からむこらむ
〜その213:memento mori〜


まず最初に......

 こんにちは。夏真っ盛りですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 まぁ、何つぅか。気合い入りませんね、えぇ(^^;

 さて、今回のお話ですが。
 前回はペストについて、その概要と14世紀の流行についてを主眼にして当時の様子について簡単に触れました。ですが、当時の医療などについてなどは詳しく触れていませんし、当時の考えなども触れていません。そういう事で、今回はそういう事について、そして17世紀の大流行と科学の発展の関係、そしてペスト菌の発見や現状について触れておきたいと思います。
 それでは「memento mori」の始まり始まり...........



 さて、前回はペストの概要と14世紀を主眼にした流行について触れました。
 今回は前回触れていないところにも進めていこうと思います。


 ところで、ペストは14世紀当時は何が原因と考えられたか?
 伝染病であると言う認識はあったようですが、問題はその原因論でして極めて非科学的なものが多かったようです。例えば2世紀の著名な医者ガレノスは埋葬されなかった死体より発生する「汚染された空気」(これはマラリアが沼から生じる悪い空気が原因と言う考えに似ているかも)と「悪い食べ物」(腐敗しやすい「フモール」なるものが入っているもの)が病因であるとし、これがこの時代にまで残っています。また、血液が「変性」するのが原因と言った錬金術的な考えもあったようです。
 他にも占星術的な根拠から1345年に火星と木星の「合」が生じ、これが各惑星の特性(惑星には「象徴」される特性があると考えられている:今の「星占い」もそれが残る)から地球に有害な蒸気が入ってこれがペストとなって......と言う説もありました。もっとも「合」が起きていなくてもペストが発生したりする、と言う事から否定的な意見も多いものでした。それに対して地震によって地面より有害な、汚染された空気が吹き出てそれがペストを引き起こした、と言う説も残っています。もっとも、これも地震が起きるたびにペストが発生しているわけではない、と言う反論もあり、当時では決定的にはならなかったようですが。
 こう言った「汚染空気による病気」と言う考えは当時はかなり根強い考えでしたが、しかし「もしそうならば、皆一斉に発病しているはず」と言う考えを持つ人もいる。そういった事から「どうやって伝染するのか」と言う事もまた議論になりました。
 イスラム圏ではこの頃、一部では隔離によって感染が防げる、と言う経験からある程度感染論については考えがでていた様ですがこれはまた後述するとしまして.......ヨーロッパではイスラム圏とは異なり(当時はイスラムの方が医学などは優れています)、伝染についての説は迷走をしています。そのような中である程度影響力を持った(というか「持ってしまった」というか)説に、「患者の眼差しによって人に感染する」と言う説が出てきています。これは文字通りでして、当時の記録に「ペストは患者と話したりすると感染する(飛沫感染)」と言うのはまだしも、そのあとに続けて「しかし本当に恐ろしいのは患者が誰かを見ると、その人物が感染する」と残っています。早い話ギリシャ神話などに登場する「バシリスク」(バシリスクに睨まれたものは石化すると言う)伝説に通じるような物がありました。ですので、医者は治療の時に患者と目を合わせないと言う.......
 そして、これらの説は17世紀での流行でも基本的に変わりませんでした。

 このようなはっきりしない病原論が出てくる中、医者はやがて異様な姿で診察に臨むようになります。
 17世紀の流行の際になりますが、ペスト患者を診る医者は自らがペストの犠牲になるのを防ぐ為、極めて異様な服装をする事になりました。その格好はまず全身を黒いガウンで覆い、長い手袋をはめ、そして顔をすっぽりと覆う頭巾をかぶるという異様な格好をする事になります。鳥のようなその顔の「嘴」のようにとがった部分にはペストの悪臭を防ぎ、またペストを防ぐ効果のあると言う薬草・香草を詰めていました。
#Googleで「Plague Doctor」、「plague mask」で検索すると出てきます。イメージの検索結果当時の医者の姿の例(Wikipediaより)
 はた目にも異様なこの格好は、何処かの悪魔崇拝の話に出てきそうな感じがするのは管理人だけではないでしょう。もちろん、当時の人達は充分に本気だった訳ですが。ただ、当然これで治療効果が上がる訳でも無く、また実際にこの時代にも医者はペストから逃れる為に逃げているようです。
#当時の最も著名な医者の一人シデナムも田舎に疎開しています。

