からむこらむ
〜その212:バラの花輪と黒い死〜


まず最初に......

 こんにちは。8月となりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 え〜......と言う事で、約半年ぶりの更新となります(^^; ま、仕事が入ってきてクソ忙しいのでやっとこさ、と言う事になったんですが(^^; えぇ、忘れていませんよ?

 さて、そういう事で久しぶりのお話ですが。
 今回も歴史に絡む話をしてみようかと思います。今まで人類が戦ってきた中で非常に有名であり、そして既に「過去のもの」となった病気が存在していますが。それについて触れてみようかと思います。
 ま、関係する書物は非常にたくさんあるのですが、しかし大半は「歴史的な」話の上、更に今となっては実は「診察した事が無い医者」が多い病気でもありますので。
 それでは「バラの花輪と黒い死」の始まり始まり...........



Ring-a-ring o' roses,
A pocket full of posies,
A-tishoo! A-tishoo!
We all fall down.
   バラの花輪を作りましょう
ポケットは花束で一杯
ハックション! ハックション!
みんな倒れよう
("Ring-a-ring o'roses" /『Mother Goose』より)




 今まで人類は数多くの病気と戦い、克服してきました。
 その歴史はまさに「存亡を賭けた」戦いが(誇大表現ではなく)存在しています。そして、数多くの犠牲者の上に人々は数多の病気の克服法を探し、そして見つけてきました。そのいくつかは今もって戦いが続いていますが、しかし中には完全に過去のものにしていった病気もあります......復活しつつある病気もありますがね。
 ところで、もし皆さんが中世ヨーロッパにおける、病気による最大の「災厄」とは何か、と聞かれたらなんと答えるでしょうか?
 歴史を知っている方は色々と挙げられるかと思いますが。その代表格として挙げられるものとしてはいわゆる「ペスト」、つまり「黒死病」があると思われます。欧州での人口を激減させたこの災厄は、一度ならず何度も流行していることが記録されていますが、しかし現代では「歴史的」扱いで済んでいる病気です。ですので、意外とこの病気が「どういう病気であるか」と言われると、おそらく医者であってもよく知らない、少なくとも診察した事のある医者は日本ではあまりいないでしょう。
 今回は歴史に残り、そして克服していったこの病気について触れようと思います。


 最初にペストと言う病気について触れておきましょうか。
 この病気、名前だけは有名な割にその症状については「過去の病気」と言う事か、実はあまり知らない人が多いようです。この病気はペスト菌(Yersinia pestis)による感染症でして、元々は中央アジアの風土病で齧歯類の病気であったと言われています。主に齧歯類を宿主とし、そしてヒトも宿主とするノミによって媒介され、これがヒトを噛んで血液中にペスト菌を流し込む事でヒトへの感染が起こります。このノミはケオプスネズミノミ(Xenopsylla cheopis)といったものが代表格として知られていますが、他のノミでも媒介する事があります。
 このノミの宿主となる齧歯類は特にネズミでして、アレチネズミやクマネズミと言ったものがよく知られています。もっとも、アレチネズミはヒトとの生活圏内にあまり重ならないようで、クマネズミとアレチネズミの間でノミがペストを媒介し、そしてヒトの生活圏に住むクマネズミがヒトへの感染源となるパターンが多いようです。もっとも齧歯類も幅広く、リスやプレーリードッグなども宿主となる事が知られています。
 ペスト菌に対する感受性は動物によって千差万別で、プレーリードッグなどは非常に高い事が知られています。その他、ネコやヒトが感受性が高い動物としてよく知られています。

