からむこらむ
〜その82:蒼ざめた馬とKGB〜


まず最初に......

 こんにちは。一般では夏休みも終わりまた、通常の生活が始まりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか?
 徐々に日も短くなり、太陽も傾いてきました。徐々に朝夕が楽になってきましたね.......昼間はまだ暑いですけど(^^;; ただ、徐々に夏が終わりに向かっていくのを感じます。
 ま、また体調が変動するのでしょうかね.........(- -;;

 さて、今回は諸々とありまして.........与太話。
 ある元素についての話をしてみたいと思うのですが.........余り有名ではない元素について、です。実際余り活躍の場所のない元素なのですが..........しかし、ある方面では活躍しています。
 それはミステリーの中で。そして..........スパイの話の中で........... ま、気楽に読んでいって下さい。
 それでは「蒼ざめた馬とKGB」の始まり始まり...........



 後ろにあるエスプレッソコーヒー沸かし器が音を立てている中、学者であるマーク・イースターブルックはコーヒーを飲みつつ物思いにふけっている。そんな中、突然の喧騒。ブロンドと赤い髪の二人の女がお互いをののしっている。徐々に二人は加熱していき、やがて突然ブロンドが赤い髪を掴んだ.......と、ごっそり赤い髪の毛が抜け落ちる。ここぞとばかりに周辺の人間によってこの喧嘩は仲裁されて、その場は収まる。仲裁した男は「痛くない」と言う髪の毛がごっそりと抜けた赤い髪の女トミィ・タッカーの剛毅をたたえるものの.......... しかし数日後。このトミィの訃報を聞くことになる。周辺にとっては余りにも突然の死...........
 そして、ある死の間際にある女の最後の告戒を聞きに行った神父が、その帰り道に何者かで鈍器により殺害される。そして、彼の持っていたメモには9名の名前が書かれていた。
 これらの事件に一連のつながりを見出したマークは、やがてこの事件の追及を開始。追及しているうちに背後には謎の組織らしいものができ上がっていることを知る。彼は解明に向けて、共通した謎を秘めた.........サーザ、ベラ、シビルの老婆三姉妹のいる店「蒼ざめた馬」に向かう。
 連続して起こる謎の死亡事件.......時に大きな金が関与する事件に挑むマークの運命やいかに?

 ........という話が通称「ミステリーの女王」ことアガサ・クリスティの『蒼ざめた馬(The Pale Horse)』(ハヤカワ・ミステリーHM1-47)という作品にあります。ま、もちろんオチは書けませんが...........
 ミステリー好きでクリスティのファンならおそらくは御存じでしょうかね? 興味がある方は読んでみられることをお奨めしますが..........

 さて、この作品が発表される1961年(?)の頃よりはるか前。一説によるとこの作品の「元になったのでは?」(詳しくは分からないのですが)という事件があります。
 時は1930年代ヨーロッパ。当時騒がせた事件の主役に一人の女性がいます。
 この女性、マーサ・マレクと言いまして、1904年にオーストリアで生を受けます。が、彼女はウィーンに捨てられた子でして、本当の親を知らぬままレーベンシュタインという貧しい夫婦に引き取られ、15歳まで育てられました。なかなかの美貌の持ち主だったようですが.......... 彼女はその後、その美貌によりあるデパートの金持ち経営者の愛人に収まります。が、しかし.......この経営者、マーサに彼の財産(豪華な邸宅らしい)を譲る、と遺言した直後に死亡してしまいました。
 マーサはこの後、愛人時代に知り合った学生と結婚をするのですが.......しばらく後マーサは前の愛人の残した遺産をすぐに食いつぶしてしまい、しかも夫は片足を失いかける程の重症を負います。が、調査によりこの大怪我は「偶発的」ではなく「故意にしたもの」であることが判明。しかも警察の調べではマーサが夫に1万ポンドという保険をかけていたことから、当然のごとくマーサに疑いがかかるものの証拠不十分で逮捕も出来ず、結局はそのままこの事件は終了します。
 時は移って1932年。彼女の夫は死去し、その後しばらくして彼との間に生まれた娘も死んでしまいます。この不幸に見舞われた後、彼女はあるレーベンシュタインという資産家(最初の養父母とは別人)の老婦人の家に話し相手として住み込むのですが........何故かこの老婦人もしばらく後に手足のしびれを感じるようになり、そして嚥下(えんげ:食べ物を飲み込むこと)が困難になった揚げ句に死亡してしまいます。この結果、老婦人の遺産を彼女は手に入れることになります。
 こうして彼女は再び金を手に入れたものの.......この遺産を手に入れたマーサはあっという間に   よほど金遣いが荒かったと見えますが   これを浪費してしまいます。
 そんな中、やがてマーサは部屋をある老婦人に貸し始めるのですが........300ポンドほどの保険金をかけられていたこの老婦人は、しばらくして死亡してしまいました。
 マーサを巡る人物の連続した死.........そして、ここから事態が深刻になっていきます。
 ことはこの老婦人の息子が母親の死因を疑い始めたことから始まりました。彼が警察に調査を訴えた結果、警察はこの老婦人の死体を調査。そして、その遺体の中からある元素が発見されます。その結果、その元素による中毒死であることが判明し、この老婦人の死という「謎の事件」は「殺人事件」へと発展。警察の本格的な調査が始まります。そして.........マーサの周辺にいた数々の人物の不審な死が再度洗い直され、夫、娘、資産家の老婦人の遺体が再度の調査にかけられました。
 そして.......全ての死体から多量の、先ほどの老婦人の死体から検出された物と同じ元素が見つかります。そして更に調べるとマーサの息子は(おそらくはこの元素の中毒症状で)下宿先で重体に陥っていることが分かりました(マーサは息子に良く差し入れをしていた!)。
 こうしてマーサは殺人の容疑により逮捕され、そして1938年に処刑されました。


