からむこらむ
〜その183:神秘の鳥殺し〜


まず最初に......

 こんにちは。11月も半ばとなりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?
 まぁ冷え込んだり暖かくなったりですけど。いや、本当に風邪にはお気をつけを。

 さて、今回のお話ですが。
 今回は精神絡みの大キャンペーンの一つ、を考えたのですが実はちと切り込み方が定まりませんので、まだ先になりまして........有名な毒の話をしてみようかと思います。
 この毒、実に「神秘的」な扱いをされたもので、さまざまに話が残るものですが........ただ、非常に重要な役割を残した物でもあります。なかなか興味深いものとは思いますが.......
 それでは「神秘の鳥殺し」の始まり始まり...........



「赤ん坊を渡すわけにはいきませんよ。どんなことであの奇怪な発作を起こすか知れたもんじゃありません。唇を血だらけにして赤ん坊のそばから立ちあがったあの姿を、どうして忘れる事が出来るでしょう」彼はそのときの事を思い出して身ぶるいした。「赤ん坊はミセス・メイスンに預けておけば安全です。そうしておいたほうが安心なんです」

(「サセックスの吸血鬼」/『シャーロック・ホームズの事件簿』所収
/アーサー・コナン・ドイル著 大久保康雄訳/早川書房)

 おそらく科学に通じた方のほうが知っているかも知れませんが、石川元助という人の著作に『毒矢の文化史』という本があります。
 この本、1960年代に書かれたもので、世界各国の毒矢とその文化圏と言うものを作り出したという本です。「ふーん」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、これはかなり有名な「業績」でして、今もって毒矢に関連する話に目を通すとよく引用されている本となっています。
 それだけ傑出した研究、とも言えますが。
 ところでこの本によれば、世界を毒矢使用の慣習によって区分すると
 の大きく三つに分けられるとしています。アジア文化圏は更に細分化されまして、例えばその一つにはトリカブトが含まれています。
 ところで、最後の南アフリカ毒矢文化圏は「クラーレ毒矢文化圏」と命名されており、つまり「クラーレ(curare)」と言う毒を用いた毒矢の文化圏であるとこの本にはあります。このクラーレと言うもの。名称を聞いた事がある人がいるかとも思いますが、確かに一つの文化圏を成すほど有名でして、そして一時期は西洋において「神秘的な」毒として知られていました。
 今回はこれについて触れてみる事としましょう。


 地図を見れば分かる通り南米という土地は熱帯地方に位置する場所が多く、そこにはアマゾンといった熱帯雨林があります。そしてその多様な植生の為に現在に至っても未知だったり研究がされていない動植物が多くあり、また同時に新薬創製のために一部の科学者が注目している地域の一つでもあります。
 この地域は大航海時代に至るまでは「未開の地」(もちろん、ヨーロッパから見た視点ですが)でした。そして大航海時代に至ると、その「未開の地」に向けてさまざまな憶測と想像と名誉欲からヨーロッパからこの地に向けて人が大量に向かう事となります。彼らは空白地図を埋めるべく探検を、あるいは布教を、または侵略の為に進出していきました。その成果もあってさまざまなもの、例えばじゃがいもキニーネコカなどさまざまなものがヨーロッパに知られ、もたらされる事となりますが........
 さて、大航海時代以降に南米の、今でいうブラジルやペルー、エクアドル、コロンビアと言った地域を訪れた探検家や学者達は、これらの地域についてさまざまな事を記録し、それを本国に報告しています。そういったものの中には「クラリ」「ウラリ」「ウーラリ」「ウラリ」などさまざまな呼称(方言)をもつ毒が記録されており、現地人がこれを矢じりに塗り、これをもって狩猟を行っていると報告をしているものがありました。
 これらはやがて一括して「クラーレ」と総称され、そして広く知られる事となります。

 クラーレの記録はスペイン・ポルトガルの南米進出が盛んだった16世紀頃から見られます。
 クラーレの最も古い記録はあまりよく分かっていないようですが、『毒矢の文化史』では、マゼラン一行の世界一周に同伴したイタリア人アントニオ・ピガフェッタが1536年刊の『世界周航記』において、1520年にパタゴニアにおいて上陸した兵士の一人が現地民に毒矢を受けて死亡したとあるようです。他にも記録はさまざまでして、例えばコカの話で出てきたペドロ・デ・シエサ・デ・レオンの著書『ペルー年代記』においても、上述の地域においてさまざまな呼称で呼ばれる毒が毒矢として用いられていると記録されています。また、スペイン人で「アマゾン」を命名し、アマゾン川の全長を踏査した最初の探検家であるフランシスコ・デ・オレヤーナは、1541年に友人が現地のインディオのクラーレの毒矢で死んだという事を記録しています。
 その後も多数の記録があるようでして、19世紀に至ってもなお「射られて死亡した」という探検隊の記録があるようです。また冒頭に挙がっているコナン・ドイルのシャーロック・ホームズの短編「サセックスの吸血(The Adventure of the Sussex Vampire)」においても「クラレ毒もしくはこれに類する猛毒を塗りつけた矢で刺されたら」などと名が挙げられていると言うのは、この毒が有名である証拠でしょう(これと「吸血鬼」との関連は実際に読んでみれば分かるでしょう)。この作品は『ストランド』誌1924年1月号に出ていますので、20世紀初頭でもクラーレは有名であったと思われます。そしておそらくは、犠牲者もまだいたのではないかと思われますが........