ABRACADABRA
ABRACADABR
ABRACADAB
ABRACADA
ABRACAD
ABRACA
ABRAC
ABRA
ABR
AB
A
 医者ではなく、民間ではどうか?
 民間でも色々とペストを防ぐ為の工夫はしていたようです.......もっとも、「祈り」や「祈祷」と言うレベルでして、実際には科学的な意味での有効な手段はあまり無かったようですが。そういった中の代表的な一つをここで紹介しておきますと、いわゆる「アブラカダブラ」の呪文があります。この言葉を聞いた事がある人は多いかと思いますが、"ABRACADABRA"は病気や災厄から身を守る呪文として、古くからあったもののようです。
 これは右図のように書いて、これを護符として持ち歩いたと言われています。そして17世紀の流行時などでもこの護符は民間では「活躍」をしたようです。
 もっとも、どれほどの「効果」があったかは推して知るべし、と言ったところでしょうけど。

 一方、民間では宗教が絡んだ運動も起きています。
 世の中不安定になると宗教が台頭するのは世の必然かもしれませんが、ちょうど14世紀の大流行時には「鞭打ち苦行」が大流行をします。どういうものかと言うとペストの大混乱の中、「これは天罰である」と言う実に宗教的な理由から、その贖罪(苦行)と身体に潜む悪を追い出すために自らに鞭を打つ/打ってもらう、と言うものでした。
 この行動自体は新しいものではなく、1260年頃にはイタリア各地で起きていたと言われています。この時には貴賎老若男女問わず1万人以上の規模になり、アルプスを越えた時点で危機感を覚えた教会が禁止をして大規模なものは収束するのですが、しかしペストの流行によって復活することとなります。
 この「鞭打ち苦行」をもう少し詳しく説明しておくと、13世紀の運動では「十字教団」と呼ばれる組織があり、その運動は33日半(キリストの生涯が33年半)の参加と1日4ペンスの日当を条件に行われ、「親方」(マイスター)を中心に、1日に朝夕の二度、街の広場などで車座に座って上半身裸で、親方の指示で鞭打ちをすると言う物でした。14世紀のペスト流行でも貴賎を問わずこれに参加していったと言われています。
 もっとも、あまりにも急速に広まった事やかなりマゾヒズムとサディズムが入り交じった行為の上、集団ヒステリーも混じって団体はやがて統制がとれなくなって暴徒化(「親方」が奇跡を起こすと称して死者の蘇生を試みて失敗など。現在の一部新興宗教にここらは通じる)するにおよび、最初はペスト退散の行列祈願や贖罪、と言う事で推奨していた教皇クレメンス6世は禁止の勅令を出し、各地でこれに呼応して弾圧される事となります。これは大分先鋭的になった上にユダヤ人の虐殺に加担し、また教会批判に走ったり、あるいは過激に活動して自壊したグループなどがあり、総じて社会不安を助長するようになった事も禁止の理由になりました。
 これらの活動は結果的にはペスト問題にとっても問題になります。
 というのも、元々ペストに感染していない地域にこれら集団がペストを持ち込む結果になったり、また鞭打ちの傷からペストに感染するなど実際のところは効果がある所か百害あって一利無しでした。もっとも、これらの行動は新教運動など、一部に影響を残す事となりますが。

 このように様々な面で影響を与える事になった14世紀のペスト流行は、文化にもまた影響を与えます。
 「トラウマ」とも言えるほど大きな傷を残したペストは、当時の人々に死を身近に感じさせたようで、鞭打ち苦行とは別にそれまで離れつつあったかなりの人を信仰に戻し、経済的停滞にも関わらず教会は寄付金で潤っていった、という効果があったようです。
 更にはやがて来るルネサンスにかけて、ペストの影響からある絵が流行をします。
 その根底にあるものは「三人の生者と三人の死者」と言う伝踊詩で、内容は「最も活力にあふれてる若者三人が楽しみを追って狩りに出かけ、その楽しみの果てに墓場を見る。そこで出会ったのはかつて教皇、枢機卿、高僧であった衣をまとった骸骨で、若者に向けて骨となった指で指しながら”我々を覚えよ!”と言う」と言うものです。これは13世紀のフランスで始まったとされ、ペスト以降に非常に流行をします。これにはたくさんのバリエーションがありますが、ペスト流行語にこれをモチーフにした「死の舞踏(dance macabre)」と言う、「骸骨が生者を死の舞踏に誘う」絵もまた非常に流行します。そこに描かれるのは、何故か「生気あふれる」骸骨が、「生気の無い」生者  皇帝、国王、枢機卿、高僧などの片腕を捕まえ、舞踏に誘っているシーンです。
 日本の無常観(「生者必滅」「是生滅法」など)に通じるこの考えはただ一つ、「死を思え!(memento mori!)」と言う言葉に集約されています。この言葉はペスト以降、非常に流行する事となり、モチーフにされていきます。


