からむこらむ
〜その231:すべては紫煙の上に〜


まず最初に......

 こんにちは。12月も半ばですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 いやはや、2006年もあと2週間ぐらいですか。めちゃくちゃ早い物ですが。

 さて、今回のお話ですが。
 まぁ、前回の続きと言うことになりますかね。今回はタバコの文化というか変遷と言う話が主眼になると言うことになりますか。ま、科学とはちょいと離れることとなりますが、嗜好品として確固たる文化を築いていると言う事で、そういう部分に触れておいても損はしないだろう、と言う事で触れようかと思います。
 もっともこれは「一部」でしか無いのですがね。全部はさすがに苦しいのでご勘弁を。
 それでは「すべては紫煙の上に」の始まり始まり...........



「きみの欠点といえば」ホームズは赤くなった燃え殻を火箸ではさみあげて、長い桜材のパイプに火をつけた。彼は瞑想的な気分を離れて議論をしたくなると、陶製のパイプのかわりに、いつも桜のパイプを使うのだ。

(「椈の木荘」/『シャーロック・ホームズの冒険』所収
/アーサー・コナン・ドイル著 大久保康雄訳/早川書房)

 では、前回の続きと行きましょう。

 世界に広まっていったタバコですが、その拠点となった欧州ではどうだったのか?
 この地では一般に喧伝されたその「効能」の為に、当初は「薬」としての扱われ方が主なものとなっていました。1561年には教皇によって薬として認められていた事や、また前回のニコによる話なども含めてそのような使い方が一般的であったと言えるでしょう。
 しかし、一般にも広まっていく過程でやがて「薬」としての扱いが変化していくこととなります。その中でも特筆すべきものはイギリスでの流行でしょうか。

 タバコがイギリス、もう少し正確に言えばイングランドに伝わったのは、絶頂を迎えるエリザベス朝の時代でした。
 そのきっかけはフランスの宗教闘争であるユグノー戦争と考えられており、これに従軍したイギリスの騎士などがタバコの習慣をもって帰ったのが始まりと考えられているようです。そしてフランスで流行していた嗅ぎたばこ(非喫煙方式であることに注意)がイギリスへと導入されることとなります。
 ところがこれは余り隆盛せず、間も無くイギリスではパイプによる喫煙が大いに流行することとなります。
 そのきっかけはこのユグノー戦争に従軍し、そしてアイルランド問題の専門家としてエリザベス女王の寵愛を受け、さらにはアメリカにおけるイギリスの植民地を築き上げ(実際には彼は行っていませんが)、その今のフロリダ北部にある地をヴァージニア(Virginia)と命名した男、サー・ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh)の活躍によるものでした。
 イギリスでの、そしてその後の世界におけるタバコは彼無しでは語れない物となっています。

 当時欧州各国は新植民地建設の為に、新大陸への進出を積極的に狙っていました。
 イギリスによるアメリカへの移民と言うとメイフラワー号などを思い出される方もいるかもしれませんが、実際にはこれは「遅い」話であったりします。当時すでにイギリスはアメリカへの植民地建設を行おうとしており、その原動力としてはローリーの働きかけが大きくありました。ローリー自身は新大陸には行かなかったものの積極的に目を向けており、1584年、彼はフィリップ・アマダスとアーサー・バーローと言う二名の船長に命じて新大陸へ派遣。彼らは新大陸を探索し、そして「ヴァージニア」と命名される事になる土地を訪れ、そして6週間ほど今のフロリダからノースカロライナへの探検を行っています。
 この地の先住民は友好的であり、彼らは探検隊に「友好のパイプ」を贈っています。これはもちろん儀式として使われたタバコの重要性を示すものでもありますが、おそらくは探検隊がタバコの習慣を見た最初の機会であったとも思われます。
 探検隊はやがて本国へと帰還して報告。
 そしてこれに基づいた本格的な植民が翌年、ラルフ・レインを初代総督として試みられます。彼らは現在のノースカロライナ州沖合に存在するロアノーク島に拠点を置くのですが、しかし12ヶ月で先住民との不和や食糧問題で撤退。しかし、この時派遣されたローリーの部下で数学者、自然科学者であり、技術顧問兼通訳であったトマス・ハリオットはタバコについての記録を残しております。
 そしてこの植民団は、ちょうど西インド諸島での略奪の帰途についてヴァージニアへと寄港したフランシス・ドレイク(Francis Drake)船長の助けを得て本国へ帰還しているのですが、彼らはこの時タバコの種子、三名の現地人、そしてパイプを持ち帰ったと言われており、彼らはイギリスでこのタバコを嗜むこととなる......これがイギリスにおける本格的なタバコ喫煙の普及の契機となったようです。
 すなわち、イギリスに喫煙式のタバコを持ち込んでいったのは、このようなヴァージニアの植民に失敗して帰還した人達や、現地人達であったと言うことになる。そしてこれを指揮したローリーはそれを広める手助けをした、と言えるでしょう。
#昔はローリーが直接的に導入して広めた、と言う伝説もあったようですが。

