からむこらむ
〜その208:白いペストの制圧と復活の陰〜
まず最初に......
こんにちは。9月も半ばとなりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
9月とは思えぬ残暑となっていますけどね......えぇ、体調にはくれぐれも気をつけたいものですが。
さて、そう言うことで今回の話ですが。
え〜、前回までの2回で結核と言うものについてとその治療方法や治療薬の探索について触れ、そしてストレプトマイシンの話までしましたが。ひとまず、「それで終わり」ではなくて、その他の薬剤などもありますし、また現在についても触れないといけないでしょう。
そう言う事で、今回はそう言った事について触れようと思います。
それでは「白いペストの制圧と復活の陰」の始まり始まり...........
前回までは結核治療の推移と治療薬としてストレプトマイシンを紹介しましたが。
さて、人類はストレプトマイシンと言う、結核に対して非常に強力な武器を手に入れた後にも更に武器を手に入れる事になります。
一般にはあまり馴染みがないかもしれませんが、サリチル酸という化合物があります。これは高校の有機化学なんかで出るかもしれませんが.......いわゆる「アスピリン」であるアセチルサリチル酸の原料で、また消炎作用のあるサリチル酸メチルの原料にもなる物質です。まぁ、有機化学の基礎的なところで出てくる物質で、コルベ-シュミット法なんて合成法なんかが出てくるのは化学系の学生さんは知っているのは当然だと思いますが........
#分からない化学系の学生さんは参考書を見ましょう。
このサリチル酸は防腐作用がありまして、実際過去に日本において清酒の防腐剤として添加されています(1969年に使用禁止)。が、ここではそれ以前の結核との話に注目しますと、ストレプトマイシンの少し前にスウェーデンの科学者レーマン(Orla Lehmann)がこのサリチル酸に着目していました。理由はサリチル酸が結核菌の増殖を手伝う事を発見していたからでして.......
さて、レーマンはこれを受けてこう考えました。
それは「サリチル酸が結核菌の増殖を手伝うなら、それに似たものを作ってやればもしかしたら結核菌の増殖を抑えるかもしれない」と言うものでした。これは非常に良いアイデアでして、実際に現在でもそう言う薬剤は多く存在しています(例えばエイズを抑える薬剤AZTはDNAやRNAの塩基であるチミジンのアナログ(類似化合物)で、これでHIVの情報伝達を狂わせるし、後述のサルファ剤も生体必須成分と構造が似ているために生体の撹乱をさせる)。その考えから彼はサリチル酸に手を加え、あれこれと合成を始め、そしてテストが繰り返されます。
この研究は報われまして、最終的に1943年にパラアミノサリチル酸(p-aminosalicylic acid)、略して「PAS(パス)」が有効である事が判明します。パスは低濃度では多くの細菌に対して有効性を持たないものの、結核菌に対してのみに強力に作用し、中でも肺結核、咽頭結核、腸結核に有効であることが分かりました。1946年、レーマンはこの臨床効果を発表し、PASは有名になります。
やがてこのPASはカルシウム塩として用いられるようになります。しかし経口ではそれ程作用が強いわけでなく、日に10g以上の服用が必要でした。更に大量に服用する事で副作用として悪心や下痢、嘔吐が起きまして、単独での服用はあまり効果を生まないものと判断されます。
しかし、ちょうどこの頃にストレプトマイシンが登場したのはPASにとっては幸いでした。というのも、二剤併用と言う形で利用されたからでして、両者で結核治療に大いに活躍する事となります。
そして更にもう一つ、どちらかと言うとPASよりこちらが有名になるのですが、有用な薬剤が見つかります。
ペニシリンの登場まで基本的に感染症に対抗する抗菌作用を持つ薬剤としては、スルファニルアミドを中心とする関連化合物、いわゆる「サルファ剤」と言うものがありました。これはドイツで研究・開発されたもので、染料より生まれた薬剤であり、最初の化学治療剤として登場・活躍をします。そして抗生物質登場以前は非常に良く用いられていました。
さて、このサルファ剤にも結核菌にも有効なものは無いかと当然考えられることとなります。
これに取り組んだ研究者は大分いたようで、中でもサルファ剤の元となる「プロントジル」を開発し、その有用性を実証した研究者ゲルハルト・ドーマク(Gerhart Domagk:ドマーク、ドマクと言う資料もあります)もこれに挑んでいました。これは報われまして、終戦後の1946年、試験管の中で結核菌の増殖を抑える物質を見つけた事を発表します。
この発表を製薬会社は大いに注目します。米独の製薬会社がこの研究を進め、そして最終的に「イソニコチン酸ヒドラジド」、いわゆる「イソニアジド(isoniazid)」が発明されます。これは1951年の臨床実験で大きな成果を示し、そして翌年には一般に登場する事となりました。
イソニアジドは非常に優れた薬剤でして、僅かに苦味があるものの経口投与が可能であり、しかも1日に数百ミリグラム程度の投与でよく、更に副作用がそれ程ない(全く無いわけではない)事が判明しました。
