からむこらむ
〜その169:青酸と推理小説の謎〜


まず最初に......

 こんにちは。気温の乱高下の激しい昨今、皆様如何お過ごしでしょうか?
 管理人、咳が止まりません.......(~_~;;;

 さて、今回のお話ですが。
 前回までに色々と青酸に関する社会的な事件や、その名の由来などを扱いました。と言うことで、今回はそのメカニズムについて話してみようと思います。そして、そこから色々とミステリー物や物語に出てくる「青酸」のおかしな点などを色々と書いてみたいと思いますが.......ま、結構面白いと思いますよ。
 それでは「青酸と推理小説の謎」の始まり始まり...........



 さて、では前回の続きといきましょうか。

 では、青酸化合物  CN-というイオンが毒性を発揮するメカニズムは何か?
 この話をする前に、少し生体の基本的な話をしておきましょう.........他でも重要になりますので。とは言っても結構複雑で難しいので、簡単に書くこととしますが........あ、もっとも生化系の学生さんは「基本」部分ですので「解っていて当然」レベルでないと困ると思いますが。
#大学向けの教科書や専門書見れば必ず掲載していますし。

 さて、皆さんは生きていくために食事(栄養)と、呼吸によって酸素をとっていく必要があります。その源は概ね他者の生命です。
 ところで、こういった生命より得られる炭水化物、たんぱく質、脂質と言うものは生体内部でエネルギー源などとして利用されるのですが、この「エネルギー」と言うもの、生体では一般に「ATP」と呼ばれる物質が担っています。本やマスコミなどで「生体のエネルギー通貨」と呼ばれる物がこれです。
 このATPと言うのは「アデノシン三リン酸(adenosine triphosphate)」の略でして、この構造中のリン酸が一個取れる時に生じるエネルギー(結構大量に消費します)が生体で使われています。こうしてATPよりリン酸が取れたものは「アデノシン二リン酸(adenosine diphosphate)」となりまして、ADPと呼ばれる物質となります。

ATP→ADPの図


#「Pi」はリン酸です。
 右側は構造を省略していますが、様はリン酸(P-Oの部分)が三個なのがATP、ここからリン酸が一個取れて二個になるとADPになるということです(その14での「tri」「di」の意味を思い出すと解るでしょうか)。このADPは再びリン酸と結合してATPに戻り、「リサイクル」がされています。

 話は戻りまして、「食事」という行為と「呼吸」の役割の「一つ」は実はこのATPの獲得(ADPをATPに戻す)、と言うことにあります。どういうことかと言いますと、炭水化物、脂質、たんぱく質から「アセチルCoA」と言う物質にまで分解することから全ては始まります。細胞内のミトコンドリアでこの物質は「TCA回路(Krebs回路、クエン酸回路)」と呼ばれる生体の回路を経由しまして最終的に水素を得ます。
 こうして得た水素は同じくミトコンドリアにある「電子伝達系」と言う複雑な機構に取り込まれます。そして、この機構の中で電子が色々と関与しまして鉄や銅を構造中に持ったたんぱく質の関与の下、ADPはリン酸と結合してATPに「リサイクル」されます(ATPはこの系路で3つ分出来ます)。そして、電子伝達系の最後で分子酸素に電子が渡されまして、これと水素が反応して水となります。これは代謝水として再利用、あるいは尿として廃棄されることとなります。
 ま、文字にすると「?」となるかと思いますので簡単な図にすると、大体以下のようになります(実際は遙かに複雑です)。

