からむこらむ
〜その88:ヒトラーとからし〜


まず最初に......

 こんにちは。なんだか日毎に気温差が激しいですが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 風邪引きさんが多いですね........皆様もお気を付けをm(_ _)m

 さて、今回こそは........と思いましたら、私的に忙しくなってしまい、ネタ決めが思いっきり遅れました(^^;;; が、ふと思いつくものもありましたので.......この間やった、ある出来事の先の話をしようと思います。
 ある出来事、とは.......毒ガス戦。その84で塩素の話はしましたが、それから先には更に現代でも使用されている毒ガスがあります。そして、それは意外な方向へと発展するのですが.........
 それでは「ヒトラーとからし」の始まり始まり...........



 時は第一次世界大戦の西部戦線........場所はベルギー領フランドル(フランダース)地方にある要衝イープル。東部に「突出」したこの地を巡り、戦中は何度か大攻防戦が行われました。最初は1914年10月に行われた第一次イープル戦。そしてフリッツ・ハーバーの指揮によって行われた、最初の「毒ガス戦」である第二次イープル戦.........
 この第二次イープル戦以降、この戦争においては毒ガスの使用を禁じた「ハーグ条約」は有名無実となり、両陣営ともに毒ガスを生産し大々的に利用し始めます。しかし、常に毒ガス戦において先手を取ったのはドイツ側でして、新規の毒ガスが開発され、使用されては連合国側はその防御方法を作り、そして同じガスをつくってドイツ側に撃ち込む........そういうことが行われていました。

 第二次イープル戦での塩素ガスの使用は両陣営に大きな影響を与えましたが、その84で触れた通りすぐさま防御法が確立されてしまい、また運用の難しさ(天候に左右される)から塩素ガスは徐々に使用されなくなります。これに代わりドイツ側.......と言うよりも、フリッツ・ハーバーは新たなるガスを用意します。それは、1812年にイギリスの著名な化学者デーヴィーにより一酸化炭素と塩素を日光に当てる事で生成された「ホスゲン(phosgene)」(塩化カルボニル:COCl2)というガスでした(「phos」は日、「gene」はガスを意味する)。この物質は常温では乾草のにおいを持つ無色の気体でして、塩素よりも毒性がはるかに高く、吸入すると中毒症状がゆっくりと出てきて、最終的に呼吸を麻痺させる、という窒息性のガスでした。この物質は、化学王国であったドイツで染料や医薬品の中間原料として触媒を用いて大量に合成されていました。現在でも重要な工業原料として用いられていますが........
#こういうような点は、ドイツが「何故毒ガス戦でアドバンテージを保てたか」を意味するのですが........
 このホスゲンを用いて新たなる毒ガス戦を、中部の突出部であるヴェルダンで開始すると、連合国側も防備体制をすぐさま確立(ホスゲンを分解するヘキサメチレンテトラアミンという物質でガスマスクのフィルターを作る)し、同じくホスゲンで反撃を開始。これにドイツ軍側は更にホスゲンを撃ちまくる、というお互いに壮絶な消耗戦を展開します。
 そして、この戦いが終われば新たにまた、毒ガスを作りだして.......というエスカレーションを繰り返していきました。

 さて、時代はやや飛ぶのですが........連合国側にたって参戦したロシアは、1917年のロシア革命により戦線を離脱。ドイツに有利な条件で停戦が成立(ベルサイユ条約で無効化されますが)し東部戦線は消滅するのですが.........ドイツの負担はこれで軽くなるかといえばそうではなく、Uボートによる無制限「通商破壊戦」の結果、アメリカは自国の船が沈められたことを理由に(本当は、イギリス・フランスへの戦費の多額の借款を理由に)ドイツ側に宣戦を布告。西部戦線に莫大な量の物資と兵員を動員し、徐々にドイツを圧迫していきます。
#尚、第一次世界大戦に参加した兵士の悲劇を描いた作品の一つが『ジョニーは戦場に行った(Johny got his gun)』です。
 さて......このようにドイツにとっては戦況が悪化して行く中、終戦直前の1918年10月のイープルにある一人の男がいました.........彼の階級は伍長。戦歴は.......開戦直後に志願して(彼はドイツ国籍を持っていないので志願兵となる)バイエルン連隊に参加し、第一次イープル戦での激戦を戦い抜いて、その時の勇敢な戦いぶりから鉄十字二級賞を授けられ、そして転戦を繰り返して1916年にソンムで負傷をしたものの治ってから前線に復帰、という「勇敢な兵士」そのものでした。
 そして、転戦の末に彼はイープルにいました。
 1918年10月13日、イギリス軍は夜から翌14日にかけて大規模な毒ガス戦を展開します........それがイープルでの最後の戦闘となるのですが.......... この時、伍長はこの毒ガス攻撃により負傷し、後方へ送られていきます。彼が語るところによれば、「猛攻の中、朝方の7時前に戦闘に関する報告書を携えて行ったところ目が焼けつくような感覚に陥り、そして数時間後には周囲の一切が暗闇になった」という状態になりました。後方へ送られた彼の視力は1週間ほど戻りませんでした。そして、ポンメルンの病院で二度目の入院生活を送る途中で終戦の報.......つまり、ドイツの敗北を聞きます。
 この伍長の名前は......アドルフ・ヒトラー。この報を聞いて「背後から国内の裏切り者によって刺されたから」負けたのだと信じた彼は、やがて..........
 まぁ、ここら辺から先は、よく歴史で語られますので省略しましょう。


