からむこらむ
〜その95:ロンドンの雨傘と便秘薬〜


まず最初に......

 こんにちは。12月........師走ですね。大分寒くなってきましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 ま、忘年会シーズンですが.........酒は程々に、と言うことで(^^;;

 さて、今回も気楽に読んでいただきましょう。
 今回は、スパイと古文書に書かれた下剤の話です.........って書くと「???」と思われると思いますが........ま、読んで行って下さい。
 それでは「ロンドンの雨傘と便秘薬」の始まり始まり...........



 さて........まずは冷戦下の時代の話をしてみましょうか。
 時は.......1978年、8月のこと。一人の男が東欧ブルガリアから、西欧へと向かいました。男には二つの使命が与えられていました。その一つはまずフランスで実行されることとなります。
 フランスの首都、パリ。ここの地下鉄である男が襲撃されます。被害者はブルガリア人のラジオ・TVレポーターであるウラジミール・コストフ。彼が地下鉄に乗っていると、背中を「ちくり」と刺されたような感覚を覚えます。そして、その晩のこと。彼は高熱にうなされることとなりました。
 さて、病院に運ばれたコストフ。病院では原因追求をしますがよくわからない.........が、X線による検査の結果背中に何かがある、と言うことが判明します。手術で背中の皮膚の下を切開すると、そこには、小さい金属の玉がありました。幸いにも彼は命をとりとめました。が、この玉に関しては探索が続きます。
 そしてわかったことは、その金属製の玉の中には何かの粉末が............


 さて、ご覧の方の中で色々と「お通じ」に悩む方が多いかと思いますが.........ま、いわゆる「便秘」ですが。この便秘。実は現代だけでなく古今東西の問題であったりしまして........多くの人が悩まされている病気の一つでもあるようです。

 ところで、紀元前500年頃の記録によれば、エジプト人は「全ての病は口を通じて食物から入る、と仮定し、毎月三日間続いて通じをつけ、吐剤と灌腸によって健康を維持していた」という記録があるそうです。つまり、食べ物から病が入るので、月に三日間連続で薬剤(下剤や浣腸)を使ってでも老廃物を出す」、ということをして、病を追い出した、ということです。
 こう言った記録には裏付けがあります。1873年にドイツのエジプト学者にして小説家である、ゲオルグ・モリッツ・エーベルス(Geong Moritz Ebers)という人物がエジプトのルクソールで最古の医学書を発見します(もっとも、これには「金持ちから買い取った」という説と、「遺跡でミイラの膝の間から出た」というエーベルスの主張がありますが)。これは紀元前1500〜2000年ぐらいに成立したと考えられる古代エジプト人による記録で、幅約30cm、長さ約20mという巻物でして、古代エジプトの薬学、外科手術に関する情報、800以上もの薬物の記録(植物エキスや、動物の臓器、鉱物など.......ただし、「今現在で見た場合」に有効でないものも多くある)が2289行に渡って記載されています。これは発見者の名を取り「エーベルス・パピルス」(本によっては「パピルス・エーベルス」との記載あり)と呼ばれているのですが.........奇跡的にこの記録はほぼ完全な形で出てきたため、考古学的に非常に重要なものとなりましたが、その内容から薬学などにおいて特に注目すべき点が多い物でした。事実、いくつかの薬剤に関しては後の世でも、そして現在でも用いられ、薬局などで手に入る物の成分を占めていることがある、と言えばどれくらいの物であるかはイメージが掴めるでしょうか?

 さて、そのエーベルス・パピルス。上記のエジプト人の生活の一端からかいま見られるように..........非常に「老廃物を出す為の薬剤」と言うものが多く記録されています。例えば、荒唐無稽なものならば「油で炒めた古い書物で身体をなで回す」ことで子供の多尿症の治療を行う、という物があります。が、もちろんこういう物だけでなく、実際に有効なものも記録がありまして.......例えば、ファラオ達はセンナというカワラケツメイ属の植物からの抽出液を好んで飲んだとされています。これは、腸の蠕動(腸のリズミカルな動き。腸内のものを運ぶ働きがある)を引き起こす、という役割があります。そして、有名なものには、ひまし(蓖麻子)油とビールを用いた方法がありまして、「ヒマの種子をかみ砕き、ビールとともに飲み下せば体内の悪しきもの全てを排出する」という記録があります。
#もっとも、後を見ればわかる通り「かみ砕く」という表現がちょっと問題になるような気もするんですけどね.........「油をとり」という意味程度と思われますが。
#無関係と言うと、エジプトの神々を讚えながらある種の魚から得られるゼラチンの点眼剤で白内障を治す、と言うものもあるそうですが。

