からむこらむ
〜その227:草津、ナポリ、フランス〜


まず最初に......

 こんにちは。いやぁ、久しぶりになりますが。
 とりあえず恒例のスケジュール状態でして、やっとこさ時間が取れてきました。

 さて、久しぶりのお話ですが。
 今回はとりあえず病気の話をしてみましょうか。結構有名ながらあまり表には出てこない病気、なんですけど。しかし最近はまた色々な面で表に出つつある病気です。
 それでは「草津、ナポリ、フランス」の始まり始まり...........



草津よいとこ 一度はおいで お湯の中にも 花が咲くよ
忘れしゃんすな 草津の道を 南浅間に 西白根よ
朝の湯けむり 夕べの湯もや 草津は湯の町 夢の町よ
お医者様でも 草津の湯でも 惚れた病は 治りゃせぬよ
惚れた病も 治せば治る 好いたお方と 添りゃ治る
湯もみ馴染みが 妹山背山 松の木の間を わらび狩りよ
草津よいとこ 里への土産 袖に湯花の 香が残るよ
積もる思いと 草津の雪は 解けるあとから 花が咲く

 皆さんは温泉はお好きでしょうか?
 この上に書いた「草津節」と呼ばれる群馬の民謡、それなりに有名なものでありますが本来は木の板で湯船をかき回して熱すぎる湯温を下げる「湯もみ」際に歌われたものです。現在でも一部実演しているそうですが.......ただ、歌詞のバリエーションは相当多数あり、ネット上で検索するだけでかなり多数の節が出てきます。一応、合いの手を省いてそのいくつかを挙げてみましたが......
 さて、温泉と言うと「湯治」と言う習慣はかなり古くからあったようです。もっとも、一般庶民にまで広がるのは江戸時代以降ですが、その江戸時代にも多くの嗜好物の例に漏れず温泉にも番付が作られており、草津は東の大関と言う最高ランクに位置していました。
 それだけ草津は温泉地として名高かったと言われています。事実、草津には江戸からの来訪が多くあり、江戸でも「草津詣で」と呼ばれるほど一般化したものだったようです。
 そしてその草津温泉の効能としては上述の通り「惚れた病」も入っていました.......と、「恋煩い?」と思われるかもしれませんが、そんな上等なものではありません。この正体、性感染症の一つ、つまり性交渉によって感染するものである「梅毒」でして、花柳界にあった人達が多く草津へと「草津詣で」をしていた事が知られています。
 今回はその梅毒の話をしてみたいと思います。

 さて、梅毒の歴史は実は時として歴史を左右しているものだったりしますが。
 その起源の説はいくつかあるようですが、基本的にはその由来となる地からヨーロッパ説とアメリカ説の二つに分けられています。前者は梅毒の始まりは欧州である、と言うものです。大分これは長い論争だったらしいのですが、現在は一般的に後者のアメリカ説が採られています。
 その内容はどういうものか?
 1492年、コロンブス一行が新大陸を「発見」をし、立ち寄ったイスパニョーラ島(現在のハイチ島)を初めとする各島、あるいはその内のどれかにおいて現地のインディオと性交渉を持った船員、そして欧州に連れ帰ってきた(梅毒に感染した)インディオが欧州で梅毒を広めていった、と言う説です。これには一定の根拠がありまして、それ以前に少なくとも分かるような形で欧州で梅毒がみられなかった事。つまり、コロンブスの帰還と梅毒の発生時期が一致していると言う事があります。そしてそれ以前の欧州で見られる骨からは梅毒の症状はみられなかったものの、アメリカ各地でその症状がみられる遺骨があるなど、状況的な証拠によってアメリカ説が一般的に採られています。
 コロンブスの第一回の航海は1493年、スペインのバルセロナへ数名のインディオ達を加えて帰還する事で終わります。そしてその直後からバルセロナの街では謎の奇病  梅毒の流行が始まります。これは長い間禁欲生活を強いられた船員達が、当時は各町に、そして港町にあった売春宿へと向かい、そこから拡大していったと考えられています。
 皮肉な事に、欧州からは天然痘や他の病気が新大陸へと持ち込まれて現地で流行してたくさんの人が死亡し(それに乗じてスペインなどが侵略をする)、一方ではその「交換」と言うわけではないでしょうが、新大陸からはチョコレートやタバコ、じゃがいも他特産物、そして「梅毒」と言う病気が欧州へともたらされる事となりました。
#隔絶した地域と交流を持つ事で文化や病気が広まる例とも言えます。