 なお、余談ながらロアノーク島の植民は悲惨な結末を迎えています。
 レインらの遠征の後、再度実はロアノーク島への植民が試みられました。レインらの遠征に参加し、タバコ栽培についての詳細な記録と絵を残したジョン・ホワイトを総督とする次の植民団は、1587年にロアノーク島へ到達するものの食料難に面します。ホワイトは娘と孫を残して、そして全体では男87名、女17名、子ども11名を残して本国へ帰国。再度の渡航準備をするものの、スペインの無敵艦隊に阻まれるなどし、やっとロアノーク島へ戻ってきた1580年、そこには一切の人がいませんでした。
 原因は一切不祥ながら、おそらくは現地住民から襲撃をされたのだろう、と言うのが有力な説として残っています。
 このような事件から、このロアノーク島の植民地は「失われた植民地(The lost colony)」と呼ばれています。

 さて、このようにして新大陸からイギリスへと持ち込まれたタバコですが、その種子はアイルランドのローリーの領地(内乱の鎮圧の功績で得た)で栽培されることとなります。
 ローリーは積極的に栽培を推進しており、さらには自分の館の一室を改造して喫煙部屋を作り、そのタバコを使った吸い方のレクチャーにも力を入れています。しかし彼らが栽培していた北米産のN. rusticaは、当時のスペイン植民地のN. tabacumよりも室が悪いとされ、イギリスの初期の喫煙を支えた伊達男達からは敬遠されていました。事実消費者たる彼らが好んだのは、高価で同量のコショウの十倍の値段もすると言う、スペイン植民地の物でした。しかも当時のスペインの業者にとって、新たにタバコの習慣が広まっているイギリスは「新たな大量消費先」で、これは彼らにとっては大きな商機と言うことになり、スペイン植民地のタバコをイギリスへと積極的に売り込みをしていました。
 ローリーとしてはタバコを一つの産業として金もうけができるものと見なしていたのは確かでして、特に新大陸でこれを栽培して一大産業としたいと考えていたようです。しかし、現状ではこれがうまくいかず、主にスペインからの輸入となっている.......これは外国に金を払うと言うことであり、国の為にならない.......早い話「儲からない」と言う事になる。彼としては「国内産のもので」、あるいはやがて新大陸の植民地で栽培されるタバコを消費して欲しいと言う願いはあったようですが、これは中々実現しませんでした。
 ですが、イギリスでは彼の努力もあったでしょうし、大陸からの帰還者などからタバコは着実に広まっていくこととなります。
#余談ながら、アイルランドでじゃがいもの栽培を始め、促進したのはローリーと言う説があります。

 さて、様々な人間によってイギリスに導入されることとなったこのタバコ。
 イギリスでは薬種商(アポセカリー)で「薬草」として販売され、最初は紳士階級や伊達男達が、そして徐々に民間にまで広まることとなります。その為に街角ではパイプを貸し出すような仕事も存在していました。そしてローリー自身もイギリスの上流階級に広める手助けをしており、エリザベス女王に献上して彼女もパイプを吸うなど(この時最初一度吐き出して、ローリーの暗殺では、と一瞬疑われたもののちゃんと吸いきったと言う記録があるようです)、上流階級でも流行り出すこととなりました。
#言うまでも無く「女王陛下も嗜まれた、最新の流行」と言う扱いで始まる。
 無論、ローリー自身も喫煙をしています。
 これについては有名な逸話がありまして、パイプを一服ふかしていたローリーを見たタバコを知らない従者が「ご主人様が火事だ!」と手に持っていたビールを大慌てでかけた、なんて笑い話は(真偽はともかくも)現代にまで伝わっています。