 では、クラーレとはどういう毒なのか?
 矢毒に用いられ、そしてそれにやられれば死に至る。そういった情報は得られますが、実際には「それ以上」の情報がない。
 では、実際にクラーレはどう言った物を使い、どうやって作り、そしてどう作用しているのか? こういった疑問は早くから探検家や学者などが持ちました。しかし、クラーレをもつ部族は南米地域ではあまりにも多くあり、しかも各部族は対立をしていることがあって「政情不安」であることも多く、またある部族はよそ者を一切受け付けませんでした。中には無理にそのような所に行って身をもって「クラーレの作用」を知り、同時に命を失った物は大分いたようです。また、例えヨーロッパの文明を半ば容れた部族であってもクラーレの製法は部外者には秘密としていましたので、目的の情報を得る術は無い。
 探検家や学者達はこの固いガードをくぐろうと努力する事となります。その「成果」は本になって公開される事となるのですが.........
 どう言った「成果」か?
 その「母胎」となる話があります。それは最初のクラーレ毒その物の記録でして、スペイン人フランチェスコ・ロペツ・デ・マゴラが1553年に刊行した『印度通史』にあるとされています。マゴラは探索の結果として、クラーレの成分は「蛇の血、アリの頭、植物性物質などの混合物」であるとし、その配分で毒性を変える事が出来ると報告しています。更には調合についても触れており、この調毒は老婆によって行われるが、もしこの老婆が調合で毒を沸騰させる際にその立ち上る毒気で死ねばそれは「良い毒」であり、もし死ななければ老婆が作業を怠けたと見なされて「ひどい目に遭わされる」事になる、と言う事が書かれているようです。
 ........どっちにしてもろくな目にあわない気がしますが。もちろん、これは「噂」の類いレベルです。ただ、これは比較的「全うな報告」と言える部類になります。
 何故か?
 その後、マゴラの話をベースにさまざまな「伝説」が語り継がれていく事となります。実際にドイル以前にも小説のネタにクラーレが登場し始めるのですが、その「謎」故に『突然の死』だの『黒い妖術』などといったタイトルでクラーレを扱った小説が登場したと言われています。もっとも、現代で注目されていない以上は大した作品ではないのかも知れませんけど。
 もちろん他にも報告はあります。その「作者」の一人はイギリスの著名な冒険家でもあり詩人でもあり、またアメリカの植民地経営に積極的に参加し、「ヴァージニア」の地名をつけたサー・ウォルター・ローリーです。世界史やイギリス史を知っていれば名前を聞いた事がある人もいるでしょう。イギリスにおいてタバコを広めた事でも有名な人で、エリザベス一世に仕えるのですが、女王の死後に即位した「禁煙王」ジェームズ一世への反逆罪に問われて処刑された人です。
 さて、このローリー卿は1595年に南米オリノコ川地方を探索し、この時の記録を『ギアナ帝国の発見』というタイトルで翌年に発表しています。この中で彼はクラーレについてある部族での話を残すのですが、その内容はクラーレ毒の効果として「致死的な障害」を与える外、「想像も出来ない苦痛が与えられる」と記録しています。どう苦しむのかと言えば「凶暴化」「意識混濁」「自分の身をかきむしる」上、「内臓は断ち切られてはみ出し、黒くなって悪臭を放つ」としています。
 しかしクラーレを科学的に詳しく研究したクロード・ベルナール(後述)など、後世の人たちは「クラーレは穏やかに生命を奪う」と指摘している事から、これはかなりオーバーな表現、と言うよりは「誤った認識」と言えるでしょう。
 こういったクラーレの「伝説」の「最高傑作」に部類するものは、「現実的」を通り越してほとんど「魔術」の世界になります。
 その「作者」は18世紀、ジェスイット派(イエズス会。その137も参照)の神父で、オリノコ地方で約30年にわたる布教活動を行ったスペイン人のグミラ神父という人物です。それまでゴマラの「繰り返し」の様なクラーレの報告が、彼の手にかかるとこう変わります.........その内容を要約すれば「クラーレ毒の完成は、毒の原料が1/3に煮詰まった頃に、毒の一部を取って出血している傷口に近づける。その時に今まで流れ出た血液が逆流すればその毒は完成となり、それ以上煮詰める必要はない」という物でした。
 血液の逆流.......この報告を見たヨーロッパ人がどう思ったかは不明です。ただ、ジェスイット派の報告はクラーレ毒を「コウモリの翼」やら「毒グモ」「蛇の尾」など、ほとんど「魔術」扱いで行われています。ある意味「下地」はあったといえるでしょうか?
#当時は差別的な見方も普通でしたから尚更.......