 ではペスト菌が人に感染するとどうなるか? ペストは通常三種類に分かれる事が知られています。
 一つは「肺ペスト」と言うもので、これは後述する腺ペストとは違い鼠蹊部や腋の下などのリンパ腺が腫れる事はあまり見られないものの、しかし喀血、血痰と言った肺炎の症状が特徴となっています。このペストは呼吸器性のもので飛沫感染となっています。肺ペストは腺ペストよりも発生率が低いものの、重い肺炎症状のために死亡率が高く、2〜3日で死亡するのが特徴です。
 もう一つは「敗血症ペスト」でして、全体の1割を占めるペストです。経皮感染で体内に侵入し、局所的な症状がなく、リンパあるいは血液を介して全身に広がり、敗血症を起こすと言うペストです。これは2〜3日で死亡する事が知られています。
 これに対し、一般的に多いのは「腺ペスト」と呼ばれるペストで、ヒトで発生するペストの8〜9割がこのペストです。
 このペストは主にペスト菌を持つノミにさされる事によって感染し(感染したヒト・動物の糞などの接触で、傷口から感染ということもまれに起こる)、潜伏期間は数日〜1週間程度。病気は突然の39度以上の高熱で始まり、頭痛は酷く、やがて脳神経系を冒し、随意筋のマヒによってひきつけや硬直、しゃっくりといった症状を引き起こします。精神的な負担もかなり大きいとされ、症状が酷くなると錯乱状態で暴れ出すと言う事もあります。また名の由来となる通り、鼠蹊部や腋の下のリンパ腺でペスト菌が急増し、やがてリンパ腺を破壊して腫瘍を起こして様々な大きさ(クルミ程度からアヒルの卵大)で腫れ上がると言う特徴があります。この腫瘍は硬くなり、化膿して膿が出にくくなります。中世の記録では、自然に膿が出てくると生き延びる事が多いとされています。
 病気は発症して三日目頃に全身の皮膚に出血性の黒、あるいは鉛色の斑点(紫斑)や小型の膿疱が現れ、この時点が生死の分かれ目となるようです。この紫斑は大きさも数も人によって違うようですが、ここを乗りきれないと全身にペスト菌が回って敗血症を起こし、数日以内にその半数が死亡します。
 この時の皮膚に出来る黒い斑点は全身に広まって癒合し、全身が黒くなる為にペストは「黒死病」と呼ばれる事になります。その死亡率は時代や状況により大きく異なりますが、過去の流行においては大体30〜40%と考えられており、高い感染力と高い死亡率から非常に恐れられる事となります。
 ヒトからヒトへは、ペストにかかった患者の血痰や飛沫を吸い込んで感染する事となります。


 ところで、皆さんは「ペスト」とよく言いますが、この言葉の意味というか、使い方をちゃんと考えた事はあるでしょうか?
 スペルを書いてください、と言えばおそらくは単純に「pest」と書けるかと思います。しかし、英和辞書などを引いてみれば「pest」では「害虫」「害獣」の意味(よって英語「pesticide(pest + -cide(殺す))」は一般に「殺虫剤」を意味する)や「厄介者」といった意味が出てくると思います。そして、そのあとに「古語」として「悪疫」を、そしていわゆる「ペスト」を意味すると思います。
 実際のところ、これを調べてみると「ペスト」はいわゆる日本で普通に言う「ペスト」を明確にさすと言う事でも無さそうで、「悪疫」全般をさすようであり、またいわゆる「ペスト」たる「黒死病」の由来である"black death"や"the black plague"、単純に"the pest"と定冠詞を加えたりとするようです。他に"plague"(ラテン語で「打撃」を意味:天からの打撃を意味するらしい)がペストを意味したりと、なんとも幅の広いもののように見えます。
 なお、WHOでは病名としては"plague"を用いているようで、これが英語では普通に用いられているようです。ここでは特に注意を加えない限りは「ペスト」で統一しておこうかと思います。
#なお、"prague"にするとチェコの「プラハ」になりますので御注意を。


 ペストの歴史は大分古いと考えられています。
 もっとも、古代の記録では単に「悪疫(=ペスト)」とだけしか記録されていない事が多く、実際にいわゆる「ペスト(=黒死病)」が流行ったのかどうかは明確な記録がありません。つまり悪性の「何かの流行り病」でも「悪疫」と言う言葉で表されてしまい、その正確な正体が分かりにくいケースが多くなっている......例えば「悪疫」と書かれているものが、実際には天然痘(恐ろしい病気です)だったり、あるいはチフスの可能性もありますし、また過去に触れた麦角の可能性もある。
 そのような資料の中で「おそらくは」最初の「ペスト(=黒死病)」の流行の記録と考えられているのは聖書の『サミュエル書』と考えられているようで、紀元前11世紀頃と推測される頃にパレスチナ地方で始まり、死海やエルサレムの辺りにまで流行した病の様子が残されています。
 もちろん、それが本当にペストであったか真相は不明ですが。
 もう少し確実な記録は紀元前3世紀頃から、エジプト〜中東の辺りで小規模な流行を繰り返していたらしい事が知られています。特に1世紀頃には比較的正確なペストの特徴を残した記録がされているため、その頃にはほぼ確実にペストの発生があったと推測されています。
 詳細な記録は6世紀後半のものが残っており、リグリアと呼ばれた北イタリア地方でのペストの状況をディアコヌスと言う人物が書き残しています。その詳細な記録はかなり詳しく、後世の記録と症状などが一致するなどかなり正確な物となっています。また、この時のペストの流行は時の教皇ペラギウス二世を死に追いやっているのですが、彼はローマ教会の歴史の中に存在する260人以上の教皇の中で唯一ペストに倒れた教皇として記録されています。
 しかしその後約300年間、特にヨーロッパにおいてはペストの流行が起きなくなり、小休止を迎えます。
 ところが11世紀になるとインドを発端にペストが発生し、更にこれに混乱を加えたのが「聖地エルサレムの奪回」、いわゆる数次にわたる十字軍でした。そして、この十字軍は帰路の途上、それまでヨーロッパ内陸部にいなかったクマネズミを船で持ち帰って(もちろん意図はしていませんが)それが土着化し、そして各地でペストの災いを引き起こす事となりました。
 もっとも、ここまでの歴史のなかでペストはまだ、比較的小規模な、地域的な流行をしていたものの、まだ大規模な流行を起こしていません。

