からむこらむ
〜その229:金持ち師匠と貧乏弟子〜


まず最初に......

 こんにちは。8月も後半を迎えましたか。
 盆も終わり、これからあっという間に8月も終わるのでしょうけど。まぁ、小中高校生はぼちぼち宿題に泣き、親御さんはため息をつくのでしょうかねぇ。

 さて、今回の話ですが。
 え〜、今回は与太話と言う事で進めようかと思います。ま、師弟と言うと色々な関係があり人生があるわけですが、これくらい正反対の道を歩んだ師弟もいない、と言う話があります。まぁ、科学史と言うかそういう話になりますけどね。
 それでは「金持ち師匠と貧乏弟子」の始まり始まり...........



 これを読んでいる方は現役、あるいは過去に科学関係に携わった事がある人も多いかと思いますが。
 科学だけでなく他の仕事も似たような物でしょうが、この世界は基本的には師弟関係と言う物が存在しています。今の大学なら、分かりやすく言えば「教授と学生」と言う様な物でしょう。このような師弟関係、難しい「人間関係」の事ですから、うまくいかなかったケースやうまくいったケース、色々とあります。
 ま、今でも「教授と仲が悪くて研究室を変えさせてもらった」と言う様な話もありますからね、普通に......過去の有名な学者達も例外では無く、例えばフロイト(師)とユング(弟子)は最後は仲が悪かったですし、電気分野で有名なファラデーとデーヴィーも途中から険悪な中になったと言う例もあります。
 しかし、良好な師弟関係の話も多くあります。今回は与太話として、短期間ながらこの関係があり、そして非常に対照的な師弟を御紹介しましょう。

 さて、皆さんは「天の城」の主、と言われたらどういう人物と想像されるでしょうか?
 「天の城」......多分にファンタジー的な名称ですが、実はこれは実在した場所です。そして、その主は天文学で多くの業績を残した人物でもあります......もっとも、あまり有名と言うほどでは無く、中には聞いた事がないと言う人もいらっしゃるかと思いますが。
 この「天の城」の主、名前をティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)と言います。
 デンマークの貴族でして、現地の発音では「ティホ・ブラーヘ」となるそうですが。この人はガリレイの生まれた1564年よりも少し早く、コペルニクスの死の3年後である1546年、当時デンマーク領で現在はスウェーデン領であるヘルシングボリの貴族であるオットー・ブラーエの長男(10人兄弟の2番目)として生まれています。
 この人の名前や出自を聞いて何か思い浮かべる人は.....あまりいないでしょう。著名なSF作品である『2001年:宇宙の旅』で、彼の有名な「モノリス(monolith)」が埋まっていた事になっている、実在する月のクレーター「ティコ」は、この人物の名前から取られたものです。ですが、実際の所、この人物の業績をある程度知っている、と言う人は天文学分野に興味のある人ぐらいではないかと思います。

 ところで、このティコ・ブラーエと言う人物は概して幸運な学者でした。
 まずスタートから運は良かったと言えまして、一歳の時に子どものいなかった伯父(叔父?)ヨルゲンに無理やりに養子に出されています。しかしこのヨルゲン、デンマーク艦隊の提督と言う高位にあり、しかも金持ちと言う人で、これはティコにとって大きな幸運でした。
 つまり、高等教育を受ける事ができる。
 当時の高等教育のあり方は今とは大きく異なりまして、ある大学である学問を修めたら、次は別の大学で別の学問を修め.....と大学を渡り歩くと言う物であり、これは「文化人」としての「常識」でもありました。しかしこれをするには当然金がかかる......ティコは幸いな事にこの金があったわけで、高価な数々の本を買う事(本は教養の証でもあり、高価な物でもありました)を容易に買えました。そしてヨルゲンの願いとしては高等教育をティコに受けさせて、政治家にしたかったと言われています。
 そのような彼の学歴の最初は、13歳の時にコペンハーゲン大学に入学して修辞学と哲学(当時の「文化人の教養」)を学びます。そして、14歳の時に日食の観測をすることで天文学への興味を持つようになります。
 16歳の時、ライプチヒ大学の法学部に進んだ彼が勉強したのは実は数学と天文学で、13世紀後半のカスティーリャ国王アルフォンソ十世が完成させた『アルフォンソ表』、1551年にプロイセン候アルバートの出資により完成された『プロイセン表』といった星図表を読む事で星座に通じます。さらには自分自身で星座観測も始めて、これら星図表との違いを指摘するようになるなど、政治家ではなく天文学へ傾倒していき、そして業績を残していく事になります。
 では、彼の天文学の業績はどういう物か? 主な物は次のような物になるでしょう。
  1. カシオペア座の超新星の発見(ティコの新星)と詳細な観測。
  2. 彗星の現象
  3. 優秀な弟子の発見
 1.に関してがおそらくもっとも有名かもしれません。
 1572年11月11日、彼が空を見上げている時にカシオペア座の中でひときわ輝く(といってもカシオペア座の星を知らないと気づかない......彼はそれに通じていたと言う点は重要です)星を見いだします。彼はこの星に注目し、「De Nova et Nullius Aevi Memoria Prius Visa Stella」と呼んで非常につぶさに観測して記録。翌年にこの記録を『De Nova Stella(新星論)』として出版しています。
 この星、いわゆる超新星でして、11月6日にシューラーと言う人が既に発見していたのですが、ティコは詳細にその星が暗くなって見えなくなるまでの14ヶ月をつぶさに観測しており、この為に超新星の貴重な記録として現在においても天文学史上に残る物となっています。超新星自体の記録はこれ以前にも(日本であっても)記録があるのですが、それらとの決定的な違いはこの「詳細な観測」と言う点です。
 その詳しさは、彼の記録から観測した超新星がIa型と分類される物である事が分かるほどの物でした。