 近年、マーサに似た様な手口で保険金殺人を(身内にまでも)繰り返していた人物が捕まり、裁判中ですが...........
 彼の人物はヒ素を使った事件であるということと、大量の殺人/未遂に関わった、ということで大分センセーショナルに報道されたことは記憶に新しいと思います。
 では、上記の『蒼ざめた馬』、そしてマーサ・マレクによる連続殺人事件に関わったのは何かというと........? ま、前者では作品中の後半に「ボルジャ家の毒」として知られる三酸化ヒ素が原因ではないか?(その25その26その27参照)など登場人物が推測する話も出ていますけど、実際には後者の方にも出てくる「元素」が原因でして..........

 その元素は.......元素番号81。元素記号「Tl」。原子量204.4 名称は「タリウム(thallium)」と呼ばれるものです。元素周期表の前後を見ると、鉛(Pb)の前、水銀(Hg)の後にある元素でして、一般には非常に「無名」の部類に入る元素になります。おそらく「今初めて知った」という方もいらっしゃると思います。
 この元素は通常は硫化鉱物中に微量含まれていまして、硫化鉱精練の副産物として得られます。白色の金属でして、融点は303.5度。沸点が1457度。密度は11.85g/cm3。通常では酸素と反応して被膜が出来ます。また、通常は石油などの油の中に保管されています(ナトリウムなどと一緒)。
 1861年にイギリスのクルーキスとラミーにより硫酸工場にて発見されまして、炎色反応で緑色を呈することから、ギリシャ語で「若芽、小枝」を意味する「thallos(タッロス)」より「thallium」と名付けられました。
 余談ですが、「thallos」の語源はギリシア神話のゼウスとレトの間に生まれたアポロンの嫁さんである「美」や「優雅」「花盛り」を象徴する女神タレイアと言われていますが..........

 さて、この元素。普段聞かないことが多いのも当然でして、余り広くは使われていません。一応、現在では耐食性合金などの合金の原料として使われるようですが実際にはそう余り聞くことはないです。例えば大学の研究室でもタリウムの化合物を扱っているところはそんなに多くはないと思います。
#管理人も見た記憶はあまりないです。
 まぁ、学術的には使われる所もあるようでして..........例えば昔では鉱物を比重で選ぶ「比重選鉱法」において、タリウムの化合物であるギ酸タリウムとマロン酸タリウムの混合水溶液を用いて比重の重い溶液を作って鉱物を選定(密度がこの溶液より大きければ沈み、小さければ浮かぶ→ある程度の選定が出来る)を行っていたりしたようです。また、現在でも使われるものでは吸収スペクトルの計測(これで色々な化学物質の分析が行える)の光学セル(化学物質の溶液を入れる器)に使用されたり、シンチレータ用結晶としても使われたりしているようです。更に、菌などの培養に使用する培地で、培地に一般の菌の混入を防ぐために酢酸タリウムを使うことがあるようです。
 他にも用途はありまして、過去にはいわゆる「ねこいらず」の殺鼠剤や殺蟻剤として多く使用されていたようです。この点はヒ素に似ています。が、現在では別の物が使用されているために余り日本では使用されていません。........とは言っても、実際には使われることもありますし、また海外ではまだ比較的多く使われているところもあるようです。
 他にも身近なものに一時的な脱毛剤として酢酸タリウムを主剤とするものが現在でも使われているようですが.............