 本格的な、そして極めて甚大な被害をもたらすペストの流行はいつか?
 歴史に名を残し、そしてペストを語るのに忘れてはならない大流行は14世紀に発生しています。ですがそれを語る前に、最初に14世紀がどういう時代であったかを触れておきましょう。
 14世紀と言う時代は日本では鎌倉時代の終わりの時期であり、室町時代の混乱期です。一方のヨーロッパではまず教皇庁がローマからフランスのアヴィニョンに移された世に言う「教皇のバビロン捕囚」の時代でして、また各地で十三世紀より発達した農業(いわゆる三圃農業)によって収量が増大し、また都市化が一層進んでいたもののそれが一段落して停滞に入った時代でした。そして中国ではユーラシア大陸をモンゴル帝国、もう少し正確に言えば元が把握していましたが、その勢いも衰えて各地で紛争が発生しています。しかし西はハンガリーにまで至ったこの大帝国は、ユーラシア大陸を横断する巨大な交通網を作り上げていました。
 その一方で、世界各地では干ばつや洪水、地震に蝗による害などの天変地異などに見舞われており、食物連鎖が崩れるなどの影響もあって各所で飢饉が発生し、それが政治の不安定化を引き起こしている地域も存在していました。ヨーロッパでは1299年にロシアで大飢饉が発生し、1333年にはエトナ山が噴火。それ以降トビバッタの襲来に地震、嵐、津波などが襲いかかり、繰り返し飢饉に見舞われています。

 このような状況の下、1348年にペストはヨーロッパで本格的に流行し、およそ半世紀にわたり席巻する事となります。
 原発地は1330年代の中国とも中央アジアとも(エチオピアと言う話もあるようですが疑問が多い)言われています。正確な「最初」の記録は不明ですが、おそらくおりからの天変地異が食物連鎖に影響を与えた結果、食料を求めてネズミが元帝国の整えた交通網を通って移動することによって拡大し(これにより、「シルクロード」が「ペストロード」へと変わったと考えられている)、1347年には既にコンスタンティノポリス(コンスタンチノープル:現イスタンブール)に到達、更にキプロスやコルシカなど地中海の諸都市、そしてマルセイユ、ベネチアなどの港町で発生が始まります。
 もっとも、このルートは単に一つではなかく枝分かれなどをしているようで、例えば1347年にクリミア半島の植民市カッファ(現フェオドシア)においてジョノバ商人たちがキリスト教軍と共にタタール軍に包囲を受けていた時、タタール軍はペストで死んだ仲間の死体をカタパルト(大きな石を投げる攻城兵器の一つ)で「キリスト教徒に害毒を!」と叫びながらカッファ市内に投げ込み、その為に防衛に成功したもののカッファ防衛軍が戦争後、帰還途中の海上でペストで死亡し、生き延びた者もクマネズミとともにイタリアに戻る、と言ったケースがあり、そういった事もペストを助長したと考えられます。
 更に同年10月にはシチリア島のメッシナに到着した12隻のガレー船から黒死病が発生し、それがヨーロッパ中に広がったと言う話もあります。この為ジェノバは自国のガレー船の接岸を禁止し、貴重な商品と病人や死人、そしてクマネズミを積んだ船が地中海一帯をさまよって「幽霊船」と化し、これがまたペストをまき散らしたと言う見方もあるようです。
 そして1348年1月、時の教皇クレメンス6世のいるフランスのアヴィニョンでペストが発生したのを皮切りにヨーロッパで爆発的に各地に広まり、4月にはフィレンツェ、11月にロンドンへ、そして1349年11月に北欧とポーランドへ到達し、1351年にロシアで発生する事となります。
 飢饉などの事情も手伝い、わずか3年(今とは人や物の流通量が違うのに注意)でヨーロッパ全土に広まったペストは人々を恐怖のどん底にたたき落とす事になりました。