 しかしこのサー・ウォルター・ローリーの栄華はエリザベス女王の死去とともに終えています。
 1603年、エリザベス女王が亡くなるとその後継としてスコットランド王であったジェイムズ6世(この人の母であるスコットランド女王メアリーはエリザベスによって処刑......その息子はエリザベスの遺言で即位とは面白いものですが)がジェイムズ1世として即位。これによってステュアート朝が始まることとなり、イングランドとスコットランドは同君連合となります。
#なお、彼は実質二度とスコットランドに戻らず「捨てた」と言う扱いだったようです。
#もっとも王が「出ていった」スコットランドはその後安定して平和だったと言う笑える話もありますが.......それまで多くの王が争いで死んでいる状態とは極めて対照的だったようです。
 そしてジェイムズ1世の即位直後、ローリーは謀反の疑いで幽閉されることとなります。もっとも、家族と住むことはできましたし皇太子ヘンリーと仲良くなれた上、著作もできたのでそれなりに自由はあったようですが。その後1616年に一度釈放され、宮廷の財政難を救う名目で南米オリノコ川までの遠征(これは実は二回目。エリザベスの治世末期に向かい、一回目は成功していた)を指揮することとなるのですが、スペインとごたごたを引き起こした上にこれに失敗して帰国。
 スペインからのクレームもあり、1618年10月にローリーは斬首刑により処刑されることとなります。
 その日の朝、彼は一服することを許され、愛用のパイプでタバコを吸ったと言われていますが.......

 さて、ではなぜローリーはこのような末路になったのか?
 ジェイムズ1世の視点から見ると色々とあると思われますが。一つはエリザベス女王の時代に活躍し、寵愛された家臣であったために目障りに感じたであろう事。そしてジェイムズ1世の性格と言ったものが大きくあったようです。
 どういうことか?
 この王はスコットランド時代に宗教問題で大変な目に遭った事もあってか、非常に宗教に凝った人でして、それが長じてか初の欽定訳聖書を出しています。また王権神授説を信奉しており、さらには悪魔学や魔女狩りを扱った著述もあります。そして何よりも大のタバコ嫌いと知られていまして、「禁煙王」などとも言われました。
#ついでにホモセクシャルでもあったようです。
 一方でローリーはタバコを産業として見込み、自らも好んでいてイギリスにタバコを広め、そして前政権の寵臣。
 彼がローリーを嫌った理由と考えられているようです。

 そのタバコ嫌いは王自身の筆を走らせる要因ともなりました。
 特に有名なのは1604年、タバコの害毒を説いたパンフレット『タバコ排撃論』があるでしょうか。17世紀初頭、急速に広まったタバコに対して快く思わなかった人も少なからずいたようで、当時の一般的な意見の表明方法であるパンフレットとして、『煙突掃除人の仕事』と言う物が登場します。妊婦に良くない、医学的に良くない、などといった7つの理由を掲げたこのパンフレットに対抗し、『タバコ擁護論』が登場。そしてさらに反論がでて、その反論が......そんな流れの中で「タバコ排撃論』が登場することとなります。
 このパンフレット、面白いことに匿名のパンフレットでして普通なら著者が分かりません。が、しかし表紙の裏には堂々と王家の紋章が描かれていると言うもので、王自身、自らの著作であることを全く隠す気がないと言うものでした。
 とにかくこの中で「フランスの真似なぞ」とか「スペインへの利敵行為」、「金の無駄」とかあれこれと理由を挙げつつ、最終的には「目に悪い」「鼻に煩わしい」「脳にも良くない」「こんなのを吸ったら地獄行き」と言うような事を書いています。
 このような影響からか、同時代の著名な作家であるウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)の作品にはタバコは一切出てこないと言う事が知られています。これは研究家の間で話題になったようでやはり研究対象となったようですが、この理由として「本来はタバコが劇中にでていたものの、国王一座として演じる為に変えられたのではないか、と考えられているようです。

