からむこらむ
〜その29:核反応から原爆まで〜


まず最初に......

 こんにちは。いよいよ土用、そしてそろそろ梅雨明けとなりますね.........って、東海から西が梅雨明けですか(^^;; いよいよ夏本番ですね...........皆様、如何お過ごしでしょうか?
 ちなみに、私は夏は.........あんまり好きじゃぁないんです(--;;
#暑いし.......(^^;;

 さて、今回は色々と身辺が慌ただしかったため、生体関係はちょっと詰められませんでした。 ただ、まぁ敦賀原発の問題も出ましたし、そろそろプルサーマル計画も実行段階に入ってきましたので、原発についてやってみようかと思います。 もっとも、今日は「そこに行き着くまで」の話.........つまり「核反応の発見」から「原爆開発」までとなるでしょうが..............
 一応、「歴史的読み物」ですね(^^;
 それでは「核反応から原爆まで」の始まり始まり...........



 まず読む前に........
 「その16:原子のビリヤード」と、「その17:放射線の基本話」の二つはちょっと思い出しておいてください。あと、出来ましたら周期表があったほうがよろしいです(無ければこちらへ。見やすいです)。

 では、本編と行きましょう...........


 「核反応」という言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょうか?
 この言葉を理化学辞典で引いてみると、「原子核と他の粒子との衝突によっておこる現象の総称」となっています............そう、過去にやった「原子のビリヤード」なんかはまさに「核反応」の例になります。

 人工の核反応の発見は意外と古く(?)、1919年、理化学関係をやるなら忘れてはいけない人物で1908年ノーベル化学賞受賞者、ラザフォード(Ernest Rutherford)によって初めて観察されました。
 彼は、かのキューリー夫人によって「発見」され。彼女の故郷ポーランド(当時はロシアの支配下にありました)にちなんで命名された放射性元素「ポロニウム」(原子番号84、原子量210.0)が壊れていく過程で生じるα線(「その17:放射線の基本話」を参照)が空気中の8割を占める窒素原子に衝突することで、以下のような反応が起こる事を発見しました。

14N + 4He → 17O + 1H

(注:α線は、ヘリウム(He)の原子核)

 実はこれが史上初めての「元素転換」........つまり、「ある元素から別の元素へ変わってしまう」事の発見であり、そして上記反応式から出てくる水素(H)が、実際には「水素の原子核」として出てくる事も発見されました。 ラザフォードはこれを「陽子」(proton)として命名、以後使われる様になります(当時は原子は、原子核と電子という概念しかなかったのです)。
 さて、この事がわかってから、世界中の科学者達は天然に存在する放射性元素の放つα線を核反応の研究に用いることになります。 その中でも1934年にキューリー夫人の娘イレーヌ・ジョリオ・キュリー(Irene Joliot-Curie)とその旦那であるジャン・フレデリック・ジョリオ・キュリー(Jean Frederic Joliot-Curie)によってα線をアルミニウムに照射することによって、α線源を取り除いてもしばらくはアルミニウムから放射線が、数分間ほど放射される事を見いだしました。
 この反応は
27Al + 4He → (31P) → 30P + n

 そして、30Pは不安定なので更に

30P → 30Si + β+
(注:上段「n」は中性子)

 という反応で、実はこれが世界で最初の放射性同位元素の製造となります。 これをきっかけに同様の実験が進んでいき、やがて「原子のビリヤード」で紹介したような、「周期表の穴」を埋めるようになるのですが..............


 さて、ここで中性子の話もしておきましょう。
 原子核の構成粒子は、御存じ陽子と中性子ですが、陽子は上記のようにラザフォードにより発見されたものの、中性子の存在は未確認でした。 ラザフォードにより存在の「予言」まではされていたのですが.............
 1930年。ドイツのボーテ(Walter Bothe)とベッカーは金属ベリリウム(Be:原子番号4)にα線を照射すると、ガンマ線よりも物質透過力の高い放射線を観測しました......... そして1932年、上記ジョリオ・キュリー夫妻により、この新しい放射線が、水素を多く含む(パラフィンなど)物質に当たると高エネルギーの粒子を放出すること見いだします。 そして、同年にイギリス人物理学者チャドウィック(James Chadwick)により、この放射線の重さが陽子とほぼ等しいが電荷を持たない基本粒子であることを確認、これにより「中性子」(neutron)と名付けます。
 これにより、原子の構成粒子が全て発見、確認されることとなります(もちろんそれをさらに構成するクウォークはのぞきますが)。
 余談ですが、このチャドウィックは、後にロスアラモスでマンハッタン計画に参加することとなります........... というか、この時期は核に関連する研究が多く、必然的に名を残すような人物は原爆の開発に関わってくることとなるのですが............

