こんにちは。3月も始まりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
年度末、という事で色々とにぎやかになりそうですが。花粉絡みでまたにぎやかになるのでしょうかねぇ?
さて、今回のお話ですが。
ナス科植物のキャンペーンとして、マンドレーク、ベラドンナ、ヒヨスの話をしました。が、今までは欧州が中心でした。
では、東洋ではどうなのか?
実はあるんです。しかも江戸時代、歴史に残る大事件に絡んでいるという、非常に「重要な」役割を果たしたものでした。ついでに、有名な某企業と子供の頃に口にした悪口にも関与するというものです。
それでは「狂乱と麻酔」の始まり始まり...........
さて、今までマンドレークにヒヨス、ベラドンナと言う話をしました。
いずれもナス科の植物、しかも共通する作用を持つということ、そしてそれぞれに非常に関係する話が多い、と言うことで紹介していますが........
ところで、今までの話はほぼヨーロッパが舞台でした。では、日本では?
その答えは明確です........「あります」。しかも、日本では日本史に残る重大事件に関連した物でした。
さて、皆さんは江戸時代後期〜幕末にかけて日本で活躍した外国人の名をどれだけ挙げる事が出来るでしょうか?
そうした外国人は日本に大きな影響を残していまして、政治的なものから技術の供与といったものなど様々な影響を与えています。そんな影響を与えた外国人の一人にシーボルト(Philipp Franz von Siebold)がいます。
シーボルトは1823(文政6)年、オランダ商館の医官として日本にやって来まして、それから6年間、ちょうど蘭学最盛期だった頃にやって来たこともあり、さまざまな面で日本に大きな影響を与えた人物でした。
シーボルトはドイツ生まれ(オランダ商館の医官と言うことで、オランダ人と間違えられやすいですが)でして、祖父も父も医者、更に家系の中には優れた技術・知識を持った人が多い、と言うエリートの家庭に育ちました。色々とそういった物に触れる機会も多くあったようで、1820年には内科、外科、産科について学を修め、博士となります。その後、しばらく開業した後にオランダに移り、そのまま蘭領インドシナに赴いて軍医となり、更にその地で自然科学の研究を行います。この頃には極東に関する情報収集を積極的に行っていたようで、日本への興味がかなりあったと言われています。
そして、やがて彼は希望していた日本のオランダ商館に医官として着任。日本への上陸を果たすこととなります。
日本に着いた彼は、日本において医療活動を中心に積極的に活動をしています。
まず最初に行ったのは、ジェンナーが行った牛痘法を広め、天然痘への対策を取ることでした。もっとも、これはあまり成功しなかったようですが、しかし彼の活動から日本人の弟子が出来るようになり、そして門弟の家を利用するなどして医療活動や、薬草などの収集に当たります。本当はこういうのは駄目(外国人を自由にさせるのは幕府の方針に反する為)だったのですが、長崎奉行(出島に関する扱いは長崎奉行の管轄です)は大分大目に見たようで、シーボルトは積極的に活躍をします。
更に1824年には長崎の東にある鳴滝でいわゆる「鳴滝塾」を開いてこれが評判を呼び、ここからさまざまな日本人が医術を学んで日本中で活躍していくこととなります。ここでは外科、眼科、産科等の実技を見せていたようで、シーボルト自ら指導にあたるなど非常に熱心に取り組んだようです。
やがて彼は江戸に向かうことまでしています。この道中は常に人が面会に来て知識や技術の教授を願った様で、それに応じて実際に実演・指導したりしています。その後も門弟の指導にあたるなど、積極的に活躍をするのですが........
