からむこらむ
〜その204:青い薬〜


まず最初に......

 こんにちは。というか、お久しぶりとなりますね(^^; 皆様如何お過ごしでしょうか?
 いやぁ、もう梅雨明けするんだかしないんだか、という感じですけどねぇ.........

 さて、そう言うことで久しぶりのお話ですが。
 今まで、色々と大キャンペーンにつぎ込んできた部分がありますが、それもひとまず終わりました。ということで、とりあえず今回からはまた別の路線になりますけど.......とりあえず、久しぶりでネタが思いつかなかったのですが、現在の医療に必要となった有名なものと、その最初のものについて触れようと思います。
 ま、結構有名だったりすると言えばするんですけどね........
 それでは「青い薬」の始まり始まり...........



 現在、われわれは昔に比べて長い寿命を得るようになっていることはみなさんご存知だと思われます。
 特に、日本においてこの傾向は顕著でして、女性の平均寿命はすでに85歳となっており、過去に「人間50年」といわれたその長さを30年以上越えるほどとなりました。
 何故ここまできたのか?
 その原因はたくさんありますが、科学や医療技術の発展ということは容易に想像できるかと思います。もちろん、地球上ではその恩恵にあずかっていない地域もありますが、しかし恩恵にあずかった地域では確実にその寿命は長くなっているといえます。

 さて、こういった中でも特に重要な発見は多数ありますが。
 極めて大きく貢献をしたもの、といえば皆さんは何を思いつかれるでしょうか? もちろん、色々とあるとは思いますが.......今回は、その中でも特に大きな役割を果たし、そして同時に現在問題になっているものについて触れたいと思います。


 さて、ところで皆さんは「感染症」という言葉をご存知でしょうか?
 聞いた事はあると思いますが.......特に医療関係の言葉になるでしょうか。早い話、「微生物によって引き起こされる病気」でして、不衛生な環境で起きやすいものです。これは衛生に関する問題でして、傷などから菌が侵入して起こることがあれば、体力が低下していると起こったりします。
 人類の歴史は実はこの問題が多いに関連しており、食中毒などを考えると「人類の歴史は微生物との戦いである」という見方もそう大げさなものではないといえます。事実、人類は食中毒などを防ぐために様々な工夫を行っていた事は皆さんも聞いた事があるでしょう。
 この「微生物との闘い」は極めて重要な問題でして、過去よりケガや手術、出産後などで感染症にかかりやすくなることは知られていました。
 もっとも、現代の常識である「微生物によるものである」、という認識は19世紀後半になされるなど、まだ「比較的」最近の事であると言えます。その最初の具体的な事例としてはハンガリー人医師イグナツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Semmelweis)による発見(それ以前にアメリカのホームズが発見している、という話もあるので「確認」かもしれませんが)で、1850年に出産後の産褥熱をさらし粉で手を消毒することで防止できることを発見します(論文は1861年)。これは極めて大きな成果を挙げ、彼の受け持ちの病棟では産褥熱を100人中2名にまで激減(それまで208人中36名が死亡するとなど、昔から出産は危険な行為だった)させることに成功します。ただ、当時感染症は「人知を超えたもの」という認識があって微生物によるものであることという認識は無く、更に古い習慣と彼の手法は衝突してゼンメルワイスは解雇されるなど、あまりにも不運だったと言えますが.......
 その数年後、パスツールによって伝染病の原因が微生物であることが発表され、更に1865年(奇しくもゼンメルワイスは精神病によりこの年に死去)にリスターが「殺菌法」を提唱します。これは「創傷化膿の治療は微生物を殺す事を主眼にすべき」であることを唱えたもので、フェノール(石炭酸)による患者の傷口や医療従事者、器材などの殺菌をしようといったものでした。
 更にコッホの研究によって病気と微生物の関係が決定的になると、衛生観念の発達が劇的になり、微生物を抑えることが重視されるようになります。事実、これにより感染による死者の減少に一役買うことになりますが.......
 ま、具体的に書くとこれはこれでかなり大きなトピックになるので、簡単にさせて頂きますが。
その192辺りも参考になるでしょう。
#もっとも防ぎ方は今ほど優れてはおらず、やはり感染症による死者は決して少なくなかったのですが。