 2.は若干の説明が必要でしょう。これは1577年のものですが。
 これは当時の欧州の宇宙観は月を境にして遠くを「天上界」、近くを「月下界」と分けていました。そして彗星は月下界の、地球の大気圏で起こる現象であると考えられていました。
 彼は弟子を5000km離れたところで彗星を観測させてみたところ、視差が0、つまり空でみえる位置に差がない事を見いだします。もし月下界や月より手前に彗星が現れるならば、弟子と彼の観測位置で見たときには空で彗星がみえる位置には差が生じるはずですが、これがない。言い換えれば彗星は「遠い位置での現象」と言う事になる。
 彼の発見は当時の「常識」を覆す事になりました。

 ところで、この彗星の観測をしたとき、彼は城主となっていました。
 その城、正しくは天文台でして「ウラニボルグ(Uraniborg)」、すなわち冒頭で触れた「天の城」がこれになります。この天文台はティコにとっては幸運な事に、当時のデンマーク王フレデリック二世、つまり国王がパトロンとなる事でできた物です。この天文台は現在はスウェーデン領となっている、デンマーク〜スウェーデンの国境にあるフヴェン島に作られまして、ティコ自身も資金を投じて作った物でした。
 その設備は最新で、観測機材はもちろん印刷所や天文機器の製作所などと言った物も設置。助手や働く人達の為の宿泊設備も設置され、揚げ句牢獄や拷問室まで完備と言う代物でした。なお、ここはやがて手狭となって「ステルネボルグ(Stjerneborg)」、すなわち「星の城」も建設されます。
 ここで彼は弟子達を使って、数多くの研究をしていきました。パトロンが国王、と言う事もありまして多額の資金援助を受けると言う点では、当時の他の研究者達と比べて相当に幸運だったと言えます。この他、彼自身「秘薬」の製造をして大もうけしていました。
 これ、どういう事かと言うとこの時代の科学者(?)達の多分に漏れず、ウラニボルグができる以前からティコ自身も錬金術に手を染めており、それに基づいた「秘薬」を作っていました。その売り上げは莫大な物となり、ヨルゲンの遺産とともに彼に多くの財をもたらしたと言われています。

 しかし1588年、フレデリック2世が死去し、その後12歳でクリスティアン4世が即位するとこの幸運も止まる事になります。
 ティコと言う人は後述しますが実にわがままな人でもありまして、敵が多かったと言われています。特に医者達は「専門教育も受けていない奴が薬で儲ける上に、国王の権力を背景にえらそうにしやがって」と言う状態にあり、同様に宮廷内にも敵を作っていたらしく、クリスティアン4世の即位後暫くしてからこれらの人達の反撃を受ける事となります。
 すなわち、援助の打ち切りとウラニボルグの閉鎖でした。

