からむこらむ
〜その170:帝銀と怪僧と自然と〜


まず最初に......

 こんにちは。雨が多い天気となってきましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 何となくもう梅雨? と思うような天気になってきていますね。全く、天候がおかしい限りですが。

 さて、今回は更新停止前の最後のお話ですが。
 前回までに青酸の話や機構、そして実際面での話をしてみました。今回はそういったことをふまえて、二つの代表的な事件に関する有名な考察の話と、更に自然界に存在する青酸の話をしてみようかと思います。これがまたかなり奥深いものとなっていますが........じっくり読んでいってみてください。きっと損はさせませんので。
 それでは「帝銀と怪僧と自然と」の始まり始まり...........



 さて、メカニズムまでを取りあえず話しましたが。

 ところで、前回までに触れていったことを考えると、ラスプーチンの死に関する謎がいくつか見えてくることがあります。
 話については前に書いたので省略しますが、彼は青酸カリ入りのワインやケーキで死ななかったと言われています。結局は銃で撃たれた上に燭台でめった打ちになって川に捨てられてしまいますが......... では何故青酸が効かなかったのか?
 まぁ、要因としては色々と挙げられているようですが、適当に挙げてみますと「魔術・妖術の使い手」「悪魔/神の加護」「無酸症」「特異体質」「青酸化合物の劣化」などというのが言われているようです。まぁ、「魔術・妖術」「加護」云々と言う説は真っ先に削除しまして、特徴的なのは「無酸症」「特異体質」「化合物の劣化」でしょうか。これらならある程度の「彼が青酸化合物で死ななかった理由」を科学的に説明できることとなります。まぁ、もっとも伝説になってしまっていますから、実際には「ラスプーチンは毒入りの飲み物・食べ物を口にしなかった」という可能性もありますし、またそうではないかと言う説もあります(そう言うのを食べる人物ではなかった、という親族の証言もあるそうで)。
 残念なことに、政敵達によって色々と脚色が加えられているらしい説が流布していますから、この真偽はすでに歴史の闇の中に埋もれてしまっていますが..........

 一方、詳しい状況が分かっており、更に青酸化合物を使った事が分かっているものの、非常に不可思議と言われているのは「帝銀事件」です。
 経緯は書いたので省略しますが、この裁判では「平沢の自白」から彼の犯行と断定した上で使用薬物を「平沢が買い求めた青酸カリ」とされています。しかし、青酸カリではタイムラグがあったとしてもやはり速やかに死に至るはずです(もちろん、この青酸カリが劣化していた可能性はありますけど)。ところが、実際の犯行では二つの液を飲ませていますし、しかも最初の液を飲ませて1分待たせている上、更に第2液を飲ませ、しかもその瞬間に即死ではなくある程度の時間が置いてあった、と言われています。ただ、確かに犠牲者より青酸は検出されている。
 この事件は興味を持ったことがある方ならご存知のように、犯人とされている平沢の犯行ではない、と信じる人は多くいます。当時の人もそう思ったようでして、実際こういった謎などに挑み、検察の調書に対して反論した一人が有名な松本清張でして、著書『帝銀事件』や『日本の黒い霧』でこの点を検証しています。他の人も検証していますので、興味ある方はこういった著作をご覧になっていただきたいのですが......... もっとも、時代背景を理解(当時の日本の状況とか)していないと「?」と言うシーンが現代人にとっては多い気もしますけどね。
 ま、本の紹介はともかくも、松本清張などは「平沢無罪説」を唱えた上で使用薬物として「アセトンシアンヒドリン」を挙げています。これはなかなか興味深いものでして........そのままなら「すぐに死に至らしめる」青酸化合物の中にも「時間差」による効果を発揮する物がある、と言う事を示しています。

 さて、アセトンシアンヒドリンとは何か?
 有機化学の比較的(とは言っても大学レベルですけど)初歩的な反応に関連する物質に「シアンヒドリン(シアノヒドリン)」と総称される化合物群があります。これはケト基やアルデヒド基など、C=Oの構造を持つ物に、シアン化水素や青酸カリなどを反応させると出来るものです。アセトンシアンヒドリンは、アセトンとこういった青酸化合物を反応させると出来るものです(専門的には「求核付加反応」という、基本的な反応の一つです)。
 これの何が問題なのか?
 実はアセトンシアンヒドリンは加水分解によってアセトンとシアン化水素に分解します。

