からむこらむ
〜その96:悪魔の角と聖なる火〜


まず最初に......

 こんにちは。本年も3週間を切りましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 忘年会の上、大分冷え込んでいるせいか風邪が流行っているようです。皆様、くれぐれもお気を付けを.......m(_ _)m
#管理人もぐずぐずやりながらこれを入力しています(爆)

 さて、今回はちょっと歴史の話をしてみようと思います。
 今回は、時節柄という訳ではありませんが、ある聖人の話をしてみたいと思います。とは言っても、それだけでなく古代から最近まで続いた食料に関する災難の話が重要なのですが。まぁ、色々とある話なのですけどね..........
 それでは「悪魔の角と聖なる火」の始まり始まり...........



 さて、本年はキリスト教徒にとっては大きな節目の年、と言うことですが...........
 ま、時節柄というわけではありませんが、最初にある聖人の話........いや、「伝説」でも。

 キリスト教初期の頃の聖人に、聖アンソニー、という人物がいます。ま、「アンソニー」と言うのは英語読みでして、イタリア語では「アントニオ」、フランス語では「アントワーヌ」。ラテン語読みでは「アントニウス」と言うそうですが。まぁ、キリスト教関係のサイトを漁ると「アントニウス」が多いのですが、文献等では比較的「アンソニー」が多いので、ここではアンソニーとしましょう。
 この人物は251年に当時のエジプトのコマ、現在はクマンと呼ばれる土地に生まれます。ちょうどこの時期はキリスト教の大弾圧が始まったころでもありますが........ 両親は上流階級の人物でして、敬けんなキリスト教徒だったと伝えられており、その影響からかアンソニー自身も熱心にキリスト教徒として育てられました。
 しかし、アンソニーが20歳の頃、両親は死に、妹が残されました。ちょうどその頃に色々ときっかけがあったそうでして、妹を預け、自らは苦行の道に入っていった、と言われています。
 彼は苦行者達からアドバイスを受けながら、苦行に身を投じたそうでして、最初は自分の住んでいた村の近所で。その内、苦行の度合いを増すために遠く離れた地下墓地へと修業の場を移し、そこで35歳まで修業したと伝えられます。その修業の間、何度も悪魔が誘惑をしに来ましたが、彼はそれに耐えた、という話がありまして.......これを題材にした「聖アントニウスの誘惑」などという絵画が中世に描かれています。
#管理人は見たことないんですが。
 さて、やがて彼は地下墓地から出て、「神への更なる奉仕」を考えます。そして、砂漠にあるピスピルの山で、無人の荒れ果てた砦を見出し、そこで厳しい修業を開始します。極限的な修業(20年間閉じこもっていたそうで)はその内人々の間で評判となり、自然とこの人物を求めて様々な修行者がこの地を訪れることとなります。彼は乞われてこう言った修行者達に説教を始めます。そうこうしているうちに、この地には多くの修行者が集まることとなり、同時に彼らを収容し修業の場を提供するために、多くの修道院が建てられることとなります。この為に、聖アンソニーは修道主義の創始者と紹介されていますが.........この山の周囲には物すごい数の修道院が建ち並んだそうです。当時のエジプトの人口の半数は修道士、という話もあるそうですが........
 さて、こうして色々と指導的な教育に当たるうち、徐々に自分の時間がなくなったのを嫌った彼は(実は、彼の下に集まった修行者達は、半ば「押しかけ」だったそうで)、コルズム山という場所へ修業の地を移し、ここで死ぬまで修業に入ることとなります。この時、齢すでに60を越えていたそうですが。
 こうして移ったコルズム山で、彼は修業を始めます。この修業の間には多くの「奇跡」を起こしたとされており、特に病人の治療に「奇跡」を起こしたという伝説が残っています。
 そんな彼もやがて、神により死が近いことを伝えられ、二人の高弟(世話などをしていた)を呼びます。そして、自らの遺体を偶像崇拝の対象としないよう、墓を隠すように遺言し、356年に死去したと言われます。
 享年、実に104歳(105歳と言う説もあり)。まぁ、非常に長寿な苦行者であったようですが..........ま、「伝説」ですので、年齢は鵜呑みにしないほうが良いような気もしますけどね。実際、この人物に関する記録は、アタナシオスという司教による、『聖アントニウス伝』というものしか存在していないそうですから。
 しかし、伝説とは言えど彼が存在していたのは確かの様です。実際に561年に墓が見つかりまして(紅海のそばにあったそうで)、彼の望みに反してかは不明ですが、アレクサンドリアなどを経由して、1070年に時の十字軍によってコンスタンチノープルからヨーロッパへと彼の遺品は渡り、最終的にはウィーンに近いフランスのドーフィネという場所に落ち着きます。そこから、1093年に聖アンソニーを祀った教会が始まることとなります。