 では、何故あまり使われていないのでしょうか?
 というのは、実際にはこの元素は毒性が強いものが多く、安全性などの問題から使い道が難しいところに難点があるようです。事実、タリウムと酢酸、硝酸、硫酸の化合物である酢酸タリウム、硝酸タリウム(0.3%以上含む物)、硫酸タリウム(0.3%以上含む物)は殺鼠剤として使用されるものの劇物指定がなされています。とは言っても、通常の農薬も劇物はそこそこありますけどね(もっとも、普通は「普通物」が多い)。
#余談ですが、硝酸タリウムや硫酸タリウムを主剤とする殺鼠剤は小麦粉やからしエキスが入っています(食べてもらうため→殺すため)。
#とは言っても味を試さないで下さいね(^^;;

 では、タリウムの毒性にはどういう特徴があるかというと..............?
 一般には神経系の障害を引き起こすようで、多発性神経炎、視神経の障害を起こすようで、これにより失明することもあるようです。また、食欲の減退がおきて体重が減少。重症の場合は運動に支障をきたすようになって死に至ります........おそらく、マーサの事件でのレーベンシュタイン老婦人はこの状況になったと推測できます。
 そして........この元素による毒性の最大の特徴には「脱毛」という物があります。ですので、マーサによって殺された人達は大分この症状が起きていた可能性がありますし、そして『蒼ざめた馬』に出てくる登場人物にも.........冒頭で紹介したトミィは..........ま、ミステリーにこれ以上は野暮、ですが(^^;;
#もっとも、この元素の話が出ると必ずといってよいほど『蒼ざめた馬』が引用されるのですが(笑)
#ちなみに、「蒼ざめた馬」とは死神の乗る馬と言われています。
 余談ですが........少し笑ってしまったのは、この元素を紹介している本の著者の友人がこの化合物を使う羽目になってしまい、試薬瓶にでっかく「ハゲニウム」とラベルを張っていた、なんて話が個人的に記憶に残っています(^^;; 幸いなことにこの人はちゃんと扱ったのかどうか分かりませんけど「ハゲニウム」にやられることはなかったそうですが............


 さて、ではこの化合物。マーサ以降はそういった事件に使われていないのか? と言うと違いまして........実は日本でもこれを使った事件が起きています。
 例えば昭和50年代半ば。大学病院の臨床検査室でこの検査室の技師数名が体調不良を訴え、結果検査したところ脱毛や末梢神経に障害が起きていることが判明。そして詳しく調べたところ尿からタリウムを検出した結果、タリウムによる中毒であったことが判明し犯人探しとなったのですが........疑われたある技師が「犯人を知っている」と書き残して自殺してそのまま真相は闇の中、という事件があった、ということがありました。
 また、管理人が高校生の時。そうですね、7〜8年ぐらい前の夏休みの頃だったかに、どこかの研究機関で同僚のコーヒーに酢酸タリウムを混ぜて同僚を殺害した事件が起きたという記憶があります..........実は、初めて「タリウム」という元素を知ったのはこの事件だったのですが.........

 あ、言っておきますが、この元素。まず入手は難しいですし、したとしても特殊な(手軽に入らない)為に大抵はその経路もばれます。特徴も良く知られ検出法もおそらく確立されています。
 悪いことに使えば一発でばれますので........間違っても道を踏み外すことのなきようお願いします。


 っと..........ま、取り敢えず余り知られていないタリウムですが..........以上のような特長を持っています。
 ま、長くなりましたのでそろそろ締めようと思いますが.........