 ところで、ここで一つ説明が必要でしょう。
 この時期欧州はちょうどルネサンスの時期に当たっていました。この頃は比較的性は開放的であったとされており、基本的にどの町にも、そしてどの港町でも売春宿は普通に存在していたと言われています。このような娼家は当時は禁じられる対象ではなく、むしろ大きな税収源となっており、統治側からすれば禁止するような理由はなかったと言う事は書いて置く必要があるでしょう。特に長期の禁欲生活を強いられる船乗り達に対する「治安的な」側面(ある意味のストレス発散と言うべきか)の効果もあり、港町では長らく売春宿が存在し続ける事となります。
 余談ながら、当時は教会の、特に尼僧も娼婦の様な役割があったと言う話もあるようですが......なお、高位にある人間もたとえば妻帯が許されていない聖職者などもいたわけですが、彼らの性欲のはけ口もどこにあったかはあえて言うまでもないでしょう。
 そして、さらに当時の船乗り達の生活もある程度知っておく必要もあるでしょう。
 船乗り達は基本的には「雇われ」と言う形式でして、一度の航海(これも数週間〜数ヶ月と言うケースも多い)が終了すると同時に契約も終わり、次の契約を求めて別の地へと赴く、と言うシステムが採られていました。そして当時は「大航海時代」でして人の動き欧州中だけではなく、他の場所との交流もある。また職業と言う点では当時の職人制度も色々とありまして、ある程度地位が高くないと彼らは妻帯を許されませんでした。他にも当時は傭兵と言う職業もありましたし、戦争も多い為に傭兵は移動をしていく事が多くありました。また、戦争に従軍した人達の中には下女であり、また同時に娼婦の役割をもする女性が普通についています(十字軍でも同様です)。
 このような「性的に開放的」「人の流通」と言といった環境下に、この新しい性感染症が入り込む事となります。

 梅毒の名が欧州中で問題となるのはコロンブス帰還後2年が経過した1495年となります。
 この前年、ヴァロア朝第7代フランス王であるシャルル8世は、過去にイタリアのナポリ王国を支配していたフランスのアンジュー家より支配権を受け継いだと主張し、アラゴン家、つまり今で言うスペインの支配下になっていたナポリ王国の奪還をねらってイタリアへと侵攻を開始します。後々この出来事は欧州における歴史でかなりの影響を出す事となるのですが、それは今回の主題ではないので省きましょう。
 さて、シャルル8世はこのイタリア遠征軍を傭兵などを募集して編成し、従軍する人達とともにイタリアへと侵攻を開始します。彼らはローマを経て翌1495年にはナポリへの入城に成功し、当初の目的を果たす事となります。
 しかし、その後からナポリでは梅毒が爆発的に拡大していきました。
 もともと「誰」が梅毒を持っていたのか、と言う事についてはあまりにも要素があるために不明です。例えば、フランス軍側で見れば各地を歩いた傭兵がいましたし、従軍した女性でスペインにいた人もいるかもしれませんし、船乗り達と交わった事がある者もいたかもしれません。そしてナポリ側もスペインの影響下であったため、スペインからの娼婦がいた可能性もありますし、場合によってはコロンブスの遠征に参加したものもいたかもしれませんし、また軍の兵士にも感染していた者がいた可能性がある。
 とにかくもフランス遠征軍のナポリ入城後、ナポリでは梅毒が大流行する事となります。
 フランス側は当然の事ながら「ナポリに責任がある」と言う事でこの病気を「ナポリ病」と称し、一方でナポリ側は「フランス人が持ち込んだ」と主張してこの病気を「フランス病」と呼ぶ。もちろんその正しい「責任の所在」はは今となっては分かりませんが、どちらにしてもナポリでの出来事でこの病気は一気に各地に知られ、さらには同地から、そして後にフランスに帰還した者たちから感染が広まっていく事となります。
 なお、シャルル8世はこの後にイタリア介入を嫌った各都市や教皇らによって包囲を受けてフランスに逃げ帰り、その後間も無く鴨居に頭を打って死亡しています。

