からむこらむ
〜その85:神判と裁きの豆〜


まず最初に......

 こんにちは。無事に旅から帰ってきました管理人です。
 いよいよ彼岸になり涼しくなってきましたね。秋が近くなってきました。

 さて、2週間ほどお休みをいただきましたが、今日から「からむこらむ」は再開です。楽しみにされている方、お待たせいたしました。
 で、今回は........ある部族にまつわる話から出てきたある薬剤についてのお話となります。それは、後に農薬・医薬に影響を与えたのですが.......... っと、今回はその72その73の「神経伝達」に関する話を覚えていないと分からない部分がありますので、ご覧になっていない方は目を通しておいて下さい。
 それでは「神判と裁きの豆」の始まり始まり...........



 最初に、ちょっとした「社会」の話になりますが。

 人類と言うものは基本的に集団での生活をしています。
 さて、この集団は家族単位から発展して、やがて生活共同体、「コミュニティ」を作りだす訳です。が、集団で生活しているかぎりある種の摩擦が生じる、と言うのは常です。今の我々の社会の様な場合、端折って言いますと民事ならば「話し合い」がまず求められ、そしてそれでも妥協されない場合、または刑事事件の場合には「裁判」という物が行われます。
 ここら辺は、いわゆる「公民」の分野になりますが.........
 しかし、上記のような物ではなく比較的原始的なコミュニティにおいては、この摩擦と言うものは場合によってはそのコミュニティの存在に関わるケースがあります。これは、ある程度小規模なために血縁関係などが複雑にからんだりしていますので、一度問題が生じればその存続に影響を及ぼしかねない、ということによります。よって、このコミュニティの存続のために........裁判を行う、という必要があります。
 さて、この様な小規模なコミュニティの場合。裁判を行うのは、その「長」に当たる人物。またはシャーマンや巫女と言った人物など、一般に何らかの権力を持った人間が執り行います。そして、その場合は大抵は「神」の名の下に行われます。その原理は「神が真実を知っている。よって、この神に委ねて裁く」という様なもので、この様な裁判を一般に「神判(或いは「神明裁判」)」と呼んでいます。
 この「神判」。世界各国で行われていたようでして、熱湯による火傷の具合を見たり、燃える火の上を歩かせてみたりと様々にあったようです。ヨーロッパ世界では中世になっても「熱湯神判(熱湯に手を入れて火傷の具合を見る神判)」「冷水裁判(池などに対象者を縛って放り込み、浮かべば有罪。沈めば無罪→後の魔女の審判にも使われる)」「熱鉄審判(熱い鉄を押し当てて火傷の具合を見る)」「鋤の刃神判(熱した鋤の刃の上を歩かせ、傷の具合を見る)」「決闘神判(決闘により神の「意志」を測る)」などがあったようです。日本でも神判は存在しており、『日本書紀』によれば「盟神探湯(くかたち)」という熱湯神判の記述や、足利時代に熱湯や鉄火を使った神判があったという記録があります。
 それだけ「ポピューラーな物だった」ということが言えるのですが..........


 話を変えましょう。
 西アフリカにはカラバル(Calabar)地方という地域があります。この近辺ではマメ科(Leguminosae)のフィゾスチグマ(Physostigma berenosum)という植物が野生、または栽培されています。つる性の多年性植物で、木化した茎は直径4cm、長さは15mに達します。そして、この植物のからは腎形で暗褐色をした種子を得られることが出来、一つの莢果からは1〜3個程得られることが出来ます。この種子を「カラバル豆(Calabar beans)」と言います。