 では、最後に.........スパイとこの元素が絡んだお話をして終わりにしましょうか。

 時は1954年2月18日。当時西ドイツのフランクフルトにいた、ソ連から亡命してきた反コミュニストであるゲオルギ・セルゲイヴィチ・オコロヴィチが扉を開けると目の前に大男が立っていました。今まで少なくともソ連当局の手によって二度の誘拐されかけ、他にも様々な妨害を受けていた彼は、この大男と対峙して何を思ったのかは分かりませんが..........
 男は自らをニコライ・チョコロフと名乗り、ソ連共産党中央委員会によるオコロヴィチの死刑執行命令書を見せます。つまり、彼は殺し屋、ということになるのですが......チョコロフは命令書を見せるとオコロヴィチにむかって西ドイツ当局に連絡をつけるように要請。そして、西ドイツ当局に事情を話し始めます。彼はソ連の秘密情報部の古強者として活躍していたのですが、部下二人と命令を受けるふりをしてソ連からの脱出を行ったのでした...........
 さて、彼と部下はアメリカと西ドイツの諜報部員により逮捕・保護されまして、後にミュンヘン郊外の森に諜報員を案内し、使用を予定していた暗殺道具........青酸カリを上塗りしたダムダム弾(飛んでもなく破壊力のある弾丸。警察では使用禁止)を発射する電動ピストルを実際に披露して使って見せたそうですが............
 さて、当然のことながら冷戦下。西側諸国としてはこのまたとない機会に報道を加熱させ、ソ連を批判します。当然のことながらソ連はオコロヴィチとチョコロフの信用を落とそうと努力する(もとナチの戦犯だ、とかCIAの陰謀とか)もののチョコロフは構わず暴露を続けていきます。
 当然のことながら、この行為はソ連の威信を大きく傷つけるものとなります...........結果、ソ連は大胆な行動に出ます。
 1957年9月。チョコロフはフランクフルトでのある会合の後に突然吐き気と胃痛により昏倒。入院はするも全身に黒ずんだミミズ腫れと斑点が現れて膨らんでいき、皮膚は乾いて皺だらけになったうえに毛穴から出血。そして、髪の毛が徐々に抜け落ちていくという極めて凄惨な症状に見舞われました。
 当然のことながらドイツの医師団はタリウムによる中毒と判断して解毒剤を片っ端から試すもののいずれも良い結果が得られず。チョコロフは悪化して行く一方となり、医師団はついに「望みなし」と判断します。が、オコロヴィチはあきらめずアメリカ軍キャンプに頼み込んでチョコロフを転院させます。そして、軍の病院に収容されたチョコロフは24時間体制での治療を受けることになり、片っ端から薬.......コルチゾン、ヒスタミン、ステロイド、試験中の新薬を投与し続け、更に輸血を絶え間なく行った結果........10月末。ついにチョコロフは重傷者リストから外されることとなりました。

 極めて稀な症状を出した(そして、そこから生還した)彼の治癒の後、様々な学者によって「何が原因だったのか?」が研究されるのですが........結果、彼の暗殺に使用された毒はタリウムであることが判明します。が、ただのタリウムではなく..........放射性のタリウムが利用されたことが判明しました。
 つまり、タリウムによる毒性のほかに、放射線障害によって身体へのダメージを与え、著しく回復を送らせていたことが判明します。
#放射性タリウムは種類によって違いますがβ崩壊かEC崩壊を行います(その17参照)。
 恐るべきはスパイの暗殺方法、と言ったところでしょうか..........?
#そして、そのノウハウを持っている機関(=今回はKGB)とも言えますが。


 ま、今世紀になってから色々と使われるようになった元素ではありますが..........基本的にはそう有名な元素ではなかったりします。
 しかし、無名ながらこう言った小説や実際の事件に使われた、という元素もある、ということは知っておいても良いかと思います。もっとも、語源とされる「タレイア」の優美さとはどうも縁遠い様に思えますが。

 まぁ意外と、他にもこういう、「余りなじみのない」元素はあるものですので...........
 そう言うのにも興味をもってもらえれば、と思います。

 さ、今回は以上、ということで..........


・2000/08/30補足
 タリウムの毒性と利用法についてもう少し。
 タリウムは生体で+1価のイオンとして存在し、そのイオン半径はK+(カリウムイオン)に近い傾向があります。よって、カリウムイオンが関与する生体反応を阻害します。また、その73で触れたような神経伝達に必要なカリウムに入れ替わってこれを撹乱して神経障害を引き起こすようです。
 また、利用法ですが、塩化タリウム(TlCl)はγ線の検出に利用され、また放射性のものは心筋細胞に取り入れることによって心筋細胞の生存度(生きている心筋細胞に「その73」の様なNa+-K+ATPaseポンプの働きでK+に変わってタリウムが入り込む→放射能の測定)を測定することや、201Tlはガンへの取り込みがされるためにガンの画像診断にも使用れるようです。
 この際使用されるタリウムは100μg/g以下程度で、中毒性に関してはまず問題ならないようです。



 おぉ.......与太なのに長く(爆)

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 ま、今回は元素の話、なのですがそれにまつわる「事件」を中心に与太としてお送りしてみましたが........如何でしたでしょうか? ま、基本的には「読み物」ですのでそうは難しく考える必要はないはずですけど..........難しいですかね?(^^;;
 ただ、この元素。「これこれに使われている」ってのが本当に少ないためか知名度が低く、もっぱら「事件」に使われてそちらが有名すぎています(^^;; ま、こういう元素は意外と身近にあるものかと思いますが.........
 少し興味を駆り立てた、という方がいらっしゃれば幸いです。

 で、次回はどうしましょうかねぇ?(^^;;
 まぁ、取りあえずは考えますね。

 さて、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 それでは、次回をお楽しみに.............

(2000/08/22記述 同08/30補足)


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