しかし1828(文政11)年の秋、その活動は終わりを告げます。
その時期に九州地方を襲った台風は、長崎の湾内に停泊していたオランダ船コルネリウス・ハウトマン号を破壊しました。そして、岸に上がったその船の積み荷は陸揚げされるのですが、その中にシーボルトが国外に送ろうとしていた葵の紋服と伊能忠敬作の『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』の写しが見つかりました。この二つは当時の日本では海外への持ち出しが厳しく禁じられたものでした。
これがいわゆる「シーボルト事件」の発端となります。
ではどうやってシーボルトはこれを入手したのか? 話はシーボルトが江戸滞在中に遡ります。
シーボルトが江戸に滞在している時、彼を訪ねた人物に眼科医の土生玄磧(はぶげんせき)がいました。彼はシーボルトが各地で実演して見せた瞳孔を広げる薬を聞きつけ、その薬の分与を願い出るために訪れていました。これを聞いたシーボルトは、その薬 実はベラドンナ を彼に分け、更には実演までしてみせます。大喜びした玄磧はこれを実際に手術に用いて効果を確かめます。しかし、その内その薬も無くなったため、シーボルトの元へ向かい再度の分与を願い出ました。しかし、シーボルトは手持ちの薬が少なくなったために分与は行いませんでした......が、「同じものがある」として紹介したのが「ハシリドコロ」と言う植物でした。
シーボルトがハシリドコロを知ったのは、尾張の著名な医師で本草学者の水谷豊文(助六)が七里の渡しで桑名から宮(現在の熱田)の宿についたシーボルトを訪ねた時でした。ここで豊文は写生したハシリドコロを見せ、この蘭名を教えて欲しいと頼むと、シーボルトはそれを見てベラドンナであると判断します。そして、同時に日本にも「ベラドンナ」があることを知りました。
さて、ハシリドコロを教えてもらった玄磧は喜んでその収拾に向かい、そして手術(白内障の手術)に用い、使えることを認めます(ちなみに、シーボルトはここまでの技術が日本に既にあることを知らなかったらしい)。そして玄磧は礼として葵の紋服(将軍より拝領される、一級の宝物になる)をシーボルトに贈りまして、これがハウトマン号に後に積まれることとなります。
もっとも、シーボルト事件が起こる事とは思わなかったでしょうが.......
「シーボルト事件」の他の詳細は書ききれませんが、少なくとも日本史には残る大事件になっています。
葵の紋服を贈った玄磧と、『大日本沿海輿地全図』を贈った天文方の高橋景保(作左衛門)(これはシーボルトの世界地理の本を入手するつもりでシーボルトに贈った)はたちまち捕縛されます。景保は牢死するのですが後日改めて打首の宣告を受け(墓から掘り起こして行いますが、裁判待ち中に死んだ場合、死体は塩漬けで保管される事もあるのでこのケースかも?)、玄磧も改易されて入牢するのですが、やがて許されて閉門(牢ではなく自宅なので負担は軽くなる)となり、1854年に亡くなります。
ただ、累は彼らの一族にも及びまして、更にシーボルトの門人なども捕らえるなどし、結局50名程が刑に処せられ、シーボルトは国外追放・再渡航禁止となります.......もっとも、不思議なことに問題の荷物は没収されなかったそうですが(実際に博物館にあるそうですし)。
シーボルトを知っていた人たちは多いに無念がったと言われますが.........ただ、シーボルトはその後追放が解除されてから一度日本に訪れるなどし、更にはヨーロッパで日本の紹介や列強の植民地化を防がんための努力を行ったなど、さまざまな活動を行うなどしています。
ま、そこら辺はスペースがありませんので書けませんけどね。
さて、シーボルトがベラドンナと見たハシリドコロですが。
この植物、実際にはベラドンナではありません。学名をScopolia japonica(スコポリア・ジャポニカ)と言いまして、学名からもわかるように、ベラドンナとは違う植物です。形状は似ているものはありまして、またナス科の植物でもあります。日本では本州や四国、九州と言った地域の、渓流に近い斜面の林に普通に自生しているものです。よく似たものにヨウシュハシリドコロというのもありまして、こちらはスイスなどに自生しています。
日本では玄磧以来ベラドンナの代用として用いられまして、実際に同じ作用を持ってます。ひいてはヒヨスとも同じ効果がある、と言っても良いものです。それゆえ誤って食せば問題になりますし、実際に山菜取りで誤ってとるケースがあるようです。
ハシリドコロは根が生薬として使われまして、これをロート(莨ト(「ト」は草冠に宕))根と称し、これが鎮痛・鎮痙薬、あるいは消化液の分泌抑制、胃痛に用いられます。ただし、ロートの名称はもともとは別の植物に用いられていまして、前回のヒヨスの漢名となっています。これは、中国の『本草綱目』と言う本がありまして、ヒヨスの漢名を「莨ト」としたのが由来です。ですが、日本ではこれに相当する植物が無かったために、ハシリドコロにこの名が当てられたとされています。
和名「ハシリドコロ」は中毒すると走り回って苦しむ、と言う事で命名されたようです。が、これは『本草綱目』の著者李時珍が「莨ト」を服せば「狂浪放トウ(草冠に宕)」すると残しており、『本草綱目』においては「久しく服せば体を軽くし、奔馬に走り及ぶほどの健脚になり、志を強くし、力を益し、神に通じ、鬼を見せしめる」と書いているので、それが実際の由来といえるでしょうか。
もっとも、ベラドンナもヒヨスもハシリドコロでも同じ効果を見せるわけでして、共通性がある証明とも言えるかもしれませんけどね........