 時代は1840年頃。イギリスの宣教師ウィリアム・ダニエルはカラバル地方のエフィクという地域を訪れたときに、エフィクの住民があることにこのカラバル豆を使用していることを発見・記録しています。その報告は1846年、エジンバラの民族協会で発表されました。
 この宣教師が報告したところによると、エフィクの住民はカラバル豆を「試罪法」.......つまり、何らかの罪を犯したとされる被疑者に対してこのカラバル豆を飲ませ、その真相を試す、ということをしているとされています。具体的には、冒頭に書いたような権力を持った人物が8粒程(数字は資料によってまちまちなのですが)のカラバル豆をそのまま、または煎じる、または抽出液を被疑者に飲ませ、そしてしばらく歩かせます。この時、もし被疑者が吐き出したのならばその者は「無罪」であり、そのまま死に至れば「有罪」である......もし、後者の時には「神からの裁きを受けた」、となります。
 この様な「試罪法」に用いたこの豆は、現地の人々からは「Esere(実際には「e」には両方とも上に「'」が入ります)」、「エゼレ」と呼んでおり、また「裁きの豆」として重宝されていた様です。
 もっとも、この「裁きの豆」は裁判のほかにもより直接的に死に至らしめるために用いられたようでして、カラバルの王が死んだ際には何百人もの男女・子供を斬首、生きたまま、またはエゼレを飲ませて王の墓に埋めたという話もあります。また、魔女の預言の為に抽出液が用いられたという記録もあるようです。
 尚、この地域では現代(「現在」は知りませんが)においてもこの「裁きの豆」は使われているようでして、1956年にエフィクを訪れた人類学者ドナルド・シモンズは上記の様な神判がまだ行われていることを記録しています。更には、無罪が確定したものがまだ苦しむ場合には女性器を洗った水に糞を混合したものを与えた、という記録を残しています。その根拠はよく分かりませんが.........

 さて、この「裁きの豆」であるカラバル豆。これはダニエルによって本国に送られて調べられた結果、1864年にはすでに有毒成分が単離されて「フィゾスチグミン(physostigmine)」と命名されました。構造の解明には更に時間を要し、平面構造は1925年に。(-)-フィゾスチグミン(「(-)」は分子の向き。その24参照)の絶対構造が確定したのは1969年です。そして、カラバルの人達が「エゼレ」と呼んでいたことからフィゾスチグミンは「エゼリン(eserine)」とも呼ばれています。
#余談ですが、理化学辞典を見ると「フィゾスチグミン」ではなく、「エゼリン」で出てきます。
 この物質の構造は以下の通りです。



 ちょっと専門的に化学的な話をしてみると、天然ではアミノ酸の一つであるトリプトファンから出来る化合物でして、科学的には「N-メチルカーバメート」と呼ばれる物質の一群の一つになります。

 フィゾスチグミンによる中毒症状ですが、意識には影響しないのですが、嘔吐、胃腸障害、縮瞳を起こし、更に大量の場合には心臓抑制、血圧降下、呼吸困難、けいれんを起こして呼吸麻痺によって死亡します。この症状を見ると、面白いことにその5でやった「運命の糸を断ち切る女神」である「アトロピン」と全く正反対の症状です。そして、その効果から解毒剤としてこのアトロピンが試された結果これがその効果を持つ、と言うことが判明し現在においても使用されます。

 では、何故このような障害が起こるのか?
 これはその72その73で触れた神経の伝達に関わっています。特に「その73」は重要なのですが..........
 さて、神経のシナプス部位での神経伝達の方法は詳しくは「その73」を見直して頂くとして.........まぁ、簡単に書くと
  1. アセチルコリン(ACh)を伝達物質とした場合はまず、シナプス前膜からAChがシナプス後膜に向けて放出。
  2. シナプス後膜に向けて放たれたAChはアセチルコリン受容体(AChR)に結合し、AChRのチャンネルを開き、ナトリウムイオンの流入を促し、電気信号を発生させる。
  3. AChR上にあるAChはアセチルコリンエステラーゼ(AChE)によって加水分解され、結果AChRのチャンネルは閉じ、AChは酢酸とコリンに分解される。
  4. 酢酸とコリンはシナプス前膜に取り込まれて再度AChになる。
 と言った感じになります。
 では、フィゾスチグミンはどういう働きをするかというと........神経伝達物質であるAChを分解する酵素アセチルコリンエステラーゼ(AChE)と結合しまして、その働きを阻害します。つまり、AChEによってAChを分解することが出来なくなります。
 この結果はどうなるかというと、AChRに結合したAChはAChEによって分解されませんので、AChRのチャンネルは開きっぱなしとなります。しばらくは電気信号が断続的に発生し「興奮」するようになりますが、時間が経過するとこんどは「麻痺」しまして、結果的には正常な神経伝達を撹乱し、量が多ければやがて死に至らしめる、ということになります。
#AChEと結合したフィゾスチグミンは、時間が経過すれば離れていきます。