 さて........皆さんは、「食糧」と言う言葉。御存じでしょうか? 「食料」ではありません。
 これはその28で触れた通り、「米、麦などの加工前の食品のこと」でして、一般に量的に、食料資源として大量にあるものです。日本ではいわゆる「米」がこれに該当する、と言えばピンとくるでしょうか? ヨーロッパなどでは「麦」がこれに当たります。もう少し詳しく言えば、麦は麦でも小麦や大麦、ライ麦、といった物がありますが。ま、これらを使ってヨーロッパではパンなどが作られて、食べられていましたし、現在においても食べられているのは皆さん御存じの通りかと思います。
 とにかくも、こう言ったものが、昔から色々と加工されて食べられていました。
#ちなみに米も麦も「イネ科」植物ですね。

 しかし、こう言った食糧と言ったもの。現在では比較的安定供給されているために気付くことはなかなかありませんが、過去には定期的に襲ってくる天候不順などの為に、大きく不作となることがありました。この点は日本でも同じでして、江戸時代の天明の大飢饉などは極めて多量の史料が残っているために、色々とその凄惨な様子が現在でも伝わってきますが........ もし、このような事態に見舞われれば、当然のことながら飢饉などにもつながり、様々な社会的不安を発生させました。ですので、こう言った食糧の収穫は農民にとっても、国家にとっても一喜一憂の材料となっていました。まぁ、食糧=国力、という図式が成立していましたので、当然ことあれば国が傾く、という意味でもありましたし、また現代みたいに選べる食料は豊富ではありませんでしたから..........
#尚、この図式はある意味現在でも通じるものはあります。

 さて、世界各地でこう言った食料難と言うものには必ず出くわしていまして、日本でもいもち病などと言った稲の病気などには何度も泣かされてきました。当然ヨーロッパでもこういう事態には出くわしていたのですが..........その中でも、特に名を残す麦の病気があります。おそらくヨーロッパにおいてその病気は最も人を殺した病気の一つ、と言っても過言ではない病気なのですが.........
 それは、麦に生える........通称「悪魔の角(爪)」とも呼ばれる物でした。

 さて、この「悪魔の角」。実は非常に古くから記録されており、すでに紀元前600年にはアッシリアの粘土板に「穀物の耳(角)の有害な吹き出物」と警告されています。また、紀元前350年頃のパルシー教徒(ゾロアスター教の一派)は「邪悪なる創造物」と例え、「妊娠した女に流産を引き起こしてお産で死なせてしまう有毒な草」と伝えています。
 しかし、この「悪魔の角」による「明確な症状」については更に後になりまして..........10世紀末に初めて記録されています。