尚、目薬・胃薬などでおなじみ「ロート製薬」の「ロート」はこの「ロート」から取ったものらしいです。
実際、ハシリドコロやヒヨス、ベラドンナは同じ効果がある、と言うことでそれぞれの作用である鎮痛・鎮痙、瞳孔拡大や腸の薬と言った働きを考えれば、目薬・胃薬を今でも作っている会社の由来にふさわしいものかもしれませんが........
シーボルトに絡むナス科の話はとりあえず以上としまして、もう一つ日本でのナス科の植物の話をしておきましょう。
過去に麻酔薬に関する論争で麻酔の話をしたのを覚えているでしょうか? ま、大分「どろどろ」な話ではありましたけどね。しかし、江戸時代後半の時、実は日本でも実は麻酔薬を作っていました。それはエーテルの麻酔作用の話より更に古いものだったりしますが........
その薬を作ったのは紀州の華岡青洲と言う人物でした。
彼は曼陀羅華や附子などを用いた全身麻酔の研究を行っていました。もともと和漢で麻酔作用がある、という事が知られていた曼陀羅華や附子に興味を持っていた彼は、これを使って麻酔薬を作り、それで外科手術が出来ないものかと考えます。この研究、かなり熾烈を極めたものでして、母と妻がその麻酔薬の実験台となり、母は死に妻加恵(かえ)はこの実験のために失明をしたと言う話が残っています。
しかし、彼の苦労は報われます。つまり、20年の歳月をかけて麻酔薬は完成しました。
そして、1805(文化2)年に乳がんの手術にその麻酔薬 「通仙散」を用い、これに見事に成功します。これ、実は知られている限り最初に全身麻酔を用いて乳がんの切除をした事例でして、これは日本の科学史に名を残すこととなります。この成果は大きく、各地から彼に教えを請う人が多く集いました。当然彼の住む紀州藩も彼を放っておく事は無く、彼を藩医に任じようとします。が、清州はこれを「一般の人の治療が出来ないから」と拒んでいます。紀州藩はそれでも、と思ったようで「勝手勤」という異例の扱いをしていますので、相当に認められた人物といえるでしょう。
もっとも、清州の通仙散はあまり広がりませんでした(※2004/10/14追記あり)。
理由はいくつかあるのですが、清州が通仙散の製法をあまり公にせず、秘伝として伝えるものを限定したことが原因とされているようです。結局のところ広まらなかったと言うのはある種の限界だったとも言えまして、やがて外来のエーテルといった麻酔が中心に使われるようになると通仙散はそのまま歴史に埋もれてしまいます。なんとも惜しいものがあるかとも思えますが........
ただ、一応製法は弟子(とは言っても破門されていますが)によって残されているようで、その成分は曼陀羅華八分、草烏頭二分、ビャクシ(白シ:「シ」は草冠に止)二分、当帰二分、センキュウ(川キュウ:「キュウ」は草冠に弓)二分を細かく挫き、熱湯に投じてかき混ぜ、かすを除いたものを暖かいうちに飲むと、2〜4時間で効果が現れると残されています。ただ、やや毒性は高かったようで、扱いは難しいものがあったようです。この点もエーテルなどに劣り、早く消えた一因となったとも言えるでしょうが。
ところで、清州が通仙散に中心的に用いた「曼陀羅華」とは何か?