 さて、ここまでがペストの歴史的な部分になりますが。猖獗を極めたペストは、しかし公衆衛生上重要な概念を生み出していく事となります。
 イスパニアにいたアラビア人医師イブン・ハーティマーの記録によれば1348年、イスパニアのセビリアの街でもペストが流行をします。しかし街は壊滅的な打撃を受けたのにもかかわらず、監獄に閉じこめられていた数千人のイスラム教徒は一切その影響を受けませんでした。無論、当時は「アッラーの恵み」と言う事になるのでしょうが、ハーティマーはこの事実から隔離の重要性について気付いていたと考えられ、同時にペストが伝染性(当時まだペストが本当に伝染性か分かっていません)であると考えていたようです。
 このエピソードに加えて書き加えられているところでは、サレと言う町のイブン・アブ・アドイアンと言う男性がペストの伝染を強く信じ、自分の財産をつぎ込んで食糧に換え、多くの住民を集めて壁で外部と隔離してその中で生活させたところ、外ではペストが起きたものの内部ではペストにかかるものがいなかった、と言う話が残されています。更に、主要交通網から外れたところでテント生活をしている人にペストが少ない事も指摘している。
 他にイスパニアのアラビア人医師イブン・アル・ハティーブもこの説を強力に支援する一方、ペストが伝染性である事を状況から指摘しています。
 ヨーロッパの方でもやがてこれに気付くようで、東方から来た船が港に来ると、乗組員が最初は健康でもしばらくして港から疫病が流行り始めることがあると言う事に気付きます。その結果、1374年にベネチア共和国は感染者のいる船を調べ、港から締め出す臨検官を任命。そして1377年にはハンガリー領ダルマチア(現クロアチア)のラグーザ(現ドブロブニク)において、感染地からの船を港外に30日間留め置いて、その間に病気の発症者の有無を調べるようになります。
 この30日の規定は、やがて旧約聖書「レビ記」において、「汚れた者に触れた時は四十日間浄化する」ことからと言う話があるのですが、現実的に不十分な面もあったのか40日に延長される事になります。
 ところでイタリア語で40日は"qurantina"と言うのですが、この言葉はそのまま"quarantine"と言う英語になって現在にも引き継がれています。その意味は辞書をご覧になれば分かる通り、「検疫」「隔離」を意味しています。
 この「検疫」や「隔離」の概念は現在でも公衆衛生上極めて重要なものとなっています。

 更にペストは科学への大きな「貢献」を残す事となります。
 時は17世紀、1660年代に再度ペストがヨーロッパで流行します。イギリスでは1664年から67年まで続くのですが、やはり非常に多大な死者を出し、ロンドンでは1665年の夏には31,000人の死者が出たと言われています。
 この流行は当時各地にあったカレッジにも影響を与え、それらカレッジは一時的な閉鎖に追い込まれました。
 このような中、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジにいたニュートンはカレッジ閉鎖のやむなきにより、故郷ウールスソープへと65年8月〜66年3月25日と、同年6月22日〜67年3月の二度に渡り帰郷する事になります。この間を思索につぎ込んだ23,4歳のニュートンは、この時の着想を得てやがて大きな業績を残す事になります。
 何か?
 一つは運動学から出発してたどり着いたと言う流率法、いわゆる「微積分法」の着想。一つは光をプリズムを使って分光させた光の性質の発見(ニュートンは光の粒子論を唱えています)。そして最も著名な「リンゴが落ちた」事によって思いついた(これはヴォルテールの想像で、人口に膾炙したらしい)と言う「万有引力の法則」の発見をしています。
 もし、ペストが流行していなかったら? ニュートンの業績はもっと減っていたのかもしれません。少なくとも、ニュートンの最大の功績はこの時期に着想したものからでていますので。
#なお、微積分法はライプニッツと争いになり、弟子同士が特に激しく争っています。着想はニュートンが先と言われていますが、記号と名称はライプニッツの物になっています。
 なお、この時のペストの流行は1666年にロンドンを襲った大火により、偶然ながら終結に向かいます。
#17世紀のペストの記録はデフォーらにより残されています。

