からむこらむ
〜その234:江戸患いと陸軍軍医森林太郎〜


まず最初に......

 こんにちは。だんだん暖かくなってきましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 いやぁ、1年間以上放置してしまいましたが(^^; まぁ、読む人もまだいらっしゃいますかね? 取りあえず、なかなか更新できない事は気にしているんですよ、えぇ。ま、忙しくなっているという事です。

 さて、そういうことで今回の、久しぶりの「からむこらむ」ですが。
 今回はやりたいと思っていながら延々とやって来なかった話。ま、歴史的をかじっている人には有名な話、でもありますかね。栄養学関係をやっていて歴史をかじった事がある人は非常によく知っている話かとも思いますが。裏話的なものでもありますがね........
 それでは「江戸患いと陸軍軍医森林太郎」の始まり始まり...........



 豊かになればなるほどかかる病気、と言われてどのような物があるでしょうか?
 今なら確実に思い浮かべそうなもの.......と言えば恐らく生活習慣病、と言う事になるでしょうか。糖尿病やら何やら......検診の時にあれこれ言われる事がある人も多いかと思います(管理人もその一人です、えぇ)。
 さて、江戸時代中期は天下泰平の時代、諸国の争いもなく、流通が発達した時代です。流通が発達したという事は物だけでなく人も移動し、交通が発達したと言う時代でもあります。そして、そのような環境が整うと、地方にいる人達は観光地や都会へと足が向く......これもまた必然でした。
 そのような人達、あるいは都会での富裕層にかかりやすかった病気として「江戸患い」「江戸煩い」または「江戸疫」とも呼ばれた病気がある事をご存知でしょうか? 「江戸」を「大坂」に置き換えた呼び方もあります。これは面白いもので、富裕層でなければ余りかからず、そして地方にいた時にはかからない病気でした。例を挙げれば例えば参勤交代などで江戸に向かう武士、または江戸へ奉公に来た人達が、国元では健康だったものの江戸で生活するうちにこの病気にかかる......しかし、国元に帰ったら治った、などという話もあります。
 この病気は実に特徴的で、症状からすれば、まず足や全身の倦怠感から始まり、やがて足の方がむくみ、そしてしびれると言う特徴があります。この特徴を持って「脚気(かっけ)」、あるいは「脚病(かくびょう)」と呼ばれていまして、これは実際には心臓の機能障害と末梢神経の障害から起こる症状です。やがて知覚の異常や運動麻痺となって立ち上がれなくなり、最終的には心臓機能の低下によって心不全(=衝心)を起こして死に至ります。この為、脚気は心不全と併せて「脚気衝心」と呼ばれる事もあります。
 この病気は初夏に集中して起こる事が多く、この為か「脚気」と言えば夏の季語となっています。

 脚気と言う病気は昔から知られていました。
 例えば天皇家はこの脚気にやられている人がそれなりにいまして、例えば95代の花園天皇(この次が有名な後醍醐天皇)は脚気に何度もかかり、最終的に脚気の為に崩御しています。また明治天皇も脚気にかなり苦しめられ、側近の奨めで脚気病院を設立しています(ここは後に東大医学部へと繋がって行く)。なお、明治天皇の伯母である静寛院宮、即ち徳川14代将軍家茂の正室である和宮もこの脚気にかかり、療養先の箱根で薨去しています。
 なお、和宮の夫である家茂も脚気で薨去し、その前の13代将軍家定も脚気(一説ではコレラ説もあります)で薨去しています。
 ただ、脚気の患者数が増加したのは江戸時代中期以降であり、最初は富裕層から始まり、やがては江戸の町民たちにもこの病気は広まっていきました。特に明治以降では猛威を振るい、結核と並んで「国民病」と呼ばれるほどの患者数・死者数を出しています。この状況は1950年代まで続きます。