 このような有り様であるクラーレの報告ですが、一応探検家達の研究は全く停滞していたわけではありませんでした。
 クラーレの使用法については比較的まともに判明していきます。その利用はおおむね三つの形態を持つもので、いずれも狩猟に関するものでした。この報告は1571年にクリストバール・ド・サベドラと言う人によって行われています。彼によれば、現地でクラーレ毒を利用するインディオの中には長さ約38cmほどの吹き矢を射ると言う者があると報告しています。また、大きな動物を殺す為にクラーレを塗った矢  しかも長さ約13cmもの取り外しが可能な矢じりを使うものもある事も分かります。この「取り外し可能」なのは重要でして、矢が当たれば例えサルが引っこ抜いたり、あるいは獣が走り回って矢が落ちても、矢じりの部分だけは体内に残る為にダメージを与え続ける事が出来、しかも遠くまで逃げる事が出来ないと言うメリットがありました。そして第三の形態としてジャガーや更に大きな動物を殺す為に用いる槍に塗るというもので、つまり「吹き矢」「矢」「槍」の三つに使用されている、と言う報告になります。
#何故こういうのが分かっておきながらグミラ神父の様な報告が出きるのかが不思議ですけどね。
 もちろん、これらは狩りのみならず戦いでも用いられていました。
 こうした使用形態は分かってくるのですが.........ただ、肝心の「何をどうやって作るのか」についてはまだ分かりませんでした。

 クラーレ毒は何から作られるのか?
 グミラ神父と同時期のフランス人探検家であるラ・コンダミーンは、アマゾン川上流にすむツクナ族の矢毒を調べて報告を残しています。この報告によれば、クラーレと思われるものの成分には三十種ぐらいあるが、その中の二、三種の蔓性植物が重要であると報告を残しています。また、抗毒素としては塩と砂糖が有効であるとも報告します。この報告は現実的に見れば抗毒素の部分は残念な事に間違っているのですが、「蔓性植物」と言う報告は重要でして、これが真相解明のきっかけを研究者に与える事になります。更にイギリス人エドワード・パンクロフトは1766年に発表した『ギアナの博物誌』において、ギニアの奥地に住むアッカワィ族の矢毒について「ただ5種類の木の皮から作られる」と報告するなど、徐々に「魔術」的な要素が消えていく事となります。
 このような報告を経た後、長い間謎に包まれたクラーレの製造工程はついに詳しく報告される事となります。
 その報告者はドイツの偉大な探検家(彼の名を冠した財団が今もあります)であり、自然科学者で地理学者(極めて重要な成果を残しています)であるアレキサンダー・フォン・フンボルト男爵です(兄は政治家で有名)。フンボルトは1799〜1804年にかけて南米の調査旅行を行っている(この人は他にもカイザーの旅行には必ず付き添うなど、かなり活発な人物です)のですが、1800年にオリノコ川の探索中に調査したエスメラルダの地でクラーレ毒の製造現場に遭う機会に恵まれます。その詳しい報告は1807年、ヨーロッパで行われた学会で発表されました(尚、同行者にポンプランという人もいるのですが、この人はあまり扱われていないようです)。
 フンボルトの報告内容は、つまりエスメラルダに着くとちょうどインディオ達が旅から帰還した時で宴が行われ、そこに同席した時にその部族の調毒師である老人に出会い、彼から蔓性の植物を使ってクラーレを調毒する所を実演してもらったというものでした。詳しく書くと長いので省略しますが、この地でクラーレは「マバクレつる」という植物を用いており、親指ぐらいの太さの物を加工して作られます。製法は小刀で溝をつけて表皮をはぎ取り、それを搗き砕いて細い繊維状にします。この繊維に含まれる毒成分は黄色を帯びる為、この繊維は黄色になります。これを高さ25cm、幅10cm程度のバナナの葉で作った漏斗に水と一緒に混ぜて入れ、そこから滴下してきた液体を煮詰めると完成となります。
 ただ、実際には煮詰めても粘性が少ない為に矢じりに「塗る」事が難しいので、キラカグエロという樹木の樹液を混ぜて煮詰める事でタール状にするなど、粘性を与える必要はありますが。

 ただ、奇特な事にほぼ同時期に同じくクラーレの正体を突き止めた人物もいます。
 フンボルトに遅れる事2年、イギリス人冒険家のチャールズ・ウォータートンもクラーレの正体を求めて当時の英領ギニアに渡りました。この人物はハンプシャー地方の第26代領主という金持ちでして、ギアナに農園を持っていた上、クラーレに興味を持っていました。と言う事で、全く無縁ではない環境の中でこの地方に渡り、クラーレの追及をしていく事となります。
 ただ、彼は「発見者」としての栄誉は実質得られず、フンボルトがその栄誉を得る事となるのですが...........


