からむこらむ
〜その217:多才/片手間/異色〜
まず最初に......
こんにちは。今年も後少しですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
気付けば今年はもう1週間を切ってしまいました。早い物ですが。
さて、今回のお話ですが。
年末ですし人もいませんし.......おまけに色々とアイデアが出ても固まりにくいのですが(^^; ま、取りあえずそう言う事もありまして「与太話」でもどうかなぁ、と言う事でやってみようかと思います。
ま、「多才」「異色」などと呼ばれる人は色々といますが、科学でもやはりそう言う人達は多くいまして、そう言う人達が大きく科学の世界を開拓していったと言う面もあります。ただ、実際にそう言った人達については名前が残るだけで、どういう人物だったのか、と言う事には余り詳しくは言われません。ま、教科書に載るようなレベルの人がいても、実際に普段は何をやっていたのか、どういう人だったのかは余り知られていません。
今回はそう言った人達から「職業的な部分」に注目して数例を挙げてみようかと思います。
それでは「多才/片手間/異色」の始まり始まり.......
皆さんは「科学者」と言う「職業」についてどう考えているでしょうか?
現代の科学者、と言えばおそらく「大学といった研究機関の研究室に籠もって白衣を着て機械や薬品をいじくり回している」と言う様なイメージもあると思います。まぁ実際にはフィールドに出て活躍する人もいますし、白衣は着ることがない人もいますし.......「科学」と言うものは幅広い分野にありますので、「研究室に籠もりきり」と言うような人の方が全体から見れば少ないと思ったほうが良いかとも思います。
#無論、籠もり切りでやる分野もたくさんありますが。
ま、何であれ現在の「職業の一つ」と言うイメージはあるかと思います。
しかし、もっと以前には「科学者」と言うのはそう言うものではありませんでした。実は科学の発展の経緯を見ていくと「専業としての科学者」と言うものは比較的最近のものでしかありません。特に近世以前では「科学」と言うものはある意味片手間でやる人の方が多かったのが事実です。
例えば?
既に「からむこらむ」で触れられていますが、ラヴォアジエはまさにその一例でしょう。宗教観や古い考えに支配され、更に錬金術とさして変わりのなかった「物質論」は、この人の研究をもって「化学」として発展していったといえます。
しかし彼の本業は? 今では教科書に載るぐらいの人物ですからそう言ったものしか見ていない人は「化学者」と言うでしょう。ですが過去の記事を見て頂ければ分かる通り彼の職業は「役人」でした。悪名高き、そして彼自身を死に追いやる事になった徴税請負人でしたし、自分で起案した火薬管理局にもいましたし、また科学アカデミーの運営もやっています。つまり本業はこの三つであり、彼にとって化学とは「単なる道楽」でしかありませんでした(ついでに大金持ちだからこそできた道楽でもあります)。実際、実験は週に一回は完全に「実験の日」でしたが、他の日は完全に時間を区切って本業に精を出し、その合間に実験をやっていた事が知られています。
この事からも「道楽」と「本業」をきっちりと分けていた事は分かるでしょう。
近世以前においては、こう言ったラヴォアジエの様な事例はたくさんあり、むしろ「普通」とも言えます。しかし、そう言った人達が大きな業績を残し、現代にまで影響を与えていたのは確かです。
今回はそう言った人達の中から「多才」あるいは「異色」の科学者、または「片手間」でやっていた科学者について数例を挙げて見る事としましょう。
○数学者?
皆さんは数学はお好きですかね? 中でも方程式なんてどうでしょうか? 中学生なら二次方程式まで習うと思いますが、更にその一歩先の三次方程式なんてものもあります。
ax3+bx2+cx+d=0
この三次方程式、解法は大体16世紀ごろに研究されて発見されまして、主にフェッロ、タルターリア、カルダーノのイタリア人3人が関わっています。
ここでは詳しく述べませんが、三次方程式の解法はこの三人で「誰が最初か」で限りなく醜い争いが展開されており、現代に至るまでその「脇道」の話が残っています(麻酔の話の様な死者は出ませんけど)。
ところでこの三名の職業を見ていきますと、フェッロは大学教授、タルターリアは各地で数学を教えていたようで、二人ともその職業の根幹に「数学」があります。しかしカルダーノ(Girolamo Cardano)の本業は実は医者。医者は医者でもチンケな医者ではなく、公の場では重きをなす発言力を持ち、また発疹チフスの発見者とも言われています。
彼は「余暇」として数学をやっていてこの方程式の解法にのめり込みまして、「カルダーノ派」とも言えるグループを作るほど力を入れていたと言われています。もっとも、色々と酷評されている人でもありますがね(性格破綻者とか云々。真偽不明な話が多い人物でもあります)。
なお、現代ではカルダーノが「第一発見者」と公式にはなっています。微妙ですけどね.......