そして、これはストレプトマイシンやPASと並び.......いや最も優れた結核治療薬として活躍する事となります。
尚、イソニアジドの作用機構も分かっていまして、結核菌の細胞壁の合成阻害となっています。もっともペニシリンのような方法とは異なり、結核菌の細胞壁の構成成分であるミコール酸の生合成の阻害となっています。
さて、この三つの薬剤が登場した事で、戦後の結核事情に極めて大きな変化が訪れます。
それまで気胸と成形の二つが基本であった結核治療は、この三剤を併用した化学療法と、更に安全性が高まることで行われるようになった肺切除(余談ながら俳優故渥美清は、結核で右肺を切除しています)の二つへと変化します。この効果は絶大で、結核による死亡率だけでなく、結核の再発率を著しく下げる(これは結核の性質上極めて重要)事に成功します。
三剤の併用はメリットがありました。それは例えばストレプトマイシン単独の大量使用による副作用を抑える事に有効でしたし、またPASの単独使用による副作用やPAS単体による弱さを補える、と言った側面がありました。更に耐性菌の発達も抑える事が出来る。これは重要なメリットだったと言えます。
などと書いても、この変化がどれだけ凄いものであるかが分かりにくいと思いますが。
化学療法の無い時代、痰の塗抹標本で結核菌陽性の患者(つまり、痰に結核菌がある=結核菌保持者)は2年間で約半数が死亡し、1/4は慢性化、1/4が自然治癒していました。慢性化すれば高率で死に至るわけですので、これを考えるとかなりの割合が死亡することが分かるでしょう。しかし、化学療法の登場と薬の処方が強化されると、肺結核の大半が治る様になります(もっとも、溶かされた肺胞などは自然治癒はしませんが)。当然死ぬ人もいましたが、しかし全体的な悪化は以前より減る(具体的データは後述)わけですので、全体的には極めて状況が改善する事となります。
ただ、この三剤だけが使われたわけではありません。
実際には様々な薬剤の使用・研究が行われまして、後にピラジナミド、エチオナミド、カナマイシン、エタンブトールと言う様な薬剤が登場し、これらの薬剤は現在においても結核治療に用いられていきます。同時に作用の弱いPASはあまり使われなくなり1950年代でひとまず役割を終える事となりました。
ちなみに、そんな研究の中から生まれた薬剤に「イプロニアジド」もありました.......これを覚えている方はいらっしゃるでしょうかね? イプロニアジドは1950年代に登場し、MAO阻害薬としてうつ病の初期に期待された薬剤です(その156、その157)。過去にも書いたように、その大元は結核治療薬だったのですが......構造を見れば分かりますが、これはイソニアジドの構造に手を加えて出来たものです。ま、もっともこれは結核治療薬としては使えなかった訳ですがね。
このようにいくつもの薬剤が開発されて、その中のいくつかが世の中に登場していくのですが.......
しかしやがて化学療法は限界を見せ始めます。もちろん過去に比べれば圧倒的なまでの治療効果が得られるのですが、しかし一定以上の効果は見込めるものの「後一つ」、例えば効果や再発率と言う点で微妙なものもある。
こう言ったこともあって新規の、より強力な薬剤の登場が求められるようになります。
その期待に応える薬剤は、1966年に登場する事となります。
1959〜1960年頃、放線菌Streptomyces mediterranei、後にNocardia mediterraneiに分類され直される菌より得られた抗生物質に「リファマイシンB(rifamycin B)」がありました。これはグラム陽性菌や抗酸性菌(結核菌は抗酸性菌)に抗菌力を示す一方、ほ乳類に対する毒性が低い事が分かりました。
専門的ながら、リファマイシンはナフタレノイド系アンサマイシンに分類される化合物で、上の通りリファマイシンもBからOへ、OからSへ誘導が出来ます。リファマイシン類の立体構造を含めた全化学構造が判明したのは1973〜74年頃となっており、生合成経路も大体分かっています。
このリファマイシンSに手を加える(専門注:アスコルビン酸で還元)と、リファマイシンSVという物質になり、さらにこれに手を加えた(専門注:リファマイシンSVの3位をホルミル化し、1-アミノ-4-メチルピペラジンを結合)物にリファンピシン(rifampicin)と言うものが出来ます。この半合成抗生物質は1966年に登場するのですが、これが調査の結果イソニアジドと同等の殺菌力を持つ事が判明します。
これは限界を見せ始めていた結核の化学療法に対してブレイクスルーとなります。
事実、この発見後にデビューしたリファンピシンは、イソニアジドとともに極めて強力な武器となり、この二剤を軸として治療が進むようになります。これは当然それなりの根拠がありまして、この二剤の併用で体内の結核菌のほとんどを殺す事が可能で、極めて大きな治療効果を出す事が出来ました。事実、これを証明するデータとして1975年にイソニアジド、リファンピシン、ストレプトマイシンの三剤の短期間の投与で結核菌が陰性化し、更に再発率が2%以下にまで抑え込むと言う非常に良好なデータを示す事となります。
さて、このようにして戦後に治療法が変わると、結核の死亡率なども大きく変化しました。
