からむこらむ
〜その176:麻黄と日本人〜


まず最初に......

 こんにちは。9月もそろそろ終わりとなりますが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 まぁ、風邪引きさんが多そうですけどね。とにかく、体調を崩しやすい時期です。皆さんもお気をつけを。

 さて、今回のお話ですが。
 今回も前回の続き、と行きましょう。前回はコカとフロイトの話をして、いくつかの特徴を。そして、最後に麻黄についての話をしました。この成分についての話をしてみようかと思います。
 これはコカほど書くものはありませんが、日本人とは非常に密接なものですので、いろいろと触れなければなりませんが.........
 それでは「麻黄と日本人」の始まり始まり...........



 さて、では前回の続きと行きましょう。
 麻黄がどう研究されていったか、からですね.........

 時は1870年代、日本が明治維新を経て近代国家の樹立に向けて動き出したころ。政府はそれを支えるため、さまざまな人材を海外に官費(国の金=税金)で留学させ、そこで最先端の学問を学ばせていました。これはかなり力を入れていたようで、実際に留学から帰国した人たちは期待通り日本の近代化に大きく貢献することになるのですが.......
 さて、こういった留学生の中に、江戸時代末期に蜂須賀藩(徳島)御典医の息子として生まれ、後に日本化学会会長および日本薬学会会頭となり、日本の化学・薬学界を支えることとなる長井長義(ながよし)がいました。
 この長井は1871(明治4)年、「もし学問が成就せねば腹を切る」覚悟で小刀を忍ばせてドイツへと留学します。そしてドイツで彼は、大化学者リービッヒに学んだA・ホフマン教授(その66参照)に師事し、精力的に研究生活を行います。そして出発から13年後の1884年に帰国しています。
 ちなみに、この留学はいろいろとあったようでして.......
 まず、長井は出発の際に無理して旧藩主に挨拶に行ったがために、予定の船に乗り遅れたとか。また留学の間の事。留学生で放蕩三昧の留学生がいる、いっそ全員引き上げてしまえ! という意見が政府に出たこともありまして、政府の命で様子を見に来た某男爵に「私はまじめにやっているのだ」ということで、持ってきた小刀を隠し持って面会した話などあるそうですが....... また、一方で彼はドイツでテレーゼ・シューマッハー嬢に一目ぼれ(最初にかけた声は、ホテルの食堂で「蜂蜜はおいやですか?」だったそうで)しまして婚約(ホフマン教授が後押ししたそうですが)。1886年に再度ドイツに渡り、結婚をしています。異国の、当時名もろくに知られていない小国の留学生との結婚に周囲はかなり反対したそうですが、ホフマン教授がかなり強力にバックアップしたそうです。
 という雑談はともかく.........
 日本に帰国した後、長井は東京帝国大学の教授職に就きまして、理学部で化学、医学部で薬学を担任することになります。そしてすぐに研究に取り組みまして、漢方の成分などを調べることとなります。
 その中に、麻黄の研究も含まれていました。

 それまでにも実は麻黄の有効成分の研究は日本で行われていました。
 最初は東京衛生試験所技手(ぎて)の山科元忠が行ってました。しかし、彼は麻黄から粗アルカロイド(つまり未精製のもの)を分離したところで急逝してしまい、この研究は完成しませんでした。しかし長井によって1885年、つまりドイツから帰国した翌年には麻黄からアルカロイドの分離に成功し、長井はこれを「エフェドリン(ephedrine)」と命名(収率は塩酸塩で0.3%)。そして7月の日本薬学会において講演発表をします。その後はこの物質の薬理作用などが東京帝国大学医学部の教授らによって研究されることとなります。そしてこれには交感神経を刺激し、瞳孔を散大させる効果がある、ということが判明します。
 ところが、実はエフェドリンが文献に最初に表れるのは1892年でして、更には研究結果はほとんど日本語で行われたために海外で読まれることは無く(少なくとも現代に至るまで日本語は「マイナー」な言語です)、欧米などで全く注目されることが無いまま「エフェドリン」は埋もれていくことになります。