 さて、その後この分野の学問は発展することとなります。しかし、やがて世界は第一次世界対戦に巻き込まれることとなります。
 この戦争では多数の死傷者を出し、負傷者は感染症に大いに苦しみました。リスターの提唱した殺菌法はこの頃には実践されていたのですが、しかしフェノールは(使ったことがある人は分かる通り)人体にとって刺激が強く、実際に益よりも害が大きいという指摘もありました。
 そんな中、戦争の負傷者の治療に当たっていた研究者の中に、イギリスのアレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)がいました。

 フレミングは1881年にスコットランドで生まれた人物で、16歳の時に海運会社に就職。その後、ロンドン・スコットランド人ボランティアというグループに入り、ここで水球のチームに入っていました。この時、ロンドン大学付属セント・メアリー病院のチームと対戦した事が彼のその後に影響を及ぼすこととなります。
 何か?
 その後、彼は遺産を相続するのですが、兄に医学校での勉強を奨められました。しかし、フレミングはどんな学校があるかは全く知らない........では、どうするか?
 ここで思い出したのが「水球の試合をした」所.......ということでロンドン大学へ入学(それでいいのか?)。その後、同時に微生物学の教授としてロンドン大に赴任したアルムロース・ライト卿がいるのですが、フレミングは卒業後に彼の研究室に職を得て微生物の研究に入り、そのまま微生物学の研究を行います.......ま、偶然だらけなんですけどね。
 その後、第一次世界大戦時にフレミングとライトはフランスへ派遣されます。これは負傷した兵士の治療に関連し、複雑骨折を伴う負傷をした兵士にガス壊疽が起こりやすい事の研究の為、ブローニュの病院に勤めていました。このような中、フェノールの益より害が多い理由としては細菌とともに白血球を殺すのではないか、というようなことを見つけたり、またインフルエンザウイルスは肺を弱めて他の菌による感染を手助けしてしまう、というようなことを見つけたようです。

 やがて戦争が終わりフランスから帰国した彼は、セントメアリー病院に職を得ます。
 1921年、彼はヒトの分泌物  涙や鼻汁中に存在する殺菌効果物質といった物の研究に取り組みます。この中からフェノールとは異なり、「細菌は殺すが、白血球は殺さない」という物質の探索を行うこととなります。
 これは一つの発見を得ます。
 それは1922年、フレミングが風邪を引いていた日のこと。彼は自分の鼻の分泌物を少し取ってこれを培養します。その中の菌により、培養皿は黄色い細菌でいっぱいとなるのですが........この時に彼は一つのミスをします。それは彼はこの培養皿に涙を一滴落としてしまいました........「それだけ?」と思われる方もいるかもしれませんが、これは本当は重大な「操作ミス」なのですが.......
 しかし、偶然は彼に一つの味方をします。
 翌日、彼はこの培養皿を見ると驚くこととなります。というのも、彼が落とした涙の部分だけ細菌がおらず、綺麗になっていました。これを見た彼は「涙には細菌をおさえるが、ヒトには無害(これは当然で、涙がヒトに有害と思う人はいないと思います)な物質が涙の中にある」と結論をします。
 もしかしたら有効な薬が作れるかもしれない。
 そう考えた彼は涙の成分を研究してこの有効な抗菌物質(抗菌性の酵素ですが)に「リゾチーム」と命名。そして、リゾチームの研究を始めることとなります。
 ところで、当然この研究には涙が必要だったために涙を集めるのですが.......これ、どうやったと思います? 自分の涙、とか研究所の人間を片っ端から、と思われるかもしれませんが。研究目的ですので、これは大量に集める必要がありました。
 では、どうしたか?
 実はこれ、「少年にレモン汁を滴下して涙を集めて」いました。まぁ、地道と言うか.......かなりの子供を集めたようですが。こういうこともあってか、この研究は当時注目はされたようです。もっとも、皮肉というか風刺も入ったようで、1922年にイギリスの『パンチ(Punch)』誌には涙を集めるフレミングの風刺として、「少年が軍曹に叩かれ、出た涙を”涙の殺菌剤(TEAR ANTISEPTIC)”とラベルされた瓶に集める」という様な絵(J.H.ダウドによる風刺)を載せられるなどしています(これは資料が残っています)。
 ま、一般にも注目があったというのは確かの様ですが........
 では、このように風刺画にまで登場したリゾチームですがどうなったか? というと、この効果は実は「比較的無害」な菌にしか有効ではない、ということが判明し、薬として使うのは難しいという結論に至ります。
 この後、彼は卵白にも抗菌効果があることを見つけるのですが、これも残念ながら今一つだったようで、「薬」としての開発は出来なかったようです。ですが、彼はリゾチームの「可能性」からこの研究に意欲的に取り組み続ける事となるのですが.......