 さて、この中性子の発見により、核物理学の研究は一気に飛躍し、原子核の構造解明のほか、同位体の理解(中性子数による相違。更に水素から重水素の生成など)に役立ち、その原子核に吸収されやすい性質から放射性核種の生成が容易になるなど、さまざまな成果がでてきます。
 そしてこの中性子による核反応に注目した人物として.........1938年にノーベル物理学賞を受けるイタリア人物理学者、フェルミ(Enrico Fermi)がいました。 かれは当時「純粋なものとして」入手可能な元素について中性子をあてて、結果約40種の元素について人工の放射性元素が出来ることを見いだします。 そしてその結果...........「核反応で生じたばかりの「速い中性子」よりも、エネルギーの低くなった中性子の方が核反応を起こしやすい」という事を1935年に発見します。
 これが、後に非常に重要な事となってくるのですが...............


 さて、このころの核物理学の世界ではある一つの事が非常に注目されていました。 それは、自然に存在するもっとも重い元素であるウラン(U:原子番号92)よりも更に原子番号の大きい元素、いわゆる「超ウラン元素」の製造が可能かどうか...........ということでした。
 さて、この問題に対して、上記フェルミやジョリオ・キュリー夫妻など、さまざまな研究グループが取り組みましたが.........なかなか出来ない。 しかも、何か訳のわからない物が出来ている...........と、かなりの混乱を起こしました。 この理由は簡単、「核分裂」という概念........つまり、当時には核に中性子が当たると「不安定になって別の元素に変わる」ということは当然わかっていたのですが、「核が二つに別れてしまう」という考えが無かった為になかなか「発見」が出来ませんでした。
#しかも、フェルミは誤って「新元素を発見した」という報告をしています。

 しかし.........1938年12月。ドイツの科学者ハーン(Otto Hahn)と分析化学者シュトラスマン(F.Strassmann)がついにウランに対して中性子を照射した結果、ウランに比べて非常に少ない..........半分ぐらいの質量である、放射性のバリウム(Ba)、ランタン(La)、セリウム(Ce)が生じるということ、つまり「核分裂」という物を発見しました。 そして1939年、これを発表します。
 当時、すでにウランは天然に3種類の異性体が存在することが知られていました。 一つは、もっとも多く、99%以上を占める238U 0.71%しか存在しない235U 更にほとんど存在しないような量の234U.......この3種類が存在することがわかっていました。
 さて、ハーン達は何をしたか...........と、彼らは235Uに対し中性子を照射することで、次の反応式に示される反応を行ったのでした。

235U + 1n(熱中性子) → 93Kr + 142Ba + 31n(速中性子)

(注:「熱中性子」とは、先程記述した「遅い中性子」の事)

 つまり、ウランが文字通り「分裂」し、小さい破片に壊れていくという反応が起こりました。 更にこの反応が起こるときにはばく大なエネルギーを発する事がわかりました。 しかし........一応式には書いているものの、当時は中性子が生じるということはわかっていませんでした。

 さて、実は同時期に色々と調べていたジョリオ・キュリー夫妻でしたが、彼らに先を越されてしまいました。 しかし、この反応を使って........連鎖反応が出来ないか?と考え始め、その研究に着手します。
 条件は簡単。 核分裂時に中性子が出れば? その中性子を未反応のウランに当てれば? そう、連鎖反応が起きるのではないか............
 こうして調べているうちに彼らは、次の事を行いました。 それは、水槽の中心部に中性子線源を起き、その水槽中にウラン溶液とウランを含まない容器を入れ、そしてそれぞれの場合において容器の周辺で発生する中性子の強さを比較しました。 すると.........ウラン溶液の方が明らかに中性子が増え、核分裂の際に中性子が二次的に放出される..........という事がわかり、これを1939年、ネイチャーに発表しました。
 最終的に、同年には世界から計100編以上の核分裂に関する論文が発表。そしてその中のデータから、一回の核分裂字に放出される中性子の数は2.6(現在では2.4といわれています)という事がわかってきました...........これにより、ウランに中性子を当てて核分裂させることで発生する中性子から、更に核分裂反応が起こる可能性がわかってきました。

 そして、更に........ウランの核分裂のしやすさは、核分裂で生じた高いエネルギーを持つ「速中性子」よりも、他の原子にぶつかって徐々にエネルギーが低くなった「熱中性子」の方が400倍もし易いという事が分かり、そして天然に多く存在する238Uよりも、235Uの方が核分裂を起こしやすい......という事がわかりました。
 そして1940年...........シーボーグ(Glenn Theodore Seaborg)により造られた超ウラン元素「プルトニウム」(Pu:原子番号94)の同位体の一つ239Puも核分裂をすることが予言されました.............