 エフェドリンが注目されるのはいつからか?
 エフェドリンの効果が調べられ、注目されるようになるのはじつに長井が発表した約40年後の1924年、当時イーライ・リリー社の薬理学者であったK・K・チェン(中国名は漢字が無いので書けず)がC・F・シュミットとの連名で発表した麻黄に関する研究論文によります。チェンはもともと漢方に興味を持っていたようで、そういった研究を趣味にしていた事がこの研究につながったようです。つまり、彼は漢方での麻黄の効果に注目しまして、その効果が気管支拡張の効果があることに注目します。
 そして、イーライ・リリー社はチェンの研究の結果から麻黄を調べてエフェドリンを分離。これが高峰譲吉と上中啓三(この人は長井に師事)らが分離した最初のホルモンであるアドレナリン(エピネフリン:その103104参照)と構造と作用が類似することに気付きます。
 さて、アドレナリンの詳しい話は過去の分を読んでいただくとしまして、当初はアドレナリンは気管支拡張作用があることから、気管支の収縮によって起こる気管支ぜん息への治療効果が期待されていました。ところが、アドレナリンは内服すると胃で分解され、あるいは消化管から吸収されにくいために内服薬として使えませんでした。しかし、エフェドリンは都合の良いことに内服が可能で、しかもちゃんと気管支ぜん息に有効である。
 こうしたことから、イーライ・リリー社はエフェドリンを最初の抗喘息薬として売り出すこととなり、エフェドリンの薬理作用の発見者はチェンの功績、ということになります。
 実は、日本の研究チームもかなり良いところまで言っていたのですが........日本語による発表故、世界に注目されなかったために決定的な機会を逃した、と言えますが。
#こういう「もったいない」ケースは結構あるようですが。

 さて、では長井長義が発見したエフェドリンとはどういう構造か? 以下に示しておきましょう。

ephedrine



 ご覧の通り、アドレナリンとエフェドリンはかなり構造に類似があります。違いは二個の水酸基(-OH)とメチル基(-CH3)といった3ヶ所のみで、基本構造は同じです。これは、アドレナリンとエフェドリンの作用が似ているということの理由の一つとなります(そして、そのわずかな差で内服の可否が決まるとも言えます)。
#専門注:ただしアドレナリンはチロシン由来ですが、エフェドリンは安息香酸やベンズアルデヒドとピルビン酸からの基本骨格を作り出し、これのN-メチル化により作られるようです(つまり、構造は似ていても由来は異なる)。
 エフェドリンの効果は基本的にアドレナリンと同じですので過去のものを参照して欲しいのですが、交感神経系に作用してこれを興奮させ、心機能を亢進させ血管を収縮(=血圧上昇)させます。そして気管支を拡張させて、更に呼吸中枢を興奮させるために呼吸数は増加します(=喘息が楽になる)。ただ、アドレナリンよりも作用ははるかに弱く1/100もありません。もっとも持続性がある上、中枢神経への作用はアドレナリンより強いとされています。
 人工合成はエフェドリン分離の頃から研究が行われていまして、20世紀にはいると長井自身も含めて数名によって合成が行われています。ラセミ体などもあったため時間がかかっていますが、1920年には全6種の異性体の合成、分離が行われています。
 ちなみに、麻黄から得られる物は他にもありまして、エフェドリンの類似のアルカロイドは「エフェドラアルカロイド」と総称されます。


 ところで、話はやや戻って、エフェドリンの化学構造が調べられていた1888年、長井はエフェドリンよりβ-フェニルイソプロピルメチルアミンとも、フェニルメチルアミノプロパンとも呼ばれる化合物を合成します。その直前の1887年にはアメリカの科学者により長井の合成した化合物に良く似ているβ-フェニルイソプロピルアミンともフェニルアミノプロパンとも呼ばれる、化学的に言えば窒素(N)につくメチル基が無い化合物が合成されています(長井はこれも合成しているようですが)。
 もっとも、これらはその時には全く見向きもされませんでした。
 しかし、これはやがて注目を浴びることになります。それはこれらが合成された約40年後、イーライ・リリー社によるエフェドリンの研究の後になってからとなっています。つまり、エフェドリンの薬理研究が詳しく解明されてからの事になります。