 こう言ったいわゆる「下剤」という物は古今東西において便秘に悩まされる人がいた、と言うことからも各地で重宝されていたようでして、中国は漢方にもある「大黄」などは、中国最古の漢方の医学書で、伝説の皇帝であり、自ら民に医術を教え、薬毒を調べたとされる「神農」の名を冠した「神農本草経(しんのうほんぞうきょう/しんのうほんぞうけい)」と呼ばれる書物(後漢代頃?)にも、「お通じの薬」と言うことで記載されています。
#とは言っても、大黄も色々とあり、薬用の物を使用するわけですが。
 また、よく知られている植物であるアロエにもこのような効果があることが知られており、紀元前350年頃にアレキサンダー大王が地中海アラビア沿岸のソコトラ島を征服した際、目的の一つにはそこにあるアロエを用いて下剤を生産する事だった、と言われています。
 これらは実際に細菌性の下痢などの治療に用いられたりしたのですが............

 まぁ下剤だけでも結構ボリュームがありまして、下剤の種類のほかにも「下る」のならばそれを「止める」という物の存在とかもあるのですが..........今回はそっちの話がメインではないので、取りあえずは、話をエジプトの方に戻しましょう。

 さて、上に書いた通り古代エジプト人はエーベルス・パピルスに記録されていることから、ひまし油とビールの下剤を使用していたと考えられます。
 では、このひまし油。どういうものかと言いますと........アフリカ、あるいはインドに成育している植物にトウゴマ、またはヒマ(Ricinus communis)と呼ばれる植物があります。その特徴は「目立って大きな葉を持つ中くらいの大きさの草で、草には緑がかった花を咲かせ、美しい大理石模様のある種子が入ったトゲの多い莢(さや)を付ける」という物です。葉は深緑色でして、幅が50〜90cm。一般に一年生植物として栽培されていますが、観賞用となると高さが1.2〜2.4mにも達します。この植物の莢から得られた種子より取った油を「ひまし油」と呼びます。
 このひまし油はエーベルス・パピルスに記載されていることからも非常に古くから知られていたことが伺え、事実エジプト人は下剤として使った記録があるわけですし、ローマ人達も学者プリニーの記録に「ひまし油と同量の水を一緒に飲むと腸に下剤として作用する」という記述があります。また、彼らの墓には種子が添えられていたケースも知られています。
 名前の由来は面白く、ローマ人はこの植物の種子を「ダニに似ている」と思ったそうでして、その昆虫の名のラテン名よりこの植物を「リキヌス(Ricinus)」と名付けました。これが、学名として現在でも残っている、と言うことになります。

 ひまし油は古今問わず非常によく使われていたようでして、近代になってもイギリスのある医者は「ひまし油よりも強力な下剤は不適当である」というコメントを残しており、更に「真の下剤」として評価している医者がいます。もっとも、「嫌な風味」と言うことで避けられていた傾向もありまして、色々と果汁などを入れたりして工夫したようですが......... 作用としてはほぼ一時に全ての腸組織を緩やかに刺激し始めるのが特徴でして、3〜4時間、ないしはそれ以内に完全に腸の内容物を排泄させる作用があります。余り「急激な作用」でもなく、風味さえ我慢すれば穏やかに作用するので、便秘の際には非常に良い薬品として重宝されました。
 もっとも、ある地域では一時期「全ての熱病の熱」に。特に「性病の熱を調節する」薬に用いられた、という記録もあるようでして、下剤以外の効果を期待していた地域もあったようですが...........残念ながらそう言ったものには効果はなかったようです。
 薬剤としては1778年にひまし油がロンドン薬局方に取り入れられた記録がありますが、現在では余り下剤としては使われていないようでして、どちらかというとポマードの原料や、ペイント原料、その他いくつかの油が関与する製品に使用されているようです。


