からむこらむ
〜その131:甘いワインの代償〜
まず最初に......
こんにちは。世間様ではお盆休みの真っ最中ですが如何お過ごしでしょうか?
ただ、「お盆休みって何? 食べ物?」と言う方にはお疲れさまです、としか言い様がないですが........
さて、今回ですが。
え〜、前回までは取りあえず大麻の話をしてみましたが........ま、今は戦後の「第三次流行期」だそうで結構タイムリーになってしまいましたが、今回は取りあえず手軽なの、と言うことで過去に非常に有名になった事件の話をしてみようかと思います。
とは言っても、家人が夏休みということで変更を余儀なくされたのでこのネタなのですがね(^^;; まぁ、急ごしらえですがどうにかなるでしょう。
それでは「甘いワインの代償」の始まり始まり...........
このページを中高生が見ているのでなければ、大体の方は覚えていらっしゃると思いますが........
時は1985年。日本でこの年というと、つくば万博があったり、豊田商事事件、スーパーマリオブラザースの発売でファミコンが大人気、おまけにその年のベストセラーがこれの攻略法、と言うようなご時世でしたが.......と、人によっては「阪神優勝」を挙げる方もいらっしゃるかも知れませんが。ま、そっちはともかくこの年は二つ、食品に関する重大な事件が起きています。一つは前年より続いた、いわゆる「グリコ・森永事件」で青酸ソーダ入りチョコレートが2月に東京・名古屋で発見されたこと(8月には終了を通告)。そして......もう一つは7月の下旬、オーストリア警察がある男を逮捕したことから始まり、そこから日本も含めた世界中に大問題として波及した事件があります。
この事件は内容の悪質さとその規模から、様々な傷痕を残した物でした。
この事件、もともとはオーストリアの有名なワイン醸造会社の実験室から始まりました。
その実験室では、ある技師が安物のワインをどうやったら甘く、そしてコクのある味にできるか、と言う事を目的に、様々な物質を添加して実験をしていました。この人物は当時、ワインの醸造主任でして、当然そういった物の開発に携わるべくして携わっていたのですが........そして、ついにはその目的に適う添加物を発見し、そして混ぜて売るようになります。
しかし、残念ながらこの技師にはモラルと知識が無かったようでして、それがこの事件を引き起こします。
何を混ぜ込んだのか?
それは、ジエチレングリコールと言う物質でした。
さて、ワインというのは管理人は余り飲まないので詳しくはないですが、基本的に酸味や甘味、香りなど様々な要因が合わさってその独特の風味を出しています。ま、この点は他の酒類(だけではないですが)も同じと言えますが。特に高級なワインは甘みやコクがあるとされており、色々と重宝されます。こう言った高級ワインの元のなるブドウは、「高貴な腐敗(貴腐)」と言う現象が起きたブドウ、つまりある特定のカビ(Botrytis cenerea:ボツリチス・セネレア)に攻撃されたブドウを使っています。これは重要でして、この現象が起こると、ブドウはグリセリン(その125参照)を多く含むようになります。グリセリンは自然界ではポピュラーな物質ですが、これが甘味やコクなどを生みますので、貴腐が起こることでワインの味がずっと良くなります。よって、このカビによる「攻撃(腐敗)」を「高貴な腐敗」と呼び、その様なブドウから作ったワインを「貴腐ワイン」と呼び、高級ワインとして重宝されることになります。
では、安物はどうか、と言いますと........ま、やはり高級ワインの持つ物が欠けているわけでして。技師はそういった欠けている、特に甘味やコクと言う物を補うために研究した結果、ジエチレングリコールが良い、と結論し、そして実際に混入をしました。