 チェンらの報告の後の話をしましょう。
 エフェドリンの薬理作用が分かると、今度は麻黄の不足(エフェドリンを含まない種もあるため)や、代替あるいはより良い薬剤の開発が行われるようになり、この研究は活発に行われるようになります(有名な抗喘息薬サルブタモールもこの流れから登場)。
 そんな研究が活発に行われていた1933年代、米国の薬理学者ゴードン・オーレスはこの研究の中である化合物を合成します。それは試験の結果がなかなか良好だったため、揮発性の薬剤にして直接肺に吸入できるようにします。この薬剤を彼は「アンフェタミン(amphetamine)」と命名するのですが.......これは実は約45年前に既に合成されていたフェニルアミノプロパンでした。
 ところで、この研究中にオーレスはアンフェタミンに興味深い効果があることを報告します。それはアンフェタミンには興奮作用があり、量によっては多幸感をもたらすというものでした。もっとも彼はそれ以上はあまり考えなかったようで、乱用などは無いだろうと考えます。そして1935年に臨床試験が行われた後、アンフェタミンの硫酸塩が「ベンゼドリン」という商品名で吸入器に入った形で販売されることとなります。
 一方、長井の合成した類似の構造を持つフェニルメチルアミノプロパン  通称「メタンフェタミン(methamphetamine)」は後にドイツで系統的な研究が行われまして、1938年に塩酸塩をベンゼドリンの改良品として「ペルビチン」という商品名で販売します。
 これが、向精神薬  「覚せい剤」のデビューとなりました。

 さて、ベンゼドリンの販売後、アメリカでは一つの流行が起こります。
 その流行とは.......ベンゼドリンの吸入器を喘息でも無い人が購入(医師の処方せん無しで購入可能だった)するという物で、アメリカで大いに流行することとなります。その理由は、ベンゼドリンを大量に吸入すると興奮と多幸感をもたらす事が一般に知られ、広まったからでした。そしてこれに伴いベンゼドリンの中毒者も出て、一部は乱用の様相を見せるようになります。そういった乱用者は吸入器を開けて中身をすべて飲むという様な事もしていました。
 一方、大学でもベンゼドリンの利用が増えていくことが報告されています。1937年の米医師会の雑誌の論説欄にはミネソタ大学心理学教室でのベンゼドリンの研究に触れられていまして、知能検査に及ぼす影響を調べた結果、ベンゼドリンの錠剤は眠気を防止し、疲労した学生を元気づける作用があると報告されています。これはやがて口コミで学生の間に広まりまして、試験前に眠気と疲労の防止の為に薬局でベンゼドリンを購入する学生が増えることとなり、同年に出た『タイム』誌において大学生の薬物使用の増加に警告がされるようになります。
 しかし1938年の2人の臨床医の報告においては、アンフェタミン乱用の可能性は否定的で「ベンゼドリンによる1例の耽溺も見たことがない」と言い切るなど、当時は完全に乱用の可能性が見過ごされていました。

 では、アンフェタミンやメタンフェタミンといった薬物は本当に問題にならなかったのか?
 実はこの時は問題になりませんでした。というのは、ちょうどその頃から日独伊の同盟国側と英米仏を中心とした連合国側の対立から戦争の機運が高くなるからでして、問題になるどころか第二次世界大戦に突入するとこれらの薬物は軍によって積極的に利用されるようになります。
 何故か?
 これは両者の興奮作用に目が付けられたためでして、各国兵士は最初は夜間の歩哨などにアンフェタミン(および類似物質)を使用します。やがてドイツ軍は「あしか作戦(幻の「イギリス上陸作戦」)」の為のロンドン空爆で、長期飛行と夜間攻撃を行う時に、一方でイギリス軍も夜通しやってくるドイツ空軍を相手にするためにアンフェタミンを用いるなどします。ただ、米軍ではアンフェタミンの使用を認めませんでしたが.......ただ、イギリス軍の軍医から米兵はもらっていたようで、実質的には使われていましたようです。

 一方、日本でも戦時中には積極的に用いられていました。
 これらは日本では1941年から製造されまして、メタンフェタミン製剤をヒロポン(大日本製薬)あるいはホスピタン(参天堂製薬)と、アンフェタミン製剤をゼドリン(武田薬工)、アゴチン(富山化学)といった商品名で販売し、その後一時は約20社程がこういった薬剤を製造をしています。ま、日本では圧倒的にヒロポンの方が有名ですが........
 これらはかなり大量に生産されまして、兵士だけでなく工場へ動員された一般人にも使われ、夜通しの作業の時に使われています(戦争経験者なら知っている人がいるはずです)。
 ただ、日本ではこの後これらの薬物によって大変な目にあうことになりますが........