植物で「曼陀羅華(まんだらげ)」と言う名前を聞いたことがある人はいらっしゃるかと思います。とは言っても、この名称も誤解が結構ありまして、いくつかの本にはこのシリーズの最初に触れた、マンドレークをもって「曼陀羅華」と指している人がいますが.......語感は似ていますがそれは誤りでして、実際はチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)の事です。
この誤解は結構広くあるらしく、時々「???」となることがあります。皆さんも探して見ると面白いかもしれませんが。
チョウセンアサガオは学名をDatura matel と言い、もともと日本には無く、中国から薬用のために輸入されたもので、1680年代頃に輸入され、1712年の『和漢三才図会』に最初に掲載されたという帰化植物の一つです。和名は朝鮮から来たから、という事でつけられているようです。
このチョウセンアサガオの近縁の物は世界中にありまして、広く栽培、あるいは野生化しており、日本でもヨウシュチョウセンアサガオ、シロバナヨウシュチョウセンアサガオが帰化し、比較的広い範囲で見られます。
種類によって違いますが、茎は高さ1mぐらいで、花は漏斗状でいわゆる「アサガオ」に似ているといえば似ています。が。種類によってもっと巨大です。花は夏〜秋に咲き、果実は球形か広卵形で種類によって違いますが、トゲを持っています。ま、種類で結構違うのでここではあれこれ書ききれませんが.......
そして、この植物もナス科の植物です。
チョウセンアサガオは薬用、と書いてあるように鎮痛・鎮痙・鎮咳に用いるなどされます。
しかし、特徴としては今まで挙げたベラドンナ、ヒヨスなどと一緒でして、同じような毒性を持っているのが特徴です。特にチョウセンアサガオは、江戸時代に通称「キチガイナスビ」として知られていまして、実際に食すことで錯乱や昏睡するなど、精神に異常をきたすことが知られていました。他にも種子も同じように危険なことも知られていまして、チョウセンアサガオの種子は「阿呆丹(あんぽんたん)」と称されています。
最近は使われない悪口ですが、子供の頃に良く言った(人もいると思われる)「アンポンタン」と言う言葉はここから来たものと思われます。
#名称についてですが、意図・目的が根本的に違いますので、「人権問題だ」というクレームは受け付けません。悪しからず(区別もつかない人が見ているとは思いませんが)。
ところで、このチョウセンアサガオの仲間は日本以外でもかなり話が残っています。
アメリカではチョウセンアサガオがアメリカに入った地であるとされるヴァージニア州ジェームズタウンにおいて、水兵がチョウセンアサガオによる中毒があったことが記録されています。これは水兵らがチョウセンアサガオの葉をほうれん草と勘違いしたのが原因とされているのですが、相当に致命的な結果となったようで、こういったことからこの植物は「ジェイムズタウン草」と呼ばれることとなります。現在では「ジムソン草」と略されていますが。
このジムソン草は躁病、てんかん、鬱病などに用いられたこともあります。
他にもっと古くからの記録も多く残っています。
チョウセンアサガオの毒性から中世イタリアでは毒薬を専門とする「薬剤師」(当時は職業としてある意味成立できた)がチョウセンアサガオの種子を利用したこともあるようで、暗殺から一時的に意識を失わせてその間に何かをする、と言ったような用い方をしていたようです。これはなかなか悪質で、意識を失っている間は何が起きたのか犠牲者は全くわからないため、色々と悪用されたようです。
このような手法は他でも見られまして、1578年にインドに着いたクリストヴァール・アコスタはインドで売春婦がパトロンや客にチョウセンアサガオの種子を与えていたことを記録しています。しかも、量の調整もしていたようですので、相当に「使い方を知っていた」と言えるかもしれませんが。他にも人買いが売春婦にさせようとつれてきた娘にチョウセンアサガオの種子入りの催淫薬を飲ませる、とか。しかも目が覚めた後にはその間のことは覚えていない、と言うこともありまして大分悪用された記録が知られています。
インドではもともとチョウセンアサガオが古くから使われており、学名であるDatura属は古代インドのDhaturaまたはDaturaであるとされています。古代のサンスクリット語の文献には既にこの植物の名前があるそうで、かなりインドでは古いつきあいのある植物といえるでしょうか。それゆえに「使い方」も良く知っていたと言えるのかもしれません。
