からむこらむ
〜その235:脚気菌の終焉〜


まず最初に......

 こんにちは。ゴールデンウィークも終わりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 今年は大型連休とするには(久しぶりに?)配置が悪いそうですが、結構そういう人も多かったようですね。管理人はスケジュール通りの仕事なんで関係なし。もっとも、これからごたごたと大変ですが。

 さて、今回の「からむこらむ」ですが。
 前回は脚気という病気に関わる陸軍と海軍の見方の争いの話をしました。ま、こういうのに伝統を感じてしまうようなのもまたどうかとは思ってしまいますけど。それはともかく、脚気が菌に因るものなのか、栄養によるものなのか? この争いは軍部以外でも起きていました。もっとも、東大は前回に引き続き絡んでくるのですが。
 今回はもう一つの争いと、原因追及への道のりの始まりを触れておきたいと思います。
 それでは「脚気菌の終焉」の始まり始まり...........



 前回は脚気と言う病気と、日清・日露戦争について触れました。
 では、脚気の原因についてはどのように考えられていたのか? これは前回触れた通り、いくつかの考え方がありました。例えばミアズマ、即ち瘴気によるものと言う説。これは空気中に何かしらの「天然毒素」があり、これが原因で脚気になると考えたものです。当時は地上から瘴気が生じて立ち上ると考えられたようで、脚気の初期症状で見られる「足のむくみ」は、立っているうちに瘴気が足から侵入してきた、と言う考えがあったようです。
 これを支持した人には、東大内科学教授で後に医学部長となる青山胤通がいまして、1898(明治31)年に瘴気性伝染病であると考えている事を述べています。
 一方、日本から多数留学に送り出したドイツではちょうど細菌学が最盛期でした。即ち病気には原因となる病原菌が存在し、これが感染していくと言う考えであり、ドイツで細菌学を修めて帰ってきた人たちは、脚気の原因について細菌説をとる人がいました。つまり「脚気菌」が存在してこれが患者から患者へと広まっていく、と言う考えです。
 この説を支持した人は多くいますが、中でも非常に熱心に支持したのが緒方正規(まさき)でした。

 緒方は1853年生まれで、1880(明治13)年に東大医学部を卒業し、その後ドイツへ留学。コッホとコレラ菌を巡る争いをし、衛生学講座をドイツで初めて開いたペッテンコーフェル(英語読みだとペッテンコーファーみたいですが)に師事しています......ちなみに、前回触れた森林太郎もペッテンコーフェルに師事しています。この留学中、数ヶ月はインドに出かけていていなかった為にコッホには出会えず、コッホの高弟であるリョフレルの下で細菌学(当時の言葉では「黴菌学」ですが)も学んでいます。
 こうして留学を終えて帰国をした後には日本で研究を開始。当時は東大には細菌学研究ができる環境はなく、内務省の計らいによって彼は内務省御用掛となり、実験室と設備をそろえて細菌研究の環境を整えます。こうして足場を調えた上で細菌学の研究に打ち込む事になりました。
 当時隆盛だった細菌学の中で緒方が特に力を入れたのは、やはり当時の流行であった「脚気菌」の研究でした。彼は脚気で死亡した患者を解剖し、その内臓から脚気菌を探し出そうとします。研究の末に内臓から得られた菌はやがて脚気患者の血液からも得られ、しかもこの菌を培養して動物に注射してみると、下肢への反応がなくなるといった脚気の特徴が見られました。
 この結果をもって彼は1885(明治18)年、神田一ツ橋にある大学講堂においてその研究結果を満員の聴衆の前で発表します。この研究は内務省御用掛としての研究であり、発表の五日後に官報526号において、時の内務卿である山県有朋宛てに「脚気菌発見ノ儀開申」としてその内容が示されました。官報によれば「脚気菌」はグラム陽性菌であり、形状は炭疽菌に似ているものの、大きさは赤血球の半分〜2倍くらいと差がある。観察してみると脚気菌は毒素を作り出し、ネズミにこれを摂取するとネズミは脚気症状を起こす。この為に、脚気とは脚気菌が恐らく小腸で作る毒素が原因であるだろう。そして防ぐにはこの毒素が酸性であるために、アルカリ性の薬剤で予防可能である.........
 一方、同年1月には前回触れた通り高木兼寛が海軍軍艦筑波での実験により、脚気の原因は栄養が問題であるとしています。
 脚気の原因を巡る争いは、ちょうどこの年に有力説が出そろう事になります。