 梅毒はその後、ルネサンス期の性の様相なども相まって急速に各地へ、内陸部へと広がっていき、欧州中でみられるようになります。
 その拡大の仕方はすさまじく、シャルル8世がイタリアから撤退した約20年後に即位した、彼の2代後の王であるフランソワ1世の治政下のパリでは、一説によれば住民の1/3が梅毒にかかっていたと言うものもあるようです。
 このフランソワ1世、シャルル8世のイタリア遠征の後に本格化したイタリア戦争の中で活躍をする王でして、フランスにレオナルド・ダ・ヴィンチを招いてルネサンス文化を伝えていく事となるのですが、実はこの王は梅毒で死んだと言う説があります。この原因、実は王が臣下の妻を所望し、それに怒った夫が売春宿でわざわざ梅毒を自らの体に移してそれを妻に移し、その後に王に差し出したとか云々。
 他の王家でも似たようなものでして、梅毒で死ぬ王家の人間、高位の者たちは大分いたようです。

 欧州の話だけではありません。拡大した梅毒は当時の大航海時代の流れにより、交流のあった世界各地へと運ばれていく事となります。
 その拡大の様はかなり高速でして、まずバスコ・ダ・ガマにより開かれたインド航路を辿って1498年にコルカタへ上陸。その後インド全域へと拡大します。さらに東へ進んでマレー半島を経由し、16世紀の初めに明の広東へ。その後インドと同じく中国全土にも梅毒は拡大する事となります。さらに16世紀と言えば日本と明は交流がありましたので、当然日本にも到達する事となる。
 日本への到達は、種子島へのポルトガル人来訪より30年早い、しかもコロンブスの帰還から30年も経過していない1512年でして、まず関西で起こり、翌年には関東に波及していったと言われています。当時この病気は「唐瘡(とうそう)」あるいは「琉球瘡(りゅうきゅうそう)」と呼ばれており、中国あるいは琉球を経由してやってきたものと考えられていたようです。ただ、その伝播の原因は明との貿易かと言うとそうではなく、現在の所いわゆる倭寇といった日本〜明にかけて存在した海賊集団であろうと考えられています。
 原因はともかくも、とにかく戦国期の日本に上陸した梅毒は貴賎老少の別なく拡大し。地位の低い人はもちろん、戦国武将などもこの病気に倒れるものが出てくるようになります。
 その中でもっとも有名なのは、徳川家康の第2子で秀吉に養子に出され、後に結城氏の家督を継いだ結城秀康でしょうか。彼自身色々と逸話がある人物ですが、1607年に34歳で梅毒で死去しています。彼の場合は暗殺説もあるのでまた難しいものではありますが、しかし『岩淵夜話別集』には秀康の鼻が欠け落ちて、ごまかす為に膏薬を上に貼った所、家康が「見苦しい」と苦言を言ったと言う記述があり、梅毒による症状らしき様子が記録されています。
 江戸時代は冒頭に書いた通りでして、花柳界の人間初め多くの人達がやはりこの病気にかかっていました。『解体新書』の著者の一人となる杉田玄白はもともとは梅毒の専門医をめざしていたと言われているのですが、医者をしている彼の所に1年間で来る1000人の患者のうち、梅毒の患者は7〜8割を占めていたと彼自身が回想しています。
 いかに多いものだったかは十分に分かるかと思いますが。

 さて、この梅毒。
 当時は愛の女神ヴィーナスの名を取って「ヴィーナスの病」、あるいは恋愛に絡んで「キューピッドの矢」などと称す事もあったようですが、この病気の名称は英語では「syphilis」と書かれ、発音は「シフィリス」となります。この由来は面白く、ヴェローナに生まれた詩人で科学者であり、感染症についての研究を行うジローラ(ジラルモ)・フラカストロが書いたラテン語のある叙事詩が由来となっているようです。これは1530年頃に書かれた『Syphilis, sive Morbus Gallicus』と言うもので、この作品に登場する主人公の名が「シフィリス」であり、しかもこの人物は性病にかかっていると言うものでした。
 ちなみに、このフラカストロは感染症について16世紀半ばにコンタギオン説(接触伝染説)を唱えるなど、大分重要な役割を果たしている人物でもあります。
 なお、日本では「梅毒」はもともとは「黴毒」と言う名称でした。