 さて、このひまし油。下剤として有用である、と言うことは上に書きましたが..........難点がありました。
 それは、種子からこのような「有用な」油が取れるものの、同じく種子は活性毒物をも持っている、ということでした。この毒物、非常に致命的な物でして数々の不幸を生みだした記録が残っています。例えば、下剤に使用するわけでして口から「飲む」訳ですが、この油の中に下手な精製を行ったがためにその毒が漏れ出して.......というケースがかなりあるようです。実際、毒物による汚染を受けずにひまし油を搾り出すのは非常に高度な技術を要するものでしたので、そのような質の悪いひまし油は多かったと考えられます。
 しかし、莢から取りだした種子を10度以下の温度でローラーで潰すと、油を毒物を混入させることなく得られることが判明し、これが商品として使われることとなります。

 さて、この毒物。果たしてどういうものか、と言うと........?
 成分は糖タンパク質でして、タンパク質にその92その93でやった糖鎖が結合したものです。非常に複雑で大きな分子でして、二つの「部分」に分けることが出来ます。片方を「A鎖」または「Aサブユニット(A subunit)」と、もう片方を「B鎖」または「Bサブユニット」と呼びまして、Aサブユニットは分子量が約32,000。Bサブユニットは約34,000の分子量となっています。種類が何種類か存在していまして、それぞれで分子量が異なっています(よって、資料によりかなり分子量が異なる化合物です)。まぁ、大きすぎてとても構造式は書けませんが.......(^^;;
#一次構造でも無理ですねぇ.......
 毒性は極めて強い部類でして、天然物では「最強」の部類に入ります。極少量で死に至りまして、最小で0.03mg程度で死ぬこともあるようです。余りにも強力な毒性のため、当然のことながらひまし油の精製時に文字通り「わずか」にでも入り込めば.........? こう言った事故は本当に多かったようです。
 この毒物の作用機構としては、まずB鎖が細胞に付きまして細胞内へ侵入。そして、A鎖を細胞内に送り込みます。この後、A鎖が細胞内でタンパク質の合成を阻害し、これにより体内の代謝を乱して死に至る、と言うことが知られています。症状としては内臓の諸器官で激しい出血を起こすことが知られています。実際に影響を与えるまでには時間がかかりますので、毒としては「遅効性」の作用を持っています。
 しかし、化学的にはタンパク質ですので熱により変成しまして、これにより毒性が減じることが知られています。
#専門向け注:A鎖はリボゾームの60S粒子へと作用してタンパク質の合成阻害をします。
#つまり、60Sのみ特異に有効である場合、大腸菌には無効、ということになりますな(30Sと50Sだから)。
 このタンパク質を、ヒマの名前より「リシン(ricin)」と呼んでいます。
 他にもひまし油にはリシニン(ricinine)という化合物も入っていまして、この化合物の摂取で吐き気、けいれん、血圧降下という症状が起こり、昏睡状態に陥って死亡することもあります。このリシニンは若いヒマのあらゆる部分より得られることが出来ます。
 こちらは分子量が小さいので、一応構造式を示しておきます。



 左はそのリシニンです。右はその60でも触れたビタミンの一種であるニコチンアミドでして、天然ではニコチンアミドよりリシニンは合成されています。ま、ここら辺は興味ある方のみ、ですけどね。
 ちなみに、リシンは色々とよく触れられるのですが、リシニンは忘れ去られている化合物のようです。ま、リシンが余りにも強力すぎるのが原因ですが。

 さて、リシニンはともかくリシンの方。こちらは化学兵器としての役割への期待により、1960年代にアメリカではヒマの種子粉末を化学兵器として利用するための特許を得ます。これはつまり、十分に兵器としての転用が出来るほど強力な毒物である、という意味でもありました。
#人殺しに特許、と言うのもどうかと思いますが..........
 そして、それを実際に........「暗殺用」として利用する事件が1978年に2件起きました。