当然近くのアラビアでもこのダツラは色々と使われたようで、チョウセンアサガオの種名matelはアラビア語の「麻薬性」を意味するmathelが語源であるとも言われています。
こう精神作用なども含め、良く知られていたという事でしょう。実際、前回紹介した『Plants of the Gods』では"Holy Flower of the North Star"としてこの植物が紹介されています。
ただ、アジアだけではなくアメリカ大陸でもダツラの仲間は利用されています。コロンビアの方のある部族では、チョウセンアサガオの仲間から作った毒を、王が死んだ後に奴隷や家族に飲ませて、その墳墓に生きながらに埋葬した、と言う記録もあるようです。
ま、他にもかなりの話があるので正直きりがないのですが.........スペースの都合もありますので、とりあえずこれで切りますけど。
とりあえず、以上が日本でも活躍したナス科植物の話とその他、となりますが。
ヨーロッパに引き続き、また主に二つのナス科植物が登場しました。そして、それはいずれもマンドレーク、ベラドンナ、ヒヨスに似た作用がある、ということを書きました。
もう少し触れたいものもありますが、スペースの都合上これ以上は書けませんが、大体の必要なものは書きました。
では、次回にその核心部分.......つまり、今まで触れた植物と、その共通の要因を持つ理由について。
つまり、原因となる化合物についての話をしてこのシリーズを締めくくろうかと思います。
そういうことで、今回は以上ということにしましょう。
・2004/10/14追記
2004年10月13日づけのAsahi.comの記事に次のような記事がありました。
麻酔術「門外不出」説覆る 華岡青洲から杉田玄白一門に
江戸時代の外科医、華岡青洲(はなおか・せいしゅう)が初めての全身麻酔手術に成功したのはちょうど200年前の1804(文化元)年10月13日。青洲の麻酔術は「門外不出」で普及しなかったとされてきたが、解体新書で有名な杉田玄白の一門に伝えられ、江戸でも乳がん手術が行われていたことを示す新資料を、松木明知・弘前大名誉教授(麻酔科)が東京都内の古書店で発見した。
新資料「療乳(がん)記」は漢文6ページの小冊子。玄白の息子、立卿(りゅうけい)の乳がん手術記録をその弟子が印刷して関係者に配ったものだ。
それによると、立卿の手術は青洲の手術から9年後の文化10年9月、江戸の玄白宅で行われた。「麻睡之剤」を用い、重さ数十グラムのがんを摘出、傷を洗い、香油を塗って縫合した。患者は6時間で意識が戻り、1カ月で回復した。青洲の弟子の宮河順達が玄白門下に入って数人に手術し、立卿が実際に見学したこと、青洲への感謝も書かれている。
青洲は弟子に麻酔術の秘密を守らせた。手術内容の記録は数件見つかっているだけで、手術は広がらなかったと考えられていた。「数え80歳」(文化9年)の玄白が30歳近く年下の青洲に出した手紙が現存し、「病人が手術の痛みに耐えられない。私は高齢なので息子たちに治療させたく、彼らが質問の手紙を出すのを許してほしい。宮河からも手紙を差し上げた」との記述があったが、玄白が単純に青洲を賞賛した手紙と見られていた。
松木さんは「医学史の空白が埋まった。新資料と合わせれば、青洲の許可を得て立卿が順達から麻酔術を学んだと考えられる。順達が江戸で手術をしたことも初めて分かったが、杉田派が加われば、かなり普及していただろう。青洲が安易な伝授を戒めたのはケチだったからではなく、患者の危険を避けるためだったと思う」という。
日本麻酔学会は、青洲の麻酔手術が世界の先駆けだったとして、10月13日を「麻酔の日」としている。
記事を書いた頃は「門外不出」説が一般的でしたのでそれをとりましたが、どうやら違うかも、と言う事のようですね。
さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
ナス科の植物のキャンペーンとして外せない二つの植物の、日本での話をしてみましたが。まぁ、歴史的事件だけでなく、有名な会社や悪口にまで関与するとはなかなか知られていないようですがね。もっとも、日本だけでなく海外でも関与していますが。まぁ、一方で大分悪用の歴史が有ったようで、その点もまたあれこれありますけどね.......ま、基本は一緒ですので省きましたが。
色々と奥深いものとなっているかと思います。
さて、そういうことでこれで一通り挙げるべき植物は挙げました。
そういう事で、次回は今まで全く触れていなかった物質の部分について触れていこうかと思います。
そう言うことで、今回は以上です。
御感想、お待ちしていますm(__)m
次回をお楽しみに.......
(2002/03/04記述 2004/10/14追記)