からむこらむ
〜その164:クレオパトラと犬殺し〜


まず最初に......

 こんにちは。寒暖の差が激しいですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 まぁ、新年度が始まっていますけど。何となく緊張以前に気候でへばりそうですね........

 さて、今回のお話ですが。
 え〜、忙しいので少し悩んだんですが、とある植物の成分の話をしてみようかと思います。
 ま、結構有名な物質ですので名前ぐらいは聞いた事があるとも思いますが。ただ、どういう物で、その背景や歴史などはあまり知らない人も多いと思います。まぁ、参考になればと思いますが。
 それでは「クレオパトラと犬殺し」の始まり始まり...........



 さて、江戸時代と言うのは比較的平穏な時代でして、同時に庶民の生活にも色々な物が登場した時代です。
 こういった生活の中で、次のような掛け声である物を売り回る職業がありました。その掛け声とは、
 と言うものでして........まぁ、石見銀山(「いわみぎんざん」)とは言っても別に銀を売るわけではなく、その銀山でとれた副産物であるヒ素(亜ヒ酸)がその正体でして、その26でも書いたように「いたずらもの」、つまりネズミを駆除するための殺鼠剤として用いられていました。
 さて、ネズミ退治と言うのは衛生的な面からでは現在の様な概念は無いでしょうが、貴重な食料などを食い荒らされてはたまりませんから当時でも生活の上では重要なことでした。これは都市生活に限定した物ではなく、野ネズミなどは農作物を荒らす事もありますから色々な面でこの駆除が重要であると言うことは理解してもらえると思います。
 このネズミ退治と言うのは猫などを飼って、と言う方法もありましたが、薬剤と言う点から見ると石見銀山が有名でした。これは江戸の終わった後でも黄リンの登場まで良く使われました........まぁ、困ったことにネズミ退治以外の目的(殺人含む:その26参照)にも使われましたが。それはともかくも、他にも退治するための薬剤という物がいくつか存在していまして、その中の一つに「馬銭(まちん)」と言う物がありました。これは江戸川柳に「マチン下さいと鼻ったらしくる」と言う物があるくらいでして、当時よく知られていて普通に使われていたようです。
 このマチンというもの。漢方にも登場する物でして、東洋では結構古くから用いられている物でした。
 ま、用途は色々でして、漢方と言うからには健康に関する物でありましたし、一方では江戸時代の例のごとく殺鼠剤として、あるいは当時は犬を殺すためにも用いられていました。
 今回は、この馬銭の話をしてみましょう。


 では最初に、今回の主役、「マチン」とは何か?
 これは植物でして、マチン科(Loganiaceae)の木(昔の資料を見るとフジウツギ科となっている物も見かけますが)です。学名を"Strychnos nux-vomica"(ストリキノス ヌックス-ホミカ)と言います。インド原産と言われていまして、インドやスリランカ、東南アジアやオーストリア北部など幅広く成育する高木で15mぐらいに育ち、大きな物は30m以上にもなると言われています。ま、植物学的な特徴を片っ端から挙げてもどうかと思いますのであまり詳しく書きませんが、直径6〜13cmの橙色の果実を実らせ、この中に数個の種子をもちます。
 この木は薬用として用いられることがあり、原産地インドでは木部を熱病、消化不良に用いられています。一方、この木の種子は平べったい灰色でして、人によってはボタンに例えられます。漢方では生薬として馬銭子(まちんし)、蕃木鼈子(ばんぼくべつし)と呼ばれて用いられます。和名はこの馬銭子から取られた物です。尚、この生薬は「ホミカ(子)」とも呼ばれています。用法は少量を苦味健胃薬として、食欲増進剤として用いられます。また血圧上昇効果や心臓機能の回復に用いられることもあったようです。
 尚、フィリピンにある同属の植物にS.ignatiiという物もありまして、この種子をイグナチウス子(ignatius beans)あるいは呂宋果(るそんか)と称します。これもまたヨーロッパや漢方で強壮興奮薬として用いられることがありますので、そういう意味では同属の植物も利用されていると言えるでしょうか。