シアンヒドリン


 アセトンシアンヒドリンの加水分解は、青酸カリに酸が反応して毒性を発揮するよりは時間がかかります。これは確かに青酸化合物を使用した上での「時間差」を説明できる物となっています。
 ちなみに、帝銀事件に関する細かい謎はまだあります。飲み方の指示は「薬品を飲み込ませる」手法であると言われていますし、更に二つの液の意味から、例えば「二つの液を混合して毒性を発揮する」タイプの物ではないか、とも言われていますし。更にはこれを飲ませた人間が一体誰であるのか、と言うのも今もって謎のままです  もちろん、「平沢無罪説」が正しければ、となりますけど。ただ、少なくとも薬学に通じている人間であり、更に器具からや飲ませ方などからも専門的な知識を持っている人間であることは確かと考えられています。
 尚、アセトンシアンヒドリンは一説には第二次大戦中、神奈川県の稲田登戸にあった陸軍第九研究所で開発、合成されたなどという話があります。このことから犯人を旧陸軍の化学戦関係者とか。また他にも関東軍防疫給水本部、いわゆる「731部隊」の復員メンバーではないか、とか彼らを庇護した米軍の陰謀とか、実に色々と言われていますけど........


 さて、今まで「毒殺」について触れてきましたが。
 こういった「毒殺」は基本的には工業製品より得るものでして、前に書いた通り近代以降に本格的に使われたものです。しかし、実は青酸化合物自体は昔から存在していました。もっとも、それを人が知っていたかどうかは別ですけど.........
 どういう物にあったのか?
 代表的な例はこれでしょう........皆さん、「青い梅は食べるな」って聞いた事がありませんかね? あれは食べると死んでしまうから、と言うことなのですが実はこれは梅の種の中に青酸化合物が入っていることに由来しています。梅の他にも桃やアンズ、リンゴといったバラ科の植物の種子の中に青酸化合物が入っている事が知られています。
 この青酸化合物は「アミグダリン」と言われまして、「青酸配糖体」と呼ばれるとシアノ基(-CN)が結合したものの一つです。このアミグダリン自体は無害なのですが、体内でβ-グルコシダーゼと言う酵素によって加水分解されますと、シアン化水素と糖に分解します。そして、このシアン化水素がその毒性を発揮することとなります。

アミグダリン


#糖はグルコースが二つです。大きいので省略。
#ちなみに、これもシアンヒドリンの一種です。
 他にも似たようなものはありまして、一部地域での重要な食料源となるキャッサバやビルマ豆(あんに使用)などもこの青酸配糖体を含んでいます。この化合物はリナマリン(フォゼオルナチン)と言う化合物やロタウストラリンなどと言うものでして、リナマリンはβ-グルコシダーゼによってグルコースとアセトンシアンヒドリンに分解し、これが加水分解してシアン化水素を発生させることとなります。
 一応、中毒にならない場合、食べる事で残っているCN-がロダンに変化することで解毒されます(前回参照)。
 興味深いことにキャッサバを主食とする地域では運動失調性神経障害という障害にかかりやすいと言われています。これは、解毒のために増えたロダンが体内に増えすぎたため、と言われています。ということで、余りキャッサバを食べ過ぎないほうが、色々と良いということになるのかもしれませんが.........

 こう言った青酸配糖体などは、その存在は知られていなくても利用はされていました。
 例えば古代のエジプトでは「桃の実の刑」という処刑の一つが存在していたと言われます。つまり、それを食べさせることで処刑を行うということですが、これは桃の実の中にある青酸配糖体を使って処刑することではないかと思われます。もっとも、「どれくらい食べさせたのか」が謎ですけどね.......
 と、そういえば同様のものですけど、梅の種の中には「天神様がいる」ということで「食べてはいけない」という戒めを御存じの方もいらっしゃるかと思います。これは既述の通り梅の種の中に青酸配糖体があったからでして.......恐らく経験上から言われてきたものである、と言えるでしょうか。青い梅も同様です........などと書きますと、「じゃぁ梅酒って危険じゃないの?」と思われるかも知れませんが、これは漬けているうちにシアノ基が分解していきますので、その点は心配ないです。
 他にも、タケノコやソテツの実などもこういった青酸化合物が入っています。こういった化合物は「生活の知恵」の中で色々と無毒化の工夫がされていまして、例えば水に浸けることで青酸化合物を除くとか、分解酵素を除く、などという習慣が各地であったりします。
 ちゃんと、先人の知恵には「理由」があるということでしょうか。