 この病気の原因は何か?
 グラム陰性菌の微生物で、特徴的な「ら旋」状の形をしている細菌にスピロヘータ類と言うものが存在しています。このスピロヘータ類その物は自然に大量に存在していまして、その一部はゴキブリやシロアリの消化・吸収の手助けをしているとも言われているなど、実に広範に存在しています。一方でその一部が病原菌となっており、ワイル病、回帰熱、ライム病と言ったものがこの菌によって引き起こされる事が知られています。
 そして、今回話題にしている梅毒もスピロヘータ類の仲間である、梅毒トレポネーマ(Treponema pallidum)によって引き起こされるものです。この名称、「梅毒スピロヘータ」とも呼ばれる事がありますが、これはおそらくもともとの学名がSpirochaeta pallidaだった為と思われます。
 この菌の拡大方法は接触感染によるものであり、一般的には性行為によって広まる性感染症です。もっとも通常の性行為のみならず、アナルセックス、オーラルセックスでも感染をしますし、梅毒トレポネーマが集まっている所に傷のある手で接触するようなケースでも感染します。これは皮膚や粘膜の小さい傷口から菌が血中に入り込むためにおこるもので、通常のセックスのみではないと言う点に注意が必要でしょうか。なお、中世でもすぐにこの病気が「うつる」と言う事は理解していたようです。
 なお、妊娠中の場合は母子感染が起こる可能性があり、その場合子どもは先天性の梅毒となります。この場合、子どもは先天的に梅毒の症状を持つこととなります。
 では、その症状はどういうものか?
 後天性の場合発症するのは感染から約3週間後となっています。急性のものもあるようですが、一般的には慢性化して循環器系や中枢神経系を冒して、最終的に死に至らしめる事となります。
 この病気は治療をしない限りは梅毒トレポネーマの駆除ができない為、放置して治る事はありません。
 有効な治療を受けない場合、症状は進行してやがて鼻が落ち、皮膚がただれて膿が出て、やがて痴呆症状で町中を歩く状況となる......これは江戸時代末期、シーボルトやアーネスト・サトウらが日本の町で見られた梅毒患者の様子を表したものです。容貌が大きく変わる為、当然娼家では商売ができず、花柳界から追放されて野垂れ死にと言うケースも大分あったようです。欧州ではその様相がハンセン病と間違われて、そのままハンセン病患者の収容所へ入れられるケースも大分あったようですが。
 なお、この病気は他の多くの性感染症と混同された事も一応付記しておきましょう。
#正確に病名と症状の区別がつけられるのは19〜20世紀になってからです。

 なお、中世〜近世の欧州の宮廷においては、基本的に「皮膚を覆い隠す」様な衣服、そしてかつらが流行をしていましたが。
 一説によればこれは宮廷で大流行した梅毒をごまかす為、つまり長い手袋や袖の長い衣服は梅毒による皮膚症状を隠し、かつらは脱毛をごまかす、と言う話もあります。もっともノミやらシラミやらで媒介される黒死病やチフスも絡むので、かつらは別の意味(髪の毛を切っておくと言う事で)もあったかもしれませんが。
 香水もおそらくそのような事に関連しているものと思われます。もちろん、この単独の理由だけでなく、黒死病といった他の絡みもあるでしょうが。