 さて、当時一介の兵士であったヒトラーが後方へ送られることとなったイギリス軍の毒ガス。これは何だったのか、と言うと.........「マスタードガス」と呼ばれる毒ガスでした。
 マスタードガスという呼び名は、連合国側が「からしのような臭い」からつけた名称で、ドイツ側では「黄十字」と読んでいました。化学的に言えば2,2'-ジクロロジエチルスルフィドという名称でして、以下の構造を持っています(ついでに、上述のホスゲンも示しておきます)。



 1859年にドイツのニーマンという化学者によって合成され、1886年にドイツの有名な化学者であるヴィクトル・マイヤー(「ヴィクトル・マイヤーの気体密度測定法」で有名)が雑誌『ペリヒテ』にこの物質の合成法の確立したものを報告しています。
#余談ですが、マイヤーは化学において多大な貢献をしているのですが、1897年に健康が優れずに自殺しています。
 その方法は、エタノール(C2H5OH)から作りだすものでして、脱水して出来たエチレン(CH2=CH2)に次亜塩素酸(HClO)を反応させ、その後に硫化ナトリウム(Na2S)を反応させて、最終的に塩化チオニル(SOCl2)を反応させて出来ます........と書いても理解できませんので、式を書きますと、



 となります。
 まぁ.....詳しい反応条件や溶媒の工夫などは書いていませんので、挑戦する愚か者はいないと思いますが..........念の為に書いておきますが、素人がやって出来るものではありませんので、やるだけ無駄です。ちゃんとしたノウハウがないと出来るものではありません。仮にやって出来ても、死ぬのは作った人間となりますので止めたほうが無難です。
 また、間違っても管理人や他の方々に具体的な作り方を聞くような愚を犯さないで下さい。
#有機系の学生さんは、反応式について最初の反応条件をどう変えるとエーテルが出来るとか、塩化チオニルを別の物に換えるとしたらどういう物質があるかとか挙げられるか、とか想起できるか試せますね........

 さて、この2,2'-ジクロロジエチルスルフィド........マスタードガスは、目に見える色を持たないのが特徴で、かすかな「からし」の様な臭いを漂わせる揮発性の液体でした。しかし、内容は凶悪なんて物ではなく、ほんのわずか触れただけで皮膚はただれ、火傷のような状態となり、治ってもケロイド状態となるというものでした。もう少し書けば、空気中に300万〜500万分の1程度のマスタードガスが皮膚につけば数時間後に発赤し、翌日には深部に達する火傷となるとされています。吸い込めば激しい咳を伴い、肺気腫を起こし、目に入れば視力を失い(空気中に1400万分の1で目を冒すとされています)、体内に吸収されれば嘔吐、悪心を起こして更に肝機能までも障害を起こします。
 このガスは徐々に揮発する性質もあって遅効性の特徴もあり、前線で衣服に「わずか」についても、自軍に戻ってから揮発し始めて、自軍で周囲の味方も巻き込んで、結果的にこのガスにやられる、という事故(戦果とも言えますが)も多数起きました。また、通常では衣服を通して浸透するために、特別な防護服なしでは被害に遭う、という特徴もありました。
 このような「皮膚をただれさせる様な性質」を持つガスを一般に「糜爛(びらん)性ガス」と呼んでいますが...........当然のことながら、マイヤーや助手はこのガスの研究にはかなりてこずったという記録があり、マイヤーは構造式をみて「こんな化合物に、何故こんなに毒性があるのか?」と首をひねりつつ、結局はこのガスの研究を放棄しています。しかし、この糜爛性のガスは戦争における「有用性」から多いに使用されることとなりました。
 それだけ凶悪なガスが戦場で使われ、そしてこの「からしの臭い」のガスはヒトラーの視力を一時的であれ奪ったのでした。