 話を今回の最初に戻しましょう。
 コストフの事件より2週間後の1978年9月7日。今度はイギリスはワーテルロー橋でのこと。ブルガリア生まれの作家・劇作家で1969年6月に祖国の体制に嫌気が差して亡命し、1978年当時イギリスでBBC放送の「自由ヨーロッパのラジオ」担当者であったゲオルギ・マルコフは、BBCワールドサービスのビルでの仕事を終えてワーテルロー橋でバスを待っていました。
 さて、マルコフがバスを待っていると.......突然、彼は太ももに鋭い痛みを覚えます。振り向くと、男が一人。彼が落としたと思われる傘を拾い上げていました。彼はマルコフに「失礼」、と謝罪するといそいそとタクシーに乗ってその場を去っていってしまいました。マルコフはそのまま帰宅してから妻と夕食を共にしたのですが.........就寝時に身体の不調を覚えます。この時、初めて妻に傘の話をしました。
 体調の不調は続き、翌日の午前2時には体温は40度へ。救急車で病院へ収容されたマルコフは4日後、病院で死にます。「毒を仕込まれた。殺される」と言う言葉を残して..........

 マルコフの症状に説明がつかない。これに困惑した医者は遺体をしらみつぶしに調べたところ、大腿部に小さな金属製の玉を見つけます。直径わずか1.52mm(ピンと来なければ、定規を見てみるとわかるでしょう)。成分はプラチナ-イリジウム合金で、ジェット機のエンジンに使うような合金。更にこの穴には0.35mm大の穴が二つ、中で連結するように巧みに掘り抜かれていました。そして、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の法医学研究所が調べた結果、この玉は2週間前にパリで襲われたブルガリア人、ウラジミール・コストフから摘出された玉と同種の物であることが判明。フランスの事件で玉に残った粉末の情報を得て、イギリスの細菌化学戦の専門家がこれを調べると.........リシンであることが判明します。念の為、豚を使った動物実験を行ったところ、マルコフの症状と同じ症状を確認。これにより、二人のブルガリア人を襲った毒はリシンであることが確定します。
#実際には、更にいくつかの毒物を入れて毒性の強化がされていた、という話もあります。
 もっとも、幸いなことにパリの事例では致死量のリシンは入っていなかったため、2件の暗殺事件の内、1件は「未遂」となるのですが...........
 これを受けてスコットランドヤードは、聞き込みを開始。タクシー運転手を探したり目撃者を求めるも、結局は犯人の特定は出来ず.......少なくともこの暗殺者は「良い仕事」をして消えてしまった、という結果となりました。一応、「誰がやったか」についてはブルガリア秘密警察ではないか、という推測がされます。つまり、彼らがコストフとマルコフが行っていた(ブルガリア政府にとっての)反体制活動に対する「処罰」ではないか、という推測でした。
 一応、スコットランドヤードの名誉のために書いておきますと、彼らは苦労して事の次第を組み立てて、査問会において不法殺害の表決を下させた、という記録があります。

 尚、マルコフの命を奪った傘。これは現在では仕込み傘である、という推測がされています。
 これは、傘を改造し、リシン入りの玉を傘の先端から犠牲者へと撃ち込む、という構造ではないかと推測されています。リシンは、経口で十分な毒性を発揮しますが、体内に撃ち込めば更に毒性が増加しますので、これは確実を期す方法であると言えます。
 ........おっかないですけどね。


 ま、古文書にも記された下剤を生みだす植物が、最強の毒性を持つ毒も生みだす、という事。
 なかなか自然というのは面白いものですが............

 さて、長くなりました。
 今回は以上ということで。




 終わり、っと。

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 今回はその82でやった様な暗殺にも絡みましたけど、面白いことに薬としても使われという話でしたが.........ま、最強の毒物を生みだす、下剤と言うのもなかなか面白いものだと思います。
 取りあえずは楽しんでいただけたら、良いのですが。

 さて、次回は..........何にしましょうか。時節柄という訳ではありませんが、ちょっくら「聖人」の話でもしてみようかと思っていますけど、出来るかどうか(^^;;
 ま、どうしますかね(^^;;

 さて、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.............

(2000/12/05記述)


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