 明治時代において、脚気は西欧人には余り見られなかった為に、この病気は風土病として認識されていたようです。もっとも実際には帝国主義全盛の時代、西欧列強各国は本国では見られないものの、各植民地においてこの病気が見られ、対策に頭を痛めています。日本では明治時代にもこの病気は変わらず都市部の富裕層で発症し、そして若年層において多くの死者を出しました。
 ところで若年層がこの病気にかかると困るところがあります。その為に、この問題を最重要視した国家部門が存在していました。
 それはどこか? その答えは実は「軍隊」。兵役を迎えて徴兵しようにも脚気の為にこれに応じられなかったり、または隊内でも脚気で死んでしまう事が多くありました。
 軍内部における若者の脚気の問題は、既に戊辰戦争の頃には大きな悩みとなっていました。特に海軍は深刻で、1872年に兵部省から陸海軍が分離したばかりの時代において、当時の海軍の総兵員約5000名の内毎年1500人以上の脚気患者が出ていました。遠洋航海に出た艦の乗組員たちに至ってはさらに酷く、例えば1875(明治8)年に軍艦富士山は、遠洋航海中に乗組員300名中患者70名をだし、内死者20名を出します。また1882(明治15)年、朝鮮半島で起きた壬午事変において、日本の派遣した比叡などの軍艦4隻は清国艦隊と対峙したものの、内3隻において水兵の多くが脚気にかかり、実際には戦闘能力が無かったという話もあります。
 海軍は建軍以来、毎年おおむね3割にのぼる脚気患者に悩まされていました。

 このような状況は看過できず、当然ながら軍部は当然脚気問題への対処を行います。ただ、その方法や考え方は「伝統」とも言える陸海軍の(悪い)違いが明確に出ています。例えばスタイルの違いがあり、大日本帝国陸軍はそのスタイルがドイツ式で、医学もドイツ系の学派。一方、大日本帝国海軍はスタイルをイギリス式にし、医学も当然英国系となっていました。なお、後述しますが、ドイツは脚気の原因について当時隆盛していた細菌学から感染症であると主張し、一方イギリス及び漢方では栄養障害説を挙げていました。当然陸海軍はこの影響を受ける......つまり、一国の軍隊の内部で見方が違い、そして対応が違っていました。
 なお、当時は他に「ミアズマ」と言う物質が大気中に存在し、それにより脚気になる、と言う「ミアズマ(瘴気)説」もありました。瘴気説はマラリアでも唱えられるなど、昔では一般的な考えでした。

 このような状況の中、最初に脚気問題を解決に導いたのは海軍でした。
 東京慈恵会医科大学の創設者で、後に海軍軍医総監になる高木兼寛(かねひろ)がその主役になります。高木は薩摩藩の軍医として戊辰戦争に従軍した経歴を持ち、戦後英語と西洋医学を学びます。そして一等軍医として海軍入りし、1875(明治8)年にイギリスへ留学。1880(明治13)年に帰国します。
 さて、帰国した高木が着手したのは海軍の脚気問題でした。彼が注目したのは軍において階級が高いほど脚気が少なく、階級が低いほど脚気が多い。そして軍艦による脚気の発生率が違う事、さらにはイギリス海軍における脚気の少なさといった点を考慮し、最終的に脚気の原因を栄養障害と判断します。具体的にはイギリス海軍の食事と日本海軍の食事を比較し、日本では炭水化物とタンパク質の比が不適切であり、この為に脚気になると考えました(この考えは現在知られる脚気の原因からすれば誤りです)。この対応として白米だけでなく、副食を豊かにする事にします。