前々回にもある程度触れていますが、日本では終戦後の1947(昭和18)年に10万人辺り187.2人(計146,421人)を示していた結核の死者数は1950年に146.4人(121,769人)、そして化学療法が本格的に行われた結果、その5年後の1955年には52.3人(46,735人)と約1/3へ急減します。そして1951年には死亡原因は脳血管疾患がトップに代わります。
それ以降も結核による死者は減り続け、1975年にはついに10万人辺り9.5人と10人を切り、人数としても10,567人に。1999年には結核による死者は2930人へと激減しました。これは同年のガンによる死者(295,484人)の約1/100にしかすぎません。
日本における結核死亡者の推移
年代 | 結核の死亡者 | 人口10万人辺り | 総死者数 |
1900 | 71,771 | 163.7 | 910,744 |
1910 | 113,203 | 230.2 | 1,064,234 |
1920 | 125,165 | 223.7 | 1,422,096 |
1930 | 119,635 | 185.6 | 1,170,867 |
1943 | 171,473 | 212.9 | 1,219,073 |
1947 | 146,241 | 235.3 | 1,138,238 |
1950 | 121,769 | 146.4 | 904,876 |
1955 | 46,735 | 52.3 | 693,523 |
1960 | 31,959 | 34.2 | 706,599 |
1965 | 22,366 | 22.8 | 700,438 |
1970 | 15,899 | 15.4 | 712,962 |
1975 | 10,567 | 9.5 | 702,275 |
1980 | 6,439 | 5.5 | 722,801 |
1990 | 3,664 | 3.0 | 820,305 |
1995 | 3,178 | 2.6 | 922,139 |
1999 | 2,930 | 2.3 | 982,020 |
2000 | 2,656 | 2.1 | 961,653 |
厚生労働省「人口動態統計」による
以上にある程度の動向のデータを載せておきます。
死者の推移をみれば著しくその数が減少した事が分かると思います。実際、わずか50年でその死者が約1/50へと減少した病気は結核しかありません。いかに死者が過去に多く、そして化学療法などの成果が大きいかが分かるでしょう。
事実、結核は「制圧された」物と扱われる事となります。
欧米諸国でも同じように、治療法の変化によって結核による死者が激減しました。
ただ、これは少し注意が必要でして、単純に「薬剤などのおかげ」だけとは言い切れない事情があります。これは前にも書いた通り、結核は産業革命に伴う産業構造の変化の時に急増し、そしてその後繁栄が続くと減りました。実際、ストレプトマイシンが活躍する頃には既に欧米では結核による死亡率が減少していたと言うデータがあります。
もっとも、これら薬剤による予防、治療が進んだわけですし、決して無駄ではなかった事は認識しておく必要がありますが。
尚、余談ながら管理人が所属していた研究室の教授も過去に結核にかかったそうで。
この教授の場合は、研究室にベッド持ち込んで、休み休みやっていたそうですがね.......科学者の執念と言うか。横になりながら天井を見、そこに化学式が浮き上がって云々、と言う話を聞いた記憶があります。
ま、この教授も化学療法によって命が救われたわけで、やはり大きな恩恵を受けたと言えますが。
そして「サナトリウム」も結核治療薬の活躍とともに大きく変化します。
戦後日本でみますと、戦後に国立の療養所としてあった傷痍軍人療養所全50カ所(うち結核は36)と日本医療団所属の95の結核療養所は1947年までに厚生省に移管されることになるのですが、時間の推移とともに結核療養所は減少します。これは療養所の規定等があれこれ法的な意味でかわったり、呼称が「療養所」から「病院」に変更されたり、また結核を「療養所」より「病院」で扱う比率が増えるなどして色々とあるのですが........1960年には結核患者の減少は大きく影響したようで「結核療養所」は減っていきます。また、重症心身障害児、筋委縮症児、小児慢性疾患児、そしてリハビリテーションなどが「療養所」の対象となっていくと、更に加速度的に結核療養所の比率は減少をします。
このように「結核療養所」=「サナトリウム」と言った部分は消えていく事となります。
尚、現状では2000年のデータで結核療養所の総数は3しかありません。大体は病院に移ってしまっていますが、その病床数も医療施設の病床総数1,864,178に比して結核の病床数は22,631と約1.2%程度です。感染症病床の2,396よりは多いですが、精神病床の358,153より遥に少ない物となっています。それだけ結核と言うものが駆逐されたと言えるでしょう。
ちなみに、現在「サナトリウム」で検索などをすると「結核療養所」と言う観点のものはほぼなく、リハビリテーションなどに重点が置かれたものが多いようです。時代の変化、と言う事でしょうけど。
この現状を昔の人が見たらどう思うのか。非常に興味がありますけどね。
さて、ではこれで結核はもう過去のものなのか?
