クラーレの記録はスペイン・ポルトガルの南米進出が盛んだった16世紀頃から見られます。
クラーレの最も古い記録はあまりよく分かっていないようですが、『毒矢の文化史』では、マゼラン一行の世界一周に同伴したイタリア人アントニオ・ピガフェッタが1536年刊の『世界周航記』において、1520年にパタゴニアにおいて上陸した兵士の一人が現地民に毒矢を受けて死亡したとあるようです。他にも記録はさまざまでして、例えばコカの話で出てきたペドロ・デ・シエサ・デ・レオンの著書『ペルー年代記』においても、上述の地域においてさまざまな呼称で呼ばれる毒が毒矢として用いられていると記録されています。また、スペイン人で「アマゾン」を命名し、アマゾン川の全長を踏査した最初の探検家であるフランシスコ・デ・オレヤーナは、1541年に友人が現地のインディオのクラーレの毒矢で死んだという事を記録しています。
その後も多数の記録があるようでして、19世紀に至ってもなお「射られて死亡した」という探検隊の記録があるようです。また冒頭に挙がっているコナン・ドイルのシャーロック・ホームズの短編「サセックスの吸血(The Adventure of the Sussex Vampire)」においても「クラレ毒もしくはこれに類する猛毒を塗りつけた矢で刺されたら」などと名が挙げられていると言うのは、この毒が有名である証拠でしょう(これと「吸血鬼」との関連は実際に読んでみれば分かるでしょう)。この作品は『ストランド』誌1924年1月号に出ていますので、20世紀初頭でもクラーレは有名であったと思われます。そしておそらくは、犠牲者もまだいたのではないかと思われますが........