 高木の対応が正しい事が証明されたのは1884(明治17)年でした。
 この年、海軍の練習艦であったコルベット「筑波」が、ニュージーランド〜南アメリカ〜ホノルルとまわる太平洋一周の航海に出発します。筑波のルートは前年に装甲コルベット艦「龍驤(りゅうじょう)」によりたどったルートとほぼ同じで、龍驤の航海では乗組員376名中脚気患者が169名、死者25名(ただしこの数字は資料により多少の差違があります)を出していました。龍驤の帰航(9月15日)から約20日後(10月5日)に医務局長となった高木は龍驤の航海の調査を実施。これを受けて脚気が栄養が原因であると言う事を明治天皇に謁見して説明もしています。そして筑波では食事の改善として、肉、コンデンスミルク、ビスケットなどを与える事とします。
 この航海では筑波乗組員333名中、患者は延べ16名(これは食習慣等から、高木の方針に従えなかったと言う8名も含まれます)、死者0と大成功を収めます。
 この結果を受けて高木はその成果を1885年1月末に大日本衛生会の常会において「脚気病予防説」として発表します。さらに研究を進めて、脚気を防いだのは当初は洋食が一因としていたものの、やがて麦飯(白米:麦=7:3〜6:4ぐらい)が効果的である事が確認され、当時まだ一般的ではなかった洋食への抵抗感や当時の兵が麦飯に慣れていた事から、海軍の兵食は麦飯へと切り替わっていきます。
 最終的に海軍は1886年には脚気の制圧に実質上成功し(つまり約1年で)、その後海軍糧食条例並糧食経理規定、海軍給与例及び施行規則によってその食事内容について、「一日パン1食米麦飯2食に肉類40匁魚類40匁等」と規定されます。日清・日露戦争においてもこの様な食事についての注意事項が示され、海軍において「脚気による兵力不足」が解消されます。
#なお、高木は1890年には明治天皇に海軍兵士における脚気がほぼ終息した事を明治天皇に奏上しています。

 一方陸軍はどうか?
 陸軍も高木と同じく1884年、大阪陸軍病院の院長であった堀内利国が神戸監獄で与えられていた麦飯による実績を参考し、麦飯による食事を実施、効果を確認します。これはやがて陸軍内で主に口コミで広まっていき、各地の軍医がこれに倣い毎年1000人以上いた脚気患者は1886年には120人に急減。1890年頃には麦飯がほぼ全ての部隊に普及し、脚気の追放に成功します。
 ただ、陸軍も海軍も経験上から麦飯が効果がある、と言う認識を持っているだけであり、科学的な追及はまた別の話になります。でも、「取りあえず麦飯で効果がある。よって脚気問題は全てが解決」.......とは行かないのが歴史でしょうか。
 脚気の追放に成功した陸軍でしたが、しかし再び脚気の悪夢に悩まされる事となります。

 その原因は何か?
 明治に入り日本からは多くの人達が化学(長井長義などもいます)や医学を学びにドイツに向かっています。そして前述した通り、陸軍は様々な事柄がドイツ式で固められていました。当然軍医もドイツ式。ドイツは19世紀後半にコレラ菌の発見等コッホらにより多くの細菌が病原である事が確認され、ちょうど細菌学が盛んになっていました。当然脚気も細菌が原因ではないか? と考える事となる。
 高木らの実験からやや遡りますが、第4代医務局長であり軍医制度を充実させた石黒忠悳(ただのり)は、既に1878年には『脚気論』と言う本を出しており、高木らが成果を挙げた後の1885年には『脚気談』を出して何らかの感染が関わっているのではないか、と示唆しています。事実高木の「脚気病予防説」の後、東大の医学研究者たちは高木に対して批判を加えており、その中には後に「脚気菌」を「発見」する事になる緒方正規(まさき)もおり、その緒方を石黒は支持していました。
 ひとまず緒方については次回に触れる事にして陸軍と海軍の話をしましょう。

 筑波がホノルルからチリに向かっていた頃、石黒は一人の部下に命を下します。
 命を受けた人物は陸軍二等軍医である森林太郎。彼は命を受けて衛生学と兵食の研究の為、横浜港からはるばるドイツへと留学します。森はドイツで米食とパン食の栄養価の研究を行い、「日本兵食論大意」を著します。この中で「米食はパン食に栄養価として劣らない」、即ち脚気は食事の問題ではないと主張し、陸軍の規定していた「白米6合」と細菌説を支持します。
 1888(明治21)年、森は帰国して陸軍軍医学校教官として着任。そしてその頃に脚気が減った事について、「たまたま伝染病の流行期を過ぎただけであり麦飯は関係ない」とし、栄養説を批判します。さらに翌年に彼は「実験」によって白米が栄養学的に優れている事を「立証」するデータを提出し、栄養説に攻撃を加えました。もっともこの「実験」、白飯、米麦飯、洋食の3グループで各6名、実験日数にいたっては8日間と言うもので、しかも都合が悪いデータは削除し、またカロリーと言う点でのみ問題にしているものであり、科学的とは言い難かったのですが........
 しかし森や石黒のこのような動きがあったものの現場での麦飯の普及を止める事はできず、結局は麦飯の普及によって陸海軍の脚気問題は一段落します......しばらくは。