○天文学者の本業
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)と言えば二度も宗教裁判にかかり、後世の創作として言われていますが「それでも地球は回っている」などの発言などで有名でしょう。彼は振り子の法則を見つけ、「ガリレオ衛星」の名で残る木星の4つの衛星(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)、あるいはたくさんの後世や太陽の黒点を観測などし、そして宗教裁判にかかる原因となった「地動説」を観測から認め、広めた人物でした。
この地動説、大元はガリレオの更に約100年前に遡りまして、やはり著名な天文学者であるニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)によって発見(正確には「再発見」)されました。彼は1年を365.2425日と計算し、これは後にユリウス暦からグレゴリオ暦になる際にこれがベースとなるなど、様々な影響力を残している人物です。
ところで、コペルニクスの本業、実は天文学者ではありません。
実は立派な聖職者であり、そしてポーランド北部にあったエルムランドを治める地方行政官であり、アレンスタイン城の城主でもありました。こちらの本業は相当なものでして、実際コペルニクスはこの管区での司教を期待されたほどでしたし(実際にはなっていません)、当時エルムランドでみられた新教(プロテスタント)の台頭や、エルムランドを囲むように領地があったドイツ騎士団とポーランドで起きていた戦争などの処理や仲裁に走るなどかなり多忙だったようです。
実はこの戦争は歴史的にはかなり重要な出来事でして、結果的に1525年のクラカウ条約によってドイツ騎士団は独立を認められ、騎士団の長老アルブレヒトがプロイセン公に叙されてプロイセン公国(宗主国はポーランド)が成立。コペルニクスはこの戦後処理の会議に出席し、領民の帰還支援事業を行うなど実務家としての手腕を発揮し、活躍しています。
更に彼は経済にも通じており、いわゆる「グレシャムの法則」として知られる「悪化は良貨を駆逐する」と言う法則を見つけたとも言われています(16世紀イギリスの経済学者グレシャムがこれを定式化したと言われているものの、どちらが先かは正確には不明)。
#なお、プロイセン公国は後の1701年にフリードリヒ1世がケーニヒスベルク(現在は飛び地でロシア領)で即位してプロイセン王国となり、現在のドイツの元となります。
このような多忙な毎日だった為か、コペルニクスは天文学を「本業」とするのは相当に至難だったようです。実際に彼の地動説は当時の教会の考えとは違った為にかなり配慮して動く必要もありましたし(事実ガリレオはそれで異端審問にかけられる)、更には本業の忙しさ故に天文の研究に専念する事は難しいものでした。
実はコペルニクスの著作は細かいものを除けばたった一冊だけでして、それが地動説を唱えた『天体の回転について』です(これはガリレオの裁判の前に禁書となり、後に「数学的仮定」と言う注釈のもとで禁書が解かれています)。そして、彼の考えと宗教の争いは反するものがあり(彼はカトリックでしたがプロテスタントに寛容だった)、大分孤独な人生だったとも言われています。
難しいものですがね。
意外と言うか異色の天文学者というとウィリアム・ハーシェル(Friedrich Wilhelm Herschel)がいるでしょうか。
1738年ドイツ生まれでイギリスで有名になった人(1822年没)なのですが、この人は太陽系の7番目の惑星である天王星を1781年に発見、翌年に命名しています。実際には天王星は過去に「恒星」として20回以上も記録されていた星でしたので「新しい」物ではありませんでしたが、しかし惑星である事を発見したと言う功績は大きいものであり、彼の発見者としての地位は揺るいでおりません。ちなみに、その過去の20回以上もの「記録」はその後有効活用されて天王星の軌道要素の算出に使われました。