 ところで、ペストの病原菌であるYersinia pestisですが、この病原菌は19世紀の終わりに発見されています。
 1894年、私立伝染病研究所を設立した北里柴三郎は、内務省の命によって香港で流行していたペストの研究に派遣されます。香港に着いた北里は、すぐに研究に着手し、間も無く「ペスト菌の発見」を医学誌『ランセット』に短報に掲載します。この時、東大より派遣されていた青山胤通が同じく香港に派遣されていたのですが、彼は研究中にペストに感染してしまいます。一応、治療は功を奏したのですが.......実は1880年代に北里と東大はこの前に脚気の原因(ビタミンB1不足)で争っており、東大は医学部教授の緒方正規が病原菌説(コッホにより「病原菌」の考えは当時ある種の流行をしていた)を唱え、これに対し当時コッホの下で研究していた北里が反論。これで対立中だったのですが、実質「勝利」を得た北里は意気揚々と凱旋帰国する事になります。
 ですが、その直後に雑誌『パストゥール研究所報告』にフランスのA・イェルサン(Yersin)がペスト菌発見を報告します。その内容は、北里と異なっていたため、非常に問題になるのですが........
 実は北里の発表したペスト菌は2種類入っていました。やや専門的ですが、Yersinia pestisはグラム染色に陰性の桿菌なのですが、北里の発表したものではグラム染色に陰性のものと陽性のものが混ざっており、対してイェルサンの菌はグラム陰性菌でした。結局翌々年に、皮肉な事に前述の緒方がイェルサンの菌がペスト菌である事を確認します。
 ま、緒方としては一矢報いたと言う事で満足だったと思われますがね。ただ、北里の確認した菌の片方は確かにペスト菌だった、と言う事は触れておくべきでしょう。
 なお、現在はイェルサン単独、あるいは北里の両者が発見者として扱われるようです。

 このようにして正体が判明したペストですが、当時発展していった公衆衛生学(これは19世紀後半にコッホなどの努力によって病気と最近の関係が分かった事が極めて大きい)により、ペストもコントロールされていきます。その成果もあり、20世紀にはかつて猛威を振るったペストも一気に表舞台から消え去ってしまいます。
 日本でも明治時代の1899年に神戸を中心にペストが発生して死者3000人を出したものの、しかし保菌者であるネズミの捕殺に乗り出して、山野のネズミにまで感染拡大をする事を防ぐといった実績を残しています。そういった成果もあり、それ以降日本で流行したペストはなくなることとなります(感染者はいるようですが)。
 ただ、一説には第二次世界大戦中に日本の関東軍防疫給水部、俗に言う「731部隊」が生物兵器の研究の一環として、ペストノミの飼育とペストの毒性強化などにも従事して人体実験していたとか、中国からの撤収時にばらまいて、周辺地域にペストが発生したとか云々と言う話もありますが。取りあえず、世界的に見ても大規模流行はなくなったといえ、実質制圧していると言えます。
 もっとも、完全に消えた物ではなくまだ各地で感染は起きており、そして拡大する傾向があると言う話もあります。
 現在ペストの危険地域はアフリカの南東部の密林地帯、中国雲南地方、蒙古地方、ヒマラヤ周辺、アメリカロッキー山脈周辺、北西部アンデス山脈周辺などが特にペストの危険地域とされており、特にマダガスカル地域での感染が多いとされています。では、そこを避ければ良いかと言うとそういう訳でも無く、森林原野が開拓されて近代化してからネズミの移動があった為かペストが再び拡大しているようで、1991年からはペストが増加傾向にあると言われています。
 なお、2001年では世界でのペスト感染者は約2700人で、死者は175人となっています(死亡率6.5%)。

 ちなみにペストは感染している事が診断されると、日本では感染症法において1類感染症に分類されています。1類はエボラ出血熱、SARSなど(1999年改正前の感染商法では天然痘もあったものの、世界的な根絶の為に削除)といった感染力が高く危険性が極めて高い感染症の扱いであり、保健所長を通じて都道府県知事に届けられ、更に厚生労働大臣に報告がされる必要がある病気で、必要な措置がとられます。
 おそらく、海外から持ち込まれて日本で発症した場合は確実に消毒で大騒ぎになると思われますが。
 ただ、もし感染しても現在は早期に治療を行う事で効果的に治癒が可能です。特に抗生物質は非常に有効な治療薬であり、ストレプトマイシンやテトラサイクリン、オキシテトラサイクリン、クロラムフェニコールなどが使われます。特にストレプトマイシンはどのペストにも効果があり、かなり有効です。また、最近ではニューキノロン系の抗菌薬がかなりペストに有効であることが知られており、活躍をしています。
 無論、感染を防ぐ為の予防もかなり重要です。
 基本的にはネズミやノミの駆除による予防(これは農薬の活躍による......こう言う部分でも農薬は必須)といった公衆衛生面によるペストの発生の予防が重要です。ですが患者との接触等がある場合の予防もまた重要で、この場合は抗菌剤の投与、またはワクチンの接種と言った方法がとられます。特に後者はペスト菌常在地域やその周辺にむかう人達(国際機関や商用問わず)に行われています。
 こう言った努力が現代のペストの流行を抑えていると言えるでしょう。

