からむこらむ
〜その223:大風を救う油〜


まず最初に......

 こんにちは。お盆も終わりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
 8月も後半になりました。早いものですね。

 さて、今回のお話ですが。
 今回は前回の続き、という事でハンセン病の話の後半をやりたいと思います。前回までは簡単に病気の紹介などをしましたが、今回は治療薬などについて触れていきましょう。
 それでは「大風を救う油」の始まり始まり...........



管理人注
 今回取り扱う話には、一般に差別ととられる表現が使われていることがあります。しかしそのような表現は歴史的経緯などの説明の必要からなどであり、著者に差別の意図は一切ありません。
 ご了承下さい。

 さて、前回の続きからいきましょうか。
 前回は、ハンセン病の簡単な概要と治療薬、大風子の話をしましたが.......

 では、大風子油(チャウルムーグラ油(chaulmoogra oil))がとれる「大風子」とはどんな植物なのか?
 これに挑んだのが、1884年オーストリアに生まれた植物学者であるロック(Joseph Francis Charles Rock)でした。この人の経歴というか性格はかなり特異なもので、10歳の頃にエジプトに連れられてアラビア語を覚え、16歳でウィーン大学でアラビア語を教えるという事をしています。父親は僧侶になる事を願ったのですが、彼は放浪。そして1905年の夏、アントワープからイギリス行きの船に乗り遅れた彼は、何を思ったかアメリカへ行く、という事をしています。
 このとき、彼が操る言語はアラビア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語.....英語は弱かったものの、渡米して英語を学ぶために大学へ。その後1907年、彼は結核にかかっており医者から乾燥した所へ行くようアドバイスを受けるのですが、なぜかハワイへ向かいます(単なるあまのじゃく?)。
 ただ、この気まぐれは彼にとって幸運でした。というのもハワイはロックにとって非常に重要な土地になります。
 彼はここで植物学の道を歩んでいます。実際、米国市民権を獲得した1913年頃には植物学者として働いており、太平洋にある熱帯の島々の植物の研究に費やしており、大きく成果を挙げていました。そのような実績を買った米農務省の外国種子・植物移入部局の長官フェアチャイルド博士は、ロックに対して大風子油の供給のために、大風子の探索を依頼します。
 ロックはこの依頼を受ける事にし、1920年にインドシナ(現ベトナム)、シャム(現タイ)、ビルマ、インドといった地域への派遣が決定。同年、シンガポールに上陸し、陸路シャムのバンコクに向かいます。なお、この頃には彼は中国語まで理解が出来たという事ですが......また、植物学者としての研究から、大風子がイイギリ科の樹木であることもある程度気付いていたようです。
 ロックはこれらの地域で精力的に活動します。山賊に襲われたり自然による脅威に襲われたりしつつも探索を進め、その結果最終的にロックは「大風子」の樹木について三つの樹木を特定をします。それは、次のようなものでした。
 基本的には、ワイティアナとアンテルミンティカの種子が主な大風子の供給源とされたようです。
 さらにロックは、それぞれの木の種子が現地の市場で売られており、また種子から抽出される油はそれぞれ「黄色みが掛かった透明色」「苦味が強い」といった点で類似している事を見付けます。また、現地の人々が種子に熱を加えずに砕いて油を搾り取り、これを東南アジアやインドでハンセン病患者に与えている事を知ります。
 このような樹木や油についての発見は成果となり報告される事となります。そして、アメリカの薬局方にこの油をまとめて「チャウルムーグラ油(chaulmoogra oil)」として登録される事となります。
#なお、一部の地域では種子を魚をマヒさせるらしく、それによる量が行われていたという記録が残されています。
 さらにロックはこの種子をハワイに大量に送り、その地で大規模な栽培場を作ります。種子を植えて種が収穫できるまでは8〜10年程度かかるため、すぐに大風子油が得られる訳ではありませんでしたが、これは将来的な供給の意味も大きく、またそれだけハンセン病治療薬として大きく期待されたのは確かでした。