 流行の様子はどうだったのか?
 たくさんの記録が残っているのですが、基本的にはいずれの報告も共通点の多い、しかも6世紀の記録とも一致しているようです。その記録の代表格は、ジョバンニ・ボッカチオによる、ペスト流行時のフィレンツェで7人の女と3人の男が1日1話ずつ、そして10日間にわたって物語を語る『デカメロン』(十日物語)となっています。
 これらの記録はほぼ正確にペストの症状の様を書き残しています。症状についての記述は正確で、鼠蹊部や腋の下が腫れ上がるといったことや、腫瘍から膿が出れば生き延びる可能性が高くなり、また特に腫れる事も無く全身が黒くなるとまず助からないといったこと。また病気は感染する物であると言う事などの記録がされています(もっとも感染も「目を合わせると感染する」とかそういう記述もありますが)。
 社会の様子はどうか?
 どの記録にも共通して描かれるのは、まずその感染の広がりと高い死亡率、そして医学の無力さでした。例えば村落などで誰かが感染し、上述の症状を発してやがて死ぬ。その後、それを看病していた人々がまとめてペストにかかる......この繰り返しはすさまじく、やがて患者を看る者が無くなるという有り様で、墓地はあっという間に一杯になったなど記録されています。この「患者を看る者が無い」と言うのは二つあったようで、一つは家族が感染するとこれを見捨てて皆逃亡して置き去り(親が子を捨て、子が親を捨てると言う記述が残っています)にされたりするケース。もう一つは皆ペストにやられて看るものがいないといったものでした。あまりにも多い死者の為、当初は丁寧に葬式を執り行っていても間に合わず、やがて葬式は行われなくなり、ついには大きな壕を掘ってそこに死体を投げ込むと言う光景が各地で見られることとなります。
 その結果、畑では農作物ではなく死体が積まれ、あるいは作物が順調に育っても収穫する者も無く、この為に飢饉に拍車をかける事になります。このような状況の下、人の離散、あるいは全滅によって村落が丸ごと消失するなどと言う事も起きており、実際にこのペストの前後の記録で、ペスト後に消失した村落いくつもが存在するなど相当に深刻なものでした。
 都市部もまた酷い有り様で、基本的には村落と同じ様子が見られたと言われています。6世紀の記録になりますが、時の東ローマ帝国の首都ビザンチウム(コンスタンティノポリスの旧称)におけるペスト流行の記録でも死者がおびただしく、日に5000人の死者が出たと記録しています。そして奴隷も市民も皆死に、その内誰もいない家に死体がうち捨てられる様な光景が見られるようになる。この時に皇帝は担当官を任命して国庫から資金を与え、この担当官は自費も加えて土地を確保し、増え続ける死体の埋葬が出来るようにしたとされています。もっとも墓場はすぐ一杯になり、周囲の空いた土地を墓地に充てたものの、更に増え続ける為、ついには大きな壕を掘ってそこに死体を投げ込む事で済ませ、更にはそれでも足りなくなると、城壁の塔の屋根を開けてそこに死体を投げ入れ、いっぱいになったら屋根を閉めると言う事をしたと。
 結局、塔は全て死体で埋まり、そしてそこから出てくる腐臭が風下の地域に流れ出ててかなり不快な状況になったと言われています。
 また、こんな話も残っているようです。
 ペストが始まった時、アヴィニョンではカルメル会の教会が静か過ぎる為、これを怪しんだ人が中を見たところ修道士166人がペストで全滅していたとか。その後も教皇庁の職員の2割がペストで死亡し、逃げ出す高位聖職者はかなりいたとも言われています。もっとも教皇クレメンス6世は最後まで残り、それなりに救済を行うなどしていたようですが。

 一方、患者を治すべき医者も有効な手段は無く、あるものは腫瘍を開くなどするも漿液をあまり含まなかったと言われています。逃げ出す医者も普通にいましたが、懸命に治療に当たった医者もいて、瀉血(当時の一般的な治療法)で吹き出した血を浴びて翌日発症して死亡する医者もいました。もっとも大体は手を出せなかった、と言う状況が多かったようですが。また医療機関としての教会などが治療に当たったケースでも同様で、中には逃げ出す司祭がいた一方、パリでは修道女が看護にあたり、102人中62人がペストで死亡するなどしたようです。

