんカーソンの警告は的確でしたし、その分野に関わった人間全てがこれを深刻に捉える必要があり、そして大きな思想転換を行ったのですが。でも「不幸だけではない」と答えるに信じる証拠はあります。
 では、どういうことか?
 DDTの与えた思想的・実際的な影響というのは非常に大きかったのですが、例えばその「実際的」な物の一例を上述のもののほかにも挙げてみましょう。これはWHOによる推定によれば、1948年から1970年の22年間、つまりDDTが大量使用されたころなのですが、この間にDDTの散布によって約10億人もの人間を疫病から救い、そして5000万人の死の運命にあったものを救ったと考えられています。これはDDTによって例えばマラリアを感染するハマダラカを、そしてノミ(と鼠)が媒介するペスト(ヨーロッパを悪夢に陥れた黒死病です)を駆除したことによります。
 また、当然のことながら前述の通り食糧生産の増加にも貢献したわけですので、それによって命を救われた人も実際には多いのではないかと思います。
 もし、戦後においてDDTといった物の存在が無かったら?
 自分の周辺にいる人間の「誰か」が既に存在していない可能性もあったわけですし、食糧の減少などから紛争などもめ事は更に多かったかも知れません。
 こう考えると、少なくとも「不幸」しか生みだしていない、と言う認識は大きな誤りと言えるでしょう。もちろん、その一方で今で言う「環境問題」を生みだした張本人ではあるのですが......
 ただ、その問題の大元は「使う人間の過信・おごり」と言う点も忘れてはならないのですが。
#個人的には、この様な点を話す人はなかなかいない(デメリットしか話さない)のは著しく客観性を欠くのではないかと思うのですがね。

 さて、長くなりましたが。
 取りあえず、DDTについての使用に関する「流れ」を中心にお話ししました。
 次回、もう少しこのDDTについて、化学的なものや細部について触れてみようと思います........ま、メカニズムや様々な理由を挙げていませんからね。また、今回あえて触れていないものもありますので、その点について触れたいと思います。

 そう言うわけで今回は以上、と言うことにしましょう。




 ふぅ........

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回は予告通り、DDTの話をしてみましたが........ま、もともとはこれもマラリアと大きな関係がありまして、それを「起点」に様々に使われることとなったのですが。取りあえず、有名な物質ながら現在では「名前だけ」と言うのもありますので、その歴史と言うか流れを中心に話してみました。
 何気に次回に繋がっていくので、頭の片隅にいれておいて下さいね。

 さて、今回は以上として次回ですが。
 次回はDDTの機構などと言ったもう少し詳しい話と、今回あえて触れなかった点などに触れてみようかと思います。と言うのは、実は今現在でもDDTは使用されていますので.......ま、色々と込み入った事情のある化合物だったりします。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2001/10/16記述)


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