 余談ですが、ヒトラーはこの時の出来事がトラウマとなったのか、ナチスが第二次世界大戦で毒ガスを戦場で使わなかった理由の一つが、ヒトラー自身がイープルで体験した経験からではないのか、という説もあります。
 もちろん、「使えば相手も使う」という部分も多分にあったのですが。


 さて、ではこのガスのデビューに触れておきましょう。
 話は前後しますが、ヒトラーの話よりも1年3ヶ月前の1917年7月。場所は........皮肉にもイープルでした。ベルギー海岸線の「解放」を目的(Uボートの基地があるとされた)とする「第三次イープル戦」の準備を着々と整えつつあった連合国側に対して、事前に40個師団を動員して攻めてくる、という情報を察知したドイツ軍は7月12日の夜に先手を打ちます。
 ドイツ軍は主にイギリス軍の塹壕に向けてガス弾(ハーグ条約違反ですが)を撃ち込みます。イギリス軍側は「からしの様な臭い」はするものの、色のないガスを特に気にすることはありませんでした。単なる「思わせぶり」ととったイギリス軍はそのまま対策をとらずに放置します.........が、数時間後。上に書いたような事態がイギリス軍側で発生することとなります。
 兵士は目と呼吸器を最初に冒され、一晩の後には皮膚がただれて無残な姿となります。結果、英仏軍は約3500人の中毒者を出し、うち89人が死亡します。そして.......ドイツ軍側から第二、第三の攻撃が行われるに至り、更に被害は拡大していくこととなります。特に問題になったのは、当時保持していたマスクだけでは事が足りず、衣服などを通しても被害が及ぶためにかなりの損害を被ったことでした。
 ただ、連合国側も指をくわえて見守るわけではなく、不発弾をロンドンに送って化学者達が懸命に追及した結果、このガスの正体を見破ることとなります。
 そして......イープルで使われたこのガスは、地名より「イペリット(Yperite)」とも呼ばれることとなります。
 結局「第三次イープル戦」はこの2,2'-ジクロロジエチルスルフィド/マスタードガス/黄十字/イペリットの効果により遅れに遅れ、最終的に攻撃はするものの、不運にも雨にも見舞われて「泥濘のフランダース」と呼ばれるこの地域が更に泥沼化してしまい、最終的には若干戦線を押した程度で終わってしまいます。
 尚、この三回の「イープル戦」で戦死した人員は50万人とも言われています。

 書いている通りドイツはこのマスタードガスを毒ガスとして用い、その為に大量生産したのですが、これを容易にした理由がドイツにはありました。
 上記反応式の2段目の矢印の右側の化合物、「エチレンクロロヒドリン」はご覧の通りマスタードガスの合成必要なものです。が、これを使用する必要のある工業が存在していました。それは.........その66その67に関与する藍色に関する人工染料に絡むものでして、これに関わっていたBASFはアニリンとエチレンクロロヒドリンより染料を合成していたのでした。
#尚、戦争中、マスタードガスの製造にはハーバーは関わっておらず、エミール・フィッシャー博士が指揮したとされています。
 しかし、イギリスやフランスでは人工染料の工業は発達しませんでした。よって、エチレンクロロヒドリンを入手する経路が無い。しかし、こちらでも作ってドイツに反撃をしたい........そういうわけで、アメリカに依頼をするのですが、最終的には最後の行程がうまくいかなかったようで放棄。結局はエチレンを作り出し、直ちにこれを塩化硫黄に吹き込んでイペリットを作る、という簡単な方法を採用します。
 もっとも、この方法では非常に不純物が多く、品質は劣悪で保存性も悪く、メリットは「安い」だけしかなかった、と言われています。