 時は約1000年前。世紀末でもある994年のこと。日本では摂関政治で藤原氏が全盛期を迎える少し前、となるでしょうか。場所はフランスのアキテーヌ盆地、リムザーン地方と呼ばれる場所。ここで起きた「悪魔の角」による被害記録が初めて明確に記録されたものとなっています。
 この時の「悪魔の角」による被害は大きく、フランスでは4万人もの人々が死んだと言われています(当時の人口を考えても非常に甚大な被害)。症状は大変なものでして、「多くの人は身をよじり苦悶し、またある人は悲惨な死を遂げ、その人達の手足は聖なる火によって焼かれ、炭のように黒変した」と記録されています。生き残ったものでも、あるものは精神錯乱となり、あるものは意識不明に。ある妊婦は赤子を死産し、あるものは手足が炭のように黒変し、後にこの黒変した手足を失った者が多かったと記録されています。
 この被害は後に何度も発生し、11、12世紀にもヨーロッパ各地で頻繁に起きています。17世紀には更に詳しい記録があり、それには「人々の上に手や足のけいれん、麻痺として現れる」と記され、「罪がもたらした苦しみ、そして大きな叫び声、悲鳴は吐き気を催させた」「あるものはてんかんを起こし、引きつけた後6〜8時間も死せるもののごとく横たわっていた」と記されています。
 また、新大陸発見後の1691年のアメリカでも発生していまして、「魔法をかけられた」ということになり、裁判にまで発展。告訴した人間は比較的軽度ではあったものの、心身の不調、痙攣性の発作に襲われ、嘔吐、吐き気などに苦しみます。そして、幻覚を見て「皮膚に虫が這うような感覚」に襲われた、といわれています。この裁判の結果、20名前後が魔法を使用したかどで死刑になり、2人が獄中死したと記録が残っています。
 他にも同様の記録はたくさんあるようですが..........

 さて、これらの症状.......先ほど書いた994年の記録に「聖なる火」という表現がありますが、これはキリスト教圏内における人々の想像によって付けられたと言われまして、「犯した罪」に対する「むくい」として課せられた、手足の焼けるような感覚と黒変による「罰」であると考えられました。つまり「神による罪人への罰」ということでして、この事からこの病は「聖火病」とも呼ばれました。
#当時の絵に、この病にやられた人物の手足が「火(=聖火)に包まれている」様子が描かれていたりします。
 さて、こういった「神の罰」から避けるため、人々は教会へと救いを求めることとなります。特に、彼らは数々の病気を「奇跡」によって治療したことから、火災や伝染病、そしててんかんなどから守護してくれると言われる聖人、聖アンソニーに祈りを捧げたと言われます。ある患者や信者はこの聖なる火から身を守るために、故郷を離れ聖地(聖アンソニーのいたエジプトや、アンソニーの遺品のある教会)へと巡礼へ向かいました。そして、面白いことに、実際にある程度の治癒や回復がみられるケースが多かったと言われます。
 もちろん、この「治癒」は「聖アンソニーと教会のおかげ」という考えになるのですが..........
 これに関連しているのでしょうが、アンソニー派の修道会がこの病気への治療に力を入れていた、と言うこともあってか、この「聖火病」は「聖アンソニーの火」とも呼ばれるようになりました。

 では、この穀物に生える「悪魔の角」と「聖アンソニーの火」。これらは果たして何なのか?
 カビの仲間にクラビケプス・プルプレア(Claviceps purpurea)と呼ばれるものがあります。このカビの胞子は昆虫や風によってライ麦の穂状花に運ばれてきます。菌核は土壌の中で越冬し、春に機が熟すと発芽して、ある微細な胞子を放出します。この胞子は熟したライ麦の小穂花の子房に侵入してこれを破壊し、やがてそこから小さな黒ずんだ........「爪」、または「角」と形容されるものを作りだします。これをフランス語では「アルゴウ(argot)」と呼びました。
 この黒い角/爪を「麦角」(ばっかく:ergot)と呼びます(ergotはargotが語源)。また、この麦角を生み出す菌を通称「麦角菌」と呼んでいます。実は、これが「悪魔の角(爪)」の正体であり、古代アッシリア人やパルシー教徒達によって記録された物です。こういった麦角に汚染されたライ麦のパンを食べた人達は.........麦角の持つ成分により「聖火病」、または「聖アンソニーの火」と呼ばれる病=麦角に因る中毒症にやられていったのでした。
 この麦角は、ライ麦の育つところであればどこにでも生えてくるものでして、農夫は長い間、麦角は「麦の病気」程度の認識でした。ですので、農夫は感染した麦は全部抜き取って焼いていたのですが.........しかし、もしこれが確実に実行されているのならば、当然今まで書いたような悲劇は生じません。では、何故起きたか、と言うと?
 まず、ライ麦の量が問題でした。多量のライ麦の中で汚染されたわずかな量の麦角はなかなか見つからない、そう言ったことが原因の一つと言えます。また、飢饉が大きな原因の一つとして常に存在しています。飢饉が起これば当然食糧が無い、と言うことですので麦角にやられたライ麦でさえ食べなければならない、という状況に追いやられます。実際にはこれも大きな原因の一つとなっているようです。ですので、数々の事例の前後の天候(カビの生える環境に絡む)と「聖アンソニーの火」の発生状況には、ある程度の相関関係があると言われています。