 ところで、緒方が東大に戻って研究していた時、彼の下で助手をしていた男がいます。
 彼は1883(明治16)年に卒業したばかりであり(もっとも緒方とは同期ですが)、1885年に緒方の計らいによってドイツへと留学。コッホに師事し、細菌学を修めた人物です。彼の名前は北里柴三郎。ペスト菌の発見にも関わり、1889年には破傷風菌の純粋培養に成功し、翌年には破傷風菌の毒素から血清療法を編み出し、同時にジフテリア毒素の抗血清も開発し、第一回ノーベル賞候補にもなった人物です
#余談ながら、北里の共同研究者エミール・アドルフ・フォン・ベーリングはノーベル賞を受賞した為、北里が東洋人・黄色人種故に受賞できなかった言う説がここで生じています。もっともベーリング自身は北里の功績を大きく認めています、念のため。
 さて、彼はちょうど留学中に師である緒方の「脚気菌」の発表を聞く事になります。ちょうど同時期に欧州でも「脚気菌」の発見報告がいくつかでていましたが、北里はリョフレルの奨めによってこれらの「脚気菌」の検討をしています。しかし欧州での発見報告の検討の際に実際に菌を送ってもらい、これを調べてみたら黄色ブドウ球菌だったりと全くお話にならない状況でした。
 そして欧州だけでなく、師である緒方の「脚気菌」も検討します。
 その結果、北里は「脚気菌」を否定する内容をドイツの医学雑誌に発表。さらには緒方にもその別刷りを送りました。そして1889年、『中外医事新報』においてその日本語訳版が出されます。この中で北里は緒方の研究の不十分な点として「1:コロニーの形状についての記述がない」、「2:感染実験ではコロニーを動物に接種したが、脚気患者の血液・臓器を使った実験をしていない」と指摘し、さらに緒方の「酸性」の記述については論ずるまでも無し、と述べています。
 これを受けて緒方は『中外医事新報』の次号に反論を掲載します。まずは「1」の指摘について、「他の菌に比して記すべき特徴がないから」とし、「2」の点については「過去に北里が自分の下で研究していた際にやっていた事を知っているはず」であり、そして「ネズミを使った実験を報告している」と反論します。もっともネズミの実験についての記述(6匹中2匹が脚気症状で死亡と言う内容)は元の論文でそれほど触れられていないものでした。

 さて、弟子に噛みつかれる形となった緒方ですが、その後どうしたのか?
 変わらず細菌学の研究はかなり熱心に行ってはいるのですが、「脚気菌」についての研究はそれ以降なくなります。どうしてか、は不明ですが、それなりに認めるものがあったのかもしれません。

 一方師に噛みつく事となった北里ですが、こちらは苦難の道を歩む事になります。脚気の話とは少し違ってきますが、ついでに触れて起きましょう。
 留学中の血清療法の研究などで一躍有名になった彼は、欧米の多数の大学から誘いを受けたものの、これらの誘いに対して「国費留学」であり、「日本の脆弱な体制の改善が目的」であった事などを理由に固辞し、1892(明治25)年に帰国します。しかし、帰国後に彼の母校である東大は「師にたてついた恩知らず」して彼に対する研究場所を与えませんでした......これを心が狭いとみるか、忠孝からすれば当然とするかは人それぞれとは思いますが。
 しかしこの時期に日本では多数の伝染病が猛威を振るっています。特に1890年には長崎からコレラが広まり死者35000人、1892年には天然痘による患者が33000人以上でて、死者8400人、そして翌年には赤痢患者16万7000人をだし、死者4万と深刻な被害を与えていました。一方この頃の欧州では様々な伝染病の研究所(フランスではパスツール研究所、ドイツではコッホにより国立伝染病研究所)が創立され、感染病の予防・研究に大きな力を果たしていました。
 北里は欧州と日本の現状をよく知っており、各所で研究所設立を訴えます。東大はもちろん無視しますが、しかし福沢諭吉がこれに応じます。
 福沢は私費を投じて1892年11月、芝公園内にまず建坪十坪程で2階6室の小さな「伝染病研究所」を設立します。研究資金の問題については、内務省衛生局長である長与専斎の申し出を受け、長与が副会頭をしている大日本私立衛生会と言う民間の公衆衛生機関に研究所を寄付。これにより、この会から毎年3600円を資金供与を受ける事になります。そして11月30日に北里は研究所所長となります。
 その後、この研究所は増築・移転をする一方、国の補助を得られるようになります(なお、北里がペストの研究の為に内務省の命で香港に派遣されたのも、伝染病研究所時代でした)。その研究員の中には、東大からあえて北里を慕って来た人達が多くいました。