 さて、こうして少なくとも核分裂の連鎖反応の可能性が出てきた以上、それを実際に行わせてみようとするわけですが..............ここで問題が出てきます。
 連鎖反応を起こさせるためには、少なくとも核分裂によって生じた中性子を、「効果的に」ウランに吸収させる必要があります。そのためには.........核分裂を起こす235Uの純度を一定以上..........いわゆる「臨界値」以上に高める必要があります。 そうしないと、うまく連鎖反応を起こすことが出来ずに終わってしまいます。
 核分裂の連鎖反応の研究は当時主立った国で行われ、フランス、アメリカ、ドイツ、イギリスでほぼ同時に開始しましたが、全くうまくいかない........そして、各国ともこの連鎖反応の実現のために考えたのは、二つの道.............天然に1%もない235Uの同位体を分離させ、そして速中性子を使って短時間に連鎖反応を行わせる...........「核兵器」の製造と、天然のウランを使ってこれに「減速材」を用いて速中性子を熱中性子にして反応させる..........「原子炉」の二つの道をたどることとなります。
 また、このころにはすでにプルトニウムの化学的特性から、ウランよりも分離が容易なために、これを用いた核分裂の連鎖反応の思想も出来ていました。

 さて、そうこうしているうちにヨーロッパは本格的に戦争に突入し、いよいよ核連鎖反応の研究........つまり、原爆の研究が進み始めます。
 こうしている中、フェルミはある方法を見つけます........これはウランを中性子の減速材と混ぜるよりも、ウランの固まりと減速材とをそれぞれ別にすることがより効率的であるという事でした。そして更に.......238Uはある一定以下のエネルギーになった中性子を吸収.......「無駄食い」することが判明。 これにより、天然ウランによる核兵器の開発は不可能ということが示されました。
 また、中性子の減速材として使用可能とされていた水が、中性子を吸収してしまう事が判明.........理想的な核分裂反応には不向きという事がわかり、アメリカはグラファイトを使った減速材を、そしてドイツは重水を減速材として用いることになりました。
#現在でも、この二種類は減速材として使用されています。

 尚、余談ですが、ドイツは当時世界で唯一の重水工場のあったノルウェーを占領。これにより実験原子炉の開発に拍車がかかるのですが、1941年に、イギリスのスパイの情報提供により連合軍が重水工場を爆撃し、開発を止めてしまうという話があります。

 さて、第二次世界大戦が段々泥沼になるなか、1942年に原爆開発に関する米英秘密協定が結ばれ、いよいよこの核分裂反応をつかった原爆の研究が開始になります。 これが通称「マンハッタン計画」のスタートとなります。 これにより、235Uと、239Puを使った原爆製造計画が開始となります。

 1942年12月。 フェルミ達はシカゴ大学校庭に世界で初めての原子炉「シカゴパイル一型(CP-1)」を完成。 ついに核分裂の連鎖反応の制御の第一歩を踏み出すこととなります。
#このときに有名な逸話として、成功の連絡に、「イタリアの航海者が新大陸に上陸した」という暗号をつかったという話があります。

 この成功を機に、更にワシントン州ハンフォードの砂漠地帯に大型の原子炉の建造に着手、 そして、天然ウランに中性子を当ててプルトニウムを製造に成功します。
 これは「使い道のない」238Uに中性子を当てることで作り出す方法で、次の式で表します。

238U + 1n → (239U) → 239Np + β

239Np → 239Pu +β


 つまり......原子炉で生じる中性子を238Uに当てることにより、プルトニウムの生成を行ったのでした。

 こうしてさらに純粋なプルトニウムの抽出する技術も開発。 さらに235Uの分離をテネシー州オークリッジで行います。
 そして、1945年6月。 原爆2発分のプルトニウムと、1発分の235Uの濃縮に成功。 原爆を開発し、そしてプルトニウム型の1発を用いてニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠で史上初めて原爆を爆発させることに成功します。
 同年7月16日。ウラン原爆Mk.1「リトルボーイ」、プルトニウム原爆Mk3「ファットマン」が完成。 8月上旬に日本の上にこれが落とされることとなります。


 こうして、終戦を迎えてから、一方ではエネルギー供給の為に原発をつくり、そしてもう一方では国家の示威を示すために核兵器を造っていくこととなるのですが............

 長くなりました。 次回に肝腎の原発のシステムの話をしましょう。




 さて.......長くなってしまった.......(~_~;;

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 最初は一気に原爆の話から初めて原発にしようと思ったんですけど、折角ですのでそこに至るまでの道を書いてみました。
 めちゃめちゃ長くなってしまったのは反省しています.........(_ _;;;

 さて、それでは今回はこれまでです。次回はしっかりと原発のシステムと、原爆のシステムの話をしたいと思います。

 御感想、お待ちしています...........m(__)m

(1999/07/22記述)


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