 1597年、彼は移動可能な機材一式と家族とともにフヴェン島を離れ、当時ヨーロッパで猖獗を極めていたペストを避けながら神聖ローマ帝国の都市であるプラハに1599年到着します。このとき、彼は長い旅(おそらくは追い出された事もあるでしょうが)の末に健康を損なっていました。
 そしてティコはやはり幸運でした。
 時の神聖ローマ帝国皇帝はルドルフ二世。彼は占星術にはまりまくっていまして、ティコがウィーンに来ると彼を天文学者、占星術師、そして錬金術師として召し抱えます。ティコは郊外に与えられたペナテグ城に運んだ機材を移し、ここで観測をします。
 そして、ここで求めた観測助手がティコの最大の成果となる「発見」でした.......1600年から翌年10月の彼の死までの間、この観測助手はティコとともに活動し、そしてティコの死後その成果を受け継ぎ、その後の天文学の大きな礎となっていくこととなります。
 なお、ティコの死後は神聖ローマ皇帝は彼を気に入っていたのか、多くの観測機器などを高値で買い取ってくれた為に、家族は生活に困らなかったと言います。これもある意味幸運と言えるでしょう。
#なお、当時結婚する学者は極く少数で、そういう意味で珍しい人物でもありました。

 ちなみに、ティコの死因は諸説あります。
 俗説では「礼拝の最中に小便を我慢しすぎて膀胱破裂」と言う物があるそうですが、実際には上述の通り錬金術に手を染めていた為に、水銀中毒に陥っていたのではないかと言う説もあるようです。ま、当時流行していたペストと言う説は無いようですけどね。

 さて、ざっとですがティコ・ブラーエと言う人の話をしてみました。
 この人、ピンとこない人もいると思いますが、実に幸運な人でしてとにかく「最初から金持ち」、「高等教育を受けられた」、そして「国王・皇帝がパトロンについた」と言う点では非常に恵まれていたと言えます。名ばかりで援助を与えないパトロンが多い中、彼は多大な援助を受け取る事ができたと言う事で、資金面では非常に幸運だったと言えるでしょう。
 しかし、人間性と言う面では相当に難があり、一般的には「横柄な自信家」として記録されています。
 その一端は上述の通り、専門教育も受けていないのに薬を作り、ついでに医療も施して大もうけ。しかもウラニボルグでの話は色々とありまして、ウラニボルグの壁には大天文学者達の肖像を掲げて、そこに自分の肖像も掲げていた、つまり「自分は大天文学者だ」と言う多大な自信を持っていました。さらに特製の伝声装置を設置していまして、自室の部屋でいながらにして助手達を操る上に、非常に人使いが荒かったと言われています。
 もっとも、ここら辺は彼のコンプレックスもあったようですが。
 その一端はロストック大学の学生時代の決闘があるようです。この原因は資料で違いまして、教授の娘が目当てだったとか数学の知識をひけらかしたのが原因とも言われているのですが、何であれティコから仕掛けた物のようです。当時の貴族の決闘、と言う事で剣を使って戦ったのですが、このときティコは敗北し、しかも相手の剣で鼻をそがれると言う屈辱を受けています。
 これ以降、彼は金と銀で、あるいは真鍮で作った「細工物の鼻」をつけて過ごすようになります。常にパテや糊なども持っていたと伝えられまして、鼻が「ずれた」時に直していたそうですが.......当然、ウラニボルグでこれに触れた弟子は.......
 ただ、この劣等感をバネにして研究を進めたと言う見方もできますがね。
 また、ティコは迷信深く、そして地動説を信じなかった事も知られています。
 ウラニボルグの形状は占いで決め、また白痴の少年(レップと言うらしい)を身近において食事の時には犬のように足下に寝そべる少年に手で食事を与えたと言い、この少年の発する声をいちいち書き留めて「未来を予言する物」としていたと言われています。地動説は検証したようですが、実際に彼自身が納得する結論には至らなかったようですが、この事は迷信深さや既存の概念や慣習に縛られていた事も手伝った可能性はあります。


 さて、以上のようにティコは金には少なくともあまり困らない人生を送ってきました。
 しかし、彼の弟子であった観測助手は、ある意味全く正反対の人生を歩んでいます。


 この観測助手、1571年生まれでドイツの人でした。
 ドイツにおいて「大科学者」と呼ばれる人はおそらく彼が最初でしょう。その人物の名はヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)。中学生ぐらいで習うでしょうか、いわゆる「ケプラーの法則」と言われる天体の運行に関する法則を打ち立てた事で有名な人でして、その他(積分の元や望遠鏡への凸レンズの使用の提案など)多くの業績を残す人物です。
 この彼の名を冠した「ケプラーの法則」とは、
 と言う物です。これらの法則は実はティコが遺した多くのデータが元になっており、またこの法則が現在に至るまでの天文学の中で非常に大きな位置を占めている事からしても、ティコが「発見した業績」の中ではある意味最高のものがこのケプラーとの出会いだったと言えます。