 ところで、ここまで見ると「何の成果も無いじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが。
 実は、フレミングはこれらの積み重ねから最終的に極めて重要な発見を行うこととなります。

 それは科学史上もっとも有名な話の一つとなっていますし、フレミング自身も1929年の『イギリス実験病理学雑誌』にその出来事を書いているのでよく知られているのですが。
 1928年の夏。フレミングはインフルエンザの研究に取り掛かっていました。培養中のブドウ球菌(皮膚などどこにでも存在する菌だが、体力が低下すると感染症を引き起こす)を作業台の上に積んだまま休暇に出かけてしまいます。通常は他の菌が混ざらないように措置をするのに、彼はそれをしませんでした。そして、案の定空気中の微生物がこの培地について増殖を始めてしまいました。
 これ、微生物学では「コンタミネーション(contamination)」、「コンタミ」と略される「汚染」と呼ばれるものです。つまり単一の微生物を培養しているのに、他のが混ざってしまう......つまり「操作に失敗」したことになります。ま、学生さんなら「未熟」と怒られるでしょうが.......
 さて、休暇から帰ってきた彼は培養皿(「プレート」と呼ばれますが)を片づけようと、洗浄の準備を始めます。が、その作業に入る直前にある発見をしました。
 それは、ブドウ球菌の周囲にアオカビの斑点(つまり空気中にいて培地で増殖した)を見つけ、更にその周辺のブドウ球菌が綺麗に存在しなくなっている事でした。つまり、カビの周辺だけブドウ球菌が無くなっている。
 ここで彼は一つの経験を思い出します。
 それは上に書いたリゾチームの時の経験でして........フレミングは「私はこの経験があったからこれに気付いた。他の科学者では気付かないものが多く、気付いたとしてもあっさり捨ててしまっただろう」と述懐しています。そして、彼はこの現象とカビに注目をすることとなります。

 フレミングはまずこのカビの増殖に着手します。
 そしてこの抽出物を得て様々な菌を使って実験を行います。これは非常に顕著でして、連鎖球菌、ブドウ球菌、髄膜炎菌や淋菌、肺炎球菌にジフテリア菌など、多くの微生物の成育を阻害することを確認しました。しかもその効果は極めて大きく、殺菌能力が高い。更にリゾチームとは比べ物にならないほどの幅広い抗菌作用(抗菌スペクトル)を示す。
 フレミングはこれらの結果を受け、「カビのジュース」と呼んでいたこのアオカビ(Penicillium属)の抽出物を「ペニシリン(penicillin)」と命名します。
 このカビは1929年、後に大量生産に奔走するアメリカの菌学者チャールズ・トムによりPenicillium notatumと同定されます。

 さて、このペニシリンですが。
 一般的な教養を持つ方で名前を知らない人はまずいないでしょう。いわゆる「抗生物質」の先駆的な存在となる物でした。が、実はペニシリンはこの時点では有名にはなりませんでした。
 なぜか?
 これはいくつかの要因があるようで、その一つは「感染症にカビが有効である」事は過去の時点で既に判明しており、フレミングの「オリジナルの発見」では無かったことにあります。事実、「微生物が他の微生物を邪魔する」現象その物は1877年の時点でパスツールによって、尿中の炭疽病菌が他の細菌により抑制されることを既に報告しており、更にアオカビ(同じPenicillium属)が他の細菌を抑えることはフェノールによる殺菌法を提案したリスターも既に見つけていました。実際、1884年には膿瘍をもつ看護婦の治療にアオカビ(専門注:Penicillium brevicompactumと考えられているらしい)を用いての治療に成功しているという記録もあるようです。
 もっとも、それまでの研究者はだれも注目せず、フレミングは「治療に役立つ」と認識し、誰もしていなかった「追及」をしていった点で重要なのですが。
#これに付け加えるなれば、フレミングが得た菌株が効力が大きい株だったという幸運も手伝っています。
 そしてフレミングは地味というか、話し下手というか.......1929年には既にペニシリンの生産の増大を図り、更に実際に手術後に敗血症を起こしかけていた患者や、肺炎による結膜炎に冒された助手の一人などにペニシリンを投与してある程度の成功を収めていました。この成果を2月に医学研究談話会で発表するのですが、彼の「みすぼらしい講演」と「話し下手」によって内容を聴衆は理解できず、その後の報告もほとんど無視されるなどしたようです。
 更に不運と言うか、当時の研究の流れもまたペニシリンの登場を妨げます。
 1909年、ドイツのエールリッヒ達(秦佐八郎も忘れてはいけませんか)の研究の成果であるサルバルサンの登場以降、積極的な「抗菌性物質」を研究する動きがありました。これはやがて「化学療法剤」として発展し、1932年には合成抗菌性薬剤の代表格「サルファ剤」のきっかけとなるプロントジルが登場、その後サルファ剤が医療現場で活躍することとなります。
 サルファ剤はペニシリンが一般に知られるより早く世間に広まり、1936年にはプロントジルが米大統領ルーズベルトの息子の命を救うなど、著名になる機会が多くありました。
 ペニシリンにとってはまさに「不遇」の時を迎えることとなりますが........
#サルファ剤は別の機会に触れる予定です。