 ただ、一つ覚えておいて欲しいのですが。
 過去には元が築いたシルクロードが「ペストロード」と化した、と言うのは前回触れましたが、現在はその当時とは比較にならないほどの世界規模の交通網が出来ています。もし、何処かで感染が起き、その潜伏期寒中に移動があれば? またペットの輸入などが先進国(無論日本でも)では見られますが、「かわいい」などと油断していると、リスやプレーリードッグなどの齧歯類はペスト菌を保菌している可能性があり結構危険なものがあります。実際、一部の齧歯類をペストを理由に輸入禁止している所もありますし、ペストの危険地域での齧歯類の接触は感染の危険をはらむ事となります。
 ペストは上述の通り油断をすれば一気に増える要素が多くが有り、再び問題化する「再興感染症」となる可能性があることは頭に入れておくと良いと思います。また、昨今では生物兵器としてのペストもまた恐れられていますので、なんとも恐ろしいものですが。
#なお、社会構造の変化や薬剤耐性菌の存在により、ペストに限らず一度制圧した感染症が復活する「再興感染症」は世界的な問題になりつつありますので御注意を。
 こう言う事もあり、今もってペストに注目している研究もまだあります。
 例えば2004年5月頃に『Science』誌に発表された論文(アントワープ大学Herwig Leirsによる)では、アレチネズミとペストの40年にわたるデータを解析し、カザフスタン砂漠でのアレチネズミの巣穴が増えるとペストがほぼ2年後に見つかるようになると言う発表をしています。つまり、この地域でのペストの流行を2年前に知る事が出来ると。これは重要で、ペスト予防の他にもネズミの群れの大きさがある一線を越えるとペストなどの伝染病が爆発的に流行する、と言う説の裏付けをしたものとなっています。また、冬季に豪雨が降るとペストは18ヶ月後ぐらいに発生する傾向がある、と言う事も示しています(豪雨によりネズミのえさとなる植物が増える為)。
 ま、おそらくは14世紀のような大流行はもうないのでしょうけど。
 ただ、流行していく可能性は否定しきれない、と言う事になりますね。


 さて、以上長くなりましたが、これがペストにまつわる話となります。
 特にヨーロッパの歴史上ではこれが深くトラウマとなっているようで、ろくに発生していない日本とは扱いが違うようですが。ですが、上述の通り対策が出来ている一方で、やはり再発の可能性もある、と言う事は覚えておいて欲しいものです。
 また、ペストはとにかくその影響からここでは扱いきれなかった話も多数残っています。興味があれば調べてみると良いかもしれませんね。

 それではこの話はこれで以上、と言う事で......




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 取りあえず、前回の話の続きと言うことでしたけど。いやぁ、実はもっと書きたい話もあったんですがね。取りあえずキリがないと言うのもありまして、一応この程度に留めておきました。まぁ、某予言で有名(最近は名前も聞かないか?)のノストラダムスがネズミの駆除でペストを云々、って話もあったりしまし、そういう事を踏まえ、一説には「ハーメルンの笛吹き」伝説はペストに絡んだもの、と言う説もありますが。まぁ、真相はよく分からないので省略しています(^^; 他にも、色々と中世ヨーロッパに与えた影響は極めて大きいですので、歴史に興味がある方は是非調べて欲しいと思いますが。
#中世の価値観と社会構造を大きく変え、新教活動の源泉となり、ルネサンスに通じていくものでもありますので。
 ま、こう言う事があった、と言うのは覚えておいて良いと思いますし。その再発の可能性も頭に入れて欲しいです。興味を持ってもらえればとにかく成功ですがね。

 そういう事で、今回は以上ですが。
 次回は......何にしましょうかね(^^; ま、取りあえず考えておきたいと思いますが。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2004/08/08公開)


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