 ところで、19世紀になるとかなりクラーレ毒の情報というものがまとまってきます。
 上述した通り、クラーレの名は各地で異なっていました。「クラーレ」と命名したのはサー・ウォルター・ローリーでして、ギアナから持ち帰ったこの毒に「クラーリ」と命名し、これが変じて「クラーレ」となったと言われています。この語源は十数種にも及ぶインディオ達の言葉の方言でして、意味は「ウイラ(鳥)、エオル(殺す)」であるとされています。つまりは「鳥殺し」でして、その用途から来たものと思われます。
 更に毒性も大分詳しいものが分かってきます。
 どういうものか? 実際の例が検証された結果、クラーレを塗った毒矢にやられた獲物(含人間)は、例えわずかな傷であっても速やかに力を失い、そして横たわって動かなくなって「静かに」死ぬ事となります(この時点でローリー卿の報告とは異なります)。それはどの生物でも共通するものでした。
 ただ、中にはしばらく死んだように横たわりながらも「復活」するものもありました。そして、注目すべき点としてはクラーレを用いて獲った獲物を食べても、中毒する事はありませんでした(それゆえに狩猟に使う訳ですが)。

 ところで、ウォータートンはこのままで「終わった」のか?
 いえ、実は違うんです。クラーレの正体がある程度はっきりしてくると、今度は「どうやって死に至るのか」と言う事が興味を持たれる事となります。それに興味を持ったのが、3名の人間でして一人は著名な外科医で「サー」の称号を持つ医師ベンジャミン・ブロディ、一人は獣医ウィリアム・スウェル。そして残る一人はウォータートンでした。集まった彼らは一つの実験を行います。
 何をしたか?
 1810年〜20年代のロンドンにおいて、彼らはロバで実験をする事となります。ここら辺は色々とあるようで、ブロディの研究の成果からとも、ウォータートンの実験の結果からとも言われているのですが........それはともかくも、彼らはロバにクラーレの毒液を注入します。すると、速やかにロバは倒れて動かなくなりました。こうなったロバの咽喉を切ってみても、ロバは悲鳴一つあげない。ここまではそれまでのクラーレ毒の報告と一緒になるのですが........彼らは更にこのロバののど元に「ふいご」を差し込みます。そして、ここから空気を送り込む、つまり人工呼吸を施してみたところ、このロバは息を吹き返しました。が、人工呼吸を止めるとまた倒れてしまいます。
 これは何を意味するのか?
 つまりクラーレ毒にやられた場合、人工呼吸を施してやれば生き延びるチャンスがあるという事を意味します。同時にクラーレ毒の作用は「呼吸を止め窒息をさせる」と言う事である、と言う事もまた分かる事となります。
 これは、一つの成果となりました。ただ、「それ以上」はまだ分からないのですが........

 さて、この実験から20年以上経過した1844年。
 フランスの生理学者であるクロード・ベルナール(Cloude Bernard)は、ウォータートン達3名によるこのロバの実験を子細に検証をしました。この人物、近代医学史上最も偉大な科学者の一人でして、脳神経機能、交感神経の研究や人工糖尿病の発生、肝臓での糖生産についての研究を行い、更に「内分泌」と言う言葉を初めて使い、そして今日の実験医学の基礎を確立する事となる『実験医学序説』を著すなど、実験を用いた研究を中心に極めて重大な業績を残す事となるのですが.......当時まだ30代の若手研究者だった彼は、クラーレの毒作用について非常に関心を持っていました。そして、ウォータートン達の実験を重要視していたのですが..........
 では、彼は何をし、そして何を見いだすのか?

 長くなりましたので、それは次回に触れる事としましょう。




 ふぅ...........

 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 え〜、まぁ冒頭に書いたように精神関連の話を考えたのですが、ちょっと色々と切り口が定まりませんで、結局流しました。え〜、リクエストもあるので早めにやりたいとは思うのですが.........と言う事で、しばらく考えたのですが、取りあえず有名な毒クラーレについて触れてみました。
 ま、名前は比較的有名ですが、色々と知らない人もいるかと思いますしその概要もあまり知られていませんので。えぇ、伝説で目茶苦茶に扱われた毒ですけどね。これがまた色々と興味深かったりしますが........

 さて、そういうことで次回は今回の続きです。
 クラーレについてもっと触れてみようかと思います。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2002/11/12記述)


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