 ついでのついで、と言う事でこの伝染病研究所についてもう少し。
 1914(大正3)年にこの研究所は内務省から文部省へと移管する事が決まり、これは当時一つの事件になっています。それは名目上、いわゆる「行革」の一環だったのですが、移管後には東大の下部組織とし、東大の医科大学(現在の医学部)学長青山胤通(ペストの件で北里と香港へ向かい、感染したことがある)が所長となる事が発表されます。そしてこの時の首相大隈重信と青山が親しかった事から、世間では「文部省と東大による乗っ取り」と言われました。元々当時の衛生行政は内務省の所管で(厚生省はさらに後の1938年にできます)あり、文部省への移管はその点で不自然であったため、東大グループらによる乗っ取りと言う見方を強めました。
 北里はこの移管の際に慰留されるのですが、これを受けずに私費を投じて私立北里研究所を設立。そして伝染病研究所の研究員達はほぼ全員北里に従って北里研究所へ移ります。その結果、青山はすっかり「もぬけの殻」となった伝染病研究所を引き取る事になります(青山はこの件で、北里を「良い弟子を持った」と評しています)。この研究所は後に東大医科学研究所になります。
 なお1917(大正6)年、北里は慶応義塾大学医学部を創設して医学部長となり、その学部教授には北里研究所から優秀な人材(北島一や志賀潔など)を送り込んでその発展に寄与しています。北里は福沢へかなり深い恩義を感じており(福沢は1901年に死去)、北里は無給でこの仕事を行っています。その後北里は日本医師会の会長にもなり、医学の発展に力を入れています。

 さて、このような争いがあった緒方と北里ですが、その後仲たがいをし続けた、とかそういう訳ではないようです。
 もちろん見方の対立はあり、脚気以外北里と緒方・青山は対立をしています(ペスト菌では緒方がイェルサンの発見した菌が原因である事を突き止め、北里のミスを指摘しています。一方で北里と共に香港へ派遣された青山は感染して生死の境をさまよいますが.......)。実際に「東大対北里」の図式はでき上がっているのですが、しかし緒方が在職25周年を迎えた1910(明治43)年、北里は門弟総代として挨拶を行っており、緒方の功績を「日本に実験医学を持ち込んだ事」として評価しています。
 そういう意味では、緒方と北里との師弟関係は世間が噂するようなほどシンプルな、「破綻した」関係ではなく、お互いを研究者として認めあっていたのではないかとも思われますが........

 なお、東大の名誉の為に付け加えておきますが。
 大規模な細菌の研究・実験ができ、相応の人材を派遣できるところは当時は東大ぐらいしかなかった、と言う事は書いておくべきでしょう。青山も医学界への貢献をしていますし(ただ、北里だけでなく野口英世の排斥をしたりもしていますが.......)、緒方も日本における細菌学で極めて大きな役割を果たしています。
 実際、北里と東大の対立は結果的には日本の医学の発展に大きく貢献をしていますし、それだけの質があったからこそ、と言えるでしょう。


 ところで、日本ではこのような二つの見方の対決がありましたが、欧州でもこの見方の対立がありました。しかしこれが解決されるのは偶然が味方をした事によります。
 時は19世紀、帝国主義全盛の時代の東南アジア各国の植民地で「ベリベリ(beriberi)」と呼ばれる「奇病」が流行していました。この病気、早い話が脚気でして、本国より現地に派遣された兵士でも流行り始めるにいたり、この地域の植民地をおいていたイギリスとオランダはこの研究に力を入れます。
 その中で最初に力を入れたのがオランダでした。

 オランダは派遣兵士たちの間で起きたこの「奇病」に対処する為に、1880年代半ばにコッホの下で研究を行った事もある軍医エイクマン(Christiaan Eijkman)を東インドのバタビア(現在のインドネシアのジャカルタ)へと派遣し、研究所所長としました。エイクマンはこの奇病を伝染病として考え、ベリベリの病原菌探しを行います。
 しかしこの研究はことごとく失敗しました。
 ところがある日の事。彼は飼育しているニワトリにベリベリの症状が起きている事を発見します。これに興味を持って追跡したところ、このニワトリのエサに原因がある事に行き当たりました。このエサ、正体は病院の残り物の残飯の白米であり、これを食べているニワトリは徐々に下肢から麻痺を始め、最終的に麻痺が上半身に向けて進行して心臓麻痺で死ぬ症状を示します。これに興味を持った彼はニワトリを白米で飼育してみる事にし、そしてニワトリでベリベリが発症する事を確認しました。一方、エサを玄米にしたり、あるいは少量の米ぬかを追加するとベリベリは発症せず、また白米のみの飼育で発症したニワトリに対し、エサに米ぬかを添加すると回復する事も発見します。
 この結果を受け、エイクマンは栄養が原因.......とは考えず、白米についた「微生物によって作られた毒素」がベリベリの原因であり、米ぬかはそれを中和するのであろうと言う趣旨の論文を1897(明治30)年に発表します。この研究は弟子のグリインスに引き継がれており、やがて彼が栄養説を唱えて師の説を修正をします。当初は抵抗したエイクマンも最終的にはこれに同意します。