ハーシェルが天王星を発見したのは望遠鏡によるところが多かったのですが、この人は4年かけて口径16.5cmの反射望遠鏡(大砲によく似ています)を自作しています。これが彼に幸運をもたらす事となりまして、時のイギリス国王ジョージ3世はこの発見に関心を寄せて自らも観測を行ったとしています。そしてハーシェルは王室付の天文官として召し抱えられています。この事からハーシェルは天王星を「ジョージの星」と呼んでいたと言われています。
その後もハーシェルは天文学者として活躍していまして、妹のカロライン(彗星の発見など)やハーシェルの息子ジョン・ハーシェル(John Frederick William Herschel)も天文学者として活躍し、土星や天王星の衛星を発見・命名しています。ついでに言うなれば、その息子ウィリアム(William)は指紋による個人識別の研究出有名になり、アレクサンダー(Alexander)は天文学者となっています。
#余談ながら、天王星は「横倒し」で有名ですが、衛星の多くはシェークスピアの作品から採用されています。
このようにハーシェルは天文学者として一般に有名ですが、本来の彼の職業は異なります。
実は彼は元々は音楽家でして、ドイツではハノーファー近衛連隊の楽団にオーボエ奏者として入団し、その後イギリスでオクタゴン・チャペルと言う教会でオルガン奏者になっていました。この間に天文に興味を持って観測を始めたと言われていますが、天王星の発見時には彼の職業はやはり「教会のオルガン奏者」でした。
なお、音楽の腕はそれなりという事か、現在でも彼の作曲した曲が残っておりCD化もされています。もっとも、管理人はその曲を聞いた事は内のですが......(^^;
○政治家
有名な科学者には政治家も存在しています。
と、上述したコペルニクスも政治家ですが、彼の本業は基本的には「聖職者」。「本業が政治家」と言う人とはひとまず区別をつけておきまして......ここでは2名挙げておく事としましょう。
まず一人目ですが、17世紀初頭に生まれたオットー・フォン・ゲーリケ(Otto von Guericke。Gerickeとも)と言う人物を御存知でしょうか? 結構地味なんですが、それなりに名前を残している人物です。
さて、彼の生きた時代の話題に「真空は自然に存在するか」と言うものがありました。これはアリストテレスが「自然は真空を嫌う」、つまり「何も存在しない状態は存在しない」と述べてからこの時代までずっとこれが信じられていた事があり、これに疑問が呈された事によります。
この問題に挑んだ人は結構多くいたようです。
中でも有名なのはガリレオの門下生だったトリチェリでして、彼は同僚のヴィヴィアーニと一緒にいわゆる「トリチェリの真空」の実験を行い、自然界にも真空の存在を示します。そしてフランスのパスカル(化学者であり「人間は考える葦である」で有名な『パンセ』を著した人物)はこれを追試。高度の違いでこの高さが変わる事などを示します。
#トリチェリの真空:長さ1mのガラス管の一端を閉じ、これに水銀を満たして開口部分を容器内の水銀に立てると、管内の水銀は76cm(=760mmHgのもと)にまで下がり、上部の空間は真空になる事を証明した。
#上部に鈴をいれておくと音が鳴らないので真空と分かります。
ゲーリケはこう言った話題から真空に興味を持ち、真空ポンプを開発(これを記念した「ポンプ座 (Antlia) 」と言う星座があるそうですが)。そして二つの半球状の蓋(スイカなどを真っ二つにして半球とし、その中身をくりぬいた状態を想像すると良いか?)を合わせて中の空気をポンプで抜いて完全に密着させ(マクデブルクの半球)、これを馬で引かせると言う、いわゆる「マクデブルクの実験」を行います。彼はこの実験を公開で行い、その最初は1657年にレーゲンスブルクの帝国議事堂で皇帝の目の前で行われました。
この半球は16頭の馬(2頭立てで4対)で両側から引っ張ることでやっと外れたといいます。彼はこれ以降も各地でこの実験を行い、更に真空の力を研究した人でもありました。
では、何故この実験に彼の名が冠されないのか? 実はゲーリケは1646年から1676年までドイツのマクデブルク市の市長を務めた人です。実験当時既に市長でしたので、その地名から命名されています。ちなみにこの人は数学と建築学を学んだ人でして、当時ドイツで多かった戦争の復興で力を発揮した才人でもありました。
もっと、歴史に華々しく名を残す政治家で科学者はいないのか?