 ではいつから陸軍は再び脚気の猛威に襲われるようになったのか?
 1894(明治27)年、朝鮮半島を巡る権益を巡って日清戦争が勃発。戦争が始まれば最高統帥機関として大本営が設置される事になります。第二次世界大戦の事例から悪名高い「大本営」ですが、本来は天皇の命令を大本営命令(陸軍なら大陸令、海軍なら大海令)として発令する事ができる最高司令部のことです。
 さて、平時において兵食は各連隊で給与の実施が行われますが、戦時になると大本営が統制します。つまり軍中央部が食糧の輸送・給与の調整を行う事になる。その決定に関わるのが陸軍では陸軍省医務局でした。この時点で石黒は医務局長で野戦衛生司令官、森は石黒の部下で軍医部長でした。当然彼らは自らの「科学的な信念」に基づき、兵食は白米6合としてこれを実施します。
 その結果はどうなったのか?
 戦地では副食も含め、補給は予定通り行きません。その結果、陸軍では再び脚気患者が増加。現地の軍医から麦を送る要望があったものの、石黒らはこれを無視。そして兵站の最高責任者である運輸通信長官であった寺内正毅大佐の要請には、「兵食の問題は専門家に任せるべきだ」と主張して退けます。
 その結果、戦地における陸軍の脚気患者は激増し、その正確な数は不明であるものの戦後(と言うよりその後の日露戦争後になりますが)の1907(明治40)年に陸軍省医務局から出された「公式記録」では戦死者977名、脚気患者は4万名以上にのぼり、その数は全入院患者の1/4を占め、銃撃による負傷者1に対して脚気患者11.23の割合となり、その死者4064名となっています。これらの数字は資料により異なり、あくまでも陸軍省の「公式記録」と言う扱いになりますが、それでも戦死者の4倍以上の数が脚気による病死と言う異常な事態でした。
 ちなみに、日清戦争時の日本側の総兵力は20万以上。即ち、兵力の20%前後が脚気にかかっていたと言う事になります。一方海軍では脚気の発生は34名、死者0。この戦争の伝染病トップである赤痢による患者は13518人であり、これに比して脚気はその数の3倍です。このような事態に対し、記録では「古来東西の戦疫記録中ほとんどその類例を見ざる」と残しています。

 そして日清戦争から10年後の1904(明治37)年、やはり同じ事が繰り返されます。
 この時の陸軍医務局長は小池正直であり、森は第二軍軍医部長でした。第一軍軍医部長谷口謙は脚気予防の為の麦飯の支給を要請し、また第二軍でも森の部下から麦飯支給の要請が出されます。他にも多数の要望が出され、また小池自身も麦飯の効果を認めていました。
 ところが、麦の輸送はされませんでした。
 言い訳は「麦の輸送が困難」とされていますが、実際にはそんなものでもなく、当時予備役となっていた石黒と医務局にいた彼の息の掛かった人達がこれを阻止していたようです。もちろん森もこれに加担したでしょう。結局1905年になり、かつて森らに麦飯支給の要請を握りつぶされた経験があり、そして当時陸軍大臣となった寺内正毅がトップの命令として麦飯の訓令を出すまで(激戦の奉天会戦後でした)、戦地では脚気患者が増大する事になります。
 日露戦争での日本側の総動員兵力は約109万人で死者は約9万人、全傷病者は約35万人と言われています。このうち脚気患者は少なくとも21万人以上で、恐らく実数は約25万人、資料によっては30万人と見込まれています。病死者数約3万7000人で、これに対する脚気による死者は2万7800人であり、その約75%を占めています。なお、麦飯が支給された海軍での脚気患者数は87名、死者わずか3名でした。
 陸軍の脚気による死者は2個師団分に相当する数であり、森は後に「日本の将兵をもっとも多く殺した」と非難されます。事実既に寺内の訓令が出る頃には「余は孤立しつつあり」と述べており、戦中からそのような批判があったようで、森もその雰囲気を感じ取っていたようです。
 このような批判の為か、日露戦争中の1905年2月において衆議院により陸軍の脚気対策が非難され、調査委員会が開かれるに至っています。もっともこの委員会は3年後にやっと開かれ、そのメンバーも森がいたり、森の出身校である東大出身者(しかも東大は細菌病説の支持)が多く、栄養学の研究者がいないなど非常に不公正なものでした。