しかし、これが問題でして........実際にはジエチレングリコールは食品添加物として認可されているものではなく、それによるアメリカでの事故も存在していまして........ま、つまりは「毒」となる可能性のある化合物でした。そういうものを技師は1リットル当たり数グラムをワインに添加し、高級ワインとしました。そして、彼にとっては都合の良いことに、ワインに溶けたジエチレングリコールはワインの検定機関の検査では検出することは出来ませんでした。
さて、こう言った事に気を良くしたこの技師は、この「秘密」を様々な場所(醸造所など)に売ります。そして、各所でジエチレングリコールを添加し、そして売っていきました。こうして、この技師.......と、彼のグループは秘密裏に金もうけをしていくのですが........ただ、人間は御存じの通り欲深いものでして、全ては仲間の強欲により露見してします。
それは1984年末。大もうけしているのにも関わらず、このグループのメンバーは「更なる儲け」を期待して、使用したジエチレングリコールの付加価値税の還付を税務署に申請します。しかし、この申請を受けた担当官は聞いたことの無い物質に首を傾げ、そして上司に相談。この上司は「何かおかしい」と感じ、これを監督官庁へと報告。これを受けて捜査が始まります。
結果、1985年の7月下旬にオーストリア警察は主犯格の男を逮捕。同時に数万リットルにも上るワインを押収します。これらのワインは1970年代の物なども含まれており、また実際には産地が異るのにも関わらず、貴腐ワインで有名な地域(ブルゲンラント地方)の名を謳っているものがありました。
この事がきっかけとなり、世界各国でワインの検査が開始。オーストリア産と、そこから西ドイツ(当時)に売り渡された樽や、そこから瓶詰めされたワインがことごとく出荷停止・検査等を受ける事態となり、各地でパニックを引き起こることとなります。
この事件は非常に食品衛生上では有名な事件です。
ま、非常に「大混乱」を引き起こした事件でした........と、大学学部生では記憶に無い可能性が結構あるかとも思いますが。
っと、結構前置きが長くなりましたが.........さて、ではこの問題になったジエチレングリコールとは一体何なのか?
ジエチレングリコール(diethyleneglycol)とは通称名でして、化学のルールに基づけば「2,2'-オキシビスエタノール」、または「ビス(2-ヒドロキシエチル)エーテル」と言う物です。その20でも触れた、エーテルとアルコールの特徴を構造に持ちます。まぁ、「ジエチレングリコール」で十分通じますが(他の名称の方が通じにくいかも)。
構造を示しますと........
一番右は「飲めるアルコール」であるエタノール。真ん中はエタノールの左端を「-OH」にした「エチレングリコール」と言うものです。
ジエチレングリコールはエチレングリコールと物性や使用目的と言う点で似ています。一般的には自動車等の不凍液(自動車なら冷却用水)として用いられたり、工業用溶剤として用いられまして、他にもジエチレングリコールはプラスチックの合成原料やセメント混和剤などに用いられ、エチレングリコールは(本当に)様々な工業原料として用いられています。つまり、両者は「工業」的な部分で活躍する物質です。ただし、エタノールとは異なり「飲用」としては用いられず、どちらかというと「毒」と言う化合物になります。とは言ってもそう強くはないのですが........
両者とも水に溶けやすく、そして「甘い」と言う特徴がありまして時々中毒事故が起こることが知られています。実際、戦後の日本において「甘味料」としてエチレングリコールを混入させ(つまり、上のワイン騒動と一緒)、中毒・死亡事件を引き起こした事もあります。それ以降、かなり注意が払われる様になりますが。
尚、普通の人が接触する機会はエチレングリコールに多く、中毒の事例はこちらが多いです。厄介なのはこの「甘い」と言う特徴でして、時折不凍液を放っておいた結果、動物がこれを飲んで死んでしまう、と言う事故が起こるようです。
さて、ではジエチレングリコールに話を絞りまして.......この物質の毒性と中毒はどういうものがあるか?