 ところで、このアンフェタミンとメタンフェタミンとはどういう構造か? 以下に構造を示しておきます(エフェドリンは参考)。

weckamines


 前述の通り、この二つの物質はエフェドリンが元になって合成されています。
 構造的に見ると、アンフェタミンとメタンフェタミンはメチル基が一個つくかつかない程度で基本的に大差はありません。両者はいわゆる「覚せい剤」と呼ばれる物になり、つまりは向精神薬になります。この「覚せい剤」という言葉はメタンフェタミンが関連していまして、これを研究していたドイツで「Weckamine」、つまり「覚醒アミン」と呼ばれていたことからつけられたものと言われています。
 薬剤の効果としては上述したように、眠気を覚まし、心身に活力を与えて不安感を除去し、集中力や思考力、判断力が強くなるように感じます。そして食欲も減退するために、休みをとらずに長期的な作業が可能です。更にはこの効果によって、学生の徹夜の供になり、あるいは軍隊で、あるいは工場で使われることとなります。そして、量が多ければ多幸感を示します。
 そして、こういった効果は前回までに触れたコカインとの効果とも共通するものともなっています。
#専門注:光学異性体とアンフェタミン(AP)、メタンフェタミン(MA)の強さの関係は、 d-MA>dl-MA≧d-AP>dl-AP>l-MA>l-AP となります。d体はl体に比して約10倍、dl体の2倍の効力となるようです。
#専門注:体外への排出は未変化の物がもっとも多く、次いで脱メチル、芳香環の水酸化と代謝されたものになります。

 尚、「覚せい剤」というと「白い粉」というイメージがありますが、純粋なものは油状物質です。通常はアンフェタミンは硫酸塩、メタンフェタミンは塩酸塩で用いられまして、こういった物が「白い粉」となります。
 ちなみに、メタンフェタミンの商品名「ヒロポン」はギリシア語「philopons」で「仕事を好む」という意味から来ています。まぁ、この命名は「日本人らしい」と思うものもありますが。一方、「疲労がぽんと飛ぶ」から命名されたという俗説があったりしますが、これもある意味特徴をつかんでいる言葉、とも言えるかも知れません。

 覚せい剤の呼称はいろいろとありますが、現在は少なくとも「ヒロポン」というのは使われないようです。まんま「覚せい剤」や古い言い方だと「シャブ」。海外ではアイスやクリスタルといった呼称があります。もっとも、最近では「スピード」という呼称もあり、一般的にはこの頭文字から「S」というのが一般的に呼ばれているようです。
 使用形態は一般に喫煙、錠剤、吸引、注射というのが一般的です。そして、物が物ですので合成で作ることとなります。これはいろいろとあるのですが、基本的には大学で有機合成化学をまじめにやれば分かるレベルです。原料によってはそれほどステップを踏むものではありません。ただ、原料となるものはかなり細かいところまで覚せい剤取締法で規制されています。
#専門注:最も簡単な方法は、原料を選べば1ステップで出来るのは専門の人なら分かるでしょう。

 ま、とりあえずかなり「すれすれ」の話も前回のコカインと一緒で、漁れば結構出てきます。ですのでそっちだけが知りたい方は自分で適当にやって下さい。
#そして、同じく管理人に使用方法や密造法を聞けば馬鹿にされるだけです。


 さて、この覚せい剤。本当の問題を引き起こすのは戦後となります。しかもその代表は日本でした。
 第二次大戦の敗北後、覚せい剤の製造メーカーは大量にある覚せい剤の在庫に困りまして、これを「倦怠感を除き、活力に満ちさせる」物として一気に市場にばらまきます。これが敗戦によって荒廃し、将来への不安感が満ちていた日本で大流行をします。
 それは荒廃した状況下で覚せい剤による多幸感を求める人が多くいた、と一般に説明されています。実際、この流行は世界で最初で、かつ最大規模の物となっていまして、多数の人が覚せい剤の依存状態になっていたと言われています。例えば1948年5月の時点で久留米市では人口の1%が耽溺に陥っていたといわれ、また当時の日本人の16〜25歳のうち約5%が覚せい剤の依存状態にあったと言われています。同時に、その依存状態から発生する犯罪とモラルの低下は戦後の混乱期にも相まって凄まじいものでした。
 この凄まじい流行は、当時行われていた覚せい剤の有害論/無害論において無害論を一気に消し去るほどでして、政府はこの流行に対して1951年に覚せい剤取締法で取り締まることとなります。
 これが、日本における覚せい剤の第一期流行期となりました。そして、その後も何度か流行期を経て現在まで至っています。