 では、ペニシリンはいつ表舞台に登場するのか?
 ペニシリンが脚光を浴びるのは、その12年後の1941年。つまり、第二次世界大戦が中盤にさしかかる(独ソ開戦、太平洋戦争勃発がこの年)頃となります。
 これに大きく関与することになった人物に、オーストラリア出身のハワード・フローリーがいます。
 彼は、1920年代後半よりフレミングの研究の後を追う形でリゾチームの研究を行っていました。その後、シェフィールド大学で病理学教授となって様々な研究を行い(この時、ペニシリンを広める機会があったものの、彼は興味がなかったらしい)、その後オックスフォード大学で病理学教授となります。ここででも彼はリゾチームの研究もしていたのですが、やがてナチスの弾圧から逃れてきたユダヤ人難民で、生化学者だったエルンスト・ボリス・チェーンと共同で天然の抗菌性物質の研究に取り掛かることとなります。
 これは成果を挙げ、チェーンはリゾチームの作用として、細菌の細胞膜の構造を破壊(専門注:細胞膜上の多糖類の鎖を破壊し、細胞を破壊)するということを見つけるなどします。そして、研究を続ける中でフローリーとチェーンはやがてペニシリンに行き着くこととなります。
 彼らはこの分離と精製についての研究を繰り返しました。そして、1940年5月に0.1%の粗製ペニシリンを使って連鎖球菌にやられたマウスに投与し、この治療に成功することとなります。

 さて、ここまで来れば........と思われるかもしれませんが、歴史がそれを赦しません。
 ちょうどこの頃ナチスはフランスへ侵攻しており、イギリス軍主力部隊は6月に「ダイナモ作戦」によりダンケルクから撤退、大陸を離れます。そしてフランスは蹂躙されるのですが.......フランスを占領したナチスの次の目標はイギリスでした。
 研究チームはドイツのイギリス上陸の可能性を考えてかなり緊迫しており、「万が一」の際にはカビで汚染した白衣をもってアメリカへ逃れることを決めたようですが........
 この決意の元、研究チームはペニシリンの大量生産法の研究に取り組みます。特にカビの培地の容器にはこだわり、あらゆる容器を探します。その結果、なんと病院の「おまる」がふさわしい、ということで業者に大量発注し、更に酪農要の装置まで利用してペニシリンの生産に着手しました。この結果、臨床試験用のペニシリンを得ることに成功します。
 このペニシリンは「奇跡」とも言える成果を出しました。
 1941年、2月から6月に行われたカビの培養から抽出、試験についての全報告が同年8月16日の『ランセット』誌に掲載されます。最初の患者は警察官で、バラのトゲで傷ついたことが原因で黄色ブドウ球菌と可能性連鎖球菌に感染していました。彼は片方の目を失い、無数の膿瘍を生じ、更に肺にも障害を持つなど絶望的な状態でした。
 しかし、ペニシリンはこの状況ですら効果を見せました。
 ペニシリンの投与で彼は急速に快方に向かいます。それはまさに「劇的」でして、2月12日に始まった治療は5日後には体温は平常になり、食欲も回復。感染症もほぼ消えるという成果を見せました。もっともペニシリンはこれで尽きてしまい、他の重篤な患者がいたこともあって彼への投与は中止になります。そして不運なことに彼は10日後に様態が急変し、与えるべきペニシリンも得られずにそのまま敗血症で死亡します。
 これは最初の事例にして失敗だったのですが.......
 しかし、彼らはあきらめませんでした。事実、それ以降の事例は成功の連続となります(途中、ペニシリン由来ではない死亡例はありましたが)。これらはいずれも劇的なまでの効果を見せつける事となり、関係者を大いに満足させることとなります。
 『ランセット』に掲載された論文は、ペニシリンが「今までとは違うタイプの抗菌物質であり、効果的な化学療法剤である」と結論をしているのですが、まさにその通りの効果を見せつけました。
 ここにおいて、ついにペニシリン(=「抗生物質」)は「表舞台」に立つことになります。