ジエチレングリコールは通常では気体になりにくいので、皮膚などから入り込むことと言ったケースは、そう問題になりません。実際、様々な試験において、経口以外は余り問題とされません。しかし、これを飲むと一転、毒性が発揮されることとなります。もっとも、急性毒性はそう高くなく、実験動物による経口LD50はマウスで13,300-23,700mg/kg。犬で9,000mg/kg、ネコで3,300mg/kgと、いずれも数グラム〜数十グラム程度は必要となっています。ただ、マウスでは30ppmの環境で2時間暴露させる(30ppmの気体中に存在させる)と起立不能、興奮、チアノーゼを起こすという結果があります。尚、人間では大体1〜2g(=1,000-2,000mg)/kgと推定されています。
また、慢性毒性も余り問題が多くないのか、人での報告は無いようです。実験動物でも数%単位の物を与え続けないと余り影響が出ないようです......とは言っても、妊娠中のメスに与えると、新生児などへの影響はありますが。
では、余り毒性が高くない、と言うことなら問題にはそうならないのではないか、と思うかも知れませんが、実際にはそう単純ではありません。ジエチレングリコールによる中毒の危険性はワインの事件よりも前、実は戦前に大規模な中毒事件を引き起こしていまして、問題になった事があります。
その問題とは1937年、アメリカでこの物質をスルファニルアミド(いわゆる「サルファ剤」)の溶媒として用い(当時は規制が緩かった)、72%の溶液が溶血性連鎖球菌感染症に有効と販売されます(注:当時は抗生物質がなかった)。しかし、これを服用した59名死亡。更に同じ溶液で353名が服用して105名が、1937名中100名が死亡した、と言った報告がされています。他にも、同様に薬剤の溶媒として用いた結果、中毒を起こしたと言うような報告がなされました。
この様に非常に多くの死者を出した記録が残っています。が、これらの結果は貴重でして、人へのジエチレングリコールの急性中毒と、その影響等が判明すると同時に、人への使用が規制されることとなります。
もっとも、グループのメンバーがこの事例を一人でも知っていたのかどうかは不明ですが.......
ジエチレングリコールの人への影響は色々とありますが.......特に腎臓を冒すことが知られています。症状としては、いずれの事件でも悪心、嘔吐、めまい、意識混濁、多尿、乏尿、無尿、下痢、頭痛と言った点が共通してあります。死亡例も共通していまして、無尿状態から様々な症状が出まして、ついには腎臓の組織が破壊され、その影響で死に至る様です。他にも、中枢神経系の抑制や、肝臓の障害、肺水腫や視力の消失と言った症状が出るようです。これらは、いずれもジエチレングリコールによる腎臓障害に由来することが知られています。
尚、知識のある方はスルファニルアミドも腎を冒すのを御存じかとも思いますが、今のところはこの事件ではジエチレングリコールが主な原因であると断定されています。
#ま、現在は余りサルファ剤などは使わないはずですが......
尚、エチレングリコールも類似の症状を出すことが知られています。
では、1985年の事件ではどうなったか、と言いますと........
ま、基本的にはワイン一杯辺りの量がそう多くなかったこと(一回に数本分も飲むなら別ですが)と、発覚してからの対処が迅速に行われたことなどから、実際にはジエチレングリコール入りワインを飲んだことによる健康被害の報告はあまりなかったようです。
ここら辺は完全に幸いだったのですが.........ただ、もし混入量がもっと多かったら、どうなっていたか、と言うのは余り想像したくないものではあります。
#「世界規模でのジエチレングリコール中毒」などというのは洒落になりません。
もっとも、後述するように別の方面での死者は出してしまいましたが.........
ちなみに、解毒機構ですが基本的にはアルコールですのでジエチレングリコールの持つ、二ヶ所の水酸基「-OH」がその127で触れたような反応を受けることまではわかっています。が、それ以上は余り研究されていないようです。ただ、尿中にシュウ酸が出てくる事はわかっているので、代謝を受けて一部がシュウ酸に変化する、と言う推測はなされています。
一般的にはジエチレングリコールよりはエチレングリコールの代謝が研究されていまして、そちらの代謝がある程度のヒントを与えてくれています。
一応、エチレングリコールが代謝されると、ギ酸、グリオキサール、グリオキシル酸等が出てくることがわかっています。
まぁ、エチレングリコールの方もやはり身体には良くなさそうですけどね...........