CoA〜TCA〜電子伝達系


#本当は、こういうのに絡んでブドウ糖から出来るATPの量や、無酸素運動、筋肉痛の話などもあるのですが、長くなるので省略します。
 ところで、この回路・機構群はある意味「機械を構成する歯車」みたいなものでして、精密に出来ています(「生命の神秘」とも言えます)。ここら辺は実際に図を詳しく描くとそれを実感できたりしますが.......まぁ、かなり大きく複雑ですのでとてもここでは描けません。それはともかくも、もしこの回路中の「歯車」を一箇所、何らかの形で止めたらどうなるか...........?
 本物の機械でしたら簡単です。結果は「壊れる」事となります。
 実は生体でも同様でして、いくつかの薬剤はこういった生体の「歯車」を阻害することで「毒」となることが知られています。電子伝達系に限定して書きますと、農薬であるPCP(pentachlorophenol:幻覚剤フェンシクリジン(フェンサイクリジン)とは異なります)と言う薬剤はADPがATPになるのを阻止します。詳しい機構は違いますが、ある種の抗生物質も同じようにATPの生成を邪魔します。硫黄は電子伝達系の一箇所を阻害してますし、他のいくつかの薬剤(これはその内触れましょう)も電子伝達系での阻害を行って生物を死に至らしめます。
 そして、実はCN-もこの電子伝達系の阻害を行います。もう少し詳しく書けば、電子伝達系を構成する「歯車」の最後の部分を強力に阻害します(一酸化炭素や硫化水素もここを阻害します)。
 こう考えますと、一般的な概念だとピンと来ないかもしれませんが、青酸化合物の毒性は生化的な意味での「呼吸の阻害」が原因となっています。そして、重要なことはこういった阻害は中枢神経や心筋など、生体の最重要部分で非常に敏感な為、短時間この阻害が行われただけでも致命的な事態を引き起こすこととなります。
 これが青酸の毒性が強い根拠となっています。
#他にもこのCN-が赤血球の核を担うヘモグロビンを阻害すると言う機構(一酸化炭素の如く)もあるのですが、こちらは余り重要ではありません。一方で、一酸化炭素も電子伝達系を阻害しますが、ヘモグロビンの阻害ほど重要ではありません。
#一酸化炭素はヘモグロビンを強く、青酸は電子伝達系を強く阻害、という感じです。

 尚、こういったエネルギーの生産に関連する系は生命の維持の上で極めて重要な上、他の生物でもこのような機構を持っています。ですので、この系を阻害する薬剤は、一般に選択毒性(その143参照)が小さい事が多い傾向にあります。

 ちなみに、青酸化合物の解毒機構も存在しています。
 解毒機構は肝臓など異物代謝で活躍する臓器などで行われまして、細胞にあるミトコンドリアでロダネーゼという酵素によりCN-がSCN-「ロダン」と呼ばれる物に変化することで解毒されます。もっとも大量の青酸化合物を一気に処理することができないため、殺害目的の量などには対応は出来ず、解毒しきれずに死んでしまいますが。

 ところで、こういった青酸化合物の機構から色々と言われるものもあるんですけど。
 一般に余り知られていないようですが、青酸で死ぬと言う過程は上のメカニズムですが、シアン化水素ならまだしも、実は青酸カリ(KCN)や青酸ソーダ(NaCN)はそのままでは毒性を容易に発揮しません(前回触れた通り、毒性もシアン化水素に劣ります)。では、どうやって毒性を発揮するかというと、青酸カリなど青酸塩を飲んだ場合、これは胃の中で胃酸(主成分は塩酸(HCl))と反応します。

KCN (or NaCN) + HCl → HCN + KCl (or NaCl)

 実はこのときに生じるシアン化水素(HCN)によって「毒性」が発揮されることとなります。「はぁ?」と思うかもしれませんが、つまり青酸カリや青酸ソーダはそのままでは毒性を発揮せず、「1ステップ」おいてシアン化水素になってから毒性を発揮すると言う「手間」がかかることとなります。
 では、ここで少し考えて見ますと........例えば胃酸が出ない、あるいは少ないという「無酸症」と言う症状があるのですが、仮にこの症状の人が青酸カリを飲んでも、胃の中では塩酸が無いか少ないので上記の反応は充分に起こらず、よってシアン化水素が発生する機会は少ないか無くなります。となるとどうなるか、と言いますと実はこれはそのまま胃を過ぎてまっすぐ小腸大腸へと向かうこととなります。小腸大腸では基本的にアルカリ性となっていますので、シアン化水素の発生の可能性は落ちることとなります。
 つまり、あくまでも青酸カリでも青酸ソーダでも、「胃の中で酸と反応してシアン化水素が生じるか」が実際的な問題になります。こういったことから、シアン化水素よりも青酸ソーダ、カリの毒性は劣ることとなるのですがね。
 理解の上でそういった点はご注意を。