 ではこの人の人生はどうだったのか?
 この人はティコと似たような部分はある物の、金銭面及び運と言う点において常に正反対であり、彼ほど貧乏神に見込まれた上に時代に翻弄された科学者もかなり珍しいといえるでしょう。
 この人はドイツ南部のヴュルテンベルク侯爵領のヴァイル・デア・シュタットと言う町に生まれています。祖父はこの町の市長を勤めるほどで資産を持っていたものの、両親の代で財産を失って貧しい生活をしており、しかも夫婦仲も悪かったと言われています。ちなみに父親は出征志望が強く、しばしば傭兵となっており、これが夫婦仲の悪さの原因と言われています。なお、父親は傭兵稼業の末に戦死。ケプラー自身天然痘にやられるなどして蒲柳の質で、生活苦もあって苦労が多かったようです。

 学歴や仕事はティコのような派手さはありません。
 彼は神学校に入るも、その後チュービンゲン大学で数学と天文学に興味を持つ事となります。そして1594年、23歳になった彼の最初の就職先は現在オーストリアにある、当時神聖ローマ帝国の領土であったグラーツのギムナジウム(ドイツの中等教育機関、日本で言う中高レベル)で、ここの数学講師となります。しかし、この就職には実は契約時に兼務が義務づけられていまして、その副職として占星歴の編集と言う物がありました。もっと分かりやすく言えば「星占い」と言う副業があったと言う事になります。
 なぜこんな兼務をしていたのか? 実は講師だけの給料では食っていく事ができず、また皮肉な事に彼の「星占い」は良く当たったらしく一般の受けとしては「占星術師ケプラー」と言う見られかたをされたようです。
 なお、ケプラー自身はこのような仕事は完全に不本意だったようですが、「生活の為に仕方がないから」やっていました。
 そして1597年、これはティコと似ているのですが当時の学者としては珍しく結婚をします。妻の名前はバルバラ(バーバラ)・ミュラーと言う人で、彼女にとっては二度目の結婚でした。もっともこの女性、気性が荒くかんしゃく持ちだったようですが......しかし三人の子どもをもうけています。
 しかしこれは彼にとってより一層の生活苦の原因となっています。

 そして1600年、プラハへ赴いてティコと出会います。
 おそらく彼の人生ではもっとも金があった時期だったでしょう。ルドルフ二世をパトロンとするティコとともに、彼は火星観測の研究を進める事ができました.......が、翌年ティコは死去します。幸いだったのはティコの蓄積したデータをケプラーが引き継いで研究に使えた事でして、1609年にはその成果として『新天文学(Astronomia Nova)』と言う本を出版するに至ります。
 この本には「ケプラーの法則」の第1法則と第2法則が収められていました。
 なお、彼はティコの死後、後を継いで皇帝付主席数学顧問官に取り上げられたものの、給料は師の半分程度。おまけに給料は遅配気味だったと言われており、彼の生活はやはり楽な物では無かったようです。しかも、後の1618年に勃発する三十年戦争の引きがねとなるカトリックとプロテスタントの宗教対立が当時進行しており、ルドルフ二世は当然不安になる、と言う事で占いに手を出す様になり、その「星が語る事」を教えていたのがケプラーでして、不本意な「占星術師」としての活躍をしていました。
 そして1612年、ルドルフ二世が死去すると新皇帝としてマティアスが即位しますが、彼は天文学への興味を示す事は無く、この事もあってかケプラーへの給料も遅配、あるいは出なくなります。さらには宗教対立も激化。しかもプラハでは疫病が流行し、彼の妻バーバラも疫病(天然痘だそうですが)で死去します。そのような情勢が重なった中、ケプラー一家はプラハを去ります。

 次に彼が辿り着いたのは、プラハの南にあって、グラーツ〜プラハの中間地点にある、オーストリア大公国のリンツでした。
 これはリンツへ移る2年ほど前に約束されていた職場であり、彼はこの地で州数学監の地位を得ます。が、しかしこの仕事も案の定給料が中々出ないと言う状態であり、ケプラーはまさに赤貧の状態。結局彼は本来の仕事の他に、やはり占星歴に手を出す羽目して糊口をしのぐ事となります。
 さらにこの貧しさに拍車をかけたのがケプラーの再婚でした。このリンツ時代、彼はスザンナ・ロイティンガと言う孤児の女性と結婚し、彼女との間に多くの子ども(資料により5人とも6人とも8人とも)をもうけます。その結果さらに彼は貧困にあえぐ事となります。