 さて、この神経の伝達阻害方法。実はいわゆる「サリン事件」におけるサリンが同じ機構を持っています。
 サリンやタブンと呼ばれる毒ガスや「有機リン系殺虫剤」や「カーバメート系殺虫剤」と呼ばれる様な農薬は、実はこのような方法で神経の伝達を撹乱させ、毒ガスならば生物に「死」を。農薬ならば「害虫」を駆除するという働きがあります。
#化合物による毒性の「差」は何かと言うのは.......別の機会に。
 尚、このタイプの薬物はフィゾスチグミンと同じくアトロピン(硫酸アトロピンが一般的)、またはPAMと呼ばれる薬剤が解毒剤として使用されます。もっとも、サリンなどの兵器ではちょっと事情が違ってくるのですが..........

 ところで........このカラバル豆による「試罪法」で何故罪人は死に至り、無罪の人間は死に至らないか、と言いますと........
 これは実はある種の心理学でして、無罪の人間は「自分が無罪である」ということを知っていますので、カラバル豆を「一気に」飲み干します。そうすると、急性での症状が出るのですが、大量のカラバル豆は胃を刺激する(ある種本能的なものだとも思いますが)ので吐いてしまいます(上記の中毒症状の通り)。これにより死を免れることが出来ます。
 ところが、罪人の場合は......このような社会形態だと「神」と言うのは非常に強い「力」を持っています。ですので、罪人はこの神判に対して「恐れる」訳です。すると.......このカラバル豆を「おそるおそる」摂取することになります。その結果、「胃を刺激して嘔吐させる」様な急性中毒症状を発生させず、結果フィゾスチグミンが体内に入り込んで死に至らしめる、と言うことになります。
#なるほど、と思うかどうかは人次第でしょうけど(^^;

 さて、このフィゾスチグミン。「毒」としてしか役に立たなかったのか、と言うとそうでもありません。
 様々な実験結果からまず眼圧を低下させる働きがあることが判明しまして、眼内圧が高くなりすぎるために視神経を痛める病気である緑内障の治療に用いられます。また、筋無力症への治療に利用されています。

 「筋無力症」と言うのは慢性病の一種でして筋力の低下を起こす病気です。一般に最初はまぶたに症状が現れる病気です。
 これは何故起こるのかと言うと、上記の神経伝達の機構が絡んできます(筋肉はアセチルコリンを伝達物質として作動しています)。
 この病気は一種の自己免疫疾患でして、患者自身がAChRに対して抗体を作りだす、と言うことが知られています。これがどういう意味か、と言いますと「自分自身なのに、免疫が自分であることを認識せず、侵入者と判断」すると言うことで、この場合だと抗体はAChRに結合することになり、結果として抗体はAChRを破壊します。もちろん一個破壊して終わり、という訳でなく「AChR全部」がこの抗体の破壊対象となりますのでそのまま破壊は続いていきます。このままだとAChRは減少して行く一方ですので、これを補う為にAChRは次々に作られてはいくのですが、その度に抗体が破壊していきます。その結果、シナプスにおける神経伝達の「強さ」が弱くなる一方となり、筋力の低下を招きます。
 しかし、フィゾスチグミンの様なAChE阻害剤が「適量」存在すると..........AChR上のAChはAChEによりなかなか分解されなくなります。この結果、大目に存在することになるAChがAChRに結合する機会を多く得るために、結果として電気信号を「強め」に送ることが出来るようになります(当然フィゾスチグミンが多過ぎるとそれはそれで問題ですが)。この結果、低下する「電気信号の強さ」を回復することが出来、正常な状態に戻すことが可能、となります。
 この筋無力症へのフィゾスチグミンの最初の試みは1934年、メリー・ウォーカーという女性の医者によって行われています。彼女は56歳で「ショッピングバッグを持つことが出来ず、炉辺でひざまずこうとすると首構えに垂れてしまう」という典型的な筋無力症患者に対してこのフィゾスチグミンを注射。これにより著しく患者の症状が改善された、という記録があります。これがまた劇的なことから「聖アルフェージュの奇蹟」などとも呼ばれているそうですが............