 ちなみに、余談ですけど。
 学生時代に講義中に聞いたところによると、教授が言うには機構の話なども考慮しまして、「青酸の毒性機構が発現するまでには少し時間がかかるはず」との事でして、「ドラマなんかでやっているように、青酸カリのカプセルを飲んで瞬間的に死ぬはずはないと思うんだよね」と言う話を聞いた事が忘れられません。
 つまりドラマのシーンで考えますと「青酸入りのカプセルなぞ飲む」→「胃に入る」→「カプセルが破ける」→「シアン化水素発生」→「体内に入る」→「電子伝達系阻害」→「そこから死に至る過程」までのタイムラグが結構あるのではないか、と言う事になりますか。
 そう考えると、飲んだ瞬間にいきなり即死、と言うのはやはり苦しいといえるのでしょうね........もちろん、全体的には「速やかに効果を出す毒」なのは確かなのですけど。


 ところで、青酸とミステリーと言うと切っても切れない物ですが。
 ま、取りあえず「古典的」と言う印象はありますが、実はそんなに古いものではないでしょう。と言うのは、青酸化合物の「意図的な使用」の歴史は比較的浅いものでして、本格的に使われるようになるのは近代になって工業が発展してからです。もちろん、それに伴って使用されたりして名が売れるわけでして、この毒が世間に知られるようになってからこの毒による自殺・毒殺が流行ることとなります。もっとも、ミステリーの場合は別に「謎の毒」を出すよりは「どうやって飲ませた」のかと言った部分が問題になりますから、別に古典だろうがなんだろうが構わない気もしますけどね。
 さて、しかしこういったミステリーやらドラマやらで見る「青酸」と言うのは、化学的に考えると「?」という事があります。その一つは上の「タイムラグ」ですが、他にも結構ありまして........取りあえず、物性の点から少し挙げておくこととしますか。

 実は青酸化合物と言うのは使用が結構難しかったりします。
 どういう点が難しいのか? 例えば青酸カリなどが物語の定番ですけど、これらは実は保管をしっかりしないと分解してしまいます。つまりどうなるかといいますと、例えば容器に入れてある青酸カリは空気中の湿気と二酸化炭素を吸収して分解し、結果として炭酸カリウム(K2CO3)になってしまいます。ですので、きっちり密封して保管しないといけないのですが........ちなみに、炭酸カリウムに毒性は余りありません。ただし、この分解の際にはシアン化水素を発生させるので何気に危険ですが........まぁ、保管方法がずさんでしょうからそれも抜けてしまう気もしますけど。また、シアン化水素の場合は揮発しやすく、しかもすぐに広がってしまいやすいので、ガス状になった場合は空気中にどんどん散ってしまいます。
 こういったことを考えると、ミステリーで使用されているケースの場合、「年代物の青酸化合物(例えば「○年前に××で盗まれた青酸カリ」とか)」はまず劣化している可能性があります(素人の保管では尚更)。ですので、その場合は少量で死ぬかどうか? また、うかつに容器の蓋を空けた瞬間自分がシアン化水素で死ぬ可能性もまた否定できません。また、気体のシアン化水素を暗殺目的で使う話があった場合(スパイ物とか)、気体状のシアン化水素の特徴を考えるとある程度の「密度」を保てる量と距離でないと確実に失敗するという事となります(中毒しないと比較的すぐ回復します)。しかも、風向きによっては自分がやられることとなります。
 気体のシアン化水素に関しては現実でも色々とありまして、例えば第一次世界大戦でも毒ガス戦に使用されたのですが、すぐに拡散してしまう性質から使い勝手が悪く、実は使用された期間は短いです(だから塩素はともかくも、イペリット様なものが「効果的」です)。ただ、ナチが使用したケースでは「密閉」したガス室という空間ですので、こういう「拡散の心配」は無いと言うことになりますが。ついでに、彼の和歌山の「ヒ素カレー事件」でも当初青酸が疑われたのを覚えている方もいらっしゃると思いますが、時間が経つとすぐに揮発しますので「すぐに検査しないと」こういう場合は探知できなくなります(ちんたら鑑識していると揮発してしまいますから)。
#尚、青酸化合物の探知は呈色反応(ピリジン・ピラゾロン反応によって青色に)や紫外線の吸光度、ガスクロマトクラフィーなどで調べられます。