 このようにアメリカでも知られる事となった大風子油は大きな期待をかけられます。
 特に治療薬のなかったハンセン病に光明が見えた事は大きく、得られた油は早速患者の治療に使われました。実際にはこの油は症状が進行した場合には使えないものの、しかし初期の段階では治療できました。実際にこれは成功してその期待に大きく応える事となります。そして、この事実はこの病気のイメージを大きく変えます。
 どう大きく変えたのか? これは前回触れた通り、患者にとって療養所は偏見も手伝い、「収容所」という極めてイメージの悪いものでした。
 そのようなイメージの「療養所」という所へ、若者(基本的に初期の感染状態が多い)が向かうのは手軽なものといえるのか? これに対する答えは明確で、やはり恐怖の対象であるといえる。ですが、大風子油で治る、という事が分かると治療に自ら出て行く人が増え、実際に病気の初期の段階の人は完治して家庭に帰るケースが増えてきます。
 治療は約4〜5年ほどかかるものの、やはり治癒できるというのは大きかったようです。
#なお、これは日本の事例ではないので要注意。

 なお、大風子油を作る植物を見付けたロックですが、もう少しだけ触れておきますと.......
 彼はその後中国やチベットが気に入ったようでその地に赴き、植物の研究も行っています。現地の言葉も覚え(最終的に何カ国語を覚えたのでしょうか?)、貴重な文献を英語に訳すなどしています。ただ、時代は彼も飲み込んでいまして、上海などでは施設が旧日本軍の爆撃で破壊されるというような事もあったようです。
 そして第二次世界大戦後においては、戦乱から戻ってきたもののやがて大陸を掌握した中国共産党から追い出され、最終的にハワイに逃れています。ここで彼は研究を続けたようですが、1962年にこの地で亡くなっています。

 ところで、このような経緯から広まっていく大風子油ですが、使用方法については少し難点がありました。
 この難点は他の薬剤でも十分あり得るものなのですが、まず当初は経口投与で行われていたものの、副作用として消化器を傷めたり、あるいは吐き気を催すという事がありました。この症状が出ると当然投与が出来なくなる......これを避ける為、傾向から注射による投与に切り替えられるものの、注射にすると痛かったりする事もありますし、また当時は注射器の消毒という概念もなく、これで感染するケースもあった様です。そして何よりも大風子油自体が高価であるという事がありました。
 これは大風子油の欠点という事になる。
 ではどうするか? この解決法は化学による有効な薬品の合成という事になります。その為、世界の科学者がそのような薬品を求め、研究を行います。
 そして、これは見事に見付かる事になりました。


 その薬はもともとは1908年に登場しています。
 もともとドイツで合成された化学物質でして、その名も「DDS(4,4'-diaminodiphenylsulfone)」というものです。しかしこのときには折角合成をしてみたものの、困った事にこの薬剤の有効な使い道を当時は誰も見付ける事が出来ませんでした。この為、この薬剤は30年以上放置される事となります。
 しかしこの薬剤の復活はある意味センセーショナルなものでした。
 1941年、アメリカにおいてDDS誘導体で、もともと結核治療薬として開発された薬剤「プロミン(promin)」がハンセン病患者に有効である事を発見します。その人物の名はガイ・ファジェ(Guy Henry Faget)。彼はアメリカのカービル(Carville)の療養所においてプロミンを患者に注射したところ、この薬剤がハンセン病へ効果があり、しかも治す事が出来る事を見付けました。彼はこれを1943年に発表します。
 これは大風子油以外の、しかも安価な合成薬による化学療法がハンセン病患者に行える事を意味していました。これは当然大きな影響を与えます。
 そして、その数年後にはプロミンは改善されたものに代わる事となります。
 それは第二次世界大戦後の1947年、先祖返りとも言うべきか、1908年に作られたDDSがここで、「ダプソン(dapson、ジアフェニルスルホン)」という名前でハンセン病治療薬として舞台に上がる事となります。この薬剤の特徴は静脈注射で使うプロミンとは異なり、経口投与で有効である事でした。これは当然使いやすさが顕著に異なる事になり、さらにハンセン病患者への治療が進む事となります。
#結核治療薬として開発され、別の目的で使われているものにMAO阻害薬のイプロニアジド(構造はその156)があります。
#そういう意味では、結核治療薬の研究は色々と別分野で成果を挙げているというのは興味深いかも知れません。

 この様に登場した薬剤は一般に「スルホン剤」、あるいは「スルフォン剤」として現在においても知られている薬剤です。DDSはそういう意味では世界で最初のスルホン剤でした。



 この薬剤ですが、第一次世界大戦に登場した有名な「サルファ剤」とは違いますのでご注意を。ただ、構造は似ています。一応、上には左側に今回のDDS、右側にサルファ剤の基本構造となるスルファミン酸を示しておきますが、専門的に見れば分かる通りサルファ剤はスルホンアミドの構造を持つ事になります。
#作用機構は共通し、両者とも葉酸代謝阻害による作用と見られています。
 この薬剤の登場はハンセン病治療の決定打になりました。
 世界中でスルホン剤剤の患者への投与が始まり、「不治の病」と思われていたハンセン病患者は、続々と治療に成功する事になります。