 ところでこの馬銭子と言う物。
 漢方での話のように苦味健胃薬として用いられてはいますが、上に書いた通り殺鼠剤やら犬を殺す、あるいは殺虫剤としても用いられていまして、中に有毒な成分があることは古くから知られていました。実際、中国においては過去にこの馬銭子が頻繁に暗殺に用いられたようで、暗殺のために漢方医がこの馬銭子を云々、と言う話が結構あったようです。
 まぁ、物騒きわまりないですが。
 東南アジアではこの馬銭子やその類縁の物を矢毒として用いるケースがあることが知られていまして、同時にこれを使った「漁」の話があります。これはワニが好むサギの一種にこの毒を塗って川に放っておくとワニが川一面に浮かぶ、と言う物だそうですが......まぁ、これは真偽は不明ですけどね(デリス根を使った漁にも似ていますけど)。更にベトナムでは犬を食べる習慣がありますが、この犬を殺すのに馬銭子を用いているという話ですが。

 日本ではもっぱらネズミや犬(何故か良く犬が殺されるんですが)を殺すために用いられた馬銭子ですが、案の定と言いますか殺人にも使われたようです。同時に、少し意外な方向にも用いられたようですが........
 その意外な方向とは何か?
 実は「目つぶし」がそれになります。誰が使ったのかというとこれはいわゆる「忍者」が想起されやすいと思いますが、彼らの他にもいわゆる「岡っ引き」と言った治安関係者(ただし本当に下っ端。与力、同心などの武士階級はあまり用いなかったようです:本来的に「卑怯」なので武士にふさわしい物ではない)が使っていたようです。意外と知られていませんが、江戸時代には「捕縛術」の流派が多数ありまして、そういった流派にこの目つぶし用の道具の記録や処方が残っています。ですから、比較的よく使っていたのかもしれません。ま、目を潰せばいかに剛の者といえどその腕をいかすことはまず出来ない、と言うことで大きな効果はあったと思われます。
 この目つぶし粉の処方は秘とされていまして、一般に「八味」と称される物(8種類入れたのでしょう)があります。が、実はある程度分かっていまして、基本的には牡蠣粉、唐辛子粉、松脂粉、胡椒、砂という物だったようです(不明な点はあるのですが、バリエーションは多いのは確かの様です)。場合によっては、鶏卵の中に粉を入れ、更に爆薬まで仕込むという物もあります。この場合、目をくらませるのはもちろんのこと、爆発によって飛散した物を吸い込めば気絶したといいますので、かなり「きつい」物ではあったようです。
 そして、こういった目つぶしに対してマチンをを用いたケースが知られていまして、実際に使われることがあったようです。例えば馬銭と鉄砂を混ぜた「砂迅雷(さじんらい)」と呼ばれた目つぶしがありまして、これは目つぶしとしてかなり強力な物となったようですが.........

 などと、日本と中国の例を出しましたが。
 この馬銭子はヨーロッパにも渡っています。その時代は1637年と言われていまして、学名などはこのときにつけられました。その名付け親は植物学の大家リンネでして、上述の学名が付けられることとなります。が、実はこの学名は「大きな誤り」があることが知られています。と言うのは"nux-vomica"、すなわち「ヌックス-ホミカ」というのは実は「嘔吐を起こさせる木の実」という意味なのですが、この種子にはその作用は無い、とされています。
 まぁ、それでもずっと使われたがためにこの名称が今でも使われ、「ホミカ」と言う名前で生薬が使われる訳ですが.......ただ、そういう意味ではリンネはキニーネの名称のミスもありますので、色々と「やっている」物を感じますけどね。
 ヨーロッパでの使用は結構あったようですが、ここでは強壮剤か毒殺用として使用されていたようです。
 まぁ、どこもかしこもと言うことでしょうが。