 しかしタバコ嫌いのジェイムズ1世の努力もむなしく、実際には一度根付いたタバコの習慣を取りやめさせることはできませんでした。
 事実、ジェイムズ朝からタバコの販売店は許可制となり、市街には専門のタバコ商が登場することとなります。彼らはパイプ(当時は陶器製のクレイパイプが一般的)を始め、器具を貸し出してスペースも提供するなどもしています。
 そして新大陸の植民もまた進んでいくこととなります。これは1607年のジョン・スミスらによるヴァージニアの開拓がありまして、ローリーの願いであった永続的な植民に今回はついに成功。その首府を時の国王の名を取ってジェイムズタウンと命名しています。
 1620年のメイフラワー号に先んずること10年以上、彼らの開拓はイギリスにとって新大陸への大きな橋頭堡となり、ここから本格的にイギリスの植民地としての北米の歴史が始まることとなります。
#なお、この時の遠征での有名なエピソードの一つに映画にもなったポカホンタスの物語となります。
 そしてこの地でイギリスが大きく力を注いだのが、ローリーの念願となるタバコプランテーションの確立でした。

 アメリカでのタバコプランテーションは極めて成功しまして、現地では食料となるトウモロコシ栽培がおろそかになるのでは無いか、と危惧されるほど力が入れられることとなります。
 当初、イギリスでは1613年にはヴァージニア産のタバコは2300ポンドであり、一方でスペインからの輸入は5万ポンド以上となっていました。しかし5年後、ヴァージニアでは2万ポンド以上の収穫があり、しかも質も改善しており、1619年にはついにヴァージニア植民地からのタバコの輸入はスペインからの輸入量を凌駕するようになります。
 1620年には取り扱い業者(ヴァージニア、バーミューダーと言う会社があった)へ関税の強化がなされ(タバコ1ポンドにつき1シリングで、スペインからの輸入関税の半分程度)、1624年には本国でのタバコ栽培を完全に禁じ、全て植民地から得ることに決めます。

 このプランテーションを支えたのは、イギリスの20代前半を中心とする男性の下層民と黒人奴隷達でした。
 前者は初期のシステムによるもので、彼らはアメリカへの渡航費用を払ってもらう代わりに約4年の年季奉公をし、うまくいけばそのままプランターへと「昇格」すると言うシステムでした。このような人達はアメリカでのイギリス領植民地への移民の4割を占めていたと言われています。
 このシステムは当時はかなり必要だったようで、「大英帝国」本国の人口過剰状態の解決として行われていたようです。もっとも、17世紀に末にはこの人口過剰状態も解決し、また植民地の方も人口がかなり増えたと言う事で本国から人を引きつける必要がなくなる.......が、そうなると労働力が減る。
 では、どうするか? その代わりの労働力は奴隷に求められることになる.......と言う事でアフリカからの黒人奴隷が大規模に導入されることとなります。即ち、「アメリカの黒人奴隷の問題」は既にこの時点から始まると言うことになる。これ以降、タバコプランテーションで働く黒人奴隷が増加することとなります。
 このような状況下でプランテーションでの生産は確実に増加する消費を支えていました。1620年には一人当たりのタバコ消費量は微々たるものだったものの、1670年には1ポンド、1700年には2ポンドを越え、イギリスへの輸出量も3716万6000ポンドに達するなどしています。その後増減を繰り返しつつ、一人当たり年1.5〜2ポンド程度の消費を示すこととなります。
 また、イギリス本国へ運ばれ、そこで余剰となったタバコは再輸出されて他国に回されており、タバコはイギリスにとって大きな「金の成る木」となっています。
 このような急速なタバコ生産の発達は植民地でタバコが通貨の役割を果たすほどとなり、また本国へも金をもたらすこととなる。その経済状況はジェイムズ1世の次男で彼の後を継いだチャールズ1世(市民革命で処刑される王)が「すべては紫煙の上に」と言うほどの物だったようです。
 この流れは1740年頃まで続くのですが、しかしアメリカ植民地はやがてタバコモノカルチャーからの脱却を始めます。彼らはタバコから小麦への栽培の転換を行うようになり、多くのプランターがこの流れに乗って小麦栽培へと手を出していくようになっていきます。
 そのようなヴァージニアの大プランターで、小麦への転換を進めた中にジョージ・ワシントン(George Washington)などがいまして、彼らがやがてイギリスによる植民地支配から脱しようとし、独立戦争へと繋がっていくと言うのは興味深いものでしょうか。