 ついでに、もう少し触れておきましょうか。いや、別にミステリー作家を批判するつもりはないですけどね(^^;
 何気に物語では青酸カリや青酸ソーダを飲み物に入れて、と言うケースが結構あると思います。ところが、テレビなどを見ると時々「必殺」を狙って入れ過ぎているように見えるケースがありますが、あれでは何気に難しいと言えます。
 何故か?
 まず、シアン化水素はよく言われますがアーモンド、あるいはアンズのような特有の臭いがするとされます。これを考えますと、「殺す」対象に大量に青酸化合物を入れたものの(飲み物から立ち上るシアン化水素によって)、「変な臭いがする」ということで忌避される可能性があるでしょう。まぁ、場合によってはその臭いをかいでいる最中に青酸中毒で死んでしまう(ましてや暖かい飲み物ならシアン化水素の沸点を越えます)かもしれませんけど.......って、これはこれでミステリーの成立は可能かも知れませんけど(「何もしていないのに死んでいる!」って)....... ただ、被害(予定)者がちんたらしていれば、シアン化水素が揮発・拡散して終わり、という「話」にしては無様なケースも十分ありえますね........(盲点?) ま、どうしても、というならココアにでも入れろという事になりますか? まぁ、でもよく考えると物語で殺人が起きて、臭いを確かめていく主人公とかいますけど、「アーモンドの匂いだ!」とか言っている内に自分が死ぬ可能性もあるわけですねぇ......いや、匂いを感じるということはその物質を吸っていることですので(その77参照)。
 また、青酸カリや青酸ソーダと言うのは水に溶けると強いアルカリ性(ただしシアン化水素は酸性:高校レベルの無機化学ですが)を示します。これはかなり強めでして、人の肌に当たれば痛いと言われています。また、アルカリである以上、飲み物のpHを変化させるわけですので、必殺を狙った量を入れた場合の結果として、少量すすった際に「味がおかしい」と言うことで「飲めたもんじゃない」物になる可能性が非常に高くなります(ここら辺は強アルカリを扱ったことがある人なら分かるでしょう)。この場合、「飲む」→「吐き出す」となることが多いので、失敗する可能性は高くなります(同時に、犯人もばれる可能性が高い)。
 っと、物騒な事を書いていますけど...........
 まぁ、でも科学的に考えると、こう色々と思いつくものはありますが。ただ、過去にテレビドラマ(昼間に再放送しているようなもの)で、「別荘で男性が死亡」しているケースで、しかもその部屋は密室。死体は3日は経過しているだろう、というのに警部は「あ、死んでいる。(机の上の飲み物を見てにおいをかいで).......青酸だ」などと言っているのは、難しいかもしれない、ということになります。

 ちなみに、こういう話を見て活気づく愚か者はいないと思いますけど.........一瞬でも考えた人の為に書いておきますが、青酸化合物による毒殺、と言うのは実は非常に「特徴的」でして、「分からない毒」としての扱いはほぼ100%不可能となっています。どういう点が「特徴的」かといいますと、まず死に至るまでの過程が早いので、行動が記録されてしまえば犯人の類推が容易。原因もまた容易。更に死体を解剖すれば青酸化合物特有の臭いの上、青酸カリなどならばアルカリで胃壁などに異変が見られます(専門注:フェロ硫酸カリウムを用いればベルリンブルーを作る、と言うことで検査も可能です:前回の青酸を出すのと逆のプロセス)。また、砂糖を買うように青酸化合物を手に入れるのも難しいので(実際は薬局で買えますが、身分証明書が必要なうえに印象的に映りますから覚えられてしまうでしょう)、アシがつく可能性は高いといえます。
 まぁ、結局行き着くのは「犯罪は割に合わない」「ミステリー作家は大変」と言う結論になってしまうのですがね.........もっとも、余り現実的かつ精巧なトリックを思いつかれると、今度は現実的にやばくなる可能性がありますが。
#科学をしっかりやっているミステリー作家がいればまた違うのでしょうが......
#でも、そう言う人は別の毒とか使いたがりそうだし.......

 などと書いていたら長くなりました。
 ま、現実に色々と活躍している物質でもありますし、取りあえずもう少し書きたいものもありますのでその点は次回に持っていくこととしましょう。


 そう言うわけで今回は以上、ということで。




 終わり、と。

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回は、青酸の毒性のメカニズムの話と、ちょっと別方向に走ってミステリーでの話を挙げてみましたが........まぁ、話の中では良く使われますが、現実には結構「難しい」毒であったりします。もちろん、単刀直入に使うならまた話は変わりますけど........などと書いていくとどんどん物騒になるので止めておきましょう(^^;
 まぁ、良く考えると、ということです。

 さて、そう言うことで次回ですけど。
 ま、実際工業的に使われますし、また生活にも何気に密接に関与する可能性のある物質ですので、そちらの方も触れておきましょう。それで締めくくりとしようかと思います。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2002/05/14記述)


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