 さて、この馬銭子の物騒な成分は一体なんであるのか?
 この興味は当然科学者達の興味を引きまして、化学の発達した後に行われました。その主要成分の分離は1818年に行われていまして、その成分はマチンの学名より「ストリキニーネ(strychnine:または「ストリキニン」)」と名づけられることとなります。マチンの成分の研究は更に行われまして、現在では馬銭子の主要成分はこのストリキニーネ他に構造が若干違うブルシン(brucine)が見つかっており、両者をもってマチンの主成分としています。
#尚、イグナチウス子も両者を含んでいます。




 化学的に見ますと両者は基本部分が同じ化合物でして、天然ではアミノ酸の一つトリプトファンより出来ます。躁鬱病で話に出たセロトニンや、精神分裂病(統合失調症)で出てきたレセルピンもこのアミノ酸より作られていますので、大学で有機化学をやっている人は構造を見比べてみると良いでしょう。
#見抜けなければまだまだ、です。
 尚、構造は20世紀半ばに提出され、全合成は今まで何度も出ているウッドワードらによって完成されており、これによって構造が確定されています。

 ところで、ストリキニーネは一般に硝酸塩である硝酸ストリキニーネとして用いられることが多くあります。まぁ、「ストリキニーネ」単独よりは「硝酸ストリキニーネ」の名称の方が一般に良く聞かれるかもしれませんが。毒殺に用いられる程ですから非常に毒性の高い物質でして、その致死量はイヌでは1.2〜3.9mg/kgで致死量になるというデータがあります。ヒトの場合は硫酸塩で0.03〜0.1g(=30mg〜100mg)と言われていまして(成人で0.3mg/kg前後というデータもあるようです)、これは大体馬銭子一粒に含まれる量が致死量になる計算と言われています。尚、ブルシンはストリキニーネの約20〜30分の1の毒性とされています。
 この0.1g以下の用量で死に至る、と言うことは相当にかなり強力な毒であることを示しています。同時に、漢方で用いる量がかなり少量でないと危険きわまりない、と言うことも理解してもらえるかと思います。実際、薬用量と中毒量が接近しているために誤用による危険性が大きく、医療ではあまり使われない様です。一応、医療用として使うケースとしては、アルコール中毒や鎮静剤を過剰に飲んだ時や、脳出血後のマヒ、視力障害に用いることがある様ですが。
 尚、ストリキニーネは非常に「苦味のある」物質であることが知られていまして(アルカロイドの特徴でもあるのですが)、40万倍に希釈された濃度でもまだ苦味を感じると言われています。

 ストリキニーネの作用機構は良く知られていまして、神経系に作用します。
 これによって引き起こされる症状は非常に特徴的な物でして、中毒すると全身の筋肉が強直性のけいれんを起こします(体がのけぞってブリッジ状になる:破傷風菌による物と似ています)。これはストリキニーネが脊髄の反射機能を亢進させるためとなっています。もう少し詳しく説明しますと、要は脊髄を興奮させるのですが、これは通常「興奮」と「抑制」によってコントロールされる所を、「抑制」の機構がストリキニーネによって阻害される為に起こります。つまり「抑制」をかける機能が失われるわけでして、これによって脊髄が興奮した状態になって筋肉のコントロールが不可能となり、これが痙攣の原因となります。
#よって「興奮」させることから、医療目的でアルコールや鎮静剤を過剰に服用した際の「抑制」的な働きにカウンターを当てる為に使う事となります。
 量が過ぎた場合、脊髄による機能亢進の結果、筋肉の硬直とともに呼吸麻痺、または循環器系がやられて死に至ります。この量は個人差が大きいことが知られており、特に年少者は敏感であることが知られています(よって、致死量に大幅な差がある)。また、反射機能が亢進されることから刺激には敏感になりまして、死を逃れて回復期になってもわずかな振動にも敏感に反応し、その結果痙攣を起こす事があり、それによって疲労して衰弱死することもあるようです。
 この毒の特徴はもう一つありまして、中毒を起こしても意識は残っていることが知られています。もちろん、何が起きているかが分かる上、苦痛も感じると言います。
 まぁ、ある意味非常に「残酷な」毒であるといえるでしょうか。
 そうそう、薬用にも用いられていることは書きましたが........名前が紛らわしいのか、ヨーロッパではキニーネを間違えて購入して死亡したケースもあるとか。まぁ、薬品なんて一般ではそう区別もつかないでしょうからそういうことも起こるのかもしれませんけど.......家族はやるせないでしょうねぇ。
 尚、この毒を誤用した場合、胃洗浄や筋弛緩薬による対処療法が行われます。これは興奮に対して鎮静をさせる為となります。