 ちなみに、「利用」に絡んでいくつか書いておきますが........
 皆さんは「クローバー」という植物を御存じかと思います。ヨーロッパの原産でして、三つ葉のクローバーはキリスト教での「三位一体」に通じると考えられて重宝されたそうですが。ちなみに、四つ葉は希望、愛情、信頼、幸福を意味するそうですけどね。
 このクローバー、一般にシロツメクサを指します。この草は花が白く、江戸時代にオランダとの貿易でガラス製品の輸送のパッキング用にこの草が使われていたことから名付けられた(つまり帰化植物らしい)と言われています。もっともこれだけではなく、ウマゴヤシやアカツメクサなどもクローバーに含めることもあると言われています。これらは牛などの放牧する動物の餌として知られていますが、実はアミグダリンを含んでいます。では、何故あまり問題にならないかというと、実は地域によって含む量が変わっているようでして、一般に温度が高い地域ほど多く含むようです。
 ま、幸いなことに日本では余り無いということのようですが..........
 もっとも、イネ科の植物にも青酸化合物が入っているケースが多くあり、時々酪農地域のサイロ内部に落ちて死んでしまう人がいるケースがありますが、これは一般にメタンガスによる窒息死(メタンそのものは毒性はほぼ無いです)ですが、中にはこう言った植物より放出される青酸が問題になることがあるようです。
 こう言った自然界の青酸化合物は数百種はあると言われています。

 そうそう、人体でもシアノ基を構造中に持つものが知られています。
 「え? 毒じゃないの?」と思われるかもしれませんが、生体の必須成分でして、「シアノコバラミン」と言う化合物が構造中にシアノ基を持っています。ま、いわゆる「ビタミンB12」なのですがね。これは非常に大きな構造を持ちますのでちょっとここでは構造は出しませんが、一つシアノ基を持っています。とは言っても、これは別にCN-を出すわけではありませんので毒にはなりませんがね。
 こう考えると少し意外に見えるかもしれませんけどね。まぁ、必要に応じて作った構造にCNが必要という事なのですが。


 さて、こんな青酸化合物ですが、実はかなり利用範囲は大きいです。
 いくつかあるのですが、青酸の利用は近代になって工業利用が発展してから様々な局面で使われるようになりました。もちろん、その毒性に期待が持たれるケースもありまして、例えば殺虫剤といった農薬に実際に持ちいられれることがありました。実はそう言った中の一つがナチスのガス室で用いられたことで悪名高い「チクロンB(Zyklon B)」でして、これは青酸ガスを発することでその目的に使われていました........ま、今は農薬として用いられることはあまりないですけど。
 あ、もちろん自殺用として青酸化合物が活躍したのは言う間でもありません。
 一般に青酸化合物は「手に入らない」と思われているようですが、実は薬局で買うことが可能です。もっとも、身分証明等が必要ですけどね。工業利用での局面は多いので、そういったところでは大量にあります(実際結構安価な薬品です)。ですから、大体は自分で買う勇気も無い連中はこういうところから盗む、というのがニュースでの定番となりますが。
 というのはともかく、青酸化合物の工業利用は非常に多くあります。
 例えば青酸を発生する、ということで紹介したプルシアンブルーは青色顔料の原料に用いられることもあるようです。他にも青酸化合物の水溶液は錯体を作りやすく、銀や金などの金属精錬に用いられます。他にも、メッキ、写真、分析試薬などに幅広く使われています。
 一方、こう言った無機化学的な側面のほかに、有機化学的な側面でも必須化合物です。
 構造中にシアノ基を持つものは結構ありまして、アクリルやメタクリルなどといった樹脂はこの青酸化合物無しにはお話になりません。他にも工業合成の原料になりまして、農薬や乳酸などの工業合成の原料として用いられます。他にも、実験室の環境では「キリアニ反応(kiliani反応)」という重要な糖の人工合成に関して有名になった化学反応がありまして、これで炭素の鎖を一つ伸ばす為に使われることがあります(専門的な余談ですが、ビタミンCの人工合成などはこの反応を使ったようです)。
 他にも、アミノ酸の人工合成などにも使われますが........ま、ここら辺は有機化学や生物化学の本を開くと一杯ありますので、興味ある方はそちらを見ていただくこととしましょう。