 ところで、この二回目の結婚にはある逸話が残っています。
 真偽不祥ながらこのような話があるようです.......つまり、彼が再婚する際の「条件」と言うものがありました。彼は妻とする女性の候補の名簿を作成し、そこからその「条件」にあわない女性を除くと言う「消去法」によって妻を選んだとされています。
 その条件、ズバリ

「貧乏生活に耐えられそうかどうか」

 ........これ、女性からすればどう思うのか、実に興味深いものがあるのですが。
#いや、本当に教えて欲しいものです。
 ただ、こうして選んだとされるスザンナとの結婚は幸福だったようで、この点彼にしては「珍しく」運が良かったのかもしれません。もっとも、生活はやはり貧乏神が微笑みかけているようなものだったのは確かだったようですが。
 ただ、彼がリンツにいるときには別の町に住む彼の実母が魔女狩りに遭っています。この知らせを聞いたケプラーは急ぎ母親の元へ向かいまして、当時としては珍しい事に魔女の疑いをかけられた母親は無罪放免となっています。
 もっともこの母親、釈放後半年ほどで亡くなっているのですが.......

 さて、このようなリンツ時代ですが、彼はいくつかの業績をこの地で残しています。
 一つは樽の体積の計りかた、つまり積分の元となる研究。そしてもう一つは1619年、『世界の調和(Harmonice Mundi)』と言う本(原題では「Harmonices Mundi」と言う物もあるようで、どちらが正しいかは不明)で、「ケプラーの法則」の第3法則をここで引き出しています。
 ただ、彼のリンツでの生活は三十年戦争とキリスト教の新旧派の対立により、1622年にマティアスを継いだフェルディナンド二世による包囲を受ける事で終わります。

 次に彼が訪れたのは、ドイツ南部のウルムでした。
 宗教対立が比較的穏やかだったこの地で、1626年、彼はルドルフ二世の下で行っていた星図表『ルドルフ表(ウルム表)』を完成させます。この『ルドルフ表』はその後暫く多くの人達に使われる事になるのですが、その冒頭の献辞には給料未払いが続いた皇帝達への「感謝の言葉」が述べられていると言うのは、相当な当てつけだったのでしょう。
 なお、ウルムでもちゃんと貧乏神は彼に微笑んでいたようです。
 このときの、彼への未払いの給料は12,000グルデンだったと言われています......ちなみに、ルドルフ二世の時の、皇帝付主席数学顧問官だった時の年俸が500グルデンでして、貨幣価値は時代で変わったでしょうが、その24年分に当たる給料の未払いがあったと言う事は相当な物でしょう。

 そして1630年、国会開催中のレーゲンスブルクに向かった彼はその帰路で亡くなります。
 その目的は何だったのか?
 これはその未払いの給料の支払いを求める為の旅でした。ところが折角辿り着いても相手にしてもらえず、彼は得る物の無いまま、失意の帰路の途上で力尽きて死んだと言われています。
 原因は不明ですが、空腹の果てに餓死したと言う話もあれば、路傍で凍死したともいわれています。どちらにしても彼の貧しさが原因だったようです。
 なお、彼の研究を買い取るようなパトロンはいませんでしたが、しかしバーバラとの間に生まれた子の一人が、後に彼の全集を発行しています。

 さて、これがケプラーの話です。
 その富に関してみれば、貧しい環境の中で育ち、その後も名ばかりのパトロンの庇護を受け、給料未払いに泣き、その揚げ句給料の支払いを求めた途上で死去......まさに師ティコと正反対の人生だったと言えましょう。
 ただ、ケプラーの方がティコよりもより多くの成果を残し、そして科学にインパクトを与えていると言う部分では、彼は学者としてはティコよりも恵まれていたのかもしれませんがね。


 では長くなりました。
 今回は以上という事にしましょう。




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 今回は正反対の師弟関係の話を与太話をしてみました。他にも師弟関係で面白い話はありますが........まぁ、科学でも「成果」の話は多いですがこのような人間的な面で切り込んだ物、と言うのは中々見る機会もありませんからこういうのもよろしいのでは無いかと思います。
 ま、他の師弟関係などはまた別の機会にしてみる事としましょう。


 そういう事で、今回は以上ですが。
 次回はいつになりますかね.......管理人もちとあれこれと動く事になりますので、まぁ次はいつかは分かりませんけど(^^; とりあえず、気長に待っていただければと思います。
 さて、いつごろできますかね......

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2006/08/16公開)


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