 この研究結果は大きな影響をもたらします。
 日本でもこの研究に注目した研究者がいました。それは北里の門下生で1897年に赤痢菌を発見し、その後1901年にドイツへ留学しパウル・エールリッヒに師事した志賀潔でした。彼は1905年に帰国(1912年には再度ドイツへ留学しています)した後、細菌説と中毒説の両面から脚気の研究をしていました。しかし成果がなかった為にやがてエイクマンの研究結果の追試に方針を切り替え、1910年に脚気の原因が栄養欠乏に因るものであると発表します。
 また、当時石黒や森らの影響で細菌説で固められていた陸軍軍医内にもエイクマンの発表に影響された者もいました。臨時脚気病調査会委員の一人であった都築甚之助は、1909年にバタビアへと派遣されて調査を行います。そこで彼はエイクマンの発表の他にも、その門下であるフレインスが米ぬかの他に緑小豆にも脚気に効果ある事を見付けていた事を知ります。これに影響された彼は帰国後に志賀と同じく追試を行い、米ぬかのアルコールエキスをニワトリに注射したところ、脚気に効果がある事を確認して栄養説に転向。1910年にその内容を報告しました。
 その後都築はこのエキスを脚気治療薬として販売を始めるのですが、細菌説をとる「身内」の陸軍は当然面白くなく、都築への通知なく彼を調査委員から免職します。一方都築はこれに対して私立脚気研究所を設立し、治療薬「アンチベリベリン」を生産・販売しこれに成功します。

 さて、日本で脚気を研究した一人として忘れてはいけない人物がいます。
 その名は鈴木梅太郎(うめたろう)。農科大学(現在の東京大学農学部)を卒業した彼はドイツへ留学し、その留学生活最後の二年間を糖の絶対構造を確定し、グリセルアルデヒドと糖の関係を研究して1902年にノーベル化学賞を受賞した、エミール・フィッシャー(Emil Fischer)に師事します。1906年、5年間にわたる鈴木は留学を終えて帰国する際に、師に向けて一つの質問を発します。その内容は日本に帰国してから何を研究すれば良いのか、と言うものでした。それに対する師の返事は「日本独自の問題に取り組め」と言うものした。
 帰国した後、師の教示に基づき鈴木が注目したのは欧米人と日本人との体格差でした。
 フィッシャーの功績は様々ですが、世界に先駆けてタンパク質に注目した事があります。鈴木は体格差と食事の、特にタンパク質の関係について考えます。欧米人は肉をとりタンパク質摂取が多い。一方日本人は米主体であり、米はタンパク質が少ない。このような栄養の問題が日本人が欧米人に体格的に劣る原因ではないか?
 彼は米のタンパク質の栄養価について、帰国後すぐに着任した盛岡高等農林学校において研究を開始します。その内容は、ニワトリを実験動物として、その飼料により3つの群に分けて育てるというものでした。その内容は一群には玄米のみを、一群には白米のみを、そしてもう一群には白米にぬかを混ぜた飼料を与えると言うものでした。
 エイクマンの報告通り、彼の飼育するニワトリは白米のみのグループでのみ脚気を引き起こすものの、米ぬかを与えるとすぐさま回復する事を観察します。また、この実験でタンパク質や脂肪などを白米に加えても、やはり脚気を発症する事を確認しました。単に米ぬかを入れるだけで回復する.......元々脚気の研究を目差していたわけではないものの、鈴木はこの結果に注目し、米ぬかの抗脚気作用への関心を増す事になります。
 ただ、農林学校における研究には限界があり、本格的に研究を進めるのは翌年、東京に戻ってからになるのですが........


 さて、一つの区切りができました。
 鈴木の抗脚気作用の研究はどうなるのか? 次回に持ち越したいと思います。

 そういう事で今回は以上で........




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 ま、東大vs何とか、の続きにもなっていますけど。それだけだと話は進展しませんので.......(^^; ま、やっとこさ主役が登場、と言う流れになってきましたかね。もちろん、原因を扱わないとこの話の意味はありませんので.......と言う事で、次回は脚気の治療に関連する話、と言う、医学でも栄養学でも生物化学の世界でも有名な話になります。
 ま、やっぱり画期的な話でもありますので.......

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2008/05/07公開)


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