 青酸化合物は工業的に必須であることから大量に合成できる方法が確立されており、大量に得ることが出来ます。
 例えば青酸カリなどは炭酸カリウム(K2CO3)と炭素(C)をアンモニア(NH3)気流中で加熱すれば得られます。

K2CO3 + 4C + 2NH3 → 2KCN + 3CO + 3H2

 もっとも、管理が悪いとその青酸カリも二酸化炭素と湿気で炭酸カリウムに戻ってしまうのですが........
 ちなみに、工業利用する際には青酸カリも青酸ソーダも差はないので、「青酸カリ」の名称でも中に青酸ソーダがかなり含まれている事が多くあります。

 尚、青酸化合物に関して、かなり「反則的」な使い方もあることが知られています。
 これは実際にはどうなっているのか、詳しいことはちょっと分からないのですが。話によるとアミグダリンはせき止め薬として用いられることがあるということです。もちろん、ごく少量らしいですけどね(ツヨンが使われている様なのもありますから、そう驚きはしませんけど)。

 また、「トンデモ」っぽいのですが、アミグダリンがガンに有効である、と言う説を唱えている人がいるようです。
 これは少なくとも否定されていまして、許可はされているところは先進国では無いようですが。ただ、有名な映画スター、スティーブ・マックィーンは自らがガンに侵されていることを知り、この治療の為に「レートリル療法」を唱えた医者に治療を依頼した話が残っています。「レートリル療法」とは要はアミグダリンを用いたものでして、これを提唱した医師ウィリアム・ケリー(実は歯科医)は「アミグダリンはガン細胞に到達すると、正常細胞よりガン細胞が多く持つ多量のβグルコシダーゼによって青酸が放出され、これによってガン細胞は死んでしまう」と言う理論の下に広めようとしていました。
 当時アメリカでは承認されなかったこの療法に望みを託したマックィーンは、メキシコに移ってこの療法を受けるのですが、結局効果無く死んでしまいます。ま、ケリーが歯科医であることなどはこの後に判明するのですが........
 結局、少なくともこの療法はガン細胞には効果がなく、青酸中毒の恐れがあるということで否定されています。


 と、長くなりましたが以上が青酸化合物の大体の話となります。
 まぁ、ご覧の通り本当に数多くの話がありますし、そしてよく知られている物です。もっとも一般にはその知識の範囲は大体が「毒殺」程度と言うのが現実でして、機構や実際という面ではほぼ「知られてない」物です。
 でも、挙げた通り様々な意味で利用されていますし、そしてそれに伴って様々な話が残っています。
 ま、一面だけでなくこういうのを読んで、色々と興味を持ってもらえれば嬉しいですけどね.......あ、でも犯罪はだめですよ、えぇ。

 と言うことで今回は以上と言うことにしましょう。




 これで終わりですか。

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 ま、3回に渡って青酸の話をお送りしましたけど........どうでしたかね? ま、結構名前だけは聞きますし、その効果も有名なものですから知らない人はいないと思われる毒ではあるのですが。ただ、もっと詳しく、となると結構難しい上にこういう話は扱う所がありませんので。
 まぁ、こういう話から色々と理解をしてもらえれば、と思います。
#って、犯罪はだめですよ!

 さて、そういうことで一つ終わりですね。
 それで次回なのですが、アナウンスしています通り、管理人は社会復帰に向けて動いています。で、就職関係で試験やら色々とありますので、その対策のためにしばらくお休みさせてもらおうと思います。
 ま、無事に合格して決まれば良いのですがねぇ........とりあえず、そうなりたいが為にしばらくの間「からむこらむ」はお休みです。ま、2〜3ヶ月程となると思いますけど........まぁ、よろしければ管理人の幸運を祈ってやってください(^^;
 管理人も頑張りたいと思いますので。

 ま、しばらくインターバルはありますけど.......この間に読まれていない方は、色々と読んでみる、とか(^^; 感想などは随時受け付けていますので、是非とも、と思います。

 それでは今回は以上です。
 再開の時をお楽しみに.......

(2002/05/21記述)


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