 ところで、ハンセン病の治療薬についてはその後も発展をしており、現在は化学療法が治療法の主軸です。
 治療法に使われる薬剤については、上述のDDSの他に薬剤が開発されており、それが現在使用されています。もっとも一つの薬剤ではなく、現在は基本的な治療法としてはDDS、結核治療薬で半合成抗生物質であるリファンピシン(もともとらい菌自が結核菌と同じMycobacterium属のためか、結核との繋がりが多いです)、色素薬であるクロファジミン(clofamizine)の3剤を使用した多剤併用療法(MDT)が一般的であり、これはWHOが推奨している方式として世界で行われています。



 作用機構はかなり専門的ですが.....リファンピシンは菌のDNA依存性のRNAポリメラーゼと結合し、RNA合成を阻害する働きがあります(動物細胞のRNAポリメラーゼは阻害しない→動物細胞には効かない)。また、クロファジミンはDNAと直接結合して複製を阻害すると考えられています。
 専門でない方は、両者とも細胞の情報作成に関わる部分で阻害していると考えられていると思っていただければ十分です。
 なお、薬剤の投与は菌が多い場合(多菌型)なら1〜数年、少ない場合(少菌型)なら薬半年程度内服する事で完治します。基本的に現在は隔離という事は行われません。これは菌が非常に弱い事があり、普通の接触程度で感染・発症する事はまずないことが知られている為です。ですので、同じ場所での生活や食事を共にするということで感染する事はありません。
 そういう意味ではシャーロック・ホームズの『蒼白の兵士』では「患者がいたベッドに寝たから感染した」と恐れおののく兵士は、よほど免疫が落ちていた、あるいは傷が多かったという事でない限りは感染する可能性はほぼなかった事になります。もちろん、当時はそのような知識はありませんし、偏見もあったでしょうから仕様がないのかも知れませんが......
#その病院自体、患者が戦線が近いという事で逃げた後で入っている場所ですし。


 このような化学療法の発達はハンセン病患者の急減をもたらしました。
 世界的にハンセン病患者は1985年には400万人だったものが、1995年からは世界で100万人を切り、現在は50万人程度となって今後特に増加する可能性はないと考えられています。また仮に新規で感染が判明しても薬剤の内服で治療できるため、実質問題はないともいえます(新規患者数も60万人前後でいずれも治療される)。もし、発見が遅れて身体の変形があったとしても、ある程度は整形、リハビリで回復することが可能となっています。
 ただ、現在に至っても厄介な事にらい菌の試験管培養は成功していません。
 これは研究には厄介な事でして、試験用の皿での培養から簡単な試験が出来ない事になります。もっとも研究者もかなり苦労してマウス足蹠、アルマジロ、マンガベイサル、アカゲサルで実験感染系を作る事に成功しており、現在もこれによって研究は進められています。と、なぜ患者が減っているのに研究を、と思われるかも知れませんが、実は薬剤耐性の問題があるためにその判別などに使われています。もちろん薬剤の研究もこれで行われています。