 ところで、この物質は医療から殺人用と使われたと書きましたが。同時に不思議と犬と縁のある物質だったりします。
 過去より色々と暗殺などの殺害目的で使用された例がある上、犬を殺すためによくマチンが用いられていました。と過去形で書いていますけど実際には「過去の毒」ではなく、最近では平成7年にこの物質を使って殺人を犯した犯人が逮捕された例が知られています。記憶にある方もいらっしゃるかと思いますが、大阪と埼玉で別々に起きた、いわゆる「愛犬家殺人事件」と呼ばれる事件でして、埼玉の方ではこのストリキニーネが使用されました。ちなみに大阪の方は別の物質です(筋弛緩剤スキサメトニウム:もっとも無関係ではないですが、長いので省略)。
 また、現在でも野犬などの薬殺用として用いられることもあるようでして、ベトナムや過去の例などを考えると妙に犬に縁があるものがあります。


 さて、まぁ他にも色々とあるのですが、長くなりますので次の話でとりあえず最後としましょう。

 ストリキニーネの症状は特徴的である、と書きました。ま、強直性の痙攣がある上、意識があると。と言うことで、この毒は実はある人物から「自殺用の薬」として候補に挙げられたものの、除外されたと言う話があります。
 その人物は誰か、と言いますとプトレマイオス朝エジプトの最後の女王クレオパトラです。彼女が女王になってから死に至るまでは、過去に触れていますので、そちらをご覧になっていただきたいですが........
 さて、彼女はローマに追いつめられ、最終的に自殺をするのですが、この際に用いる毒に関して事前に「どの毒が即効性で最も苦しまなくて良いのか」と言う事を調べていたと言われています。もっとも「調べる」と言ってもそれを知るには当然「人体実験」が行われていまして、奴隷を使って既知の毒を片っ端から調べたようです。と言うことで、無意味に結構な犠牲者を出したようですが(現在じゃ戦争中以外は出来そうにないですが)。ま、何故彼女は自殺に毒を選んだのか、と言うと一説によれば彼女自身は非常に教養があったこと。そして彼女の父親が毒で死んだことから毒に関する興味は普段から高かったとも言われています。そういった理由が色々と挙げられているようですが........ それはさておき、彼女は使用する毒の候補にストリキニーネ含有の物を選んだとも言われています。しかし、これは除外されてしまいました。
 では、何故除外されたかというと、上述の症状でも書いた通り「苦しむ」こと。そして、何よりも彼女が嫌ったのはこれによる死に顔が「引きつった笑顔」になる事だったから、と言われています。これは「痙笑」と言われまして、痙攣によって生じる笑いの表情です。これを彼女は醜いと感じたのでしょうが.......
 ま、最終的に彼女はエジプトコブラの毒を選んで死ぬこととなります。
#しかし、何人「実験」で死んだんだか.......


 さて、長くなりました。
 今回は以上、と言うことで.........




 ふぅ...........

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回はちょっとネタに困ったんですが。ま、ちょっと思いつく物もありまして、馬銭とその成分たるストリキニーネの話をしてみましたが。まぁ、成分の名前は有名ですので知らないという人は意外と少ないと思いますけど。ただ、こういう物であるというのはあまり知られていないかと思います。
 まぁ、興味を持っていただければ、と思いますけど。

 さて、そういうことで一つ終わりですが。次回は全然関係はない物の、このストリキニーネが少しだけ関与する話をしてみようかと思います。
 ま、男性諸氏には関係する話となるかもしれませんけどね。まぁ、下世話な話にはならないようにしたいと思いますが。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2002/04/09記述)


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