最後に、冒頭でこの事件の成り行きを話しましたが、技師とそのグループが行った「甘いワイン」の顛末を話しておくこととしましょう。
この事件が発覚してからは、オーストリアからバルク(樽詰め)で購入し、そのまま、あるいは瓶詰めでワインを売っていた西ドイツは緊急でオーストリア産ワインの全ての出荷停止。このために一部業者が混乱をきたしたうえに、その中のある業者は取引中止の影響で倒産する羽目になります。また、イタリア産のワインにもジエチレングリコールが混入していたことが発覚し、更に混乱を加速。世界各国でも調査が開始され、結局オーストリア産、西ドイツ産、イタリア産ワインなどが出荷・販売停止、そして廃棄措置等がなされます。しかし厄介なことに、これに付随して更に様々なスキャンダルが発覚し、ついにはオーストリア警察の事件担当の警察官が「仕事の重圧」で自殺してしまうなど大混乱を引き起こしました(オーストリア産とオーストラリア産が混同されたりもしたそうで)。
この様にしてこの事件は世界を巻き込み、個人から企業、国家と規模を問わず大きな傷痕を残してしまいました。
これ以降、各地のワイン産地などでは表示や品質検査が厳しくなった、と言うのは言うまでもありません。
ちなみに、日本ではオーストリア警察の逮捕後の7月24日に、当時の厚生省が検査の末にジエチレングリコール入りの西ドイツ産、オーストリア産の白ワインを店頭から撤去するように命令すると同時に、緊急で各地域に検査の実施を指示。ワイン生産を行う県などを中心に検査法の確立と検査を行います。8月に入ると厚生省は「国産ワインは安全」との宣言を出しますが、某社製の4銘柄にジエチレングリコールが混入していることが29日発覚。しかも某社は厚生省の発表と同時に密かに回収指示をしていたことが発覚し、翌日に厚生省は「安全宣言」を撤回。そして、9月8日に輸入ワインに「安全シール」を貼ることで二回目の「安全宣言」を出します。しかし、その業者は混入ワインの樽の中身を入れ替えて検査を抜けたことが9月11日に発覚し、激しく非難を受けました。
#専門注:検査法はGC-MSによる方法です。が、当時は機器とサンプルデータが少なく、結構苦労したようです。
まぁ、何とも言い様がないですが。
しかし.......この「甘いワイン」と言うもの。
ジエチレングリコールと言ったものや、その63でも触れた鉛糖入りワインといった物を考えると、何かと物騒な繋がりを感じてしまうものがあります。
いやはや.......
尚、この事件を最後に化学物質による大規模な食中毒/汚染と言うものは身を潜めることになります。
しかし、もっともそういうものは以前にも食中毒の話(その74)で触れたように、もともとそう多くはありません。戦後の混乱期ならまだしも、今ではほとんど無いでしょう。
もっとも、化学物質によるものは「忘れたころ」にやって来る傾向はありますし、流通が発達した現在では容易に世界規模に発展します。特に比較的どこにでもある工業製品を使われると、更に容易になりますので..........ま、余り油断はしないほうが良いと思いますが。
ただ食中毒や汚染の「主力」はやはり菌によるものですね.........今の時期に特に増える、と言うことになります。また、最近では狂牛病や遺伝子組換え食品と言った問題もかなり大きくなってきていますから、「化学物質」よりは「生物」に由来するものが最大の問題ではあります。しかも、後から後から種類が増える、と言う状況です。
ま、様々な事件を振り返ると、食中毒も大規模・多様化の時代であることを色々と感じてしまうものがありますが.........
では、長くなりました。
今回は以上、と言うことで..........
終わり、と。
さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
え〜、まぁ家人の「夏休み」をすっからかんに忘れたので急ごしらえでしたが(^^;; まぁ、有名な事件ですので、20代後半以降の方には記憶の片隅に引っ掛かっているとは思います。大学学部生だとちょっと辛いかも知れませんが、食品衛生などをやれば必ず出てくる事件です。
まぁ、それに絡む話、と言うことで。結構毒性などは知られていませんからね.........
さて、と。次回はどうしますかね.........
ま、取りあえず家人の問題はないと思いますので、特に何か起きなければ今回やろうと思ったネタにでもしようかとおもいます。
そう言うことで、今回は以上です。
御感想、お待ちしていますm(__)m
次回をお楽しみに.......
(2001/08/14記述)
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