非常に重大な歴史的出来事に「政治家」として関わり、科学史にも名を残す人は存在しています。誰か、と言うとベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)。これを聞いて彼の業績を思い浮かべる人はこんな話を思い出すのではないでしょうか? つまり荒天の中で凧を揚げ、これに雷落としてライデン瓶に電気をため、雷の正体を電気であると証明し、これにより避雷針を発明した人......御存知ないですかね? この追試で何人も感電死したと言う話がありますので、相当に幸運な人ですが。
ですが、もう一つ歴史をやると大きな事柄があります。
この人は元々は印刷業に励んでいた人でして、丁稚の時代から印刷屋で働いており、やがて独立して新聞紙の発行などを行っています。その後紙幣の印刷事業を頼まれて、それをきっかけに政界に進出して政治家となります。
その政界における業績、と言うのが彼を有名にしているのですが......それはまったく一つのことに集約出来るでしょう。つまり、この人はアメリカ独立宣言に署名した5人のうちの一人だったりします。
そこいらの選挙前にしか頭を下げに来ないケチな政治家に比べてその格の違いがある事は分かるかと思われますが.......
ついでながら、この二人の研究には「共通点」がありまして。
実は両者とも「静電気」に関する研究もしています。ゲーリケの場合は硫黄の球を二つ用意し、それぞれ擦ると反発すると言う現象を調べています。一方のフランクリンは雷が電気であること、つまり静電気の研究。
つまり、政治家と言う他に電気の研究と言う点では一致しているといえるでしょう。
○銀行屋
ところで、近代以降になると科学者は大きく変容をしてきます。
片手間で科学をやっていた、と言う時代は特にラヴォアジエ以降消えていきまして大部分は「職業科学者」としての道を歩み始める事になります。ですが、少数ながらも「片手間」で科学をしている人もいました。
1887年、アメリカで生まれたアルフレッド・ルーミス(Alfred Lee Loomis)と言う人物がいます。
この人物はイエール大学を卒業したのち、ハーバード・ロースクールを経て1912年にニューヨークの法律事務所に就職。ここで法人業務と財務分野に通じる事となり、ウォール街では弁護士としても働いていました。非常に精力的に動いていたようですが。
しかし、第一次世界大戦に米国が参戦してから方向が変わる事となります。彼は軍内部で兵器開発の部署に所属をしていました。
従軍後、彼は弁護士のキャリアを捨てて義弟と組んで投資家として活躍し始めます。たった10年で米政府の公共事業融資の15%を握るほどの億万長者にのし上がっていきました。
そのころには彼は道楽として科学にのめり込んでいきます。これは兵器開発の部署で興味を持ち始めた事があるようで、ジョンズホプキンス大学で著名な物理学者であったロバート・ウィリアムズ・ウッド(この人はオカルトや疑似科学の嘘を暴くのに熱心だったので有名。興味あれば「N線」を暴く話を調べてみると面白いでしょう)に多大な援助を行います。同時にウッドの指導の元で研究を行うようにもなりまして、単なるパトロンの立場にとどまりませんでした。
ここら辺はラヴォアジエと似ていまして、日中は銀行、夜や週末は研究という生活を送っていたと言われています。この研究内容は多岐にわたり、音波や分光学、生理学や生物物理学と言う範囲に及んだと言われており、実際に論文を彼の研究所から70編(1927〜1938年の間)も提出、内25編は共同研究者として名を連ねるなどしています。
こう言う「成果」もあってか、彼は1933年、45歳の若さで銀行業から手を引いて科学一色の生活になっていきます。
その後はノーベル物理学賞を受賞した物理学者でサイクロトロンの発明で有名なローレンス(Ernest Orlando Lawrence)に資金援助し、その大型サイクロトロン建設の資金調達の援助を行うなどもしています。第二次世界大戦中には国防委員会のマイクロ波部門の委員長に就任し、レーダーの開発に携わるなどしています。
このような億万長者の銀行家にして科学者、ですが。
ラヴォアジエに似ていると言えば似ていますが、実際そうでして、ラヴォアジエとの違いはある意味断頭台に立たなかった事、と言う事もあるかも知れません。
こんな異色の人物が実際にまだ、職業科学者が増えていく中でも存在していたといえます。
更に異色っぷりを発揮する人もいます。この人は「片手間」ではないのですが.......