 さて、このようなタバコですが、実は欧州では嗜み方には余り多様性がありませんでした。
 実は17世紀から19世紀前半までは欧州でのタバコのたしなみの主力は、実はパイプでは無く非喫煙式である嗅ぎたばこでした。イギリスも例外では無く、17世紀半ばまではパイプによる喫煙が流行っていたものの、1680年代ごろから嗅ぎたばこへと移行しているようです。
 もともとこの方法はスペインで多く嗜まれていたものの、フランス、ドイツ、そしてタバコに力を入れていたオランダなども基本的には嗅ぎたばこが流行しており、一般にタバコとして想起される喫煙式は余り流行っていませんでした。
 これは時代の風潮もあったようですが、何よりも面倒な道具が余りいらないと言うのは大きかったようです。
 それには嗅ぎたばこの楽しみ方の説明がいるでしょう。まずは「キャロット」と呼ばれる、棒状に整形されたタバコを用意します。これはタバコの葉を縒り上げてロールタバコとよばれるものを作り圧縮し、これを切り分けた後にまた圧縮して整形したものです。これを下ろし具ですり下ろしまして、後はその粉末を一つまみ鼻へ......つまりパイプやら火やらが必要な喫煙とは異なり、「軽く楽しめる」と言うものとなる。
 この方法、さらに発展して香料を混ぜるといった楽しみ方がありました。上流社会では幅広く使われたようで、優雅にすり下ろして見せるやら、香料との配合やらで楽しみあうと言う習慣が存在しています。またその入れ物は貴族の力を示す為のものにも利用されており、彼らの使う嗅ぎたばこを入れる容器の豪華さを競う、と言うか見せびらかすことがよくあったようです。その材料は金銀等はもちろん象牙でできたもの、など色々とあり、現代にもコレクターがいるほどとなっています。
 なお、余談ながらマリー・アントワネットのウェディングバスケットには、黄金の嗅ぎたばこ入れが52個も入っていたと言う話もあるようです。ま、財力と言った「力の誇示」の小道具として使われたと言えるでしょう。

 ところが、19世紀になると喫煙が復活します。
 嗅ぎたばこが主力の間でもパイプ喫煙も絶滅したわけでは無く、主にパイプは下層庶民が多く使っていました。そして1830年にはフランスでパイプ喫煙がまた流行り出し、イギリスも19世紀半ばには6割がパイプ喫煙へと変化。同時代のオーストリアでは8割となります。またスペインから出て行くことの無かった葉巻の習慣もナポレオンによって広まっていき、19世紀には欧州で広く嗜まれるようになります。
 実は欧州で戦争に明け暮れたナポレオン軍は、葉巻・パイプによる喫煙の習慣を欧州各地に広めると言う「役割」を果たしたようです。もっとも、ナポレオン本人は嗅ぎたばこ派だったようですが。
 一方、海を渡ったアメリカでは独立戦争後に噛みタバコが流行っており、喫煙と同居していたようです。これは面白いもので、欧州では「噛む」と言う行為......これは食品と言うよりは例えばガムのような物を「噛み続ける」と言う意味での「チューイング」と言う行為は下品と見なされていたようで、事実口臭や歯・唇の汚れ、辺りに唾を吐き散らすと言うものがあり、「空腹をごまかす」と言う作用などは注目されたようですが広まりませんでした。
 しかしアメリカでは余り問題にならなかったようですが。今現在でもスポーツ選手がこれをやっており、見かけることがあります。
#昨今はしかしガムで噛む行為の代用としている事も多いようですが。