 では、ペニシリンはどう扱われていくのか?
 製薬企業は当初疑わしく思っていたようですが、しかし戦争による抗菌物質の必要性はペニシリンの量産を大いに助けることとなります。更にフレミングがこの分野に「復帰」したこともこれを手伝うこととなりました。
 一方フローリーはナチスの猛烈な爆撃によってイギリスでの生産に限界を認めます。このため、アメリカに渡って大規模なペニシリン生産の研究に着手。1941年12月の日米開戦によりアメリカも第二次世界大戦へ本格介入するにいたり、ペニシリンの生産は拍車が掛かることとなります。アメリカではペニシリン生産の改良として、大型培養タンクの設置と分離法(活性炭による吸着)の確立、培養法の改良(トウモロコシの製粉過程の副産物を「廃物処理」として利用:これで10倍の収量に)。そしてイリノイ州ピオリアの青果市場で発見され、メアリー・ハントという主婦が持ち込んだカビの生えたカンタロープメロンより分離され、既存の2倍のペニシリンを生産するPenicillium chysogenumという菌株による生産が行われるようになります。
 この生産は徐々に軌道に乗り、1942年には極く少量しかなかったペニシリン(一人分がせいぜいという話ですが)は1945年半ばには二十五万人以上分の治療が出来る程にまでなります。
 これは兵士、市民を含めた多くの人々を救うこととなります。
#余談ながら、肺炎を患ったチャーチルをペニシリンが救う、という「誤報」(実際はサルファ剤らしい)が戦時中日本に飛び込んだこともあるそうですが。

 尚、フローリーとチェーンはこの間も研究をしており、フローリーは戦傷者の治療とペニシリンについての研究を大分したようです。この中で、彼は北アフリカで流行していた淋病がペニシリンの投与で完治することを発見します。フレミングもペニシリンの普及や生産について政府に働き掛けるなどの努力をしたようです。
 そしてこれらの成果から1945年、つまり終戦の年の12月にノーベル委員会はフレミングによるペニシリンの発見と、フローリーおよびチェーンによる製薬化、そして多大な人命を救った貢献に対して3名にノーベル医学生理学賞を与えます。直後に3名には爵位(もちろんイギリスより)も与えられ、「サー」の称号を得ました。
 もっとも、皮肉なことにペニシリンはフレミングのみが極めて有名になってしまっています。
 実際、当初はノーベル賞はフレミングのみが受賞する予定だったと言う話があります(フレミングの恩師であるライト卿が一役買ったとも言われています)。フローリーなどは受賞後もマスコミ嫌いだった事があるようですが、結局「日陰」になってしまいました。
 その一方でフレミングはロンドン大学との水球の試合から始まった、「偶然が偶然を呼んだ」繰り返しの結果として一つの「神話」といってよいほどの地位を築くこととなります。
 なんとも、ですがね......


 さて、こうしてペニシリンが登場し、活躍すると抗生物質というものに注目が集まるようになります。これは様々な影響を与えるのですが........それを触れるにはかなり長くなりました。

 残りは次回、という事にしましょう。




 やれやれ.........

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 ま、そう言うことでお久しぶりの「からこら」でしたけど。え〜、一応「抗生物質」の話としてその最初であり代表格であるペニシリンが発見されて使われるまでの話をしました。っつぅか、久しぶりなのでネタが思いつかなかったので突撃してみた、という感じなんですけどね(^^; まぁ、そう言うことで何だかまぁ、と。
 どうでしょう? まぁ、長くなってしまいましたけどね(^^; カンが掴めていないということで一つ(^^;

 さて、そういうことでとりあえず登場までの話をしましたけどね。次回に「抗生物質」の定義的な話と、その後のペニシリンの話をざっとしてみようと思います。これはこれで現在に至るまでかなり重要な話を含んでいますので。
 ま、とりあえず頑張って作ってみようかと思います(^^;

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2003/07/25公開)


前回分      次回分

からむこらむトップへ