 この後、覚せい剤は日本以外の国でも問題になります。
 例えば、1960年代末のアメリカでこれは起きまして.....この頃、アメリカではいわゆるヒッピー達の登場と関連しています。この頃のサンフランシスコのヒッピーは、彼らが使っていた幻覚剤LSDの効果を高めるためにアンフェタミンを併用するようになります。これは「切れ味の良い、より陶酔的な精神状態」を味わうことが出来たからだそうですが。そして、この頃は同時にアンフェタミンの内服から、短時間で一気に効果が出る静脈注射に使用法の変化が出てきます。この結果、アンフェタミン使用者で依存状態になる者が増加したようですが。
 ま、しかしヒッピー達は大麻でも関連していたりと、いろいろとこういった薬物と関連が多いですが.......
#「対抗文化」の象徴とも言うべきか。
 また、欧米では覚せい剤はダイエットピルとして大流行したこともあります。

 そして、現在は困ったことに日本ではまた覚せい剤が流行期を迎えています。
 現在では主に錠剤の「S」が大分流行しているようで、押収量がかなりの量に上っています。特に若者を中心に錠剤のものが流行しているようで、覚せい剤の食欲抑制効果から「ダイエット薬」として用い、そのまま依存症になる者もいるようです。ついでに暴力団の資金源に貢献していると言えますが。
 この流行にはいくつか理由があるようですが、一つは若年層特有の好奇心、そして錠剤のために気楽に用いること、そして最近の「痩せる」ことにあこがれる事から「ダイエット薬」として用いることがあるようです。まぁ、「覚せい剤」だと抵抗はあっても、「ダイエット薬」とか「S」という名称で錠剤なら、という妙な心理も少なからずあるようですが。
 後は、「自分なら問題なく付き合える」と勘違いしている愚か者も大分いるのも原因のようです........まぁそんな簡単にできるなら社会問題なぞ最初から起こるわけはないわけで、これくらいのことも理解できないのがいるというのが情けないですが。
#ここら辺の「言いわけ」は知れば知るほど馬鹿らしかったりしますが。


 と、以上が覚せい剤の簡単な話になりますが。
 さて、これで「興奮薬」としてコカインと覚せい剤の二つを示しました。ところで、その159のラストで「次のキャンペーンでは、この二つ(統合失調症=精神分裂病と躁鬱病)のキャンペーンで得た知識を生かして、いわゆる覚せい剤やコカインと呼ばれる薬物への話をすることとしましょう。」と書きました。
 次回は、このその以前の二つのキャンペーンを踏まえ、興奮薬のメカニズムやもろもろの事について触れてみようかと思います。ま、その二つ分(151〜154、155〜159)は読んだことが無いのならある程度見ておくと良いかと思います。
 同じ説明は手間ですからね。

 それでは今回は以上、ということで。




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 前回までがコカイン、ということで今度は覚せい剤の概要をやってみましたが。まぁ、コカインほど歴史は有りませんが非常に日本と密接な関係のある物である事は分かってもらえたかと思います。ま、実際今はまた流行期に入っているとも言われていますので........実はホットな話題でもあるのですが。
 まぁ、頭の悪い若いのが一翼を担っているのが困ったものですけど。「覚せい剤」は駄目で「S」はOKってのは馬鹿ですよ、本当に。
 ま、とにかくもある程度の理解があればうれしいですね.........

 さて、そういうことでこれで主題の興奮薬2種の説明をしました。
 次回はメカニズムなどについて触れていこうかと思います。これは今回のラストに書いてある通り、今までの物を活かした説明をしようと思います。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2002/09/24記述)


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