 ところでこの森林太郎、最後は軍医の最高位である陸軍軍医総監(石黒の時代は少将、森の時代には中将)になっています。
 森がここまで昇進できたのは長州閥との繋がりがあると言われています。彼は山県有朋への接触をはかっており、また乃木希典とも親交がありました。そして森が脚気の細菌病説に固執した理由として、当時国費以外では実質不可能だったドイツ留学が石黒の支援によってできたこと、そして石黒が細菌病説を支持していた事が関連している事が考えられています。
 また陸軍が白米を重視した理由はもう少し説明が必要でしょう。
 白米は当時「ぜいたく」な事があります。白米は「上流階級が食べられるもの」であり(故に江戸時代は富裕層で発症する)、陸軍も「白米が食べられる」事を売りにしていましたし、兵士もそれを期待していました(せっかく軍隊に入って白米が食べられると思ったのに、麦飯を出されれば?)。そして明治期において軍隊では主食の米は白米で支給し、副食の費用を現金で支給していました。徴兵された兵士は現金は使わず、例えば故郷へと仕送りにする.......その結果当然栄養への偏りが起こります。また、戦争の時には実際には麦は収穫待ちであったり、また虫がつきやすいなどの問題もあったと言う事も考慮に入れるべきかもしれません。
 ただし海軍はちゃんと考慮して行っていたわけであり、このような理由を挙げたとしても、多くの死者が出た事に対し陸軍に非がないとはもちろん言えませんが。

 ところで森は軍人としてよりはむしろ文人としての名が有名でしょう。彼のペンネームは「森鴎外」。ドイツ留学からの帰国以降文筆活動を始め、1890年に『舞姫』でデビューしました。日露戦争後にその活動は本格化します。もっとも公私の区別を非常にはっきりと付ける人だったと言われており、特に軍人としての誇りを持っており、軍服を着ている時に文壇の知人が声をかけると怒ったと言う話もあるようです。
 森が亡くなったのは1922(大正7)年であり、宮内省と陸軍からの栄典を辞し、墓碑には「鴎外」を使わず「森林太郎」として葬る事を遺言します。
 なお、既に彼の死の頃にはその詳細な原因はまだ分からなかったものの、脚気が栄養が原因であると言う見方はほぼ確実となっていました。しかし最期まで彼はこれを認めていません。森は現代においても文人としての評価は非常に高いものの、どうにも医者としての評価は決して良いものとは言えないようです(功績はあるのですが)。


 さて、脚気は日本史に大きく関わる問題となっている事は以上を持って分かるかと思います。
 では、どのように脚気が栄養に関わる問題であると認識されるようになったのか? それには「脚気菌」説との激しい争いがありました。脚気の原因に絡む話ですが、これも今回の話と絡んで一つの項目として扱うのにふさわしいと思います。
 今回はもう長くなりましたので、次回はその話をしてみたいと思います。

 それではこの話はこれで以上、と言う事で......




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 森林太郎、と言う名前を聞いてピンと来る人がいれば結構歴史が好きか、あるいは文学が好きか、とも思いますけど。まぁ、文人としてしか見なければ森林太郎=森鴎外なんて名前は中々出てこないかと思いますが、彼が軍医であった事、そして非常に「大きな損害」に関わっていた事、と言うのはなおさら知られていないかなぁ、とも。逆に軍事関係の歴史に興味を持つ人は知っている、と言う話でもあるかもしれません。
 そういう意味では意外な話かもしれませんけどね。

 そういう事で、今回は以上ですが。
 取りあえず次回は、この続きですかね。脚気の原因について行き当たるには、上述の通り一つの項目として扱うのにふさわしいほどの話があります.......まぁ、結構どろどろなんですが(^^;

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2008/04/28公開)


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