 日本におけるハンセン病患者の数の動向も基本的に世界と同様です。
 1900(明治33)年に報告された患者は約3万人と報告されていたものの、大正期には1万6000人に、その後も基本的に患者数は減少を続け、現在における統計では新規の患者数も2005年4月1日現在の統計では日本人でここ10年で毎年10人も出ておらず、国内の外国人を含めてもほぼ同様の数であり、一部の年をのぞき毎年合計20人も感染していません。投薬一回で終わる訳ではないので暫く経過を見る事となりますが、通院・外来する人は700名程度となっています(療養所他、一般病院への通院もあります)。
 また、「収容所」のイメージであった療養所ですが、日本において現存するのは15(国立13、民間2)で、ここには「元」患者が約3500人住んでいます。平均年齢は77歳なのですが......と、なぜ治ったのにここにまだ住んでいるのか? これは日本におけるハンセン病患者への差別問題等が背景にあります。
 1996(平成)8年4月1日、長らく患者の人権を制限し、また差別を助長してきた「らい予防法」が廃止され、「らい予防法の 廃止に関する法律」が制定されます。これにより、ハンセン病は一般の感染症と同じ扱いとなり、名称も「癩(らい)」から「ハンセン病」へと正式に代わるようになります。そしてハンセン病元患者の社会復帰への一歩.....を踏み出すはずだったのですがたくさんの障害がありました。これは旧来の見かた、つまり偏見が相変わらず強かった事、そして強制的な断種措置や人工中絶をさせられてしまった為、子供が元患者にはいなかったことがあります。
 つまり、彼らの介護をする「若い家族」がいない。
 誰が面倒を見るのか? 行き場がない、となると療養所しかない事になる。このような問題がたくさんある為に国側を相手に訴訟をするなどの動きがあったことは記憶にある人もいるでしょう。
 なお、国側の問題は大分あります。
 スルホン剤の開発により、欧米で続々と患者が治療を受けて社会復帰していく中、実は日本では相変わらずの強制隔離政策が採られ続けられていました。もちろん、この薬剤の情報もあって投与などもされていたものの、実際には社会的偏見も根強く元患者は社会的には「死んだまま」の存在に。事実「らい予防法」が廃止されるのも1996年とDDSの発表から約40年も経過してやっと行われる事になります。この対策は欧米より数十年も遅れているものとなりました。
 つまり薬剤治療などが行われ、欧米でも患者がどんどん社会に戻っているのを知っていながらこれを日本ではせず、差別を助長したという責任がある。
 この影響はまだ根強く、2003年11月に起きた、いわゆる「ハンセン病元患者宿泊拒否事件」という様な事態が起こるなど、社会的にもまだまだと言えるでしょう。このような問題を克服しない限りは、日本での元患者が真に報われる事はないかと思われます。
#なお、法律が廃止され賠償裁判が行われて国側の責任が問われている現在であっても、元患者で自らの存在を現在も秘密にし続ける人達もいます。
#いかに「偏見」が恐ろしいものか?

 なお、現在のハンセン病にはまだいくつかの課題もあるようです。
 世界的に新規患者数は減りません。これは感染数その物が減っていないという事であり、これを減らすべく早期発見のシステムの整備などが求められているようです。また、多発する所はインド、ブラジル、ネパール、 タンザニア、モザンビーク、マダガスカルといった地域で大体9割近くを占め、特にインドがほとんど(50万人近くいるようです)を占めています。このような地域では各国からの支援が必要となっている所もあるようです(特に投与後のフォローがないところが多いようです)。
 そして、WHO推奨のMDTも多菌型において治療期間に難点があり、フォローと言う点も含めて一部の国では課題となっているようです。また、定番の問題でもある薬剤耐性菌の存在が問題になっていまして、多発国で増加傾向にあり、将来的なMDTの有効性が脅かされる可能性が指摘されています。
 さらに以前ほどの脅威ではないものの、やはり他の病気と同じように薬剤開発、またワクチンといった研究は必要となっているようです。もっとも、遺伝子的な研究はいずれも進められていまして、大分情報は得られているようですが。
 完全に克服されるのはいつの日でしょうか?


 さて、長くなりました。
 ひとまずハンセン病の話をしてみましたけど。基本的にはこの「からむこらむ」の主旨もありまして、薬剤や治療という点に多くが割かれています。もちろん、色々とハンセン病の歴史も触れてはみましたが、実際にはここで触れるにはあまりにも出来事は多くなっています。
 もし、興味がある方がいらっしゃれば色々と調べてみるとよいでしょう。
 特に日本における経緯は非常に特徴的であり、上述のような日本政府の対応の遅れは一つの出来事として知っておいてもよいと思います。また、らい予防法に関わり、また治療などに尽力した事で知られる光田健輔という医者がいるのですが、実は彼がこの病気を「文明国の恥」としていたという話もあり、また断種などを推進した人物だったという話もあります。
 色々とこの点は複雑なのですが......
 ひとまず、知識と合理的な思考でこの病気や元患者への見方を考えて欲しいと思います。

 今回は以上と言う事にしましょう。




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 ま、ハンセン病の治療薬という点であれこれ書きましたので、ハンセン病患者や裁判闘争などの話はあまりしていませんが。ただ、そういう方面も探せば非常に容易に見付かります。「こういう事があった」というのを知っておいても、と思いますが......とりあえず、そのような知識の補強にもなれば幸いです。
 考えさせられる事は多いと思います。

 そういう事で、今回は以上ですが。
 次回は.....またいつになりますか(^^; とりあえず、まぁ暫くは出来そうにありませんので(^^; ハイ、気長にお待ちください。その間に読んで感想でも、と思ったら伝えてもらえればうれしいと思います。
#誤字とか色々とあったらそっちも(^^;

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2005/08/19公開)


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