 このような中、『デカメロン』ではペストの状況下での人々の様子を4つに分類しています。
 一つは「禁欲、節制に努める人」。一つは「陽気に、やりたい放題の放埒な生活をする人」。一つは「事態をありのままに受け入れる人」。この人は香りの良い花を携え、そのにおいを嗅いで悪臭をごまかす。そして最後は「逃げ出す人」。
 もっとも、いずれも結末は一緒であったと言われていますが。
 ただ、社会不安はやはり起こるもので、特に社会的弱者に対する激しい攻撃を生み出します。魔女狩りでも見られたいわゆる「集団ヒステリー」なのですが規模が半端ではなく、特にユダヤ人を襲撃する事件が各地で相次ぐ事になります。曰く「ユダヤ人が井戸に蓋をしているのは、ペストの毒を入れられない為であり、我々の(蓋の無い)井戸に連中が毒を入れている」とか(これと同類の事が日本で、関東大震災後に朝鮮人に向けて行われているのを考えると他人事ではない)。これによる死者が、ストラスブールで16,000人を数えるなど各地でゲットーが襲撃されています。これを見かねたクレメンス6世は触れを出すのですが、しかしアヴィニョン以外ではあまり効果は無かったようです。

 では、このような中の死亡率はどうだったのか?
 当時の事情等を考えても正確な数字はありません。記録に残る死者の数も絶対的に正確なものではないので、かなり推測がされているようですが........ただ、島などでは島民の3/4が死んだり、あるいはほぼ全滅と言う所もあったようです。先に書いたように全滅した村も存在しています。ですが交流がかなり少ない所では発生しなかったようなところもあるなど、色々と推測は難しいようですが。
 ひとまず、当時の欧州の人口がおおよそ1億人前後と考えられており、諸説あるのですが14世紀の大流行における全体の死者は全体の約1/4〜1/2と言うデータがあり、最もよく採られる数値は約1/3となっています。この3000万人の死者、と言うのは比率にして凄まじいものである上、数の上でも第1次世界大戦の死者800万人の4倍近くと恐ろしいほどの数字となります。

 このようなおびただしい死者を出した14世紀の流行はやがて収束に向かうもののすぐにぶり返すなどし、数回の流行を繰り返して約半世紀続く事となります。その後、一段落つくと農奴の減少による荘園の解体等社会構造が大きく変動したヨーロッパは一気に再編が加速し、様々な経済や政治等あらゆる面で大きな変化がするなど状況の変化が見られる事となります。そういった動きがやがてルネサンスへと向かう事となるのですが........
 ただ、一段落したと言っても完全に無くならずに「風土病」となって小規模な流行を繰り返します。そして、17世紀には14世紀ほどではないものの、また大流行を引き起こす事となり、それをもって大流行が無くなる事となります。

 なお、冒頭の"Ring-a-ring o'roses" は『マザーグース(Mother Goose)』に収録されている詩の一つです(実際には細部でバリエーションがありますが)。
 この詩、実は17世紀にロンドンでペストが流行していた時の様子であると言う説があります。どういうものかと言うと、「バラ」はペストの感染で生じる赤い発疹(内出血の紫斑)を暗示し、ポケットにはペストに効果のある、あるいは臭い消しの効果があると言う薬草あるいは香草で一杯。そしてくしゃみはペストの典型的症状であり(これで飛沫感染する)、最後の部分は「みんな死んだ」事を意味する。
 なかなか恐ろしい話ですが。
#余談ながら、『マザーグース』は裏の意味が怖い詩が多いとか。
#有名な「ロンドン橋(London Bridge)」に出てくる「My fair lady」がロンドン橋の人柱を意味すると言う説があったりします。


 さて、以上長くなりましたがペストについてと、14世紀の大流行について触れました。
 もう少し民衆の話を触れておきたいものがありますので、次回はその点と、ペストに対しては医学的にどのような対策がとられていったのか、また17世紀の流行の話を若干とペスト菌の発見にまつわる話などついて触れておきたいと思います。

 そういう事で、残りは次回と言う事にしましょう......




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 取りあえず、半年ぶりのネタで少し考えたのですが、やってみたかったのでペストについてを触れてみました。ま、文学にもなっていますので色々と興味のある方はそういう方向で触れるとまた色々と知る事が出来ると思いますが、しかし今現在ではあまり見られない病気です。ま、歴史的に強烈なインパクトを与えた病気でもありますので、触れてみましたが。
 結構、強烈な話が多いんですよね......

 ま、そういう事で次回はこの続きとなりますが。
 次回は残る民衆の話と、医学への話をしていこうかと思います。ま、難しい記号などはでない予定ですので御安心を(笑)

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2004/08/01公開)


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