 なお、梅毒は著名人の、特に芸術家などのケースが多く、同時に良く記録されているようです。
 たとえばアブサンの話で出てきたマネやモーパッサン、ロートレック(ロートレックも作品に売春婦達を描くなどしています)といったデカダンスの巨匠達がいるでしょうか。もっとも彼らはアルコール中毒と言う症状(アブサンの話で書いた通り)もありますので、色々と複合的なものもあるのでしょうけど。
 最近になって徐々に知られているようになっているのは、著名な音楽家であるシューベルトも実は梅毒であったと言われています。
 これは今までは(管理人も子どもの時代はそう聞いていたのですが)腸チフスによる急死と言われていましたのですが、調査などによって梅毒であったと言う説があり、しかもそれが最近になって一般化しているようです(それに腸チフスを併発したようですが)。その理由は彼の名誉の為、と言う話のようですが.......ちなみに、シューベルトの20代は売春宿への入り浸っていたようで、梅毒による死亡と言うのは根拠がない説と言う事ではないようで、その頃に感染したならば32歳で死亡した時に彼は後期の、おそらくは第3期ぐらいで死亡した可能性があります。
 ま、退廃と芸術、と言うのはある種の繋がりがあると考えてみた場合、入り浸っていなければ「未完成交響曲」とはならなかったのかもしれませんが.......しかし、同じく病気と芸術と言う点では結核がサナトリウム文学といった様なものができるなどした事を考えると、やはり内容というか容貌の変化などもあるせいか、梅毒と芸術の間には結核との繋がりのような感じのものは無いようです。
#「梅毒文学」「梅毒芸術」ってのもイメージ的にはなんか......
 なお、芸術家ではありませんが哲学者ニーチェも梅毒で死んだ事で有名でして、彼の場合はケルンの売春宿で感染し、その後1889年についには発狂して廃人と化し、徘徊を繰り返しては連れ戻されるなどしながら回復する事なく、やがて1900年にそのまま死亡しています。

 そうそう、これも書いておかなければならないでしょうか。実はこのスピロヘータと縁がある日本人がいます。
 病原菌の梅毒トレポネーマの発見は1905年、ドイツのシャウディン(Fritz Richard Schaudinn)とホフマン(Erich Hoffmann)により発表されています。この事は見分けがつかなかったその他の性病と梅毒が分けられ、研究が進むと言う意味で非常に大きな事でした。
 そして、この発見された梅毒トレポネーマの純粋培養法の研究を行ったのが現在1000円札の肖像となっている野口英世でして、彼はロックフェラー研究所で働いている時に、このトレポネーマの純粋培養法の開発を発表します。もっとも、これは誰も追試ができておらず、またトレポネーマの毒性を持たせたままの培養についてはこの記事を書いている現在でも成功はしていないため、野口の発表は現在疑問符がついていますが。
 ただ、野口とトレポネーマの関係はこれだけでなく、大きな成果となった確認されている研究も存在しています。
 その内容は、進行麻痺患者の脳内から梅毒トレポネーマを取り出した事でして、梅毒とこの病気との関係を明らかにした事(少なくとも麻痺や痴呆が梅毒と関連していると知られていなかった)は大きな成果として今でも認められています。
 ちなみに、野口が「黄熱病の病原体」としていたのはワイル病スピロヘータと考えられており、この人はスピロヘータ類ととことん縁があるようです。

 さて、このように急速に拡大し、そして隅々にまで行き渡る事となった梅毒ですが。
 当然治療法などが色々と研究される事になり、16世紀には色々と「発明」がされていました。もっとも、他の病気での例のごとく当初にはあまりまともなものはありませんでしたが。

 では、どのような治療法があったのか?
 とりあえず、スペースがありません。この話は次回にする事にしましょう。




 さて、今回の「からむこらむ」は如何だったでしょうか?
 最近は毎回「久しぶり」ですが(^^; まぁ、管理人が社会復帰していると言う事でもあるんですけどね........とりあえず、今回は実はずっと「ネタにしようかなぁ」と考えていた病気である梅毒の話にしてみましたが......別に手塚治虫の「最上殿始末」(『時計仕掛けのりんご』収録)を思い出したからという訳でもないんですけど。
 ま、歴史が絡むんでその部分で長くなってしまいましたけどね(^^; まぁ、調べると出てくる出てくる、と言うか......性行為との関連ですので仕様がないのでしょうけどね。ま、もっとも最近性感染症も結構しゃれにならないので触れる価値はあるものとしたいのですが。

 そういう事で、今回は以上ですが。
 次回はまぁ色々と「有名な」治療法(?)がある病気ですので、そういう点やら現状について触れたいと思います、ハイ。

 そう言うことで、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.......

(2006/07/27公開)


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