皆さんはロスチャイルド家の名を聞いた事がある人もいるでしょう。ユダヤ系の財閥と言う事で主に欧州で著名な財閥ですが。歴史は調べてもらえればと思いますが、色々と閉鎖的かつ世襲制を取っているような一家であるなど、色々と有名な財閥です。
その中でもロンドン・ロスチャイルド家に1868年、当時の宗主ナサニエルの長男として生まれたウォルターは家業とは全く違う方向で突き進んだ人として破格の人です。この人は動物に興味を持ち、家業そっちのけで動物学一直線となり、学者になった人でした。
ウォルターは11歳にして既にちょっとした博物館レベルの標本資料を持っていたと言われています。13歳には自然史博物館に入り浸り、動物学者が案内役となるほどの入れっぷりと博識ぶりだったとも言われています。その知識は「歩く百科事典」と言われるほどだったようですが。
無論、ナサニエルは家業を継ぐべき長男のこの様子に不安を覚えていたようですが。
ウォルターはこの頃には世界各地から標本を取り寄せていまして(無論ロスチャイルドの富があればこそ)、ケンブリッジ大に入学した1887年には既に鳥類は5,000、鱗翅目昆虫が38,000、その他3,000もの標本を集めていました。2年後には標本に熱を上げる為かは不明ですが、ケンブリッジを退学。
両親はここにいたり、さすがに「諦めた」ようで母エマがナサニエルを説得し、ウォルターの為の博物館の建設を認めさせます。そしてケンブリッジを退学した1889年にトリング・パークにウォルターの為の博物館が出来上がり、そして同年に取引があったのかは分かりませんがウォルターは銀行に入行。ひとまず「跡取り」として動き出す事となりますが.......
しかし、ウォルターは動物学一直線。実際トリングに入り浸り、ロスチャイルドの莫大な富と影響力を駆使して世界各地(日本含む)から標本を集めていました。その結果、ウォルターが24歳になるとイギリスの動物学会においてウォルター・ロスチャイルドの名を知らぬ者はいないと言うほどの物になっていました。一方で、「本業」であるはずの銀行界では彼の名を知るものはいないという有り様。
当然面白くないのはナサニエル。その後15年間ウォルターは銀行に籍を置くものの、断腸の思いで「跡取り」を次男チャールズへと実質移行させ、ウォルターを銀行から解任してしまいます。
この父親が断腸の思いで下した措置にウォルターは大きく感謝したと言われていますので、全く噛み合っていない親子という印象はありますけど。
実際、これ以降動物の研究により力が入ったようで、標本の他にも野生のシマウマの調教に成功したりとか(しかもウォルター以外の命令は絶対に聞かなかったという話があります)、ゾウガメコレクションに走ったり(最終的に144匹集めたとか)など色々と話が残っています。
一方で弟チャールズは兄の影響を受け、「趣味」程度ではあったもののノミの研究で有名になるなどしたようです。もっとも、家業の重圧がのしかかった為か彼は46歳で自殺してしまっています。
ウォルターはその14年後の1937年にウォルターは69歳で亡くなります。彼の遺言に基づき、彼の膨大な標本は大英博物館に寄贈されていまして、銀行家の跡取りは動物学者として名をあげ、そしてイギリスの動物学に多大な貢献を残す事となりました。
その一方で家業であった銀行家としては、名乗るのもおこがましいほどの状態だった、と言うのは面白いものではあります。無論、その家業のお陰で動物学者として名をあげた事も忘れてはいけませんがね。
ま、色々と名前を挙げましたが。
実際にはまだまだたくさんの科学者がこう言った話に挙げられます。ま、与太話ですので、こう言うのもよろしいかとは思いますがね。
興味を持ってもらえれば、と思います。
以上、長くなりました。
今回は以上という事にしましょう。
さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
ま、与太話というか。本当は別の話をする予定だったのですが、何かいつの間にかすり替わってしまいました(^^; まぁ、教科書やらに載っている様な「科学者」も実態は、なんて事がありますので。こう言う話も面白かろう、と言う事でやってみたんですがね。
如何なものでしょうかね?
無論、他にもたくさんいるのですが.....それはまた別の機会にしましょう。
そういう事で、今回は以上ですが。
ま、今年の「からむこらむ」はこれでおしまいという事ですが。一応、年明けにでもまた、と思っています。時間があればですがね(^^;
よい年をお迎えください。
そう言うことで、今回は以上です。
御感想、お待ちしていますm(__)m
次回をお楽しみに.......
(2004/12/28公開)
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