 麦角による被害は、基本的には極少量ならばある程度は問題ないものの、汚染されたライ麦を使用したパンを多く食せば、結果的には中毒をしてしまいます。何度も言っている通り「量」が問題になります。
 この麦角による中毒は「麦角中毒」、または「エルゴチン中毒(ergotism)」とも呼ばれます。症状としては、胃腸障害や知覚鈍麻が主な症状ですが、他にも血管を収縮させる作用が強く、手足への血行を妨げて壊疽を起こします。これによって上に書いた様に腕、手、脚、足が「炭のように黒変」してしまい(「聖なる火にやられた」状態)、そしてひどい痛みもなく手足を失いました。また、時として精神に影響を与え、精神に異常をきたすことも知られています。上記の994年の記録における「精神の錯乱」や1691年のアメリカでの「幻覚」はこの一例と考えられます。

 しかし、この「聖アンソニーの火」。上にかいたように聖地への巡礼へ赴くことにより、ある程度の治療効果があったとされています。
 これは上記のことを考えると........? 麦角は天候に影響を受けますので、地域によって発生の格差が存在することが知られています。また、ライ麦の生育地域とも関係してきます(ライ麦への依存度、とみると分かりやすいか?)。では、頻繁に発生する地域の人達が、聖地への巡礼などに赴く、という意味を考えると?
 これは単純なことでして、巡礼に向かうと言うことは、住んでいる地域(=麦角が多い地域)を離れるということです。そうして巡礼先に行けば天候や食習慣の違う地域へと行くことになります。つまり、麦角が生えにくい、または生えない地域へと移動することになります。そこである程度の日々を過ごすこととなりますので..........
 いわゆる、「転地療養」の効果があったと考えられています。そして、それは実際に大きな影響を与えました。

 さて、ではこの「聖アンソニーの火」による被害はいつまで続いたか?
 いつまで続いたかと思いますか? 実は、20世紀中にも起きていまして...........最後に記録された大規模な「聖アンソニーの火」は1926年〜1927年となっています。
 1926年9月〜1927年8月に記録された大規模な「聖アンソニーの火」はロシア地域で発生しました。この地域ではここ3世紀に渡って大規模な被害に遭っていたのですが、この時の記録ではウクライナ地方を中心に特に被害が大きかったと記録されています。記録によれば、ウラルに近いサラポールという土地の付近では、上記の期間の間に人口56万6千人中、1万1319人(人口の約2%に相当)が麦角中毒にかかったと記録されています。
#尚、ウクライナ地方は肥沃な黒土を持ち、大穀倉地帯でもあります。
#土壌学が絡みますけど.......
 もっとも、これ以降、麦角が原因であることが分かったことと、とライ麦の製粉がよくなったことで、現在においては「聖アンソニーの火」は過去のものとなっていますが。


 では、この麦角の中に含まれる、どういった物質がこれらの中毒の原因であるか?
 また、どういう利用法を人類はしてきたのか?

 長く書きましたので、これらは次回に回すこととしましょう。
 そう言うわけで、今回は以上、と言うことで..........




 ふぅ.......っと。

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 今回はその9以来、久しぶりのカビ毒の話となっていますが.........どうでしょう? ま、今回は「聖アンソニーの火」のみに焦点を当てていますので、他の事項は次回以降、と言うことになりますけどね(^^;;
 まぁ、主要食料の汚染とから生まれた悲劇でもあるのですが..........ただ、これを人類は利用もしていますし、原因物質も解明していたりもします。
 そこら辺を次回はやることとしましょう。

 さて、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.............

(2000/12/12記述)


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