 さて、そのような中、ついに我々が一般に目にする「タバコ」が登場することとなります。
 実はこれまで触れた中で余り主力でなかったタバコの吸い方として「紙巻タバコ」と言うものがありました。即ちこれは「刻んだタバコを紙に巻いて火をつけ、煙を吸う」と言う今現在の一般的な喫煙形態ですが、これは実は19世紀に登場することになります。
 もともと「紙巻タバコ」の元となるような吸い方の形態はアメリカの原住民達がやっていたと言われています。彼らは刻んだタバコの葉をトウモロコシの葉や樹皮に巻いて吸う、と言う事をしていたようです。しかしこれは欧州では一般的にはならず、「紙で巻く」と言う事を考えるとやはり使われていない方法と見なせるでしょうか。
 紙巻タバコが本格的に登場したのは19世紀の大きな戦争の一つクリミア戦争の頃と言われています。
 実際には19世紀にスペインからフランス〜ロシアへと渡っていき、欧州各地で吸われるようになっているのですが、一説にはクリミア戦争の最中にこのタバコの使い方が広がり、この戦争を経てから本格的な生産が始まります。事実この時期にクリミア戦争で紙巻タバコを覚えた兵士達は、帰国後これを求めるようになりっており、1850年代後半にイギリスでこれに応じたのが、実は現在世界最大のタバコ企業である会社を興すフィリップ・モリス(Philip Morris)でした。
 そしてこのイギリスを経由してアメリカにも紙巻タバコは伝わり、以後アメリカでも広まっていく事になります。

 もっとも、現在は主流のこの紙巻タバコ。
 実は本格的に「主流」となるのは第二次世界大戦以降でして、それまでは既存の吸い方の多様性もあった為か簡単に地位は変わらなかったようです。20世紀初頭のアメリカでもシェアは5%以下だったようで、噛みタバコと互角かそれ以下のシェア程度しかなかったようです。
 ただ、普及はそれなりに進んでいまして、19世紀後半の物語であるシャーロック・ホームズではタバコの形態が複数存在していることに気付きます。
 例えば今回の冒頭で紹介した「椈の木荘」では、パイプを吸っている様子が分かり、しかも陶器のパイプ(クレイパイプとも)を普段彼が愛用する一方、議論したくなれば桜材のパイプに変える。では彼がパイプしか吸わないのか、と言うと実はホームズの短編シリーズの最初の作品「ボヘミア国王の醜聞(A Scandal in Bohemia)」においてホームズの家を訪ねたワトソンに対し
挨拶らしいことも言わなかったが、やさしい目つきで、肘掛椅子に掛けるよう手で合図し、葉巻の箱を投げてくれ、酒の箱と炭酸水のサイフォンが部屋の隅にあることを指でさし示した

(「ボヘミア国王の醜聞」/『シャーロック・ホームズの冒険』所収
/アーサー・コナン・ドイル著 大久保康雄訳/早川書房)

 とあるように葉巻を持っている事も示されています。
 さらには同作品中にはボヘミア国王からの依頼となる手紙の紙の分析の後に
彼は目を輝かせ、得意そうに煙草の青い煙を吐き出した。(His eyes sparkled, and he sent up a great blue triumphant cloud from his cigarette.)

(英文を除く訳は同上。)

 とあります。原文の最後に「cigarette」とあり、これは紙巻タバコを意味することになる.......まぁ、もっともこの訳もちょっと変でして「青い煙」としていますけど、普通は「紫煙」と訳すものだろうなぁ、と思いますが........ま、ともかくも1891年と言う19世紀末期に書かれたこの作品が示すこととしては、この時期のイギリスには葉巻、パイプ、紙巻タバコと様々な喫煙の選択肢があったと言うことになるでしょうか。
#余談ながらホームズは設定上タバコの灰の識別の論文を書くほどで、しかもヘビースモーカーと言う設定と言うのもありますが。
 各国・地域で好みはあったでしょうが、タバコの嗜み方は混在して存在していました。もっとも最終的には紙巻タバコが優位となってくることとなりますが.......


 さて、では紙巻タバコはどのように発展したのか、そして現代のタバコは?
 そのような話をするにはさすがに長くなってしまいました。次回はそれに関する話をしてみたいと思います。

 今回は以上と言う事にしましょう。




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回は科学の話がほとんどないですが(^^; ただ、いきなり成分の話と言うのもなんですし。とりあえずは触れて起きたいものでもある、と言う事で歴史が主眼になりましたが、駆け足で触れてみました。まぁ、やはり「大英帝国」というものの役割が大きいので、触れるとそっちが主眼にならざるを得ないのですがね。
 まぁ、しかしこれはやはりタバコの歴史では重要となりますので。興味を持っていただければと思いますが。

 そういう事で、今回は以上ですが。
 次回はとりあえず紙巻タバコの変遷と昨今のスモーカーの人達が肩身の狭い思いをしている歴史へと入っていこうかと思いますが。徐々に科学に戻る予定です。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2006/12/16公開)


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