実際にはそうではありません。日本では少なくとも「過去の病」と言う認識がありますが、しかし過去のものとして葬るにはまだ早い現状があります。
今まではあくまでも「死亡率」と言う点で触れていましたが、実際には1997年より結核の新規の登録患者数と罹患率が増加に転じています。つまり「死なない」けど「結核にかかっている」人が増えていると言う事です。場合によっては再発の可能性も十分にある.......これは深刻な問題でして、記憶にある人もいるかと思いますが、特に1999年夏頃に社会問題となって政府より「結核非常事態宣言」が出されるに至ります。
これは理由がありまして、一つは何度も書いていますが「薬剤耐性」の問題、つまり「薬剤耐性結核菌」が、しかも多剤に耐性を持つものが登場している事があります。他にも不法就労者(彼らは病院へ簡単に行けない)や院内感染の増加が指摘されています。更に結核が「過去のもの」になってしまったために、特に若い医師が結核と風邪の区別が出来なかった事も問題にあがっています。これに付け加えるならば、今の人が「結核の恐ろしさ」を知らない故にまた問題を起こしているかもしれません。
この中でも薬剤耐性菌の存在はやはり厄介なものでして、このまん延はすなわち化学療法の効果を無くしてしまう事から、丸々同じでないにしても、過去のような苦しい状況に追いやられる可能性を示すこととなります。更にこれは何度も触れていますし、また結核だけの話ではないですけれども、この都市化と高い人口密度は結核の感染を爆発的に増やす要因になりますので、非常に警戒する必要があると思われますが。
更に産業の転換期に結核が増えると書きましたけど。
全世界的に見ると、先進国と呼ばれる地域での結核の死亡率は低くなっていますが、しかし発展途上国と呼ばれる地域においては依然結核の死亡率が高く、また今後工業化が進むと先進各国で見られた光景がこう言った国で見られる可能性が高く、実際に指摘されています。
人や物の流通が非常に活発な現代において、このリスクは無視できないものであると言えるでしょう。事実、毎年10億人が結核に感染しており、160万人程が死亡していると推測されているようです。
また、最近のインドでの研究ではこの国で結核で死ぬ人は毎年約40万人おり、その調査から喫煙が結核症になるリスクを4倍に増大させるらしいと言う研究もあるようです。これは喫煙によって休止状態にある結核菌が、症状の進んだ肺感染に進行しやすくなるためと言われています。そして、その結果結核による死者が2倍になると考えられています。
こう言った諸問題を見ると、全世界的にはもちろん、日本など先進諸国でもどうなるのかと言う不安はあります。
今でこそ「過去のもの」だった病気が、現在に復活する可能性と言うものはまだ分かりません。しかし、様々な研究やデータが今後の結核感染者の増加やその可能性を示しています。特に薬剤耐性菌の問題は、他の菌における問題とあわせて非常に厄介なものとなる事が予想されています。
「過去のもの」が「現在」に現れ、そして薬が効かない。
その時、また同じ様な事が繰り返されるのかは分かりませんが........とにかく油断はしない方が良いようです。もちろん、悲劇が繰り返されない事を願いますがね。
さて、以上長くなりましたが結核とそれにまつわる話でした。
この話はこれで以上、と言う事にしましょう.........
ふぅ...........
さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
ま、以上3回にわたって結核に付いて触れましたが。まぁ、大体重要な部分は触れる事が出来たのではないかと思います。まぁ、本当に死者が多い病気でしたので、色々と個別に触れるとそれはそれで、となるのですが。まぁ、そこら辺は興味を持った方が独自で、と思いますけど。
ま、とにかく本当に深刻な病気がいかにして克服され、そしてまた復活の可能性が出て問題になっているのか?
色々と考えていってもらえれば、と思います。少なくとも、個人的にはまた過去の規模でないにしても問題化するのではないかと思いますので。えぇ、皆さんも気をつけましょうね........
さて、そういうことで一つ終わりですが。え〜、また仕事もろもろで次回は未定です(^^;
ま、ゆっくり待ってもらえればなぁ、と思いますがね。
そう言うことで、今回は以上です。
御感想、お待ちしていますm(__)m
次回をお楽しみに.......
(2003/09/15公開)
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