 さて、ドイツ軍はイペリットの成功をみてほとんどの榴弾にイペリットを装填します。が、上記の通り「わずかでも付着」すれば敵も自分たちも危ない、と言うことで汚染された服は直ちに予備に交換し、長靴は水と刷毛で洗い落とすということをしていたようです。軍馬軍用犬も長靴や専用ガスマスクを付けさせられていた、と言う記録もあり、なかなか不気味さをもたらしています。これは、両陣営でみることが出来ました。
 戸外のイペリットは生石灰(酸化カルシウム:CaO)を撒いて消毒し、全身をすっぽり覆う防毒衣を配布したと記録があります。最初、この防毒衣はゴム引き布で作ったようですが、イペリットが容易にゴムに浸透するためにやがて亜麻仁油(あまにゆ)を塗布したオイルクロスに変更します。
 こういうような重装備をさせないと防げない、と言うことで兵の動きは鈍くなり........結果、ドイツ軍は相手側にこの重装備をさせたためにイペリットの攻撃は常に成功した、と言われています。もっとも、衰えていく国力の反映もあり、常に攻勢は守勢に転じ、ドイツ軍は苦戦していきました。
 そして、1917年11月には第二次世界大戦での主役「戦車(タンク)」がついに戦場に出てくるようになり、真価は発揮出来ないまでにしてもかなりの戦果と心理的動揺を与えたと言われています。
#「戦車」の心理的効果は非常に大きかったようで、当時の記録では「戦車が出た」と言うのは撤退の理由になった、と言われています。
 翌1918年。アメリカ軍の本格的な参入(物資のほか、毎月30万人の増援)によって、イペリットやドイツ軍の奮戦もいよいよ持たなくなり、西部戦線は崩壊。そしてソ連の成立の影響や厭戦の空気がいよいよ大きくなり、ドイツで革命が勃発。ドイツは降伏しカイザーは皇位を退くこととなります。
 こうして、莫大な数の戦死者を出し、塹壕症や毒ガスの後遺症に苦しむ人々を大量に残して第一次世界大戦は終了します。

 余談ですが、塹壕症とは長期にわたる塹壕戦で起きる症状でして、塹壕に溜まった水から足が冷えて障害を起こしたり、激しい砲撃が長期に渡ったため、その時の揺れが長く続いたことから「震え」が止まらなくなり、椅子に座るのもままならなくなる、などの症状です。
 これらのフィルムは残っていますが、いずれも凄惨な傷痕を示しています。

 第一次世界大戦後、戦勝各国はドイツの資産を徹底的に奪っていき、自軍への転用を画策していきます。この中で、一番熱心だったのはアメリカでした。そして、日本も毒ガス戦に興味を示し、技術者を迎え入れ、帝国陸軍が特にこの研究を行ったとされています。
 そして、日本でもイペリットなどの製造が広島県の大久野島で行われることとなります。イペリットは「黄一号」と呼ばれて製造されていたのですが、事故が多く、働いていた人達にもイペリットで皮膚がただれるなどの症状が出たと言われています。
 尚、最初はフランス式で出来たものを「黄一号」と。後にドイツより技術者を迎え入れて製造した、ドイツ式のイペリットを「黄一号乙」と呼んでいました。結局は、大規模に使う機会は無かったと言われているのですが...........


 さて、イペリットの作用機構は現在は解明されています。
 イペリットは人体を構成するたんぱく質に対して強く作用することが知られており、たんぱく質と反応し(アルキル化反応、という反応が起こる)その構造を変えてしまい、役立たずにする(わずかな構造の変化で生体成分は「役立たず」になります)ことでその毒性を発揮します。そして、この為に皮膚や粘膜などを冒すほか、更に細胞分裂の阻害を行うことも知られています。
 知識のある人向けに構造を加えて説明すると.........(目茶苦茶専門的なので、分からない方は飛ばして下さい(^^;;)



 たんぱく質のNH2残基の様な求核基と分子構造の変わったイペリットが反応することで、たんぱく質の「アルキル化」を起こします。


 イペリットはその「有用性」から現在においても使用されている毒ガスです。ある程度の科学技術があれば安く作ることが出来、またノウハウも十分あるとあって、金のない国が作る「貧者の核兵器」とも呼ばれる化学兵器のなかで、今もって主力となりうる兵器となっています。事実、イラクによる実戦での使用が確認されており、また自国のクルド人居住区に向けて「テロの掃討」を目的に使用して一つの町を全滅させたという話があります。
 方法は、爆弾の内部にイペリットを入れておき、爆発と同時にばらまく、という方法を一般にとっています。
#もっとも、熱で化学反応とか起きるので、ロスとかあるわけで難しい部分はあるのですが。


 とにかくも、立派な「兵器」である毒ガスではありますが、これが後に意外な方向へと展開していくことになります。
 それは.........

 続きは次回、と言うことで。




 取りあえず終了、と.........

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 色々と忙しかったので、ネタ探していたら何となくイペリットにたどり着きましたので、手を付けてみました。まぁ、意外なところでヒトラーと関わっていた「からしの臭い」のガス、と言うことでこういうタイトルになったわけですけどね。
 まぁ、触れるべき点は多いのでやや拡散的になっていますが、背景などはちゃんと押えたつもりです。

 さて、次回はこの話の続きをしようと思います。
 それは、最後に書いたように毒ガス兵器であるイペリットが意外な方向へと展開していくのですが..........

 さて、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.............

(2000/10/17記述)


前回分      次回分

からむこらむトップへ