 また、フィゾスチグミンはアルツハイマー病の記憶力減退を防ぐ、という効果もある様ですが............
 ここら辺は色々と現在研究・開発が進められている分野ではあります。

 尚、フィゾスチグミンは基本的に毒性が強いので、類似構造をもった合成物質である「ネオスチグミン(neostigmine)」といった様な物質が医療の現場では実際には使われているようです。
#尚、「聖アルフェージュの奇蹟」の話の時にはすでにネオスチグミンが出来ていたのですが、極めて高価だったそうで「0.5gの1アンプルが当時9ペンス」した、という記録があるようです。



 構造、実は似ているのですが........ピンと来ませんかね??
#有機化学+生化系の学生さんはピンと来て欲しいですが.........

 尚、更にこの類似構造物質は上でも少し書きました「カーバメート系」の農薬として使われています。
 種特性(種類による毒性の影響差)が高く、ウンカ、ヨコバイ類の防除に主に使用されています。クモへの影響が少ないのが特徴です。
 取りあえず、2点ほど構造だけカーバメート系殺虫剤の構造を載せておきます。


 上記の二つのうち、右側のは日本では使用禁止です。左のものは比較的よく使われています。
#左のタイプを「カーバメート系殺虫剤」、右のタイプを「オキシムカーバメート系殺虫剤」と呼び、後者は浸透移行性が高く、吸収性昆虫のほか咀嚼性昆虫に効果的な農薬です。
#↑難しいので、特に気にされなくて大丈夫です。
 ちなみに、フィゾスチグミンそのものは農薬に使えるか、と言うと実際に使うには問題があって使えなかったりします。試験管の中での実験(「in vitro」と呼んでいます)ではちゃんと虫のAChE阻害をするのですが、実際に「撒いた」場合に虫の体内に吸収される時に不都合な点が多くあることが知られています。ですから、構造を変えて色々と農薬に適したものを作りだしているのですが.........


 さて、このフィゾスチグミンという化合物は上記の通り、ある部族で「神判」に使われていたところから研究が始まり、そして追及されて科学上での発展に寄与した物質です。実は、このような物質は他にもありまして、そう言ったものが実際に科学で現在に至るまで使用されていたりすることがあります。
 実は、最近では世界各地での伝承や記録に注目が集まり、それらの保存活動が活発に行われようとしています。事実、いくつかの地域での伝承などを調べた結果、「ある植物が特定の病気の改善に役立つ」という様な発見をし、その植物の成分分析を行って........という活動があるようです。
 ただ、そう言った伝承・記録というものは最近になって急速に「失われていく」傾向があり、それが非常に危惧されているのですが..........
 今後、そういった保存活動が発展していくことが望まれています。
 もしかしたら.........それが将来我々が「お世話」になる可能性があるのですから。

 もし、そう言った活動を見る機会があれば、是非注目して欲しいと思います。




 3週間ぶり、ですね。

 さて、今回の「からこら」は如何だったでしょうか?
 実はネタ選びに結構悩んだんですけどね........いや、エンジンのかかりが悪くって(笑) 久しぶりですけど、大丈夫かな?

 で、今回はある民族での話と、そこから生まれた薬剤についての話をしてみました。結構、こう言った民族での話は注目すべき点が多く、非常に面白かったりするのですが.........どうでしょうか? また、別の機会にそう言ったものの話は是非してみたいと思います。
 ただ、最後に書いたようにこう言った記録などが最近失われつつあるため、その保存活動が本当に望まれています。これは、民族学という側面もありますが、実は多分に科学的側面というものもありまして...........
 是非、機会があれば注目して欲しい部分です。

 さて、今回は以上です。
 御感想、お待ちしていますm(__)m

 次回をお楽しみに.............

(2000/09/26記述 同09/28補足)


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